きれいな身体だと。嫌味でもなんでもなく素直にそう思う。 「どうかしら、聖女様?」 「ん…っ、きもちい、です」  普段は寸分の隙もなく黒衣に包まれているその柔肌が、私の前に惜しげもなく晒されている。目的はマッサージという、なんとも健全なものだけれど。  私と違っていつまでも立ち尽くしているのは疲れるでしょうと、声をかけたのがきっかけ。よくお客に―もちろんその後の行為までは口にしなかったけれど―しているから物は試しにどうかと手招いてみれば、案外あっさりと近付いてくれて、そうしていま、彼女の左足を丹念に揉んでいるというわけで。  思っていた通り、ふくらはぎは可哀想なほど張っていた。けれどもそこは若さもあって、少しときほぐしただけで細くやわらかなそれへと立ち返る。  羨ましさがまたひとつ。別に自分がそれほど老いているわけではないけれど、彼女の清純でこまやかな肌にはやはり敵うべくもなく。  ため息を呑みこみ、なんの気なく上へと手を進め、 「ひぁ、」  ふいに上がった音に思わず、アデラインを仰ぎ見た。  甘さを含んだ声を洩らした本人はといえば、両手で顔を覆っている。その指の隙間から、隠しきれない紅が覗いていた。 「…ごめんなさい、あの、…はしたない、声を」  恥ずかしそうな謝罪が途切れ途切れに。きっと聖職者として、自身を悔いているのだろう。なんてはしたなく、淫らな女なのかと。私はまだ内腿に指の先を触れさせただけだというのに、なんて清らかで、なんてうぶな子。  するり、止まっていた指を再び這わせれば、彼女の下半身が大仰に震える。恐らくいままで誰にも許したことのない肌に熱を残しているという事実に今更ながら思い当たった。 「はしたなくなんてないわよ、当然のことだもの」 「当然…?」 「そうよ、だってあなた、」  上体を倒し覆い被さって。無垢なままの彼女を穢れにひたす行為に自然、胸が打ち震える。 「きもちよくなっちゃったんでしょう?」  彼女が最初に口にした言葉を反復してみせる。それに含ませた意味を汲み取ったのだろう、表情を隠している手の甲さえも、頬と同じ色に染まっていく。きっともうすぐだと、『私』が私にささやく。もうすぐ、 「──もっときもちいいこと、してあげましょうか?」 (もうすぐ私と同じ場所に堕ちてくるでしょうから、)  2017.11.30
 香りがすきだと、伝えたことがあった。花とも果実とも違う、甘やかな香り。  それがたとえば別の香りだったとしても、あなたがまとっているというただそれだけで、すきだとこぼしてしまうんだろうけど。  微笑んだあなたはそうして小瓶に分けた香水を手渡してくる、そんなにすきならあげるわよと、なんでもないことみたいに。  いとも簡単にあなたの香りを手に入れてしまったわたしは、だけどどうにも慣れることができなかった。だって自身の手首から、首筋から香るたび、あなたを思い出してしまう。あなたの声を、温度を、視線を。ありありと浮かぶそれらにいつも、胸が苦しくなるから。  だからその小瓶が空になってしまったとき、別の香りを選んだのに。同じブランドの、けれど違う香り。これであなたに縛られることはなくなると──勝手に縛られた気になっているだけなのに、わたしは身勝手にも、少しのさみしさとともに少しの安堵さえ、覚えて。 「あら、変えてしまったの?」  だというのに、目ざとくかぎわけたあなたはどこか拗ねた調子で続ける。 「残念ね」  そうしてまた、わたしを勝手にゆさぶって、 (なんの意味だってこめてないくせに、そうやって、)  2017.12.4
 わるいのは、あなたの方。 「イデュ、ナ、もう離してくれないか」 「いやよ」  ぎしり。ベッドが軋み声を上げる。シーツで拘束した手を引けばそのたびに、わたしたちの乗っているベッドがゆれて。  まだ離してなんてあげない、だってそれだと、おしおきにならないじゃない。もっとわたしを刻みつけて、わたし以外見えなくなるまで、わたしをとかしこんで。  首筋に歯を立てる。彼がぐ、とくちびるを噛み締める。もう何度目かの痕が肌に咲く。きっと簡単には消えないそれを眺めているだけで、笑みが広がっていく。わたしの、わたしだけのものだという、あかし。もう誰にだって触れさせはしない。 「ね、アグナル、」  はだかの肌に手を沿わせ、くちづけをもうひとつ。 「これでもっと、わたしをすきになってくれる?」 (みにくくふくれたよく)  2017.12.5
 あなたが泣く夢を見た、なんて。 「泣かないんですね、キャロルは」  考えていたことがそのまま音になっていた。思わず自分の口を押さえたわたしを、振り返ったキャロルが不思議そうな眸で見つめてくる。その指はベッドランプの紐をつかんだまま。 「あなたの泣いているところを、見たことがありません」  届いていたなら仕方ない。ため息の代わりに言葉を続ける。  決して短くはない付き合いの中で、彼女の涙を一度だって見たことがなかった。わたしが極端になきむしというわけでもないけどそれでも、キャロルと距離を置いたときも、どうしようもできない自分の無力さを嘆いたときも。視界をにじませるのはいつも、わたしで。  あるいは弱さを見せられるほどわたしは信頼されていないのか、それとも受け止めきれないと思われているのか。呑みこんだ不安はあっさり見通されたみたいで、ふわり、ともすれば悲しみさえ孕んで、笑う。 「ねえ、テレーズ、あなたといるとわたしはいつだって、」  声はライトとともにふ、と消えて。明かりを落とすその一瞬、彼女の眸が揺れた気が、した。 (わたしといる、あなたは、)  2017.12.6
「はい、」  差し出されたそれと持ち主とを見比べる。吸いたそうな顔で見ていたから、とキャロルは微笑んだ。本当は煙草じゃなく、煙をくゆらせていたその人を見つめていたんだけど、とは言えず。ありがとうございますと受け取り、マッチを探す。  す、と。距離を詰めてきた彼女の端正な顔がすぐ、そばに。 「ほら、火」 「え、」 「わたしのをあげるわ」  見惚れるわたしに、くわえた煙草の先を向ける。じじ、と。彼女が息を吸うたびゆらめくそこに、そ、と。自身のものを寄せた。  目の前の深緑色の眸が煙草に視線を送る。長いまつげがまたたいて、煙草を支える二本の指先が目にまぶしくて。  ふと。キャロルの視線が、わたしを捉える。そうしてくちびるから煙草を奪い取った彼女はそのままくちづけをひとつ、なだれこんできた煙に、頭がくらくらと震える。 「―…あなたがほしかったのはこっちね、テレーズ」  なにもかもお見通しな彼女はふうわり、口の端をゆるめた。 (煙草よりもあなたと直接、)  2017.12.9
 よゆう、って、なに。 「っ、は、ロレー、」  はき出したはずの名前が中途半端に色にまみれていく。口から洩れるのはもうかたちを成していない甘さばかり。はずかしさと、きもちよさと、さみしさと。  そう、さみしさ。だってわたしにいろんな感情を、ひっきりなしに与えてくれているその人が見えないから。目の前に広がるのは、よれたまっしろなシーツばかり。顔が見たいのだといくらお願いしてみても、あなたはこっちの方がすきでしょ、なんて素知らぬ表情で背中から攻め立てられる。  たしかにすきだけど―認めるのも癪だけど―それでもやっぱり、ロレーンを見ていたくて。すきな人が一体どんな顔でわたしに触れているのか、知りたくて。  彼女がわたしの背にぴたりと身体を密着させる、そのタイミングで、ぐいと、首をめぐらして。 「ちょっ、と、」  ──頬を染め、ひっそり眉を寄せた表情が、ひとつ。  てっきり余裕ばかりが満ちていると思っていた。きっとわたしよりも経験豊富なロレーンは、夜の営みもお手のものだろうから。指先ひとつに身を震わせるわたしを興味深そうに見つめているんだろうと、そうだとばかり。  だけどもそんな余裕はどこにも窺えず、あるのはただ、いっぱいいっぱいの女性の顔。 「ばか」  たぶん、いま、はずかしさも加わった。  短くつぶやいた言葉とは裏腹に、その眸にはわたしにも読み取れるくらいのいとおしさが詰まっていて。  またたきをひとつ、距離を縮めたくちびるが性急に重ねられる。わたしに負けないくらいの熱が侵食してくる。  あるいはこぼれてくるかと思った、たしかにわたしに向けてくれている愛が、その心が、くちびるをつたってわたしまで満たしてくれるんじゃないかと。わたしの身体にはもう入りきらないくらい、愛がつまっているのに。だいすきなんて言葉では、くちづけなんかではとても語りきれないほどの、想いが。 「ロレーン、」  さっき途中で放り出してしまった名前を、今度はきちんと。そのままの眸にわたしを映しこんだ彼女に、いまもてるだけの笑顔で応えて。 「―…すき、よ」  くしゃりと。泣き出すみたいに、眸がゆれた気がした。 (きっとあなたもわたしとおなじ、)  2017.12.9
 ふと。リンディを思い出した。 「ほらテレーズ、起きて」 「むぁ…」  わたしが仕事を終え帰宅すると、ソファに倒れこんだ同居人がひとり。廊下には彼女が歩いた道を示すように点々と、コートやらマフラーやらが脱ぎ捨ててある。力尽きたこの様子を見るに、何ヶ月にも渡る取材がようやくかたちになったのだろう。元気になったらうんと、褒めてあげることにしよう。  そう決め、まずはやわらかなベッドで寝かせてあげようと、うつ伏せで窮屈そうに眠っていたテレーズを揺り起こす。何度目かの呼びかけでようやく身じろいだ彼女の身体を支え、上体を起こした。  隙あらば夢へと帰っていきそうな気配をまとった彼女が目をまたたかせ、だけどその新緑の眸を現すことはなくて。眠気と戦っている姿がなんだか小さな子供──そう、まるでリンディを見ているみたいで。告げればきっと、そんなに子供じゃありませんと拗ねてしまうだろうから秘密。  ほとんど抱き上げるような格好で一緒に移動し、寝室へなんとか運びこむ。ごろりと身を横たえたテレーズに息をひとつ。 「なにか食べたいものはある? なんでもつくってあげるわよ」 「…キャロルのつくってくれるものなら、なんでも」 「なんでもいいの?」 「うん」  うん、だなんて。いつまで経っても敬語が抜けない彼女はだけどこういうとき、かわいらしく受け答えしてくれる。いつもこんなふうに素直に甘えてくれたら嬉しいのだけれど。  わかったわと、返した言葉は果たして届いているのか。まぶたを閉ざしもう軽い寝息を立てているのだからきっと、答えはノーだろう。どうかディナーまでに少しでも元気が戻りますようにと、前髪を整え額にくちづけをひとつ。  踵を返したところで、キャロル、と。舌足らずな声と、やんわりと手首を包んだ熱に引き留められた。 「なあに、」  振り向いて、一瞬、くちびるがふさがれる。それがテレーズのものだと行き当たる前にまたすやすやと、夢の世界にもぐりこんでいってしまっていた。ひとり現実に残されたわたしはただ、不意打ちすぎる熱に頬を染め上げるばかり。 「―…もう、」  子供がこんなことしちゃだめでしょ、と。そんな言葉にはきっと、説得力がなくて。 (ああもう、いっそ子供でいてくれたらいいのに)  2017.12.11
 あなたと出逢った季節がまた、やってきた。  街が冬色に染まっていく。緑と赤のクリスマスカラーと、寒さに頬を紅潮させた人たちと、くちびるから浮かび上がるまっしろな軌跡と、それからすべてを彩る雪たちと。  毎年目にしている光景だというのに、今年はなぜだか感慨深い。 「どうしたの、テレーズ」  それはきっと、隣にあなたがいるから。  カメラを構えるでもなく眺めていたわたしの視線の先を、キャロルのそれが追いかける。なにか面白いものでも見つけたのかしらと、口元にほのかな笑みを乗せて。芯まで冷えてしまうほどの気温だというのに、彼女は気にしたふうもない。本当に寒さが好きな人だと、思ったのはそんなこと。  いいえ、ただ思い出していただけです、あなたとはじめて視線を交わしたときのことを──そう告げようとして、くし、と。代わりにこぼれたのはくしゃみ。この寒空の下、手袋もつけず熱心にシャッターを切っていたんだから、身体が凍えもするだろう。くしゃみにつられてこちらを向いたキャロルがまたたいて、仕方ない子ね、だなんて笑って。  ふわりと、首にやさしく巻きつけられたのは、彼女のぬくもりを残したマフラー。顔を上げれば、頭ひとつ分ほど高い位置にある深緑の眸がやわらかく細められている。 「ありがとうございます。でも、これだとキャロルが凍えてしまうんじゃ…」 「わたしは大丈夫よ、だって、」  手が絡め取られる。革手袋越しに伝わる体温に、じんわりと、指先がぬくもりを取り戻していく感覚は痺れにも似ていて。 「あたためてくれるんでしょ、ダーリン?」  いたずらなウインクをひとつ。首筋から、指の先から、胸の内から。あたためられているのはわたしの方だというのに。  ぎゅ、と。握り返せば、それでいいのよと言わんばかりにキャロルが微笑んで。 「っ、くしゅ、」  かわいらしいくしゃみはすぐ、隣から。 「…帰ったらあたたかいココアでも淹れてくれるかしら」 「ふふっ、任せてください」  少しだけ見栄っ張りの手を引いて、家路をたどる。肩を寄せたわたしたちはすぐ、クリスマスカラーのただなかにとけこんでいった。 (あなたの気遣いがなによりもあたたかくて、)  2017.12.11
 こんな夜もこれで何度目か、数えるのはやめた。  眼下に映るモーラがふと、眉をひそめる。私の後頭部に手を回して、くしゃり、夢中で髪を乱し引き寄せる。限界が近付いたときの、彼女の癖。ただの友人関係だったら知り得るはずのないもの、だった。癖だと見抜けるほどこうして、夜を重ねているだなんて。もはやため息さえのぼらない。 「ジェーン、…ジェーン、」 「大丈夫、ここにいるよ」  伝えれば、安堵するみたいに息をついて。けれど指を奥へすべりこませれば、く、と、まっさらなのどがしなって。  さみしい、と。こぼしたことがあった。ひとりで明かすにはどうしようもなく不安な夜があるのだと。まるで小さな子供みたいに、ソファで両足を抱えていたモーラに、私がいるじゃないのと。仕方なかった、だって私たちは親友だから。長年連れ添ってきた家族の一員が心を沈ませているというのに、それをすくい上げないなんてこと、あってはならないから。 「―…モーラ、」  そうやって何度、自分を騙してきただろう。何度、彼女のせいにしてきたのだろう。なによりも自分自身の心と向き合えない私は今夜も、続きを紡げないまま。シーツに広がる親友の髪に、顔を押しつけた。 (I love,)  2017.12.11
「vin chaud!」  差し出したそれに、デルフィーヌの表情が輝いた。まだ湯気のたちのぼるカップを両手で包みこみ、顔を近付け香りをかぐ。  私も同様に鼻をきかせてみれば、レモンと、それからシナモンが身体を満たしていく。久しぶりにつくってみたけれど、どうやらうまくできたみたいだ。  輪切りにしたレモンの浮かぶモルドワインを冷ますべく、息を吹きかけて。まっしろな湯気が視界を覆う。一足先に口をつけていたデルフィーヌがくもった世界で頬をくずし、おいしい、と。その反応に自身を褒めるのは心の中でだけ。 「でも、どうして」 「もうすぐクリスマスが近いでしょう? だからよ」 「だから、わたしのためにつくってくれた、ってこと?」 「そういうふうに解釈してくれて構わないわ」  ヨーロッパではクリスマスになると、モルドワインで乾杯する習慣がある。恋しいだろうと、思ったのだ。だから、故郷から遠く離れたここで少しでも、寂しさがまぎれるようにと。  うれしいな、と。もう一口含んだ彼女は眸を細める。 「ロレーンが、わたしのためになにかしてくれるなんて」 「…ただのきまぐれよ」  覗かれたくなくてカップを傾ける。私にはまだ、熱すぎた。 (すべてを口にせずとも、すべてを汲んでくれる、あなたへ)  2017.12.11