「……っ、だから、だめって言って、」  非難めいた口調で何事か文句を言いかけた彼女の鎖骨に喰らいつく。もちろん、猫もかくやと言わんばかりの甘いそれに、身体がひそやかに震える。  恨み節は形になる前にほどけ、その声にはただただ、砂糖をまぶしたような色が残るばかり。  なにがだめなものか、だって君はこんなにも全身で悦んでくれているじゃないか。私は知っているんだよ、イデュナ、少しばかり歯を立てて吸えば、その淡く光る眸をひゅっと閉ざし侵食する果てをなんとか逃していることを。  素直になればいっそ楽であろうにどうしてこう、意地を張ってしまうのか。  じゅ、と。呑み込みきれなかった音がくちびるの端から洩れる。そんな些細な音一つにさえ律儀に反応してくれるものだから、口づけのし甲斐もある。  十分に痕を咲かせ終えた鎖骨を下り、やわらかな胸、滑らかな脇腹、そうして内の太腿へと辿り着き、口づけをもう一つ。  くちびるを離しふと顔を上げてみれば、こちらに送られた視線のなんと切なそうなこと。雫にまみれた眸が、かすかに震えるくちびるが、胸の前で組み合わされた両指が。その先をと、望んでいる。 「なにが欲しいんだい、イデュナ」  そんな彼女に、悪戯心が芽生えないはずもない。  先程まで口を触れさせていた太腿を指先でなぞりながら尋ねてみれば、それは、と視線を泳がせ頬どころか首筋まで赤く染め上げる。助けを求めるようにちろりと見つめられるが、そんなことで折れていてはいけない、私は聞きたいのだから、彼女自身の言葉で。  しばらく悩んでいたイデュナは、しかし私からの助け舟が無いと悟ると指をぎゅっと握り、眸を閉ざし、息を一つ。 「──あなたが、ほしい、です」 「―…よく言えました」  いい子にはご褒美を。微笑んだ私は再び、くちびるを落とした。 (その無垢なくちびるを欲で塗りこめたい、だなんて)  2017.7.3
 これはあたしなりの仕返し。 「んんっ、」  ようやく書類から顔を上げたその人に向けて、思いきり引き金を引く。  顔面で水を受け止めたエルサは毛先やあごから雫を伝わせ、数瞬の後に眸を開く。そこに怒りは見えなくて、あたしは笑みを乗せる。  そう、これは仕返し。あたしに構ってくれない姉への、ひそやかな反抗。 「ほらほら、早く仕事をやめないと、書類が水浸しになっちゃうわよ」  放った二発目は、けれど目標に届く前に空中で凍りつく。  水を瞬時に氷へと変えたその人は、前髪から水を滴らせながら、まるで悪戯を思い付いた子供みたいに笑った。 「その言葉。後悔しても知らないわよ?」 (たまには子供みたいな休息を)  2017.7.8
 ふいに晒された白がまぶしくて思わず、目をすがめた。 「あっついですね」  陽に焼けたことがないのかと疑うほどの白さと、重たいものなどなにも持てなさそうな細さ。そんな腕に毎夜、組み敷かれているのかと思うと、くらり、視界が揺れたのはきっと、このうだるような熱気のせい。 「どうしたんですか、」  無垢な眸が覗き込んでくる、私の色さえ知らずに。  そうして私の名前を呼びかけた彼女のそのまっさらな腕を掴み、引き寄せたくちびるに色を移した。 (あなたは少し、まぶしすぎるの)  2017.7.8
「ねえママ、聞いてちょうだい」  やけに神妙な表情の娘に、思わず笑みをこぼしてしまう。 「もうっ、笑わないでよ、真剣な話なんだから」 「はいはい、ごめんなさいね」  もう、と。呆れた風に息をこぼしたアナはそうして語る、曰く、夏にあるまじき寒さで目が覚めたのだと。曰く、ベッドが雪解けの後みたいに濡れていたのだと。  心当たりが、あった。雪と氷に囚われた彼女の姉を、ひっそりと妹の顔を窺っている娘を、知っているから。  幽霊かな、なんて考え込むアナは、けれどふいに微笑む。 「不思議と、あったかかったんだよね」 「…そう」  自然と浮かんだ表情は、もうひとりの娘と同じものだった。 (ねえエルサ、あなたの心はこんなにもあたたかいわ)  2017.7.8
 若さとは、それだけで素敵なものだとつくづく感じる。 「ほら、キャロルも早く!」  海際まで一目散に駆けていったテレーズは振り返り、照りつける太陽にさえ負けないまばゆい笑顔を浮かべ、わたしを呼ぶ。その溌剌な声に、サングラスを少しだけ浮かせて応える。  まだまだ若い彼女ならまだしも、わたしくらいの年齢にもなると、このビーチパラソルの外へ出て行くだなんて自殺行為に等しい。申し訳ないけれど、ひとりで海を楽しんでもらうことにしよう。  そう思い、身体を横たえたところで一際、影が下りる。ふ、と。見下ろしてきた彼女が微笑んで。 「海。一緒に見ましょう」  ああ、つくづくこの子には敵わないなと、諦めの息を一つ。手を引かれるままに腰を上げた。 (それでなくてもあなたという太陽に焦がされているというのに)  2017.7.10
 まるで私の存在そのものに見えた。 「見て見てエルサ、おっきい玉!」  アナが自身のそれに小さな歓声を上げる。吐息で揺らしてしまうことがないよう、ひそやかに、けれど確かな喜びをこめて。 「ほんと、きれいね」  大きな玉からぱちぱちと火花を散らす様子は、元気のあふれる妹によく似ている。  反対に、みすぼらしく揺らめく私の火花は、握っている者自身をよく表していた。もうじき、最後の力さえ果て地に落ちてしまうのだろう。そうなればもう、いまのほんのわずかな光さえ忘れて、 「はい」 「──…え、」  ふと。光が、輝きを増した。  私とアナの火の玉がゼロ距離になり、顔を上げればえへへと妹が笑って。 「こうすれば、落ちるときも一緒よ」  取り残されることもないわ、なんて、頬を崩して。  一つになった光は大きく、強く輝く、まるで私たちみたいに。 (けれどあなたがいれば、私だって存在できるのだと)  2017.7.10
 屋台で物を買うなんて久しぶりのことだ。もしかすると、お祭りに来ることさえも。 「んー、甘いですねえ」  隣でわたあめを頬張った彼女は何度か口をもぐもぐと動かし、至極当たり前のことを言う。  あなたがせがんだから買ってあげたのよ、とは返さず、わたしも一口、うん、やっぱり甘い。 「そっちの味はどうですか」  変わらないはずの味をねだった彼女が、わたしに口づけて、くちびるを舐めて。 「…あまい」 (甘いのはわたあめか、それとも、)  2017.7.10
「ねえ、帯ってこんなに締めなきゃいけないものなの…うぐっ」  文句を洩らす妹の言葉が止まる。  もしかするとアナの言う通り本当に締め過ぎなのかもしれないけれど、姉さんに着付けてほしいとせがんだのは本人なのだから、少しばかりは我慢してほしい。  ようやく仕上げを終え、アナの肩越しに姿見を覗き込めば、見慣れぬ女性がそこにはいた。  普段と雰囲気が違うのは、赤い口紅を差しているからか、それとも元気が成りを潜めているからか。とにもかくにも鏡の中のその人は、もう女性と呼んで差し支えないほど成熟して見えて。 「うん、やっぱり完璧。それじゃあ行きましょ、エルサ」 「…ええ、アナ」  無防備に差し出された手をそっと、握り込んだ。 (あなたがなんだか知らない人に見えて、)  2017.7.10
 とけちゃいそう、まるでアイスみたいに。 「あ。ねえエルサ、アイスつくってよ」 「私は製氷機じゃないんだけれど」 「お願いお姉様」  まったくあなたって子は、なんて呆れた声が聞こえてきそうなため息をついたエルサはけれど左手を一振り、あっという間にアイスクリームを生み出してしまう。  相変わらずどういう原理なのかわからないけれど、とりあえずエルサの気が変わってしまわないうちに頂くとしよう。  そうして冷たい一口を頬張ったところでふと、頬に熱が触れる。 「──私にも。つめたいの、ちょうだい」 (そうしてあついあつい、くちびるにたべられた)  2017.7.10
 テレーズが猫を連れてきた。 「キャロル〜!」  なんでも職場の同僚から一週間ほど出張で留守にするから預かってほしいと頼まれ、喜んで引き受けたのだという。  元来猫好きなのか、それとも猫の名前がたまたまわたしと同じだからか。猫を抱き上げたテレーズは、このうだるような暑さの中、もふもふの身体に笑顔ですり寄っている。  わたしには暑いからなんて言ってハグの一つもしてくれないくせに。  ひそかに嫉妬心を向けるわたしにふいに視線を寄越した“キャロル”は、にゃー、と。まるで煽るような鳴き声に、ついに我慢の限界がやって来た。 「そう…、宣戦布告というわけね…、受けて立とうじゃないの!」  にゃー、と、もう一つ。余裕にあふれた彼女の声が響いた。 (ねえキャロル、暑いから静かにしてもらえます?) (え、あ、ごめんなさい) (にゃー)  2017.7.10