その横顔があまりにもきれいだったから──言い訳じみた口調で、彼はそうこぼした。  日の出を見に行こうと、誘ってきたのはアグナルだった。この国を照らす最初の光を君に見せたいんだと。朝焼けの魅力を語る彼の表情こそきらきら眩しく輝いていたことを、ついに言えなかったけれど。だって指摘してしまえば、真面目すぎる彼のことだからすぐ、子供みたいな面を内に隠してしまうだろうから。だからあの表情は、わたしだけのひみつ。  そうしてふたり、動物さえ寝静まっている時間から城を抜け出し、眠気と闘いながら馬の背で揺られ。  辿り着いた丘からは、ひっそり静まり返ったアレンデールが一望できた。人の気配のまばらな光景はどこか幻想的で、なによりこの場所にわたしとアグナルふたりきりだという状況に胸が弾んで。さっきまであんなにわたしを苦しめていた眠気さえもどこかに吹き飛んでしまって。  空を見つめ朝日を待つわたしを、けれど隣に腰かけていた彼は引き寄せ、顔を自身の方へ向けさせ、長い口づけを一つ、二つ、あとは数えきれないほどたくさん。 「…もう。昇っちゃったじゃない、朝日」  頬をふくらませてみせるも、ゆるんだ口元までは隠しきれなかった。 (朝日よりもあなたの表情の方がわたしにはよほど、)  2017.11.7
 足下でじゃれついているその子をはじめて見た。 「あら、」  ついいましがた城に迷い込んできたのだろうか、よく庭でひなたぼっこに興じている猫の中では見かけない毛並みだ。人慣れしているのか、足に顔をすり付ける仕草には迷いがない。  かわいらしいその様子に屈み込み、思わず上半身を抱き上げる。両の前足を浮かせた状態になったその子は、にゃあお、と。不思議と、どこかで聞いたことのあるような声色。 「あなたはどこから来たのかしら?」  その子がさっきまでしていたのと同じように、額に額をこすり合わせ、通じないとわかっていながら問いかける。  にゃあご、とまた、一声。  首にかけられた金色のペンダントには、名前らしき綴りが刻印されていて、 「──『アナ』?」  見知った響きは、妹と同じもの。  さ、と予感が走る。そういえば朝から妹の姿を見かけていないし、目の前で前足を上げたこの子の眸も鳴き声もまたたきの仕方も妹にそっくりで。 「…アナ?」  にゃあ、と。目の前の猫が返事をするみたいに、鳴いた。 (猫になった妹が元の姿にもどるのはまた別のお話)  2017.11.7
「…かわいい」 「やめて」  思わず洩れた感想にすかさず拒絶が返ってくる。やめてと言われてもやめられるはずがない、だって、ロレーンの頭からやわらかな獣耳が生えているんだから。  まっしろな髪の合間から、まっしろな両の耳が、天を目指すみたいにぴんと立っている。もふもふとしたそれは犬のそれというよりむしろ、 「オオカミ、みたい」  そう、彼女のような孤高のオオカミ。わたしの推量に応えるみたいに、目の前の耳がふよふよと動いて。うん、やっぱりかわいい以外の形容詞が浮かばない。 「だから触らないでって、」 「そのわりに、嬉しそうに振ってるけど。しっぽ」  彼女に生えたのが耳だけなら隠し通せたものを、ゆるゆると背後で揺らめいているしっぽまであっては、いくら凄腕の諜報員といえど嘘を貫けなくて。  そっぽを向いたロレーンの耳がしょぼんと、気落ちしたみたいに垂れた。 (そんな姿ひとつにだって愛らしさしかなくて)  2017.11.8
 あるいは彼女だけの呼称だからこそ、嬉しいのかもしれない。 「ルールーぅ…」  我ながら情けない声だとは思う。思うけども心情につられるのは仕方のないことで。名前の持ち主はといえば、すがりつこうとするオレの腕をするりとかわし、呆れ返った視線を投げてくる。この視線を受け止めるのも慣れたものだ。相変わらず心にはぐさぐさ刺さるけども。 「ル、」 「しつこいわよ。呼ばないってば」  ついには終わりまで口にするのも待たず、拒否を返される。あんまりにもあんまりだ。馬鹿の一つ覚えみたいに毎日、同じお願いを繰り返しているオレもあんまりだけど、それはそれ。だってオレは聞いてみたかった、ルールーの口から、少年以外の呼称を。  だけども彼女はくちびるを引いて。 「だって、少年って呼ばれるのも好き、なんでしょ?」  どこか楽しそうなその口調に、ぐうの音も出ず今日もまた、口を閉ざす。堪えきれなくなったルールーがくすくす、かわいらしく笑みをこぼした。 (ぜんぶお見通しだなんて、ずるいッスよ)  2017.11.8
「──にげよう、とは、思わないの?」  どうして、と。なによりも雄弁に語る眸が問いかけてくる。彼女はいつもまっすぐだ、眩しすぎるくらいに。そのひたむきさに惹かれて、けれどいまはこんなにも、苦しくて。  組み敷いたジェーンの首筋をなぞる。 「わたしは、犯罪者の血を引いてるのに」  たとえばいま、この首に両手を回せば。わたしだけのものにしたいが為に、彼女の呼吸を永遠に止めてしまったら。そんなことを、この人は考えないのだろうか。わたしの思考の隅にはいつも、それが居座っている。彼女が愛を囁いてくれたときはいつだって、頭をもたげてくる。いつかわたしは、彼女のころしてしまうのではないかと。 「わたしと一緒でない方がきっと、あなたはしあわせなのに」  洩らした言葉を遮るように、ひたりと腕が伸びて、頬をさする、流してもいない涙を拭うように。 「しあわせかどうかは、私が決めるわ」 (ああ、この人はどこまでもまっすぐで、やさしくて、)  2017.11.8
「ルーニー!」 「なに、…わわっ、」  かけられた言葉に振り向くよりも早く、背中に重みがのしかかる。わたしより幾分か高い体温がしとしとと、身体に馴染んでいくようで。その心地よさに一瞬、眸を閉ざす。 「どうしたんですか、ケイト」  ともすれば夢ではないかと、現実を疑ってしまいそうになる。ずっと憧れていた、スクリーンの内側の世界の住人だったその人が、いままさに、わたしに触れているなんて。いとおしさをにじませて、わたしの名を紡いでくれているだなんて。 「いいえ、ただ、」  耳にくちびるを寄せた彼女はそうしてひっそり囁く、とっておきの内緒ごとを打ち明ける子供みたいに。 「あなたのぬくもりが恋しくなっちゃって」 (誰よりもあたたかいのはあなたの方だというのに)  2017.11.8
 この子はよく泣く。  涙を流すのはいいことだ。身体の外に排出するだけで気持ちが落ち着くし、なによりまだ、引き返せるという証拠だから。悲しむほどの心をまだ、持っているということだから。 「ロレーンは泣かないの…?」 「泣けないの」  いつからだろう、雫が落ちなくなったのは。どうしてだろう、痛みを感じないふりをし始めたのは。心なんてないと思い込んだ方が、自分はもうまっとうな人ではないのだと信じ込んだ方がずっと、生きやすいから。悲しみにはもう、耐えられそうもないから。  ふ、と。デルフィーヌが笑う、涙の跡を残したまま。私より幾分も若いのに時折、年齢を重ねた表情を見せることがあって。 「泣いてもいいのよ、わたしの前では」  やわらかな眸がそう、言葉を乗せて。 「―…いつからそんな生意気が言えるようになったのかしら」  憎まれ口を叩きながらも今日は大人しく抱き寄せられてあげよう、この子が望むから、仕方なく。自分自身に言い聞かせながらすっぽり、もうすっかり馴染んだぬくもりに包まれる。  至近距離で見つめた眸がにじんで見えなくなったのは、気のせいだということにした。 (泣いているわけじゃない。泣いているわけじゃ、ない)  2017.11.11
 なにかほしいものはないのかと。それは唐突な問いだった。 「ほしいもの?」  たくさんあるの、と前置きして。  まずカメラ。つい最近Nikonの新作が出たみたいで、店頭にいくつも並んでいるんだけど薄給のわたしではなかなか手が出せなくて。  それからバイク。時には尾行、時には追跡にと、どこへ行くにも乗り回しているせいで傷がそこかしこに浮かんでいるから、そろそろ替え時だろう。  あとは服だって流行を追いたいしお酒も靴も枕もそれから、 「一つに絞ってちょうだい」  挙げはじめたら次から次へと欲が顔をもたげてきて、指折り数えていたわたしを制するように、ロレーンの手のひらが目の前に掲げられる。慌てて口をつぐみ、上目遣いで表情を窺う。空いた片手でこめかみを押さえてはいるものの呆れが混ざっている様子はなく、とりあえず一安心。  ひとつ、だけ。  手に入れたいものはたくさんある、お金さえあればそれこそ、際限ないくらいに。だけれどいま本当にほしいものと問いかけられて、見つけたのはたったひとつしかなくて。そのひとつしか、いまのわたしはほしくなくて。他のどれと引き換えでも、なんならわたしのすべてを持っていかれてもいいから、わたしはただ、それだけを求めていて。もし彼女がよしとしてくれるなら、だけど。  まっすぐわたしをとかしこんだ眸はいつもと変わりなく──ともすればいつも以上に澄んでいるように見えて。わたしの言葉を、待っていて。 「―…ロレーン、が、ほしい、な」  ぽつりと、願いを落とす。なによりも誰よりも、ロレーンが、ロレーンからの愛が、ほしいと。  願いを受け止めるみたいに眸が閉じて、開いて。ゆるり、口元をやわらかく綻ばせた彼女の手が後頭部に回り、やさしく引き寄せられればすぐ、首筋の定位置に落ち着く。髪が梳かれる感覚。頬から伝わってくる鼓動はたしかに、彼女のもので。 「そんなのもう、とっくに、」  頭のてっぺんに口づけが落とされる。わたしの勘違いでなければ、 「心も、想いも。あなたのものよ、デルフィーヌ」  降ってくる言葉のすべてに愛がとかされている気が、した。 (大切な日に贈る、)  2017.11.12
 煽ったウォッカは、これで何杯目だろう。  酒はすべてを忘れさせてくれると、人は言う。嘘と裏切りに満ちた任務に心を蝕まれた同僚たちはきまって許容量を超えるほどの酒を飲み、曖昧な精神の狭間にすべてをとかしこむ。そうすることで、自分を保とうとしている。  私はそうはなりたくなかった。忘れたくはなかった。忘れるくらいならいっそ、記憶に留めない方が楽だと。最初からなかったのだと思い込む方が、苦しくはないと。  からり、氷が乾いた音を立てる。  覚えていたくなかったのに、記憶に刻み込みたくなかったのに。肌をすべる髪先を、頬をなでる指先を、ぬくもりを伝えるくちびるを。ぜんぶぜんぶ、覚えてしまっている。ぜんぶぜんぶ、忘れたくないと、願ってしまっている。そのすべてを与えてくれていたあの子はもう、どこにもいないのに。いとおしさをこめて私の名前を紡いでくれる人はもう、どこにも。 「―…デルフィーヌ、」  届かないとわかっていながらそれでも口からこぼれていくのは、かつてひとときの愛を捧げたその子の名。知らず想いをこめてしまっていた音に、自嘲ばかりが浮かぶ。  ああ、どうして、 (どうしてみんな、愛をうばっていってしまうの)  2017.11.13
「アグナル!」  声がひらめく。覚醒を促すその音につられてまぶたを開けば、最初に飛び込んできた水面色の眸が私をとかしこんでいる様子がひどく間近に見えた。眸に映るその男は、またたきを一度、二度、眠たそうに繰り返す。水面色の持ち主はどこか楽しそうに、笑みを転がした。 「なぁに、夢でも見ていたの?」 「…そう、だな、夢を、みていた」  思い出そうとする端から曖昧な記憶の中にとけていこうとしていくそれはけれどたしかにしあわせなものだった。誰かと恋に落ち、誰かと永遠を近い、誰かと家庭を築く、そんな、夢。その相手が果たしてどんな姿をしていたのか、きらめく光に紛れてもはや浮かべることもできないけれど。 「…イデュナ」 「なぁに」  君であったらいいと。いつも私の隣にいてくれるのは他の誰でもなく、君がいいのだと。告げたとして、彼女はどんな表情を返してくれるのだろうか、 「―…なんでもないよ」 「おかしな人」  くすくすと洩れ聞こえる声に、自身の音を重ねる。願わくばどうか、この日々が続きますようにと。 (どうかこのしあわせな瞬間を、)  2017.11.13