「あら、剃ってしまわれるの?」  声が、私の手を止めていく。  腕で制されたわけでもないのに律儀にも踏み止まり視線を這わせれば、鏡越しにこちらをひたと物珍しそうに見つめる妻と目が合った。ともすればほくそ笑んでいるようでもあるその表情の正体が見えず肩を竦めてみせる。 「エルサに不評だからね」 「だからって、ずっと伸ばしてきたものを止めなくても」  普段、私のことよりもまず娘たちの望みを優先させる彼女にしては珍しく食い下がってくる。  確かにここまで髭を蓄えるまでに随分と時間を要したが、最近「いや」が増えた娘にこれ以上嫌われてしまっても仕方がない。 「髭のない私はお気に召さないのかい?」 「その逆です」  尋ねてみれば、それまでベッドの縁で足を遊ばせていた彼女が立ち上がり、ひたり、距離を詰める。  そうしてすぐ背後にまで迫った彼女は鏡を覗き込んだまま、私の二の腕に、肩に、首にと両手で辿り、やがて件の髭でぴたりと手を止める。  指先が妖しく撫でる、地肌に触れるか触れないかの感覚で。ぴりと刺激にも似た震えが背中を走っていく、鏡を通して視線を投げかけられる、また、あの笑み。 「──でも、昔のあなたは、わたしだけのあなたでいてほしいから」  だからいまはまだ、記憶の中にだけいてください、などと。口にされずとも読める続きを丁寧に紡いだ彼女は屈み込み、髭に口づけを一つ。 「──仰せのままに、お姫様」  滑らかなくちびるがまた、曲線を深めた。 (たまには君のわがままだって、)  2017.5.25
 この国の王子のご婚約が発表されたと、誰かが声高に告げていた。  王子。たしか名は、アグナル。おめでたい話題に湧く街の人々の熱気に、わたしはどうにも乗れずにいた。だってその王子の顔だって拝見したことがないのだもの。いいえ、正確には一目見かけたことはあるけれど、それもなにかの式典でバルコニーに佇む姿を遠目に眺めただけ。あの人がいずれアレンデールを背負っていくのだろうかと、ぼんやりと考えただけだった。  息を一つ。自分のことのように顔を綻ばせている彼や彼女たちの間をすり抜け、図書館から借りてきたばかりの重たい本を抱え直す。お祭りが嫌いなわけではないけれど、いまはこの本の世界たちに早く入っていきたかった。  腕の内に積み重ねた本の隙間から前を窺い、帰路を一歩二歩。  曲がり角を折れたところで突然、衝撃に襲われた。大小さまざまな本が宙を舞う、勢いよく後ろに傾いでいるはずなのにすべてがスローモーションに映る、きっとこのあと落下してくるであろうそれらに備え眸を固く閉ざして。 「………っ、」  衝撃は、来ない。代わりにぬくもりと、なにかを堪えるような息の音が一つ。まぶたの裏側を見つめながら、ぎゅうと背中を締め付けてくるぬくもりに思わずしがみ付いた。  そうして静寂。喧騒さえいまは遠い。  恐る恐る目を開けば、見覚えもない誰かの頭がそこにあって。 「…あ、あの」 「……怪我は、ない、だろうか」  たどたどしく発された言葉は随分と低く、身体の芯に響いた。  頭が持ち上げられ、まず目に入ったのが太陽にも似た眸。呆気に取られたみたいなわたしがとかし込まれて、またたいて。同じくわたしの眸にとかした彼も、視線を重ねたまま音を取り出さなくなってしまった。それはまるで、お互いがお互いに見入ってしまっているみたいに。  そうしてどれだけ見つめ合っていただろう、ようやく横たわったまま抱きしめられている格好に気付いた。 「あっ、あの、すみません! そちらこそお怪我は…」 「ああ、いや、大丈夫、元はと言えば私がぶつかったことが原因だ」  慌てた様子の青年はば、と離れてしまう。  ぬくもりを失ったわたしはしばらく自分を抱いて、けれど散らばった本をかき集める彼に倣って拾い始めた。その間もちらちらと様子を窺う。  この青年は一体誰なのだろう、利発そうで、眉を困ったようにしかめる人で、どこか見覚えがあるようで。  ぼんやり考え込んでいるうちに、いつしか本をまとめ終わってしまっていた。彼の腕とわたしの腕に半分ずつ。  これを受け取れば、彼と別れなければならない。至極当然のことになぜだか、胸が締め付けられて。  対して彼も本を抱えたまま、なかなか手渡そうとしない、まるで躊躇っているみたいに。  太陽色の眸が左へ、右手、ようやくわたしを控えめに捉えて。 「…その。一人で持ち帰るのは大変だろう。もしよければ、だが、君の家まで運ばせてもらえないだろうか。…よければ、だが…」  揺れる声は最後にはとても小さく、消えてしまいそうで。  その呟きになんとかしがみつきたくて、思わず太陽色を覗き込んだ。 「あのっ、ご一緒してもらえませんか。…あなたがよければ、ですけど」 「…喜んで」  ともすれば緊張さえ浮かべていた彼の表情がほどけていく、口元がやわらかく綻んで、つられて微笑んでしまうほどに。  まだ、どこかで見た覚えのある青年を思い出せずにいたけれど、それでもいまは、少しでも帰路が長くなってくれますようにと、ただ、それだけを。 (きっと出逢うべきではなかったわたしたちのはじまり)  2017.6.6
 ずるいと、思った。  たとえばハンドルを握る片手間にわたしの手を捕らえたこと。たとえばあなたと同じ香水をわたしにまとわせたこと。たとえばやわらかな隙を見せたこと──挙げ出したらきりがないくらい。そのせいでわたしは手を握られるたび鼓動が速度を上げたし、自分から香る慣れない匂いにいちいちあなたを思い出してしまうし、その隙に付け入るように口づけてしまった。  全部ぜんぶ、あなたのせい。  いとも簡単に触れてくるくせに、誘ってくるくせに、その心の内の一つだって見せようとしない、あなたのせい。あなたがなにを考えて口づけを受け入れたのか、なにを持ってしてわたしにぬくもりをくれたのか。そのどれかさえもわからなくて。 「ずるいです、あなたは」  思わず音にしてしまった感情に、あなたは振り返る、わたしの好きな表情で。 「あら、今頃気付いたの」  口元を綻ばせたくせに、ともすれば寂しそうにも見えるあなたが一体なにを想っているのか、なんて、わかるはずもなくて。 (そうして今夜もわたしはあなたの夢を見るんでしょうね)  2017.6.6
 雨が強く降っている。 「お薬の時間よ、エルサ」  こんな雨音の中でもよく通る声で、お母様が言う、グラスと白い粉を差し出しながら。  グラスになみなみ注がれた水面が揺れる。  わたしはただ首を振る、だってこわかったから。わたしのこの力は確かに忌むべきものではあるけれど、薬なんかで治らないことくらいきっとお母様だって分かっているはずなのに。 「大丈夫、怖がらなくていいのよ」  恐る恐る見上げてみても、室内が暗いせいか表情が窺えない。 「だから早くお薬を飲みなさい」  ず、と、また、押し付けるように近付いてくる。その身体に触れてしまうかもしれないのに、私がまた家族を傷付けてしまうかもしれないというのに、それさえ忘れてしまったみたいに。  ノックの音が響く、聞き慣れた調子で。  アナだろうか、いつものように歌を携えてやってきたというのだろうか。 「アナなわけないじゃない」  私の思考を察したように言葉が挟まれる。視線を戻してもやっぱり表情は見えなくて、けれどその声は氷よりも冷え切っていて。  雨が強く降っている、ノックが重なるお母さまであるはずのものが口を開く、 「 扉 の 向 こ う に は 誰 も い な い わ 」 「──は、っ、」  がばり、勢いよく上体を起こした。そのまま部屋をぐるり見渡す。  日中からの雨が降り続いているせいか、室内には月光さえ差し込んでいない。ようやく闇に慣れてきた眸はけれど、私以外の人影を見止めることはなくて。  そう、あれは、ぜんぶ、ゆめだ。  耳を澄ます。雨音だけが世界を支配している。妹が紡ぐべき音は聞こえない、だってもう何年も扉は沈黙したままなのだから。  そう、あれは、ぜんぶ、ゆめ。  眸を閉ざし、息を一つ、表出しようとする魔法を抑える。  雨が強く降っている。 (そうよこんなところにだれもくるはずないのよだってわたしはいつだってひとりぼっちだから)  2017.6.12
 傘を、忘れたみたいだ。  いつからこうして前に身を晒しているのか。水を吸った服が重く肩にのしかかる。ほつれた前髪をかき分け、視線を上げて。  空は見えない、きっともう、ずっと前から。雲ばかりが支配するそこはただ、まっくらで、少し肌寒くて。 「空が見たいかい、イデュナ」  もうとうに叶わない願いだというのに、優しすぎるあなたは問う。  振り返って、微笑んで。  だってわたしが望めば、君だけでもと、あなたは言ってしまうだろうから。わたしがいま寂しさを覚えないのも、ひとりきりでないのも、ぜんぶ、あなたがいてくれるから。わたしはここで濡れていられるの。 「いいえ。──アグナルと一緒なら、いいの」 (そうしてふたり、終わらない夢にとける)  2017.6.16
「あいしてくれているんでしょ」  語尾が上がったものの、それはもはや問いではなく確信。  ゆるり、目の前の口角が笑みを形取る。幼いままの姿にはひどく不釣合いな口調に、染まったくちびるに、色を含んだ眸──私が記憶している妹と、なにもかもが違いすぎている。きっとこれはもはや妹のかたちを成しているだけの“なにか”なのだろう。  この“なにか”は知っているのだ、私が元来妹に向けるもの以上の想いを抱えていることを、この氷の刃を突き立てられないことを。  切っ先はそれの心臓を捉えたまま、けれどそれ以上進めることができなくて。 「あいしてしまったんでしょ」  向けられていないはずの刃を刺し込まれる。  なにも言い返すことができない私はただ、眸を閉ざした、その“なにか”から目を逸らしたくて。 (逸らしたって変わりようもないのに)  2017.6.23
 一体どれほどの人が、この指に触れてきたのだろう。  たとえばダンスを申し込む紳士が、たとえば愛を囁いた亡き夫が、あるいはわたしの父が。この折れてしまいそうなほど細くしなやかな指を取り、絡めてきたのだろう。 「あら、誰にでも取り柄はあるものね」  彩り終わった指先を透かした彼女は、その口調に少しばかり感心さえ混ぜている。 「誰かに塗るのは初めてだったんです」 「初めてにしては、まあ、見られなくはないわね」  皮肉めいた言葉のわりにその頬はいつもよりやわらかくゆるんでいる。  よほど気に入ってくれたのだろうか、何度も爪先とわたしとを見比べ、満足そうに息を洩らして。 「…お母様」  いまなら、許される気がした。いまなら触れられる気がした。  深い緑の眸がわたしを映す、心の内を探ろうとでもしているみたいに。 「──なに、エラ」  きっとそれが、彼女なりの許し。久しぶりに耳にした自分の名に自然、頬が綻んでいく。 「その。よければ、髪を梳かせてもらえませんか。色が落ち着くまでの間で構わないので」  手段なんてなんでもよかった。ただ彼女にもう少しだけ近付きたくて。  深緑色が閉ざされて、息が一つ。そうして差し出された櫛を、弾む心のままに受け取った。 (もう少しだけ、触れさせて)  2017.6.27
 彼女がアルコールを口にしたのは久々だった。  長女がようやく乳離れしたからだろう、寝室に戻った私を出迎えてくれた妻の表情はどこか嬉しそうに綻んでいた。いつの間にか持ち込まれていたワインを一口、二口、三口。私は一杯飲み干す前に瓶を空けてしまう。 「大丈夫か、イデュナ。少しペースが早いのでは、」 「だいじょうぶ、です、このくらい」  その様子は全く大丈夫そうではない。舌は足りていないし、頬は随分と染まっているし、私にもたれかかっている身体はひどく熱を持っている。どこをどう見ても酔っ払いだ。 「ほらイデュナ、水を飲みなさい」  まだワインを注ごうとしている彼女の手からグラスを取り上げ、代わりに水で満たす。  けれどもふくれた彼女は頑なに受け取ろうとしない。 「のませてくれなきゃ、や、です」 「…まったく」  まるで駄々をこねる子供のようだ。  ため息を一つ、自身の口に水を含み、そのまま口づける。  急に素直になった彼女は大人しく飲み下していった。白いのどがごくりと動く。距離を置いたくちびるを真っ赤な舌が辿る、ゆるり、残りを舐め取るように。  そうしてちろりと見上げてきた彼女は口角を上げる、先ほどまでの子供染みたそれを隠して。 「ね、」  言葉に絡め取られていく。どこか潤んだ眸はそれでも夜を纏い、私を誘う、もっと深いところへと。 「まだ、たりないんです、わたし」 「──まったく、君という人は」  抗えるはずもなく、文句を返すのもそこそこに再びくちびるを寄せる。  ワインの香りにぐ、と呑み込まれた。 (だって私はもうずっと、君に酔っている)  2017.6.2
 窓を打ち付ける音が、置いてきたはずの遠い記憶を掘り起こしてくる。  彼が上京したころだからきっと、もう随分と前。いわゆる幼なじみだったわたしたちがどこへ行くにも一緒だったのはごく自然のことであったし、想いを寄せたのだって至極当然のこと。だれけど心を伝えるにはあまりにも距離が近すぎて。なにかが壊れてしまうような、そんな気がして。  だから意気地のないわたしはすべてを手紙に託した。  いままでありがとう、東京でもがんばって、いつも応援してる──短い言葉の裏にただ、ずっとすきでしたと、想いをこめて。どうか彼が気付いてくれますようにと、ずるいわたしは全部彼頼みにした。  彼からの返事がないということは気付かれなかったからか、それともわたしの好意が煩わしかったからか。  どちらにせよ、卑怯にも直接伝えることのできなかったわたしに対する当然の結果というわけで。  ざああ、と。音が勢いを増す。この間、夫となったばかりの人はまだベッドで寝息を立てている。せっかくの新婚旅行も、この天気ではホテルに缶詰するしかなかった。  息を、一つ。ホテルに備え付けてあるボールペンを手に、ポストカードに向かう。沖縄に着いて最初に購入したものだ。彼に送ろうだなんて、ふと、思い立って。  彼の元に届くころにはもしかすると、ここと同じ空模様になっているかもしれない。あるいはこの雲が、水滴と一緒に想いまで運んでくれたらと。子供みたいな考えとともに、言葉を乗せた。 『雨ですね。』 (相変わらず汚い字だと、あなたは笑ってくれるかしら)  2017.7.1
「あら、また来てくださったんですか」  明るい声が弾けた。私を見とめた大きな眸がいっそう丸みを帯び、きらきらと陽を反射する。 「お邪魔だったかな」 「邪魔だったらこんな顔してません」  それは彼女も自覚しているようで、眩いばかりの表情がさらに笑みを深める。私もきっと、同じものを浮かべているのだろうが。  手早くエプロンを取り去った彼女は、店の奥にいる父親にじゃあ番をよろしくねと声をかけた後、私の腕に自然と自身のそれを絡めてくる。  もう夏も近付いているというのに、彼女の身体は清涼そのもの、対して触れられた私の熱は高まっていくばかり。せめて視線でも外せばいいだろうに、変装用にかけた眼鏡の奥の眸は彼女ばかりを捉えたがる。  咳払いを一つ、歩みを進める。 「──それで。今日はどこを目指すんだい、イデュナ」 「こっちよ、ついて来て!」  彼女にぐいと連れられた私は、そうして群衆へととけ込んでいく。 (まるで普通の恋人同士みたいに)  2017.7.1