三つ目の角を右に曲がれば部屋にたどり着くはずだったの。だというのに、どこでどう道を間違えてしまったのか、一向に覚えのある通路に行き着かなくて。  いくら探検好きだったといえど、幼い頭でこの広い城内を記憶するのは不可能よ。  その日はたしかみんな、パーティーかなにかの準備に駆り出されていて、辺りはしんと静まり返っていたわ。歩き疲れてくたくただったし、そのうえ誰もいない心細さに、もう泣いてしまいそうで。  そのときだったのよ、彼が手を差し伸べてくれたのは。  大丈夫ですかと、かけてくれた声はやわらかくて、だけど思いきり握った手は氷のようにつめたくて。私と一緒だ、なんて、その時は泣き出しそうなくらい嬉しかったけれど。  彼に惹かれるまま廊下を進んで、右へ、左へ、また右へ。  見上げてみても、随分と大きいからか表情は陰になっていて。いつ着くのか尋ねてみても、大丈夫ですよとしか返してくれなくて。  やがて見覚えのある部屋の前に行き着いた時の喜びは計り知れなかったわ。  ぴょんと飛び跳ねて走って、それから振り向いて。けれど彼はもう、どこかへ去ってしまっていたの。  そのまま合うこともなく、私もいつの間にか忘れていたんだけど、つい最近、偶然にも再会したの、私が迷っていたあの廊下で。  幼いころのおぼろな思い出なのにどうしてその人だと確信したのか、なんて、そんなの当然よ。  だってあの人同じように、彼の表情が窺えなかったから。  彼の顔なんて元々、なかったのだから。 (幼い日、親切だったあの『人』)  2017.8.8
「ごめんなさい、お母様、ごめんなさい」  娘の謝罪に嗚咽が混ざり始めたのは四回目の夜のこと。  わたしや夫のぬくもりをあれだけ拒んでいたこの子に、いまようやく触れていられるというのに、その甲に伝うのはただただ熱を持った雫ばかり。  ごめんなさい、と。あなたはなにも悪くない、誰も、なんにも罪を犯してはいないというのに。  泣かないでちょうだいと、口にしたはずの言葉はけれどかたちになることはなく。  代わりに、こぽこぽ、まるで水があふれていくみたいな音がひとつ、ふたつ。そのたび、娘の声が震える。  わたしはただ伝えたいだけなのに。あなたへの愛を。どれほど想っているか、どれほどあいしているのか。  ねえ、エルサ、 「お母さま…、どうか安らかに、天国へ…っ」  あいが伝わるまで、この夜から抜け出せないの、わたし。 (囚われたのは、)  2017.8.9
 わたしたちが生まれるよりももっとずっと前からここにある、おおきな振り子時計には、ふるくて、こわい話があるんだって、ゲルダが言ってた。  この時計は、時間とおなじだけ鐘を打つ。一時ならいっかい、二時ならにかい、みたいに。  夜の十二時、その音がぜんぶ鳴るのを聞いたら、こことはちがう、べつの世界につれていかれちゃうんだって。  なんて、ちいさな時はこわかった話も、いま聞けば、わたしを早く寝かしつけるためのつくり話なんだろうなと思う。わたしとおなじようにゲルダからその話を語り聞かされたアナは、きいてみたい!なんて目をきらきらさせて。  わたしもすこし、興味があった。うそか本当かたしかめたいっていうきもちと、夜おそくまで起きていたいってきもち。  きっとゲルダはだめですって言うだろうから、アナといっしょにママにお願いしてみた。  はじめは反対していたママだけど、話を聞くうちに面白そうだわってつぶやいて。ママはもともとお城の人じゃないって言ってたから、振り子時計の話を聞いたことがなかったのかもしれない。  ただしママもいっしょよ、って。  そうして十二時よりすこし前。  お月様の光しかない夜こそ、べつの世界に、わたしには見えた。アナとはしゃいでいたら、しずかにしなくちゃだめよって怒られて。  そうして、ぼーん、と。ひびいた音が、十二時をしらせる。  ぼーん、ふたつ目。アナが時計の前まで抜き足さし足しのび足。  ぼーん、みっつ目。こだまする音に耳をすませて。  ぼーん、よっつ目。ママがしゃがみこむ。  ぼーん、いつつ目。アナが振り子にあわせて揺れる。  ぼーん、むっつ目。あくびをかんだのはわたし。  ぼーん、ななつ目。いまなんこめー?って聞いたのはアナ。  ぼーん、やっつ目。八回目よって教えたのはママ。  ぼーん、ここのつ。耳がぼわぼわしてきた。  ぼーん、とう。アナが両方のゆびをぜんぶ曲げた。  ぼーん、じゅういち。ママがわたしたちの手をぎゅっとにぎった。  ぼーん、じゅうに。みんなでかたく目をとじた。  ぼーん、じゅうさん。  その音で、終わりだった。  べつの世界に来ているのかたしかめたくてこっそり目をあけたけど、もちろん時計も、ぼんやりとした夜も、隣にいるママもアナも、なんにもかわってなくて。  なーんだ、ってわらうわたしとアナのまん中で、ママだけが、そのくちびるを震わせてた。わたしたちの手を、ぎゅってして。 「どうしてこの時計、十三回も鳴ったの?」 (あの鐘を鳴らすのは、)  2017.8.10
 幼いころより探検冒険、とにかくわくわくすることが大好きだったあたしたちは、これまでにたくさんの謎を解いてきた。  謎、と言ったって、たとえば十三回鐘を鳴らす振り子時計だとか、誰もその場所を知らない秘密の部屋であったりと、子供だましみたいなものだかりだったけれど。それでもあたしたち姉妹にとっては解き甲斐のある難問ばかりだった。恐々ながらも噂の真偽を確認して、それがまったくの作り話であることがわかると、なあんだ、なんて、顔を見合わせて笑って。  ふたりならなんでも出来る気がしていた。エルサとふたりなら、なんだって怖くはなかった。 「それなら、ね、アナ、」  昔懐かしの話題に花を咲かせているところへ、ふ、と。口角をゆるめたエルサがあたしの名を呼ぶ。 「この最後の謎。あなたに解けるかしら」  エルサの声が頭にぼわぼわと響く、まるであたしの目の前にはいないみたいに。  どんな謎なの、そう返そうとしたのになぜだか言葉が紡げなくて、だけどエルサは察してくれたのか微笑みを深くして、ともすれば泣きだしてしまうように。 「──私が、」 「──…様、………アナ様!」  揺り起こされる感覚で、まぶたを開いた。  ぱちぱちとまたたきを数回、明瞭になった視界で、呆れて息をつくゲルダの姿が一つ。 「公務中に居眠りとは、まったく」  いつの間に眠ってしまっていたのだろう、気付けば執務机の目の前にいて。さっきまで顔を合わせていた姉がどこにも見当たらなくて。  一体全体どこに行ってしまったのだろう、それともあたしは単に夢を見ていただけなのか。 「女王に就任されたばかりでこれでは、先が思いやられますわ」  やれやれと肩を竦めるゲルダが、机に散らばった書類をまとめて、 「…え? いま、女王、って」 「あなた以外に誰がおられますか、アナ女王陛下」 「ちょっとちょっと、冗談言わないでよ、だって女王は、」  女王は。あたしではなく姉さんであるはずで。けれどその姉の名前がどうしたって思い出せなくて。あたしの姉は。いまにも消えてしまいそうな笑顔を浮かべるあの姉は。  記憶が薄れていく、名前から、声から、姿から。彼女は誰であったのか。あたしが生まれたそのときから、喜びも悲しみも愛も共にしたはずのあの人は。  そうしてただ一つ、彼女が最期に残した言葉だけが消えなくて。 『私が、だれなのか』 (こんなにもあたしの胸を締め付ける、あなたは)  2017.8.12
 こわいわけじゃ、ない。  ただおなかの底がぎゅっとなって、背筋が震えて、つま先がこわばってしまうだけ。しゃがみ込んだのは立っているのに疲れただけで、毛布を頭からすっぽり被っているのは寒いだけで。  決して、けっしてこわいわけじゃ、  ──ガラガラガラ、 「っ、ゃ、」  前触れの光、そして、地鳴りにも似た音。途端におなかの底がぎゅっとなって背筋が震えてつま先がこわばって、悲鳴になり損ねた声がのどから洩れる。  きっとこのあと、遅れた破裂音がやってくるはず、知ってはいても耐えられるはずはなくて。  毛布をますます頭に押しつける、少しでも和らげたくて。そうして眸をかたく閉ざして、どうか早く去ってくれますようにと誰にともなく祈りを捧げて。  ふ、と。重なったぬくもりはちょうど両耳のあたり、まるですべての音からわたしを隔絶するみたいに。このぬくもりを、わたしはよく知っている。  アグナル。  呟いた名前は、わたしの耳には届かなかった。びりびりと足を伝ってきた衝撃に一度身を固めて、それから恐る恐る振り返れば、やっぱり。やわらかく笑んだその表情に少しばかりでなく安心を覚えてしまったのがとても、悔しい。  もうこわくないですよーだ。  憎まれ口を一つ。もう一つ重ねる前にまた、部屋が怪しく照らされて、文句も紡げず毛布に引きこもる。その上からわたしを抱きしめた彼は頭をぽんぽんと撫で、額を合わせて。  大丈夫、私がついているから。  彼の口はたしかに、そう動いていた。  光がまた一つ、今度は世界から逃げはしなくて。ただじ、と。わたしをやさしくとかしこんだ眸を見つめていた。  雷はまだ、そこに。 (こわいわけじゃ、ないけれど。それでももう少しだけ腕の中で)  2017.8.19
 こんな寒さだというのに、妹の手はやわらかなぬくもりを持っていた。 「よ、っと、ほっ」 「ほらアナ、また右足が疎かよ」  右、左、また左。はじめはまばらだった足の出し方も、段々と揃い始めてきた。短時間でここまで上達するなんて、やはり元の運動能力が高いのだろう。  もうすぐ私の役目もなくなってしまうのかと、そう思うと少し、さみしいけれど。 「エルサ、」  そ、と。握りしめられた手に、顔を上げる。  鼻の頭を染め上げた妹がにかりと笑って、ほら早く、だなんて。 「まだまだエルサがいてくれなきゃだめなんだから、あたし!」 「…もう。早くひとりで滑れるようになりなさい」  そうこぼしながらも、指先はつないだまま。 (叶うならいつまででも、なんて)  2017.9.3
 騎士みたいだと、思った。 「見ててね!」  それはまるで、とっておきの秘密を打ち明けるいつかの私みたいに。  身長の半分はあろうかという剣を右へ左へ、八の字を描くように軌跡を残し、豪快に、袈裟斬り。そうして再び鞘に戻し、得意満面に仰いできた妹に、私はただただ見惚れていた。  危ないわよ、怪我でもしたらどうするのと宥めるのが、姉としてあるべき姿のはずなのに、それさえも忘れて。 「これでエルサのこと、守れるから」  実の妹がかっこよく見えた、なんて。 (お伽噺の中の王子さま、みたいで)  2017.9.3
 海が好きな人だった。  穏やかな海岸をただのんびりと歩いて、はるか水平線をまぶしそうに見つめ、いまにも波間に消えていきそうな、そんな人だった。 「…結局、一緒に来れなかったね、一度も」  約束をした、いくつも、いくつも、数えきれないくらい。その一つだって叶ったことはないけれど、それでもわたしは、あなたと交わすことが好きだった。いつか絶対にと笑う、あなたの表情が好きだった。  サンダルを脱ぎ捨て、ひたり、足をひたす。  指先を冷やしていくそれに、ああ、あなたがいてくれたらと。  どう願ったってぬくもりの与えられないわたしはまた、涙で頬を濡らした。 (いっそこのまま沈んであなたの元へ、)  2017.9.3
 こどもの体温はどうしてこうも心地良いのか。 「プロデューサー、もふもふしてやがりますよ!」  おなか辺りにダイブしてきた少女は、私の首に抱き付きもさもさと顔をうずめている。 「そんなに寄ると、顔が毛だらけになってしまうよ」 「だいじょーぶ!」  元気に答えた少女はけれどふと、身体を離し、小さな顔を不安でいっぱいにして見上げてくる。 「プロデューサーは、仁奈がくっつくと、いやでごぜーますか?」  ともすれば泣きだしてしまいそうなそのこどもの背をやわらかく撫で、引き寄せた。 「いいや、嬉しいよ。仁奈はあたたかいから」  微笑んでみせると、ようやく表情を和らげた少女がぎゅうと、先ほどよりも強く抱き付いてきた。  寝息が聞こえ始めるのは、それからすぐのこと。 (シロクマPと仁奈ちゃん)  2017.9.3
 我輩は猫である。名前はまだ無い。無いというのはつまり固定された名が無いということで、人間たちが各々好きなように呼んでいるというわけで。  そう、我輩はいわゆる野良猫だ。  そんな我輩は最近、とある人間のベランダによく足を向けてやっている。  女は我輩に名前をつけず、ただ「ねこちゃん」と呼んでいる。理由はわからないが、差し出された手にすり寄ると嬉しそうに笑うので、特別に毎日通ってあげている。  けれどある夜、女の姿がなかった。別れなどよくあることだ、さみしくはない。  それでもなぜか足が動かず横になっていると、よく知っている手が触れてきた。 「君も住めるアパートに引っ越したんだけど、一緒に来るかい、ねこちゃん」 (差し出された手に同意をこめてすり寄る我輩であった)  2017.9.3