スイカ、なんて。物心ついた頃から口にした記憶がなかった。綺麗に十二等分されたそれはいつだって、兄たちの腹にしか収まらなかったから。 「はい」  だというのに彼女はいとも簡単に与えてくる。僕のために切り分けられたそれをなんの裏もなく手渡してくるのだ。 「…これは、食べてもいいのかい?」 「他に誰が食べるというの」  それとも私にくれるのかしら、なんて。女王とは思えぬ悪戯な笑みに恐る恐る―それでも気取られてしまわぬよう―受け取り、一口。 「―…おいしい」  自然に洩れた言葉を聞き留めた彼女が、どこか嬉しそうに微笑んだ。 (それは確かに僕がここにいることを認めてくれているようで)  2017.7.10
 とけてしまうわと、彼女が言った。 「せっかくあなたからチョコレートを頂いたのに」 「…あ、ああ、チョコレートのことか」  私の返答に、チョコレートを一つつまんだ彼女が首を傾げる。てっきり自分がとけてしまうと言い出したのかと一瞬でも勘違いした私の頭は恐らく、この暑さにやられてしまっているのだろう。とけたイデュナもきっとおいしいのだろうな、などと。  半分ほど形をなくしたそれを口に含んだ彼女は、続いて茶色く汚れた人差し指と親指を一本ずつゆっくり舐め取る。覗いた舌がやけに赤く映る。そうして私の視線に気付き、ちろりと、まるで悪戯を見つけられた子供のように、お行儀悪かったかしら、なんて。 「──私にもくれないか、一口」  す、と。手を伸ばした先は、チョコレートではなかった。 (一口、では済まないだろうけれど)  2017.7.10
 おいしそうだと、思ってしまった。 「今日も暑いわね」  きっと喉がからからだったんだ。もしくはこの暑さでなにもかもがおいしそうに見える呪いにかかってしまっただとか。そんな言い訳が浮かんでは消え、残ったのはやっぱり、おいしそうだな、なんて。 「アナ?」  不思議そうに呼びかけてくる姉さんに心の中で謝罪を一つ。汗の玉が伝うそのまっさらな首を、後ろから、がぶり。甘く噛み付いた身体が小さく震えた。 (ほら、やっぱりおいしい)  2017.7.10
「あつい」 「あついなら是非どいて頂きたいんだけど。お姉様」  丁寧にお願いしてみても、熱源はあたしの頭にあごを乗せたまま。あまつさえ首に両腕まで回して、うーだとか、んーだとか唸っている。お得意の魔法さえ使えないのなら早く離れたらいいのにと何度も言っているのに、わがままな姉はただ一言。 「あついのはいやだけど、アナと離れるのはもっといや」 「…そんなこと言って、また倒れても知らないんだから」  文句で返しつつも、嬉しさに綻ぶ頬を止められなかった。 (…やっぱりだめ) (え、ちょっとエルサ、人の背中で倒れないでよ!)  2017.7.10
 ゆめ、だ。これはいつも見る、夢だ。 「───!」  悲痛な叫びは彼の口から。形からして恐らくわたしの名前を呼んでいるはずなのに、耳に馴染んだその音がうまく届いてくれない。海中ごと揺さぶる轟音のせいか、それとももうわたしの耳がその役割を放棄したからかどうかは判別つかないし、そのどちらでもいいのだけれど。 「──、───…っ!」  あなたのその優しい声をもう一度聴きたかったな、だなんて。だってもうぬくもりも感じない。あなたがその広い胸に抱き留めてくれているのに、わたしの眸を真正面から見つめてくれているはずなのに。太陽よりもまぶしい色が窺えない、やわらかな笑顔が隠されて、いまにも子供みたいに泣き出しそうで。  意識が深い場所へ沈んでいこうとする。これもいつもと同じ。体温を失っていく身体が、無理に眸を閉ざそうとする。まだ眠ってしまいたくはないのに。彼の姿を収めて気怠い腕を持ち上げてぼろぼろ崩れてしまいそうな頬に触れて大丈夫よなんて言葉をかけてああでももう少し一緒にいたかったなだってわたしはまだ伝えきれていないあなたに出逢えた感謝をあなたの隣にいられたしあわせをそうしてわたしがどれだけあなたをあいしているのかと、 「──わらって、アグナル、わたしのために」  ああ、でも、わたしが先でよかったな、だなんて。  だってあなたの涙はもう見たくないから、  そうしてわたしはいつもそこで目を覚ます。目元を拭えば決まって大粒の雫が溜まっていて、耳にはまだ、彼の叫びがこだましているようで。 「どうしたんだい、イデュナ」 「…いいえ、なんでも。なんでもないのよ」  心配をありありと表情に乗せた夫が覗き込んでくる。眉尻を下げた見慣れたそれに浮かんだ安堵を隠し、なんでもないと繰り返す。そう、あれはなんでもない、ただの夢。悪夢としか呼びようのない世界は段々鮮明に、そして体感時間さえ延ばしてくるけれど、結局はわたしの妄想の産物でしかないのだ。だって彼は確かにここにいる。指を握り込むあたたかな体温もわたしをとかしこむ眸の色も名前を紡ぐやさしい音もなにもかも感じることができるから。 「ね、アグナル」  そ、と。呼び止めれば、なんだいとでも言うように首を傾げるその姿がいとおしかった、視界がにじむほどに。 「──わらって、アグナル、わたしのために」  疑問符を浮かべつつも頬を綻ばしてくれた、そんな彼にまた、胸が締め付けられて。 (夢の最期に見た表情にひどく、似ていて)  2017.7.10
 どこかで聞いたこの台詞を、まさか自ら発するだなんて。 「仕事とわたし、どっちが大切なんですか」  ああほら、目の前の眉が困ったように落ちていく。君の方が大切に決まっているじゃないか、なんて、わたしの機嫌を取るために口先だけの言葉を吐けばいいものを、真面目なこの王はそんな嘘一つつけない。もちろん君のことが誰よりも大切だが私は夫であると同時に国王でもあるんだ──そんな返しを浮かべていて、けれどどうにかわたしに誤解されないよう、言い方を必死に考えている、と、きっとこんなところ。口にされなくったって、表情を見れば彼の考えていることなんて手に取るようにわかる。だって彼は、誰よりも大切なわたしの夫だから。  なんだかふくれているのも馬鹿らしくなって、ふと表情をゆるめる。もう、と。諦めの言葉をつけば、どこか子犬のようにも見える眸がわたしを映す。 「休日にたっくさん、埋め合わせしてもらいますからね」  結局、どこまでも弱いのだ、わたしも、彼も。 (どこまでも不器用で、どこまでもいとおしい夫に)  2017.7.24
 夫はえらくご機嫌ななめらしい。 「眠れない」 「そういうのはまぶたを閉じる努力をしてから言ってちょうだい」  鏡越しに正論を返してみれば、ベッドの背もたれに上体を預けた彼は子供みたいに頬をふくらませてみせる。昔から変わらないその様子に、自分の年齢も少しは考えて、なんて言葉を挟むのも諦めた。だって彼は、わたしの前ではいつだって、出逢ったころそのままの青年でしかないから。そんな、年齢ばかり重ねた青年は表情を変えようともせず、ぽんぽんと無言で自身の膝をたたく。 「もう少し、」 「待てない」 「辛抱ならない人ね」 「昔から我慢は苦手なんだ」  そんなことで国王が務まるのかと問いたいけれど、務まっているのだから不思議。などとこの国の行く末を案じている間にも、彼はわたしの後ろ姿を捉えて離さない。仕方ないわねと、ため息を一つ。櫛を置いて近付けば、ベッドまであと数歩というところで腕を引かれ、彼の胸の内にすっぽりと抱き留められた。梳いたばかりの髪に吐息が触れる。彼はこうして、わたしの髪に顔をうずめるのがすきみたい。安心するのだとは本人談。対してうずめられている側のわたしは、最初こそ途端に速まり出した鼓動を落ち着けるのに精一杯だったけど、いまでは慣れたもので、 「ひぁ、」 「随分と余裕そうじゃないか、イデュナ」  うなじを舐め取られた、と、思い至ったのは、二度目の感触に襲われてから。この暑さのせいで浮かんでいた汗の玉が、彼の舌に絡まっていく。かき分けた髪の裾を弄ぶ様子こそ子供じみているのに、その手つきはおおよそ子供とは呼べないそれ。首筋から、髪先から、聴覚から、与えられる刺激に目の前がちかちかとまたたき始める。 「暑いなら脱げばいいだろう?」  ちゅ、と。殊更に音を響かせながら、わたしの寝間着の紐をといていく。いつもであれば余計暑苦しいとその手をはたき落とすのに、すっかり力を奪われてしまった身体はただされるがままに目を閉じるだけ、それでもぴりぴりと迫る衝撃を逃すことはできなくて。 「…ね、アグナル」 「なんだい、イデュナ」 「―…明るいところは、きらいよ」 「御意のままに」  微笑む気配はどこか勝利に満ちていた。それにさえどうしようもなく体温を上げてしまう自身がいて、 『ママーっ!』  ばあん、と。室内が闇に支配されるよりも早く、扉を勢いよく開ける音とふたり分の呼び声が飛び込んできた。覚えのあるそれに慌てて絡む腕から抜け出し縋る身体を押し退け駆け寄ってみれば、小さな影たちがくしゃりと顔をゆがめていた。わたしを見上げるやいなや足に抱き付いてきたので、屈み込んで頭を撫でる。 「あの、ね、おばけ、」 「窓のそとに、すーって、おばけいたの」  口々に訴える声はかわいそうなほど震えている。きっと葉陰かなにかを見間違えたのだろう、今日は少し風が強いみたいだから。 「大丈夫よ、ママが一緒にいてあげるから」  本当はこの部屋で一緒に眠りについてあげるのが一番なのだろうけれど、一糸まとわぬ姿の父親の隣に潜り込ませるわけにはいかなかった。少しばかり安心したように表情を崩したふたりの手を引きつつちらと背後を窺ってみれば、子供がもうひとり。中断されて不本意ながらも、相手が娘たちなら仕方がない、なんて、きっとそんなところ。そんな夫にウインクを飛ばしてみせる。 「あなたは良い子にしててね」  これでしばらくは眠れないだろうから、ふたりが無事夢に帰ったら、彼を寝かしつけに戻ってあげよう。それがさっきの仕返しみたいで、ひとり頬をゆるめた。 (娘たちが早く眠ってくれたら、だけれど)  2017.7.30
 やわらかなソファに身体を横たえた妻のすぐ足下に、奴はいた。  彼女が異様に恐れるそれは、外でうるさく夏を鳴らしている仲間たちに呼応しようともせず、ただじっと、止まっている。  そんな現場を目撃してしまった私に与えられた選択肢は二つ。  すやすやと気持ちよさそうに眠る妻に身の危険を伝えるべく揺り起こすか、それとも彼女が目を覚ます前に元凶を追い払うか。  一つ目は一見簡単そうに思えるが、彼女の、奴に対する嫌悪感を知っている者にとってはなんにも容易ではない。足下にいるぞと声をかけた途端きっと般若もかくやと言わんばかりの表情を張り付け、城の者を総動員してこの小さきものを打ち倒すことだろう。ひょっとすると、外の仲間たちさえ根絶やしにしかねない。幼少の頃、虫取りに興じるたびに彼のものにお世話になっていた私からすれば心苦しい限りなので、この選択肢はひとまず保留だ。  とすればおのずと一つに絞られるのだが、これもなかなか難易度が高い。奴らの素早さは子供の頃すでに身を持って知っているのだ。それにいまの私は丸腰。捕まえられるとは到底思えない。騒ぎを聞き付けた妻が目覚めてしまう方が早いだろう。  私がこんなにも頭を悩ませているというのに、当の奴はうんともみんとも鳴かない。どうすれば妻に気付かれずこやつを、 「うう、ん……、…アグナル? どうしたの?」  あ。 (そうして響き渡った悲鳴に、私はただ、彼らの冥福を祈った)  2017.8.5
 昔々のその昔、お城の地下のそのまた深く、秘された部屋がぽつんと一つ。光も届かぬこの場所に、忌むべきものは追いやられ、ひっそりこっそり絶えました。 「──なんて言い伝え、いまどき子供だって怖がらないわよね」  口にしたのは強がり。だってそうでも鼓舞しなきゃ、もう立ってさえいられなかったから。落ち着いて、冷静に。整わない息のまま、経緯を整理する。  涼を求め、蝋燭片手に肝だめしだと夜中に部屋を抜け出して。少しばかり怖がっている様子の姉を引き連れ真っ暗な廊下を歩いていると自然、話もその方向へ。この城のどこかにあるという部屋の言い伝えを持ち出したのは姉の方だった。やけにはっきりとした口調で、とうとうと。姉の話に耳を傾けすぎていたせいか、自分たちがいまどこを歩いているのかまるでわからなくなってしまって―自身の生まれ育った場所でそんな事態、起こるはずがないのに―それでも姉の口も歩調も止まるところを知らなくて。  そうしてようやく落ち着いたのは、とある寂れた扉の目の前。引き返そうにも、背後にぴったりと佇む姉が許してくれなくて。  ただの、言い伝えよ、そうよ。  ノブを、回した。軋んだ音を立てる扉は、押してもいないのに勝手に開いていく、まるであたしを誘い込むみたいに。  本当に窓が一つもないのか、室内を照らすものは握った蝋燭一つだった。ぼうと浮かび上がるのは、羽毛の散らばる小さなベッドに、ひびの入った鏡台に、床に捨て置かれたおもちゃたち。生の気配なんて感じられるはずもないのに、まるでついさっきまで誰かが遊んでいたみたいで。 「ねえ、アナ」  音が、身体を縛る。 「言い伝えのこんな続きを、知っているかしら」  けれどその身が朽ち果てて、幾百年と経とうとも、怨み忘れず部屋に留まり、新たなこどもを待っています。  歌うようなその旋律に、背筋が音もなく凍っていくようだった。  もはや振り向くことさえできないあたしの顔を覗き込んだ“それ”は、大きな眸を細くほそく、笑みのかたちへ歪めていく。 「あ な た は な ん ば ん め の こ ど も か し ら ? 」 ( こどもを まっています )  2017.8.6
 妻の奇妙な行動も、これで五日目になる。  たとえば私と彼女しかいないはずの席に、もうふたり分の食器を用意させる。たとえば誰もいないはずの私の背後に向けて会釈する。たとえば私以外の誰かに向けて唐突に話を向ける、もちろん誰ひとり見えない方角へ。  痺れを切らしとうとう妻に尋ねたところ、だってあなたの傍にいるじゃないのと、至極当然だと言わんばかりの答えが一つ。  それ以上の質問をすることも出来ず、遂には呪術師の言葉を仰げば、私の傍らに亡き先王の影が見えるのだという。きっと先王があなた様を御守りくださっているのでしょう、そんな呪術師の見立てに、心に安堵が広がっていく。  若くして亡くなってもなお、私のことを見守ってくれているとは。妻もきっと、肖像画で覚えのある義父に精一杯のもてなしをしてくれていたのだろう。妊娠中は第六感が研ぎ澄まされると昔から伝えられてもいる、恐らくその類で、彼女には父の姿が見えているのだ。出来ることなら私ももう一度、在りし日の父にまみえたいものだが。  そんな話を妻に聞かせれば、彼女はふふと笑って、じゃあ、と。 「もうお一方は、あなたのお友達かしら?」 (君には一体誰がみえているんだ)  2017.8.7