陽射しのやわらかな朝だった。
光に促されまぶたを開けば、最初に視界に入ったのは覚えのある輪郭。またたきを一つ、二つ。世界が明瞭になるにつれ、くっきりとかたちを持ち始めたその人に自然、微笑みが上る。
──私が誰よりも先にお祝いの言葉をあげるわ
昨夜の彼女は、どこか嬉しそうにそんなことを言っていた。だというのに日付が変わる前に眸を閉ざしてしまっていて。拍子抜けしつつも、あどけない寝顔がプレゼントだと思えばいいかと苦笑し、同じく眠りについたんだけど。
ふと。いつの間にか繋ぎ合わせていた手のひらに違和感を覚えた。彼女を起こしてしまわないようそっと指をほどいたら、銀色の指輪が一つ、陽を受けてきらきら輝いていた。
呆気に取られて声も出ないところへまた、ぎゅ、と。握りこまれた手に視線を上げれば、得意そうに口元を綻ばせたその人が、眸にわたしだけをとかしこんでいて。
「──お誕生日、おめでとう」
(どうかどうか、最高のバースデーを)
2017.11.4
今年もこの季節がやってきた。ちらちらと、上空から真っ白な結晶が、地上を目指し身を落としていく。私が作り出したものではない、自然の雪。どこかあたたかなそれが、額に、頬に、腕に、触れてはかたちを無くしていく。
「ねえ、エルサ、見て!」
上がった声の方向へ視線を移せば、両の手のひらを揃えたアナが空へと掲げていた。その格好のままくるりとターンしてみせた妹は、えへへ、と。寒さで真っ赤になった頬をゆるめ、楽しそうに笑う。
なにがそんなに彼女を喜ばせているのかわからないけれど、それでも私まで心が躍ってくるようなその笑顔に自然、自身の口元にも同じそれが上る。
「この雪、なんだかあったかいわ」
「私もいま、同じことを考えていたの」
告げれば、妹の笑みがさらに深くなる。ジンクスアゲイン、と。小さなくちびるがささやいて。
どこからか陽気な音楽が流れ始める。楽しいパレードのはじまりに、街道に集まった人たちにもアナと同じ感情が広がっていく。この瞬間が一番好きだった。
音楽に身を任せタップを踏み出したアナは、そうして私の両手を取る。自分のものでない体温が伝わる。
「まるでエルサみたいね!」
(エルサみたいにあたたかな雪だと、妹は笑った)
2017.11.7
パーーー、と。けたたましいクラクションが響きわたる。
「ほら、モーラ! 鳴らされてるじゃん! 早く歩いて!」
「なら目的を教えなさい!」
往来のど真ん中だというのに足を踏ん張り、私に引きずられまいと抵抗している検視官さまは、右の手首を掲げてみせる。当然のことながら私の左手も持ち上がって。真っ白な手首には、不釣合いな鈍色を放つ手錠がはめられていた。
いや、はめたのは私なんだけど。言えるわけないじゃない、あんたの喜ぶ顔が見たくて高いホテルを予約したから一緒に来て、だなんて。誘い出す口実が一つも浮かんでくれなくて。仕事中はあれだけ機転の利く頭は、いまばかりは役立たずだった。
口より先に手が出るのは悪い癖。咄嗟に手錠をかけ、ぽかんと見つめてくるモーラの視線や一切合切を無視し、もうなるようになれと署を飛び出し。
そしてこの有様。
「ああっ、もう!」
片手でぐしゃりを髪をかき、そのままモーラを担ぎ上げる。ずしりとした重みが肩にかかる。
「あんた、また太った?」
「行動の意図が掴めない上に失礼極まりないわね、ジェーン、ビタミン足りてるの?」
肩の上の子どとはシャットアウトし、目的地へと足早に駆けた。
(担ぎ上げたその人はけれどどこか楽しそうでもあって、)
2017.11.7
「デルフィーヌ、」
わたしを呼ぶ声がすき。やさしく毛先をさらっていく指先がすき。意外とやわらかなくちびるも、わたしをすっぽりと包んでしまう腕も、わたしのそれに絡めてくる足も、真実を口にするときはうんと澄む眸も、
「デルフィーヌ」
思考に沈み込む前に、声が、引き留めてくる。
顔を持ち上げれば、くちびるを狙い定めていたロレーンがすかさず重ねてきて。突然のことに、頬にさっと熱が走っていく。こういうことを簡単にできてしまうところもすき、だけど、いつまで経っても慣れない。
恥ずかしさをこらえて見つめ返せば、色の薄い眸が窺うみたいに覗きこんでくる。
「私といるっていうのに、なにをぼーっと考えてるのよ」
落とされた子供みたいなそれに、上ってきた笑みを必死で噛み殺す、だってきっと、ロレーンが怒ってしまうから。
予想通り、隠しきれなかった笑顔を見咎めた彼女がじとりと睨み据えてくる。そんなかわいらしい人の頬を挟み込み、もう抑える必要のなくなった表情を向けた。
「そんなの、ロレーンのことに決まってるじゃない」
(だってわたしはいつだってあなたのことを、)
2017.11.7
口の端からこぼれる吐息ひとう逃したくなくて、もっと、と、求めた。
「っ、エル、」
名前なんか呼ばせない、そんな余裕さえ与えない、もっともっと、私のことで頭がいっぱいになってしまえばいい。次から次へとあふれてくる薄汚れた感情に忠実なくちびるが、妹の無垢なくちびるを暴いていく。歯列をなぞって、強引に舌を探り当て、引き込んで。
あるいは噛まれてもいいとさえ思っていた。誰よりもあいしている妹に舌を噛みちぎられるのならそれも本望だと。けれどやさしすぎる彼女は私が傷付くような真似はしない。私は彼女を傷付けているというのに。そんな心ひとつにも、果てのないいとおしさがこみ上げて。ごめんなさいと、呟くのは喉の奥でだけ。
強引さとは裏腹にやさしく頬を撫でる。涙がにじんだそこは、凍えた私の指には熱すぎた。
(あなたを傷付けていることにさえ、私はこんなにも、)
2017.11.7
この人の眸を至近距離で見つめたのは随分と久しぶりのこと。
「…どういうつもり?」
「なにがでしょうか」
あくまでしらを切れば、またぐいと距離を詰められる。壁に背中を押しつけられているせいか息が苦しいけど、それさえもいまは心地よく感じてしまって。
あごを持ち上げ、眸を真正面から覗きこむ。怒りのにじんだその中にあるはずの別の色を見つけたくて。
「こんなものを残して、」
彼女が掲げたのは、覚えのある紙。わたしが彼女に宛てた手紙だった。つい今朝がた、枕元にひそめてきたんだけど、こんなに早く発見してくれるだなんて。
「娘たちに先に見つかりでもしたらどうするの…!」
見えた。彼女が懸命に押し隠している、別の、色。
「だって最近、マダムがあんまりにも構ってくれないから」
甘えた風に声を寄せる、途端、それまで怒気を孕んでいたはずの眸がぐらりとゆらめいた。その隙に、わたしの手首を捕らえていた指を押し戻し、絡め取って。視線を逸らすのも許さず、ぐ、と。縮めた距離に、いとおしさがこみ上げる。
「それで、どうでしたか、私の恋文は」
(わたしはやっぱり、あなたの近くがいちばん、)
2017.11.7
今日も今日とて事務所は騒がしい。
「ときこさまのまねー!」
「あっ、それあたしもできるよ! ほら!」
目の前で繰り広げられている茶番についに我慢がきかなくなり、ばたんと乱暴に本を閉じる。音につられて、ふたり分の視線が向けられるも込められているのは畏怖ではなく喜びにきらきら光るそれ。純粋な眸に一瞬たじろぐも、気を持ち直し、
「誰の許可を得て私の真似をしてるのよ」
「きょかがないと、まねしちゃいけねーでごぜーますか…?」
持ち直したはず、なのに。
それまで法子とはしゃいでいたことが嘘みたいにしゅんと表情を落とした仁奈に、知らず心が揺らぐ。いつも被っているフードの耳も心なしか、しょんぼりと下がっているように見えた。
いいよって言ってあげてよ、と法子がこそっと耳打ちしてくる。わかっているわよ、それくらい。
ごほん、と。わざとらしく吐いた咳は自分を誤魔化すため。
「まあ、許してやらないこともないわよ、たまになら」
途端、ぱあと輝いた目の前の無邪気な顔につられてしまいそうになった頬を全力で押し留める。私の抵抗に目ざとく反応した法子が、なぜだか嬉しそうに笑っていた。
(この子たちといると本当、調子が狂う)
2017.11.7
燃え盛る炎のようだと、思った。
若さに任せて勢いを増すそれは苛烈で、激しくて。ともすれば焦がされてしまいそうなほど。近付けばやけどを負わされるかもしれないというのにこんなにも、惹かれてやまなくて。
「…ロレーンも詩人になったら?」
「私はあなたほど才能がないわよ」
漆黒の髪先を指でいじりながらそう返せば、首元に収まっていたその子はどこかふてくされた顔を上げる。その頬が染まっているように見えるのは室内のネオンのせいか、それとも。
「だって。さっきの言葉、まるで恋に浮かされた人みたい」
ぶつくさと文句のように言葉を紡ぐのはきっと恥ずかしさを無理に隠しているからだろう。長くはない付き合いだけれど、そのくらいは察しがつく。この子は嘘が上手ではないから。
「―…まるでもなにも、」
俯いていこうとするあごをすくい上げ、まっすぐな眸と相対する。真正面から見据えたそれは動揺してはいるもののいつだって、透き通っていて。こんなにも穢れに満ちた私さえ、まっさらに映してくれて。
「私はあなたに恋をしているもの」
くちびるをさらえば、頬にたしかな色が走った。
(私に燃えるような愛の色を教えてくれたのは、)
2017.11.7
「つまり太ったの?」
「あんたは言葉をオブラートに包めないの?」
こめかみに長い指を当てたジェーンが深い息をつく。だって話を要約すればそういう結論なのに、呆れられる意味がわからない。
彼女が言うにはここ最近はいつになく平和で、のどかな気温にトレーニングをする気力も持っていかれ、追う事件がないというある種のストレスを食で発散し、そうして気付けば身体が重いと。
ほら、やっぱり太ったってことじゃないの。
「…まあ、そういうことだからしばらくは、」
「わたしが上になればいいってことね」
わたしの提案に、遮られたジェーンはぽかんと口を開けたまま。やがて合点がいったのか、純情な乙女みたいに頬を染め、周囲に視線を巡らせた。そんなに注意を向けなくたって、誰も聞いていないわよ。
「つぶれちゃうのは嫌だもの」
「そうじゃなくて、」
「大丈夫よ、ジェーンの動きは完璧に覚えてるから」
「モーラ!」
彼女が伸ばしてきた手をひらりと避けて。だって久しぶりだもの、わたしがあなたを翻弄するだなんて。さっそく楽しみになってきた夜を待ち望みながら、コーヒーを飲み干した。
(だって普通の運動に付き合うだけじゃつまらないじゃない)
2017.11.7
うーん、と。伸びとともに上げた声は、どこまでも澄んだ空に吸い込まれていった。
天気は快晴。絶好のピクニック日和。ゲルダにお弁当を用意してもらったあたしたちは、仕事もなにもかも放り出し、馬が走るに任せてここへやってきた。名前も知らないこの草原を風が吹きわたるたび、公務で疲弊した心がさらわれていくよう。
いや、あたしよりも、隣で同じように両腕を伸ばしているエルサの方がうんと疲れているんだろうけど。
こんな季節だというのにぬくもりを孕んだ風は、食後の眠気まで運んでくる。ふわあと、王女にあるまじき大口を空けて欠伸をしても、小言を向けてくる侍女は誰ひとりいない。この広い場所で、あたしとエルサ、ふたりきり。姉妹だけの空間だなんて、なんだか久しぶりのような気がした。
「ねえ、アナ」
「なあに」
「私のため、でしょう?」
ふたりでピクニックに行っていいかと許可を取ったのも、外出できるよう書類の片付けを手伝ったのも、朝に弱いあたしが早起きをしたのも、ぜんぶぜんぶ、
「…あたしはただ、姉さんとふたりで過ごしたかっただけよ」
見透かされていた恥ずかしさに目を閉じれば、ありがとうという言葉とともに、頬に熱が触れた。
(だってもっと、エルサと一緒にいたかったから)
2017.11.7