「モーラ!」
ようやく聞こえた、待ち望んでいた声が。
遺体の胃を解剖していたメスを置き、手を洗ったところで声の主が現れる。えらく憤慨したその様子に、どうしたのという風に首を傾げてみせた。
「また男を連れ込んだでしょ、昨日!」
「なんの事よ」
「しらばっくれても無駄よ、ママが見てたんだから」
腰に両手を当て息をついたジェーンは、まったくあんたは次から次へ、だとか、いっそ監視カメラでも設置しようかしらなどと呟く。
そんな彼女を見上げ、一言。
「どうしてジェーンがそんなに怒るの?」
「どうして、って、それは…」
それっきりばつの悪そうに押し黙ってしまった彼女に、これ以上堪えきれなくて笑った。
(あなたのその表情が見たくて、なんて言ったら、また怒られちゃうかしら)
2017.9.3
「…で?」
「ん?」
なあに、とでも言いたそうに傾げられたその整いすぎた顔に、思わず思考が止まる。いい加減見慣れたはずなのに、こうも至近距離だとそりゃあ見惚れもしてしまって。
「ん、じゃなくて。なんで膝に乗ってんの」
「署のPRポスター撮影のためじゃない」
「膝に乗る必要があるのかって聞いてるの」
「ああ、そんなこと」
尋ねてみれば、ようやく合点のいったモーラが当然だと言わんばかりにカメラを方を見て、
「私が乗りたかったから」
「ああそう。………は?」
疑問符を浮かべるあたしに構わず、シャッターが切られた。
(この女は本当なに考えてるかわかんない)
2017.9.3
まさか自身が想像し得る以上の辱めを受ける日が来るだなんて。
「だめです…、だめです…!」
「いいから怪我人は大人しくしてて」
いくらか年下の新しい城主は、私の服の裾を掴んで離さない。か細い身体の一体どこにそんな力があるというのか。いいえそんなことよりいまは、自分の服を守るのに必死で。
決死の攻防を繰り広げていると、やがて年若い城主はしゅんと表情を落としてしまった。
「わたし、ダニエラさんのこと傷つけたから。だからせめて、手当てでもしたくて…」
「お嬢様…」
我を忘れ、傷を負わせたのは私の方だというのに。どこまで優しいのだろう、彼女は。
「だから早く服脱いで」
「いや、あの、あっ」
(城主とメイドさん)
2017.9.3
閃光、遅れて破裂音が、鼓膜を震わせる。
「もう、夏も終わっちゃうね」
色に彩られた横顔が呟いた言葉に、さみしさが満ちていく。彼女との夏が終わってしまうということはつまり、この横顔を見れなくなってしまうということで。わたしを呼ぶ声も、そっと重ねてくる指の冷たさも、なにもかも、遠のいてしまうということで。
「…あの、」
言わなくちゃ、早く、あなたともっと一緒にいたいと。またこうして隣で花火を見ていたいのだと、早く、はやく。
「また、」
火花が、落ちる。
「見ようね、一緒に」
ようやく向けられた言葉に、表情に。涙をこぼしたわたしはただ深く、頷いた。
(夏の終わりと花火とあなた)
2017.9.3
「最低です」
「ま、待ってくれ、イデュナ!」
私の言葉を聞く耳など持たず、妻は先へ先へと歩みを進めていってしまう。その背中は確かに怒りを露わにしていて。
「誤解だよ、イデュナ、どうか話を、」
「ならどうして、」
くるり、振り向いた頬が子供のようにぷくりとふくれている様がかわいらしくて。
「どうしてあの女性に見惚れていたの」
「…それは、」
件の女性が、君によく似ていたから、なんて。言い出せず頬を染める私に息をついた彼女が、もう知りませんとまた、背を向けた。
(君の方が美しいけれど、なんて、)
2017.9.3
この子の明確な怒りを見たのは、はじめてかもしれない。
「もういいよ」
突き放すというより、諦めた風に。ふいと背中を向けた鞠莉さんはそのまま歩き去ってしまおうとする。
嫌いなわけではない、ただ、こわかった。私から触れたとして、拒絶されることが、とても。そんなことをする人ではないとわかっていながらそれでも臆病な私は一歩踏み出せなくて。
「鞠莉さんっ、」
けれど今はただ、夢中で。彼女から離れたくないと、その一心で腕の内に閉じ込める。
「―…やっと、してくれた」
ひそやかに、彼女が笑った。
(ダイヤさんと鞠莉)
2017.9.3
「んー、おいしい!」
「ほんと? よかった」
私のなんの捻りもない感想にも嬉しそうに顔を綻ばせてくれる彼女のなんとかわいらしいこと。もっとたくさんの言葉で褒めてあげられたらいいんだろうけど、それよりも食べることに忙しかった。
「もっと凝ったもの作れたらよかったんだけど」
肩を落としてそんなことを言う彼女に慌てて首を振る。彼女の作ってくれたものだったらなんだっておいしいということに、一体いつ気づいてくれるんだろう。私のために作ってくれたものがおいしくないわけないのに。
「世界一おいしいよ」
「大袈裟だなあ」
(あなたのあいは、なんでも)
2017.9.3
目の前にありありと浮かぶようだった。
しんと佇む美術館、色とりどりのネオンが輝く街並み、そうしてひとり顔を綻ばせる彼女の姿。まだ足を踏み入れたことのない異国の土産話はカラフルで、けれどその世界にわたしはいなくて。
「わたしも。いつか行ってみたいな、あなたと」
浮かんだ心を素直に吐いても、あなたは曖昧に微笑むだけだった。
(いってみたいな、よその国)
2017.9.3
駆ける君を見るのが、好きだった。
遊園地という一つの小さな世界に眸を輝かせる君をレンズ越しに覗き、よく変わる表情の一瞬と切り取る、その瞬間がなによりもいとおしくて。
「写真ばっかり撮ってないで、ほら!」
「わ、わっ」
ぐいと、引かれた手から伝わるぬくもりに鼓動が速度を上げていく。振り返った君が、いままで映してきたどんな表情よりもまぶしい笑顔を浮かべて、
「わたし、あなたと一緒にいたいんだから!」
(in 夢の国)
2017.9.3
ついに、と。自然、心が躍る。ついに今年も、この時期がやってきたと。ヴェネチアを模したこの小さな世界が、こうもりとパンプキンで妖しく飾り付けられる季節。わたくしたちが人間たちをこちら側に引き入れる日々が、今年も。
「──ヴェール!」
背中に投げかけられた名前に知らず、肩が跳ねる。一年前となにも変わってはいない、凛と空気を震わす音も、かつかつと規則的に鳴らされる足音も、そうして目の前に回り込み顔を覗き込んできたその眸の輝きも、なにもかも。
「久しいな、ヴェール、元気にしていたか」
喜々としてかけられる質問に同じく喜んで答えようとして、けれどこれまでの彼女の所業を思い出し頬をふくらませる。きょとんと、見当がついていない風の彼女は首を傾げるばかり。
「どうした、ワニでも見たような顔をして」
「そんな顔していません!」
「ならどうして、」
「あなたが悪いんですわ!」
言葉に怒気を孕ませれば、わたくしより幾分か背丈の小さい彼女はますます身を縮ませた。なぜだと、その目が訴えかけている。
なぜ、だなんて。全部ぜんぶ、あなたが悪いのに。
「だってあなた、この一年間お手紙をくださらなかったでしょう、一度も! わたくしは何度も書きましたのに、ただの一度だって」
「ヴェール、その、それは、な、」
つかつか詰め寄れば、なんともばつの悪そうな表情で頬をかいている。そうして視線をさまよわせ、恐る恐るこちらを窺い、すまないと一言。
「こわかったんだ。…手紙を書いてしまったら、君のことを考えてしまったら、すぐにでも会いに行きたくなりそうで。だって君からの手紙を読んだだけでこんなにも、顔が見たくなった。君はなにをしているのか、どんな気持ちでこれを書いていたのか、…そう思うだけでこんなにも、君を抱きしめたくなった、から」
随分と饒舌なのは、文に言葉を託さなかったからだろうか。ぽろぽろ、ぽろぽろ、想いをこぼしながら、わたくしを抱きしめる。少しばかり強い力に文句もなにもかも押し留められてしまい、代わりに浮かんだ苦笑とともに抱きしめ返した。
「まったく、あなたってかたは…」
「すまない」
「もう謝らないで、わかりましたから」
あなたの想いはじゅうぶん、伝わりましたから。だってわたくしと同じものだったから。どれだけ会いたかったか、どれだけこうして触れたかったか。あふれんばかりの心を押し込めただなんでもない日常を書き綴っていた自身と同じだったから。
ようやく腕の力をゆるめた彼女は、額をわたくしのそれに重ねる。至近距離でゆるり、いつもの笑みをかたち作った眸がただわたくしだけをとかしこむ。
「じゃあ、行こうか、ヴェール」
「ええ、──ホックさん」
はじまりの合図は口づけとともに。
(わたくしたちのハロウィンが、はじまる)
2017.9.12