私以外の人間の気配を感じ取れなくなって久しいこの場に、最近新しい顔が現れた。  最近、といっても、永遠にとも感じられるこの夜でのことだが。  ある時不意に姿を現した何の縁もない狩人は、それからというもの何度も足を運び、かといって実りのある会話をするでもなく過ごしていくのだ。  そうして今日も、ただ漫然としていくのかと思いきや、跪いた狩人は何かを差し出した。 「…何の真似だ」  月光を受け輝いていたのは、指輪。いくら世俗を捨ててきたとは言え、その意味を知らぬほど無知ではなかった。  帽子を深く被った狩人の表情は窺い知れない。冗談めかした笑みを浮かべているのか、それとも。 「―…受け取れぬよ、狩人」  すぐ拒絶してしまえば良いものを、何故逡巡してしまったのか。人の一生をはるかに上回る年月を生きてきた自身の心が分からないなど。ただ、もう少しこの物好きな女と共にしていきたいと一瞬でも考えてしまった、などと。 (分からぬよ、これだけ生きてきてもなお、人の心は)  2016.12.14
「聖女さまは一生、神様にその身を捧げてなくちゃいけないのかしら」  ひたり。動きを止めた娼婦に、その言葉に、冷や汗が滑り落ちていく。恐る恐る視線を下げてみれば、わたしの脚の間から顔を持ち上げた女と視線が合って。  眸、が、笑っていた。こんなにもおぞましいことをやってのけているというのに、まるでそれ以上の楽しみを見つけたみたいに、細く、鋭く。眸が孕む妖しい色は月明かりなのか、それとも別のなにかなのか、わたしにはもう分からなくて。  内腿に据えられていた右手がするりと上へ辿り、先ほどまで女が顔をうずめていたその中心に、つと。 「ゃ……、」  恐怖に喉が侵されていく、拒絶を示しても無駄だということは分かっているけれどそれでも音にならない叫びを上げることしか知らなくて。 「果たして心は純潔を保っていられるのかしら?」  その問いかけはきっと、わたしに向けられたものではなくて。  何物も受け入れたことのないその場所に、無遠慮に分け入ってくる。圧迫にも似た異物感と張り裂けそうな痛みに胃液がこみ上げる。ぐちゃりぐちゃりと、悪戯に立てられる音に耳さえも犯される。  いっそ意識を飛ばせたらどんなにかと神に祈るのに、こんな時ばかり目を逸らされているようだ。  ぬちゃ、と。指が引き抜かれていく。  落ちた視線の先に、赤と白にまみれた自身の指を丹念に舐め取る女がいて。 「──あなたの心は、果たしてどこにあるのかしら」  女の問いに答えることは、出来なかった。 (わたしの心はいつだって主、あなたに捧げているはずなのに、)  2016.12.23
「まっ、ん、」  止める暇も、名を呼ぶ隙もなかった。性急にくちびるが奪われていく。獣にも似た荒々しさは、普段の冷静な彼女からは想像もできないほど。  息もつかせてもらえぬまま、びりびりと音を立ててストッキングが破られていく。  立ったまま、しかもこんな場所でだなんて、いつもの私ならば咎めているところだけれど。 「──すき、よ、」  わずかな理性さえも、呑み込まれていく。 (そうして今日も染められていく、あなたに)  2016.12.30
「エルサは、さ、」  こうして口ごもってしまう妹も珍しい。  名前を言ったきり黙ってしまったアナを見つめていれば、やがて恥ずかしそうに頬を染めた。 「どう、想ってるのかなって、あたしのこと」  ぱちり、またたいて。  広がっていく笑みを見咎められたなら、きっと頬をふくらませ怒ってしまうのだろうけれど、俯いてしまったいまなら大丈夫なはずだ。  あごをすくい上げ、そのかわいらしいくちびるに口づけを。 「言わなくてもわかるでしょ?」 (あいしてるに決まってるじゃない)  2016.12.30
「段々わかってきましたよ、キャロルのこと」  ぱちり、長いまつげが一瞬、澄んだ眸を覆う。  ほのかに口の端をゆるめた彼女が、なにがわかったのかしら、と。ともすれば挑戦的に。  たとえばわたしを見つめる眸がやさしいこと。たとえばわたしの名を紡ぐ声がやわらかなこと。たとえばわたしに触れるその指があたたかいこと。  つまりは、 「──あなたが、わたしのこと、大好きってことですよ」  わたしもそれだけ、あなたを見つめているということ。 (あなたをそれだけ、好きだということ)  2016.12.30
「好き、です」  声も出ない、とはこのことか。だっていままさに、私が口にしようとのどまで迫っていた言葉そのものだったから。 「あ、えっと、家族としての好きじゃなくて、」 「アナ」  沈黙をどう受け取ったのか、慌てて言い繕う妹の名前を呼ぶ。  言葉を止めふと見つめてきた彼女に、いとおしい妹に、私を世界一のしあわせ者にしてくれた、アナに。 「私も、あいしているわ」 (世界で一番愛する、あなたに)  2016.12.30
「あ、そこ。気持ちいいからもっと」  どうして私は素直に従っているのだろうかと、今更すぎる疑問が今になって顔を出したけれど、仕方ない。  天邪鬼な妹が、なぜだか今夜は目の前にちょこんと座り、髪拭いてちょうだい、だなんてかわいらしいことを頼んでくるものだから、一応姉としては断るわけにはいかない。  手渡されたタオルで、かしかしと、やわらかく水分を取り去って。 「…かわいい」  思ったことを正直に口にすれば、晒されたうなじが赤く染まっていった。 (いつもこうだったら、少しはかわいげがあるのに)  2016.12.30
「ほらハーデス、腕はこう」  背中にぴったりとくつい女海賊さまは、ご丁寧にも私の腕を取り教授してくる。たったそれだけの触れ合いだというのに、身体中が炎とは違う熱を生み出して。  大体なんで、人間たちに人気のダンスなんて踊らなくちゃいけないのよ。  すぐ傍で楽しそうに声を上げている鐘娘や鳥女たちがいっそ羨ましい。 「ハーデス、集中しろ」  ああもう、誰のせいだと思ってるのよ。 (全部全部、あなたのせいよ)  2016.12.30
「んーっ、しあわせ!」  ほかほかと、見ているだけでお腹の空きそうな湯気の向こう側で声が上がる。  頬いっぱいに詰め込んだその子は、もぐもぐとゆっくり噛んで、ごっくん。 「ふあー! あったまるね、おいしいねえ!」  この世の春と言わんばかりの反応がかわいらしくて、どこか子供くさくて。 「しあわせ、だなあ」 「ん、おいしいもんね」 「そうじゃなくて、」 (おいしそうに食べてくれるあなたがいてくれて、)  2016.12.30
「リンディ、」  呼ばれた気がして、ぱちり、まぶたを開けた。  お箸を持つ手の方にはママ。両手をぎゅっとして、すやすや眠っている。その反対にはテレーズ。あたしの頭に手を置いたママ、やっぱりぐっすり目を閉じていた。  もしかしたら、寝言だったのかもしれない。だけど、夢の中でもあたしを見つけてくれたことがうれしくて。 「―…おねえ、ちゃん」  いつか呼んでみたいそれを、そ、と。言葉を夢にとかした。 (だってテレーズはもう、かぞく、だから)  2016.12.30