しあわせを唄いましょう。
ちいさな王女はこれまで一度も、青い鳥をみたことがありませんでした。しあわせを運ぶといわれる青い鳥。ママが読み聞かせてくれたどの本にも登場する、しあわせの象徴。その青をみたことがないから、妹と離れ離れになってしまったんだ。わたしがわるい子だから、鳥はでてきてくれないんだ。
ちいさな王女は、ひとりぼっちの部屋で涙を流しました。つらくて、かなしくて、胸がぎゅうぎゅうしめ付けられました。
少女の涙は雪の結晶となって、ぽろぽろ、ぽろぽろ、落ちていく先から集まり、やがてなにかをかたち作りました。それは鳥のかたちをしていました。ちいさくて透きとおった鳥はまるで、氷でできているみたい。
ぐ、と。羽をのばすように広げたかと思うと、開け放したままの窓の外へととびだしていってしまいました。
透明な鳥は、空の青をうつして青く、青く。ちいさな王女が本の中でしかみたことがない、青い鳥のように。
するとすぐそこにある庭で、たのしそうな笑い声がひびきました。それはちいさな王女よりももっともっとずっとちいさな王女の声でした。
「ねえ、ママ、みて! あおいとり!」
「本当、とてもきれいね」
ママも一緒にいるみたいです。ちいさな王女はばれないように、窓からすこしだけ顔をだしました。妹は鳥を追うのに夢中で、のぞきこんでいる姉には気付いていません。よかったと思う心と、残念に思う気持ちが半分半分。だってもう、妹のきれいな水色のひとみに映ることはないのですから。
そうとも知らない妹は、純粋なそのひとみでただただ空を舞う鳥をみつめています。まるでひとみの中に閉じこめようとでもしているみたいに。
「─…しあわせを運ぶ、青い鳥」
ぽつりと落ちたママの声色は、いつも本を語ってくれるそれと同じでした。やさしくてあたたかいママの音に、ほんのすこし、願いをまぜて。かなしげに微笑んだひとみが、きらきらと顔をかがやかせている娘をみつめました。
「ねえ。アナはほしいのかしら、青い鳥」
上がった語尾に、とても、と。ちいさな王女は心の中で答えます。とてもほしいわ、と。青をまとった鳥がそばにいてくれるだけでしあわせがやってくるのなら、この部屋から自由にでてもいいのなら、自由に妹と会えるのならば。少女にとってのしあわせを運んできてくれるのなら。
ママからの質問に、ちいさなちいさな王女は考えます。あごに手をあてて、首をかしげて。
うーんとしばらくうなって、それからぱあ、と。みた人みんなを笑顔にする表情をうかべて。
「いらない!」
「…どうして?」
きっぱりとした返事に、ママもすこし動揺しているみたいでした。ちいさな王女も、かくれていることを忘れて身を乗りだして耳をすませます。
ああ、きっとそれがしあわせだからだわ、運んでもらわなくたって、わたしがいないいまの方がしあわせなんだわ。
考えれば考えるほど、少女の氷色のひとみにみるみる水が張っていって。もう一匹うまれる前に妹の声がとどいてきたので、しずくがあふれることはありませんでした。
にじんだ先にみえたちいさなちいさな王女の表情はかわらず、少女のだいすきなもので、
「だってね、」
***
ぬくもりが触れた気がして、つと、世界を開く。
徐々にかたちを持ち始めた視界に浮かんだ微笑みが、さっきまで身を沈めていた夢と重なった。幼い日のそれと同じようで、けれど慈しみといとおしさが加えられているようで。お母様に似ているな、だなんて、思ったのはそんなこと。
私が目を開けたことを確認した妹は、頬をなぞっていた手をゆっくり離していく。陽射しよりもあたたかいぬくもりが名残惜しくて、つい、追いかけた。指を掴んで、絡め取って。
くすり、上方から声が洩れる。
「ここはあたしの特等席よ、姉さん」
からかうように落とされた言葉にあくびで返す。中庭の大きな木を寝転がって見上げているうち、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。夢を見るなんて珍しい。眸を閉じて、まぶたの裏に思い起こして。
それはうんと昔のお話。まだお母様とお父様がいて、けれどいつだって絶望と隣り合わせだったとある日の記憶だった。青い鳥がしあわせを運んできてくれるのだと、そんなおとぎ話を本当に信じていて、信じ込ませていて。それでも恐らく、ばけものである私のところになんか姿さえ見せてくれないのだと、そんな考えからは目を逸らして。
辛かった思い出には全部蓋をしていたはずなのに、それだけは覚えていた、それだけを支えにしていたから。
「あら、あなたのベッドはここだったのね」
「心配しないで。居心地は姉さんのベッドが一番よ」
「それは初耳だわ」
「だって初めて言ったもの」
悪戯に笑った妹は、ごろりと隣に寝そべった。つないだままの手を引き寄せて、抱き枕みたいに胸元で抱きしめる。
おだやかな午後だった。城仕えたちの声も届かない庭には、鳥たちのさえずりしか響いていない。夢で見たあの日と同じようで、けれど違うところと言えば、やさしく微笑んでいたお母様がいないこと、それから、
「──あ、」
ふ、と。隣から聞こえた音につられて視線を向ければ、私たちのはるか上空を舞っているそれと目が合った気がした。空を映したような色は、ともすればとけ込んでしまいそうで。いつだか私が作り出したものよりもずっとずっときれいな色をしていた。ぴぴぴいと、他のどの鳥とも似付かない鳴き声を上げている。
生まれて初めて目にした、青い鳥。幼いころ、あれだけ一目会いたいと願っていたあの、青い鳥だった。それがいま、私と妹を見つめながらくるくると旋回している。楽しそうに音を弾ませて。
「…昔、ね、青い鳥を見たの」
視線はそのまま、声に耳を傾ける。記憶をたぐり寄せているような言葉に、そう、と。私もさっきまで、同じ光景を浮かべていたから。
「お母さまがね、言ったの。青い鳥がほしいか、って」
その先の答えを、私は知っていた。まだ文字さえ上手に書けなかった妹が伝えた想いだけを胸に、私は過ごしてきたから、彼女のいない日々を。
私が盗み聞きしていたのを知ってか知らずか―恐らく知らないのだろうけれど―ごろりと寝返りを打った妹は、澄んだ水色に私を映す。まっすぐな眸は変わらず。
「ねえ。エルサは、青い鳥、ほしい?」
お母様と同じ質問を、今度は私に向けて。含まれている意味はもう、わかっていた。
「いいえ、いらないわ」
「…どうして?」
小さな動揺を隠しきれないところまでそっくり。
いまならわかる気がした、あの日の妹の言葉が、ちいさなちいさな王女が紡いだ想いが。少女がもう十分にしあわせだったからではない。私と離れていたからしあわせだったわけではない。だって妹には、私たちには、青い鳥なんて必要なかったから。
自然、浮かんだ微笑みを口元に乗せ、相手の身体ごと手を引き寄せる。近付いた額をこつり、合わせて。きっと私も、あの時の幼い王女と同じ表情をしている。
「だってね。アナがいつだって、私の心にいてくれるんだもの」
遠くで青い鳥が唄った、ぴぴぴい、と。
(あなたの姉でいられるだけでこんなにも、しあわせなんだもの)
私とあなたのしあわせを。
2015.11.16