仄暗い部屋の中から、
なんであたしはここにずっといるんだっけ。いつからいるのか、何日、何週間こうして横たわっているのか、どうして陽も差し込まないこの部屋でただ扉を眺めているのか。なにもわからなかった。
それは記憶喪失だとかそんな優しいものではない、理由がわからないのだ、閉じ込められている理由が。監禁とも呼べるそれが始まった日からなんでどうしてと必死に考えてみるけれど、いつしか思考を放棄してただ身体を冷たい床に放り投げるだけになっていた。考えたくなかった、もうなにも。
トントン。
無が支配していた鼓膜に突如割り込んできたノックの音に、忘れかけていた鳥肌がぞわぞわと、足先から髪の先まで這い上がってきた。この生活で生まれた拒絶反応。脳みそが恐怖に支配される。
いやだ、いやだ、
「こない、で、」
久しぶりにのどから取り出した音は扉が開く音に遮られた。眩しい光を背負って入ってきた人なんて、目を凝らさなくてもわかっている。
逃げ出したくて立ち上がろうとしたけれど足に力が入らなくて無様に転がるだけだった。
「元気そうね、アナ」
声が落ちてくる、嬉しそうに、それはそれは慈しみを込めて。
瞬間ぐいと首が締まったかと思えば無理やり顔を向けさせられていた。鎖を引っ張られたのだ、と。鈍い脳が結論に至ったのは少し後。首にはめられたチョーカーから伸びる鎖を握られてしまえば、いくら顔を反らしていたとしても強制的に振り向かされてしまう。
チョーカーはきっともういまにも千切れんばかりにボロボロだろうに、緑はあなたに似合うからと外してくれる気配さえない。
またたきを一つ、二つ。もう見慣れた氷色の眸が視界いっぱいに映る。エルサの眸、あたしの姉さんを象徴する色。この色が好きだったのに、大好きだったはずなのに。
「ねえアナ、今日は食べてくれるわよね」
あなたが好きなサンドイッチを持ってきたのよ、だなんて。恐怖に怯えるあたしの気なんて知らずに―それともすべて知った上でしているのか―携えてきたサンドイッチを掲げてみせる。いままでのあたしなら、美味しそうなその匂いを嗅ぎつけて嬉しそうに食べるだろうけれど、食欲なんてあるはずもないし、たとえあったとしても、コルセットで限界まで絞られたおなかに食べ物なんて入るわけがなかった。
手を伸ばそうともしないあたしを困ったように見つめて、ふいに顔を近付けてきた、心配でもしているみたいに。下ろされた白銀の前髪が落ちる、あたしたちを世界から隔絶するように。髪で閉ざされた世界にはあたしとエルサしかいなくて。
いまなら、穏やかな眸を見せているいまならば、解放してもらえる気がした。
「える、さ、」
声が震えるのはなにものどがその機能を果たしていないだけではない。
「そと、でたいの。ひかりを、みたい、の」
あたしの言葉を受けて大きく開いた氷色は、やがて閉じられ、離れていくとともにふるふると首を振ってしまった、横に。再びまみえた眸はとても冷たい色に凍ってしまっていた。
「それはできないわ、アナ」
無情な言葉が響く。
「外の世界は危険なの、あなたを傷付けるもので溢れているの、だから出してあげるわけにはいかないのよ、アナ」
言いつけを利かない幼子に諭すみたいにひどくゆっくり紡がれる、あたしにはそれが死の宣告のようにも聞こえた。
外の世界を少しでも知ってしまったいま、焦がれないはずはないのに。たとえ傷付いたとしてもひとりでなければ、隣に姉さんがいてくれればそれだけであたしは大丈夫なのに、どうしてわかってくれないのだろう、どうして閉じこもる以外の選択肢を取ろうともしないのだろう。姉が国を凍らせたその時のように説得する気力はもう、あたしには残っていなくて。
「それより、ねえ見て、アナ」
それまでの表情から一変、秘密を打ち明ける小さな子供みたいに笑ったエルサは、あたしの首になにかをかけた。
重い視線を動かしきれないあたしの目の前にそれがかざされる、澄んだ青色、姉さんの眸と同じ宝石が輝くネックレスだった。たしかこれは閉じ込められるずっと前、エルサの誕生日にあたしがプレゼントしたものだったはず。それをなぜあたしの首にかけるのか、意味がわからずただ見つめていれば、微笑んだエルサは簡単に答えをくれた。
「こんなに綺麗なんだもの、私よりもアナの方がずっとずっと似合うわ」
言葉が重く重く圧し掛かってあたしを縛っていく。
チョーカーを付けられた時も、鎖を繋がれた時もそうだった。首にかけられるたびに、あたしは縛られていった、この部屋に、実の姉さんに。それらを外せない限り、ここから抜け出すことはできないのかもしれない。
いとおしそうにあたしを眺めたエルサは、満足したように頷いて抱きしめてきた。怖いはずなのに、逃げ出したいはずなのに、やせ細ったあたしを気遣ってか優しく抱きしめられてしまえばそれだけで心が揺らいでしまった。
考えるのを止めた脳が視界を閉ざす。
「ずっと一緒よ、アナ」
──あたしはまだ、あいしてしまっているから。
(姉さんをきらいになれるはずもなかったから)
縛られているのは、どっち。
2015.8.22