ずるいと、思った。ただそれだけだった。 「っ、なに、」  髪を撫でた後いつものように押し倒そうとしてくる彼女の体を押す。不意をつかれたのか、案外あっさりと組み敷かれてくれた。普段と真逆の体勢に、目を丸めた彼女がぱちり、またたきを一つ。腕力では勝てる自信がなかったから、呆気に取られているうちに、その褪せたドレスを無理にずり下げた。 「ちょっと、やめなさい、アデーラ!」 「やめません」  伸びてきた手を押し留め、胸を露わにさせる。小振りだけれどかたちのよいそれをちゃんと視界に収める前に、細い腕が覆ってしまった。むう、と。子供みたいに頬をふくらませる。 「隠さないでください」 「だって見られたくないもの」 「わたしは見たいんです」 「でも。聖女さまにこんなみにくい身体、晒せないわ」  ふいと、逸らされた顔はどこか、彼女のドレスと同じ色に染まっているように見えて。 「…今日ばかりは、聞いてあげられません」 「え、まって、こらっ」  制止の声にも耳を貸さず、そのやわらかな胸に噛みついた。 (そんな表情みせられて、止まれるわけないじゃないですか)  2017.11.13
「ふふ、」  ふと。たのしそうに洩れた笑い声に顔を上げれば、煙草をくゆらせた彼女の眸がゆうるり細められていた。なにか面白いことでもあったのかと、胸の間にあごを預けながら尋ねてみれば、また、小さな笑み。 「どうしてそんなにマーキングするのかと思って」  言われて彼女の身体を眺めてみれば、首筋に鎖骨に胸元に脇腹にと、ところ構わず赤い痕が咲いていた。犯人はもちろんわたし。ほんの一つ二つのつもりだったのに、いつの間にかこんなに赤くなってしまっていた。 「仕事に支障が出たらどうしてくれるのよ」  言葉とは裏腹にどこかうれしそうな響きを持っている気がした。ごめんね、と。こちらも悪戯な調子を含ませて。 「でもこれで、わたし以外の人には見せれないでしょ?」 「…ばかね」  続いた言葉は、口づけに消えた。 (あなた以外の人に触らせるつもりないわよ、なんて)  2017.11.14
 ロレーンは激怒した。 「──それで?」  声は荒げず、語調も強めず。恐ろしいほど低く、冷たい声で、そのうえ口元には微笑みさえ貼り付けてみせて。  わたしはと言えば、腕を組んで仁王立ちした彼女の前でちょこんと正座、ひっそりと視線を上げてみるものの前述した表情に怖気づきまた俯く。  なかなか続きを言い出せずにいるわたしに向けたため息をひとつ。鋭利なヒールがかつんと鳴る。こんなにとがったヒールで殴る蹴るの襲撃を受けたら痛いだろうな、彼女とそういう場面で出くわさなくてよかった、だなんて、のんきに思うのはそんなこと。 「ハニートラップを仕掛けたものの相手に見透かされ逆に利用、窮地に陥った、と」 「ええと、窮地っていうほどじゃ、」 「どこが」  相変わらず温度をすべて拭い去ったかのような言葉が鋭くわたしに突き立てられ、う、と思わず声が詰まる。  たしかに、連絡が遅いことを不審に思ったロレーンが助けにきてくれなければ今ごろ、ガスコインやパーシヴァルといったMI6のお歴々と同じ場所へ旅立っていたところだけど。反省をしていないわけじゃない、けど。 「だって、なんとかロレーンの役に立ちたかったんだもの」  ロレーンに迷惑をかけたくなかった。わたしひとりでも立派に任務をこなせるんだと、よくやったわねと褒められたかったんだと。根源にあったのはそんな、子供じみた想い。  笑われるかもしれない、愚かだと呆れられるかもしれない、だけど、痛いくらいに本気だった。だというのに結局、彼女の手を煩わす結果になっただなんて、自分で呆れてしまう。 「…ばかね」  こぼれていきそうになる涙をぐっとこらえていると、ふと、あごをすくい取られ視線が上向く。かけられた言葉に、さっきまでの冷たさはなく。代わりに温度のある声と、やわらかく細められた眸と。  その表情すべてを視界に収めるよりも早くそれが近付いて、くちびるに口づけが落とされる。ちゅ、と。戯れみたいな触れ合いを軽い音がつなぐ。 「どれだけあなたの存在に救われているか、知らないでしょ」  至近距離でわたしを映す眸は、混じりけのない言葉を向けている時のそれで。こんなに未熟でも必要とされているんだと、じんわり、胸に広がったぬくもりが涙腺にまで伝わってまた、頬を熱が流れていく。本当になきむしねと、彼女が笑う。 「あなたは私の傍にいてくれたらいいの。私だけの傍に」 (だけどそれでもわたしは、あなたと肩を並べたいのだと、)  2017.11.17
 息を呑み込む、音。  ひ、と。うわずった悲鳴が宙を切り、私の夢に割って入る。  急いでまぶたを押し上げれば、私の首筋で穏やかに眠っていたはずの彼女がけれどいま、自身の首を両の指で締め上げていた。数時間前に残したばかりの痕を寸分違わずなぞるように、ぐぐ、と。押し潰さんとする勢いの手を無理に取り、彼女の視界に滑り込む。 「ロレー、ン、」  一気に酸素がなだれ込んできたからか、それだけを発したデルフィーヌは何度も咳き込む。あらんかぎりの力で押し戻そうとしてくる指を絡ませ、だいじょうぶだから、と。この言葉を吐くのもこれで何度目か、とうに数えるのはやめた。いまはただひたすら彼女が乗り越えてくれますようにと、 「ころして」  ──恐怖を、忘れられるようにと。  なのに彼女は私を見ていない。目の前の女よりもさらに身近な死へと、心を渡しかけている。こわいのだと、あなたの重荷にはなりたくないのだと。だから、 「だからせめて、あなたの手で、」  続きを紡ごうとするくちびるをふさいでも、頬を伝う涙は止まらなかった。 (私は一体何度祈れば、)  2017.11.19
 困ったときの常套句だということは、とうの昔に知っている。 「これはとんだご無礼を、レディ」  優しくすくい上げられた右手の甲にくちびるが落ちてくる。一瞬の触れ合いに、やわらかな熱が伝わって、ふるり、走る痺れをなんとかこらえ、代わりに返すのは笑み。社交辞令用のものだと気付いたのか、顔を上げた彼も同様の表情を浮かべた。 「あら、ご丁寧だこと」  するりと、手を抜き去る。追いかけてくる視線に構わず左手で握りしめれば途端に彼の熱が上書きされていくようで少し、寂しさを覚えたのは気のせい。  目の前で膝を折ったその人に悟られてしまわぬよう、さらに深い微笑みで塗りつぶした。 「けれど、どなたにもされているんでしょ、こういうこと」  そうしてあわよくば彼の厚い皮も剥がれますようにと。誰にだって使っているのだろう色目になんてわたしは惑わされないのだと。こめた意味を拾ったのかそうでないのか、口の端をゆるめた彼はふと、眸にわたしをとかしこんで。 「誰にでもこんなことをしているとお思いで?」  マイレディ、と。伸ばされた左手に、けれど自身のそれを重ねるのは少し、癪だった。 (だからきらいよ、あなたなんて)  2017.11.20
 すき、と。想いがそのままこぼれていく。飾りもなにもないその言葉を聞き留めたロレーンが顔を上げ、ふと、浮かんだのはたしかに笑みのはずなのに、わたしにはどうにも、寂しそうにしか見えなくて。 「そんなはずないわ」  やわらかな語調にはけれどたしかな否定がこめられていた。  そうであるはずがないわと、彼女は繰り返す。だってあなたはまだ若いからと。愛のなんたるかさえまだ知らないからだと。言葉を重ねていく、まるで自分に言い聞かせるみたいに。  それはもしかすると、いつか離れてしまう日への布石なのかもしれない。その日がもしも訪れたとき、傷ついてしまわないように、心が悲鳴をあげてしまわないように。そんなもしもなんて、来るはずがないのに。 「ロレーン、わたしは、」 「知っているかしら、デルフィーヌ」  なおも愛を言い募ろうとするわたしのくちびるを人差し指ひとつで遮った彼女はまっすぐ捉えてくる。わたしを映しこむその眸はけれど、よく知るそれではないような気がして。 「永遠なんてないのよ、──どこにも、ね」  そんなことないわ、と。反論できる要素を、わたしはまだ、持ち合わせてはいなくて。 (けれど彼女の眸は言葉とは裏腹な気が、して)  2017.11.21
「おや、失礼」  声に、違和感を覚えた。  今しがたすれ違った相手をよく確認すべく急いで振り返る。濃紺の燕尾服をまとったその人は小柄で、私に比べ頭一つ分以上低い。  視線を受けていることに気付いたのか足を止めた件の人物はふいと、こちらに向き直る。ハットで顔を隠しているが、それは間違いなく、 「………イデュナ?」 「あら、もうばれちゃったのね」  つばを持ち上げいたずらに微笑んだのは、紛うことなく我が妻だった。ハットを取れば、その内に折り込んでいた三つ編みが一房、肩を滑り落ちていく。  そんな彼女になぜ男装をと問えば、曰く、一度身に着けてみたかったから侍女に頼み込んで発注させたのだと。曰く、ついこのままの格好で出歩いて反応を窺ってみたくなったのだと。 「誰にも気付かれなかったのに」  それは皆が、王妃のひそやかな楽しみに水を差すまいと気を遣った結果だろう、とは指摘しなかった。代わりに洩らしたため息に、こつり、靴音が目の前で止む。 「こんなわたしはお嫌い?」  ぐいと、襟を掴まれ引き寄せられる。流れるように額に口づけた男装の麗人はそうして艶やかに笑みを形作った。 (私よりスマートなことは少し解せないな)  2017.11.22
「やだ」  まるで言うことをきかない子供のようだと洩らしてしまえばさらに機嫌を損ねてしまいそうだから、すんでのところで喉に押し込んだ。  子供だと形容した妻はといえば、ふくらませた頬を擦るみたいに抱き付いてきている。それはもう半端なく眠いのだろう、それもそのはず、彼女の身体は夜更かしできるように出来てはいないのだから。そんな健康体質に何度泣き暮れたことか。  それならばどうして、こんな闇の深い時間帯に駄々をこねているのかといえば。  早寝な彼女はそれでも、私がベッドに落ち着くまでは起きて待ってくれている。けれど最近、公務が重なったこともあり、寝室に帰るのは短針が頂点を過ぎて久しい頃。睡魔に負けた彼女の隣に滑り込み、彼女が目を覚ますよりも早く抜け出す日々が続いていた。  曰く、さみしいのだと。昼間どころか夜でさえろくに言葉を交わすことができないのがつらいのだと。ぎゅうと抱きしめながら、呂律のあやしい口調で呟くのはそんなこと。だからを終わるまで寝室には戻らないのだと。  妻にここまで言わせておいて、仕事を優先できるほど愚かではない。ひょいと抱き上げ、眠たそうにとろけた眸で見上げてくるイデュナの額に口づけを。 「今夜はもう眠ろう、一緒に」  告げれば、彼女の表情にあどけない笑顔が広がった。 (たまには子供みたいなわがままを)  2017.11.23
「姉さん!」  その呼称を口にするのは、この世でたったひとりきり。それまでは扉越しでしか聞くことが叶わなかった声を、音を、この耳で直接受け取ることができるしあわせに、ともすれば視界がすぐににじんでいきそうになる。  あふれる涙をこらえ振り返ってみれば、胸元に軽い衝撃。ば、と。私を映した薄氷色の眸が、昔となんら変わりないそれで、笑いかけてくる。 「どうしたの、アナ」 「ううん、なんでも。ただ、」  問いかければ、どこか照れた風に顔をすりつけてきて。心地よい体温に、いとおしさがこみ上げる。 「しあわせだなあ、って」  その感情は私こそ抱いているものなのに。なによりも大切な妹が心を離さずいてくれたことに、こうして体温を分け与えてくれることに、ただ私だけを映してくれることに。こんなにも、しあわせを感じていて。  どれだけ言葉を尽くしても伝えきれそうにないから、代わりに微笑んだ、いっぱいの愛をこめて。 「私もよ、アナ、──これ以上ないくらい、しあわせなの」 (叶うならいつまでも、このしあわせを)  2017.11.27
「いいから大人しく寝なさい」 「わぶっ」  我ながら情けない声が飛び出した。だって急に頭を引き寄せられたんだもの、仕方ないじゃない、なんて言い訳はロレーンには届かない。  きらきら光る銀色の髪の隙間から見上げてみれば、件のその人は何事もなかったかのように煙草に火を点けているところだった。 「眠いんでしょ、あなた」 「ねむくなんか、」  返しつつも、まぶたはすでに夢に向かおうとしている。昨日は腕がしびれて眠るどころじゃなかったからだろう、身体は睡眠を求めていた。  昨夜のリベンジをしようと思ったのに結局、いつもと同じ体勢に持ち込まれちゃうだなんて。ああでも、わたしの腕を枕に眠るロレーンはかわいかったな、だなんて。本人に告げたらきっと、すねてしまうだろうから秘密。  もう首に馴染んだ腕に身を委ね、意識を手離すその一瞬。紫煙を吐いた彼女が、わたしをとかしこんだ眸をやわらかく細めた気がした。 (おやすみデルフィーヌ、よい夢を)  2017.11.30