想いのかたち。

 エルサが凍ってしまってから三日が経った。 「アナ王女、そろそろお休みになられては…」  侍女の言葉に首を横に振るのも、これで何回目だろう。彼女の心配は痛いほどわかるけど、だからといってここを離れる気にはなれなかった。 「大丈夫、あたしは大丈夫だから」 「ですがもう三日三晩、お食事だって摂られていませんのに」 「いいの、大丈夫」 「大丈夫とそればかり、」 「姉さんのそばにいたいの。お願い」  気圧されたように言葉を飲み込んだ侍女はやがて、出過ぎたことを言いましたと頭を下げ、静かに退出していった。大丈夫、あたしはほんとうに大丈夫だから。謝罪とともにそっと付け足して、再び身体を横たえる。  彼女の言ったようにここ三日間、サンドウィッチもチョコレートも、水だって口にしていないけど、不思議とおなかが空くことものどが渇くこともない。代わりに体力は徐々に削られているみたいで、さっきみたいに上体を起こしているだけでも、背骨が悲鳴を上げていた。  まぶたを開けていることも億劫だけど、視界を閉ざしている間に隣にいるはずの姉が消えてしまいそうで、とけてしまいそうで。それでも目を覚ましていることしかできないあたしはただ、エルサの手を握りしめた。  エルサの心は凍ってしまったのだよ──トロールの長老が静かに告げた言葉が耳から離れない。クリストフの道案内により急いで向かった谷で、話さなくても事情を把握していた彼は目を閉じて首を振った。どうか治してほしいと懇願するあたしに、それはできないと、いつかのときみたいに。これはアナ、君にしかとけない魔法だ。突き放すように、だけど長老は微笑んでいた。  その微笑みの意味はまだ、あたしにはわからない。  指を組み合わせるように握りこむ。しなやかな指は、だけど応えてくれることはない。  ただ眠っているだけなんだと思いたかった、そうであってほしかった。あたしのときみたいに、姉さんの全身が氷の彫像と化しているわけではないから、長い仮眠を取っているだけ、夢を見ているだけだと言われれば信じたのに。  せめて胸が上下していれば、ささやかでも体温が感じ取れたなら、あたしも安心してまぶたを閉じることができるのに。鼻先が触れ合うほどに近付いているのに呼吸音は聞こえないし、重ねた手のひらからは冷たさしか返ってこないし、耳を澄ましても鼓動は止まったまま。まるで姉さんの時間だけが停止してしまったみたいに。 「…ねえ、わからないわ、姉さん。あたしにはなにも、わからないの」  どうして応えてくれないのか。いつもならすぐあたしの声に反応して、どこにいたって振り返って、仕方のない子ね、なんてうれしそうに答えを示してくれて。ねえ、わからないの、どうして目を覚ましてくれないの。どうして姉さんは、心を閉ざしてしまったの。  エルサの態度の変化に気付いたのはほんの少し前だった。  変わった、というより、戻った、と表現した方が正しいのかもしれない。視線を向ければ顔を逸らされるようになった。近付けばその分距離を置かれるようになった。仕事があるからと午後のティータイムに欠席するようになった。一緒のベッドで眠る機会が少なくなった。それはまるで、戴冠式よりも前の、すべてを、あたしを避けていたころのエルサに戻ってしまったみたいだった。  拒絶されることには慣れていた、痛みなんて見ないフリができると思っていた、そのはずだったのに。ようやくあたたかく受け入れてもらったあたしは、ひとりぼっちだった十三年間を忘れてしまっていた。なにかあったのだろうか、あたしのことをきらいになってしまったのだろうか。尋ねたいことはたくさんあるのに、のどに引っかかって取り出せないまま。もしも肯定されてしまったら、そう考えただけで、もうどこにもないはずの氷がまた心を突き刺してくる気がして。  眉を寄せる姉に、気にしないであたしは大丈夫と、微笑んだ顔が不格好になってないか、そればかりを心配していた。  エルサの部屋の鍵が開いていたのは、一週間連続でお茶会を断られた日の夜だった。  一緒に寝ましょう、とシンプルに言えばいいのかそれとも、ちょっと眠れなくてと甘える妹を演じればいいのか。手を振り上げた状態で誘い文句を考えてみたけどこれといったものが思い付かなくてとりあえずひかえめなノックを一つ、対する返事は聞こえない。  代わりに小さな音を立てて、閉まりきっていなかったらしい扉がほんの少し開いた。鍵を閉め忘れるなんて、几帳面なエルサにしてみれば珍しいことだ。  さてどうしようかと、扉の前でひとり思案。ベッドに潜り込んで驚かすなんていいかもしれないわね、浮かんだ名案にぽんと手を打つ。だって廊下は寒いわよなんて駄々をこねれば、エルサだって追い返したりはしないかもしれない。仕方ないわねと、いつもみたいに困ったように笑って、一緒に夜を過ごしてくれるかもしれない。  淡い期待で必死に勇気を奮い起こし、扉を開く。 「─…なに、これ」  差し込んできた冷気と目の前の景色に、自身を疑った。ノースマウンテンの、エルサが造り出した氷の城に迷い込んだのかと思うほどに、室内は氷に侵食されていた。そそり立つ氷柱が、壁を覆い尽くす氷の膜が、鋭くとがった氷の刃が、なにもかもが以前訪れた姉の部屋とは異なっている。大胆な模様替えでもしたんだろうか、そんな冗談さえ浮かばないくらいに。  足を踏み入れれば、ぱきりと、薄氷がくだけた。息をはけば、白い軌跡が一筋流れていく。お風呂上がりの身体に冷気が入り込んできて、思わず肩を震わせた。  これは一体どういうことなんだろう。エルサの部屋一面を氷が支配していて、だけど力は制御できるようになったはずなのに、だったらこれは、 「アナ…っ、」  悲鳴に近い声が飛び込んできて、あたしの思考を中断させた。なにかが割れる音が部屋に響く。  振り返らなくたって誰だかわかるその人は、視線を向けたあたしにこれ以上声を聞かれまいとするかのように両手で口元を覆った。床に広がった紫色の液体は、飛び散ったカップの破片と一緒に氷と化していた。どうやらエルサは飲み物を取りに行っていたらしい。  あたしによく似た色の眸が愕然と見開かれる。 「どうして…」 「ね…エルサ、これはどういうことなの…?」  投げかけた問いは受け取られることなくふたりの間に消えていく。  背を向けて立ち去ってしまおうとするエルサの手首を掴んでむりやり向き合わせれば、子供がぐずるみたいに首を振った。 「やっ…、離しなさい!」 「ね、教えて、また抑えられなくなったの? だからあたしのこと避けてるの?」 「それは…っ、」  ぴしり、周囲の氷が音を立ててきしみ始める。 「愛がわかれば、愛を知っていれば、氷はとけるんでしょう?」  天井へ向けて亀裂が走っていく様子をつい最近、どこかで見た気がした。 「…わからないの」  うつむいていたエルサは、やがてゆっくりと視線を合わせて、ゆれる息を一つ。久しぶりにこうして顔を捉えたのに、真正面から出会えたのに、水底に沈んでいるみたいにゆがんだアイスブルーの眸は妹の姿を映してはいなかった。  落とされた言葉がなにに対してのものなのか、わからなくてただ、小刻みに震えるエルサのくちびるを見つめる。  わからないの、と。もう一度、たしかめるようにつぶやいて。 「あなたへの想いが何なのか、わからないの」  壁から伸びてきた無数の刃が、他者を、あたしを、なにもかもを拒絶するようにふたりを取り囲む。  氷の先端が肌に触れるよりも早く、腕を引いたエルサはその勢いのままあたしを扉の外へと押し出した。体力は断然あたしの方があるはずなのに、されるがまま、廊下の絨毯に尻もちをつく。扉を閉めたのはエルサ自身なのか、それとも巻き起こった冷風によるものなのかはわからないけど、夜の廊下に響いた音は現実へ引き戻してくれるには十分だった。  立ち上がって、ドアノブを何度も回す。鍵がかけられてしまったのか、薄氷に覆われ始めた扉が再びあたしを迎え入れてくれることはない。その事実が、刃よりも的確に心を刺してくる。 「…っ、エルサ! どういうことなの、ちゃんと説明してよ! それってあたしを、」  ──あたしをあいしてないってこと、なの  ベッドの上で動かなくなったエルサが発見されたのは、翌朝のことだった。  ***  姉さんの落ちた前髪をすくい取って、指で梳く。  現れた顔はけがれを知らない子供みたいにあどけなくて、いつも凛とたたずんでいる姉さんの面影はどこにも見えなかった。姉さんの寝顔はこんなにもかわいらしいのねと、いまさらな発見を一つ。 「…ねえ。あたしには、姉さんの氷はとかせないの?」  かじかむ指を叱咤して、姉さんの手のひらに重ねたそれに力を加える。触れた先から体温が奪われていくみたいだった。姉さんが眸を閉ざしてからずっとこの部屋に居座っているあたしに、体温と呼べるだけの熱が残ってはいないけど。それでも少し、ほんの少しだけでもぬくもりを分けることができたなら。 「あたしの愛は、間違ってるの?」  きれいな氷色の眸は閉ざされたまま、あたしに答えを与えてはくれない。それは暗に肯定を示しているようにしか思えなくて。 「姉さんは、あたしのこと、」  それ以上は音にならなくて、代わりに白く染まった息をはいた。感覚をなくしたくちびるはもう、あたしの言うことを聞いてくれそうにない。言葉を紡ぐのはあきらめて、随分と久しぶりに視界を閉ざした。  このまま凍ってもいいかもしれない。姉さんと同じように眸を隠して、意識を手放して。きっと眠ることとたいして変わらない。だってあたしは姉さんに、エルサに愛されていないんだもの。愛がなにかも、わからないんだもの。こうしてただ、目覚めない姉に愛されていない事実を突き付け続けられるくらいならいっそ、あたしの想いごと凍ってしまえばいい。もっと話したい、笑い合いたい、触れていたい、そんな願いもぜんぶ、覆い隠してくれればいい。それでいい、のに。  涙が、とまらなかった。  どこにそんな熱があったのか自分でも驚くほどにあたたかいしずくが、次から次へと頬を撫でて、シーツへと吸い込まれていく。あふれすぎた涙のせいで眸がおぼれてしまいそうで、あわててまぶたを開く。だけど映ったいとしい姉の姿に、とどまってくれるはずがなかった。  ねえ、あたしはこんなにも姉さんがすきなの。きらわれていたって、愛されていなくたって、過ぎ去った痛みを思い出すくらい、エルサのことがだいすきなの。  折れてしまいそうなほど細い指を握りしめる、今度は強く、強く。 「ねえ、姉さん。あたし、ね、わかっちゃった」  言葉を引っ込めようとするのどから必死に音を取り出す。寒さで震える言葉が、想いが、深い眠りについた姉の凍った心にどうか届きますようにと、そればかりを願って。 「どうして、涙がとまらないのか。どうしてこんなにも、胸が痛いのか」  だいすきな氷色にまたあたしを映してほしくて、あたしの精一杯の心を知ってほしくて。 「きらわれたくないの、話せないのはいやなの、姉さんのいちばんはいつでもあたしがいいの」  小さく巻き起こった風はやがて渦を広げ、突風へと転じていく。ベッドを中心にぐるぐる逆巻く冷風は、床や壁にはびこっていた薄氷をはがし、そびえる氷柱を削り取る。  その音に負けてしまわないように、ちゃんと最後まで聞こえるように、動かないエルサに顔を近付けた。 「でもね、会えないのはもっといや。きらわれていてもいいから、愛されてなくてもいいから、姉さんにはそばにいてほしいの。あたしのそばで、笑っていてほしいの」  すがるみたいに、身体を抱きしめる。いままで氷に隠されていた月明かりがようやく姿を現して、風に舞うプラチナブロンドの髪を照らした。  姉さんはまだ生きている、あたしの声を聞いてくれている、そんな小さな確信が、きりきりと引きつるのどを後押しする。 「ひとりぼっちはもう、いやなの」  ねえ、 「あいしてるの、エルサ」  風が、やんだ。  それまで渦巻いていた雪片は天蓋へと集まり、やがて花火みたいに霧散する。ひらひらと散る雪の結晶はエルサの肌に舞い降り、吸い込まれていくみたいにかたちをなくした。窓から明るく差し込む光を反射している結晶はふしぎとあたたかくて、思わず手を伸ばして受け止める。小さな一つ一つが、氷の女王の心のような気がした。  抱きしめていた身体に徐々に体温が戻ってくる。そうして最後の雪の結晶がエルサの胸でとけたと同時、まつげがふるり、震えて、ゆっくりとアイスブルーの眸が顔を出した。 「…ア、ナ」  月明かりに目をすがめるようにまたたきを一つ、二つ。あたしに焦点を合わせ、掠れた声で名前を呼んだ。その響きが、音が、なにも変わらず投げかけてくれたことがうれしくてまた、視界がかすむ。目を拭ってもきっと意味はないから、それよりもたしかな温度を感じていたくて思いきり抱きついた。  耳を澄ませば鼓動が聞こえてくる。息を吸えばエルサのにおいがする。エルサ、と何度も繰り返せばそのたびに、アナ、と律儀にも同じだけ返してくれる。当たり前のことなのに、あたしの涙腺はまた、言うことを聞いてくれなくなった。  震える背を撫でてもらうなんて、いつ以来だろう。勝手がわからないのか不器用なところに、姉さんらしさを感じて。 「―…私、ね、わからなかったの。想いのかたちが、わからなかったの」  ぽつりと、言葉が落ちていく。たどたどしく紡いでいく様子は、答えを必死で探している子供みたいだった。 「だから、心を閉ざした。ねえアナ、私は逃げたのよ。あなたのまっすぐな想いから、私自身の心から」  こわかったの、と。肩にすり寄ってきたエルサがくぐもった声でそう洩らす。かたちが見えないものはこわいから、それがどんな大きさなのか、どんな色をしているのかわからないからこわかったのだと。  あたしはまだ、伝えないといけない。誰よりも臆病で、弱虫で、そして誰よりもやさしいあたしの姉さんに。 「あたしだって、わかんないよ。でもね、もう、迷わない。だってこの気持ちは、エルサへの想いは本物なんだもの」  どうかどうか、あたしの正直な想いが届きますように。どうかどうか、エルサの心が氷から解放されますように。  いいの、と。言葉尻を上げて、エルサが問いかけてきた。 「私、とても欲張りなの。妹のそばにいられるだけで幸せなはずなのに、十分なはずなのに、もっとたしかなものを求めてしまう。アナの声を聞くのも、その眸に姿を映すのも、横に並ぶことさえ、私以外の人とはいやなの。あなたの一番近くに寄り添うのは私でいたいの。いままで拒んでいたのは、私の方なのにね」 「…エルサは、あたしのこと、きらいじゃなかったの?」  訊けなかったことを、心の奥底にしまっておこうとしたそれをついに口にすれば、少しだけ身体を離したエルサはゆるり、首を振る。真正面からあたしを、あたしだけを、氷色の眸に映して、くしゃりと顔を崩す。 「きらいなわけ、ないじゃない」  ささやくように、諭すように、たしかにエルサの音で落とされた言葉がゆっくりと染み渡っていく。それはあたしの想いを、存在を肯定してくれたようで。  ねえ、と。笑みのかたちにゆるめられたアイスブルーの眸に水が張る。私もね、もうひとりぼっちはいやなの。  返事の代わりにもう一度、あたたかい身体を抱きしめる。おずおずと回された手がやさしく背を包みこんで、ねえ、ようやくふたりで涙を流せるの。もう痛みに背を向けはしない、見えないフリをして閉じ込めたりしない。ちゃんと向き合って、そうして乗り越えていくの。ひとりぼっちでは泣いてしまうかもしれないけど、ふたりなら、エルサと一緒なら、あたしはもう、大丈夫。 「あいしてるわ、アナ」 (あなたを、あいしています)
 お互いを深く愛しすぎてしまった姉妹。  2014.4.15