さすがに、のみすぎた。  世界がふらふらゆれる。もうおさけで粗相するって年齢でもないのに、だってあんまりにもおいしかったから、ロレーンのつくってくれたヴァン・ショー。英語ではモルドワイン、っていうんだっけ。わたしのためにつくってくれたっていう、ただそれだけなんだけど、のこすのはもったいなくて。  すぐそばの肩にくらくらする頭をあずけて、息をつく。ロレーンの肌、つめたい。ひんやりしててきもちいいそれをわけてほしくて、腕をまわして、すりよって。 「デルフィーヌ」  わたしのなまえが、くっつけたほっぺたから響いてくる。視線だけをもちあげてみれば、よくしった眸がわたしをうつしていた。おなじだけのんだはずなのに、アルコールがまわっている気配はすこしもなくて。  あきれてる、のかな。このていどで酔っぱらうなんて、って、おもわれてるのかも。  だけどもロレーンはわたしのひたいにくちづけを落とし、ふと、くちびるの端をゆるめて。意外ね、なんて。むけられた声がやさしく耳にとけていく。 「酔っ払った方がおねだり上手なのね」  そうしてくちづけをもういちど送られるのと、ソファにしずみこむのは同時だった。 (こんどはあなたに酔っていく)  2017.12.13
 ぽちゃり。発生源はわたしのすぐうしろ。 「たまにはお湯を張るのもいいわね」 「は、はい、あったかいです、ね」  いまの返答で絶対、動揺を悟られた。答えなければよかったと、後悔しても遅い。そもそもの発端はわたしだから、いまさら文句も言えなかった。  今夜は冷えるわねとキャロルが珍しく身を震わせて、じゃあお風呂でもためましょうかとわたしが提案、せっかくなら一緒に入りたいわねとおねだりされ、いいですよとなんの気なしにオッケーを出して。だっててっきり、向かい合わせで湯船に浸かるものだとばかり思っていたから──いや、対面であっても恥ずかしいけど、いまの体勢よりはましだった。  わたしの居場所はといえば、キャロルが伸ばした両の足の間、まるで抱えこまれるみたいに。ぴたりと背中にくっついているやわらかな感触をできるだけ頭から追いやるも、ぎゅうと距離を詰めてくるものだからそれも叶わない。だったら別のことを考えよう。お風呂を出たら昨日買っておいたケーキをキャロルとふたりで、 「なにを考えてるのかしら」  ああ、もう。逃避さえ許してくれないなんて、なんて意地悪な人。 (そうしてのぼせるのはいつだってわたしの方で)  2017.12.14
 ちょっと意味がわからない。 「ジェーンのばかぁ!」  訂正。とてもわからない。  自宅の扉を開けた途端、なぜかうちにいたモーラがいまみたいな調子の涙声で抱きついてきて。相当酔っ払っているのか、回らない呂律に、なにかを訴えているらしいその半分も解読できなくて。  まとめるにきっと、つめたい冬にひとり身はさみしいだとか、たぶんそういうこと。それでどうして私の家にやってきたのかはわからないけど。そうしてなぜか悪態の矛先は私に向いて、ジェーンのばか、というわけで。 「なんで私がばかなのよ」 「だって、だって、」  ついには涙さえ流しはじめたモーラはそうして、酒瓶片手にソファで膝を抱えてしまう。だって、と。子供みたいな舌足らずで繰り返して、 「だって、ジェーンのことがすきだから」 「………ん?」  ジェーンのことがすきだから。私の耳が寝ぼけてなければたしかにモーラはそう言った。それとこれとなんの関係があるのか、いやそれより、すきってどういう。 「…って、ちょっとモーラ、こんなときに寝ないでよ!」 (そうして明日には全部忘れてるんだから本当、勘弁してよ)  2017.12.14
 だって面倒なんだもの、なんて。まるで子供みたいな調子で。  灰がひとつ、ひとつと積み重なっていく。煙草を吸うでもなく灯したまま、どことなくぼんやりしたロレーンの視線がわたしの指先に集まっているようで、すこし、緊張する。人の髪を拭ってあげたことなんてないんだもの。  タオルでやさしく、力をこめすぎてしまわないように。根本は入念に、毛先はやわらかく。  適当でいいわよと、お風呂あがりの当の本人は手入れもせずそんなことを言っていたけど、冬場なんだからいくらロレーンといえど風邪を引くかもしれないし、それにせっかくのきれいな髪だ、整えないなんてもったいない。ならわたしが拭くよと、タオルを奪い取ったのが数分前。いざやってみれば案外むずかしく、だけど楽しい作業。  そうしてロレーンの目の前に回りこみ、前髪を丁寧に拭っていく。透き通った眸がわたしに焦点を合わせる。あんまりにも近い距離に高鳴る胸を押し隠して、いたって平静に。  それにしてもきれいな髪だった。ファインダー越しに彼女を見つめていたころから思っていたけどやっぱりこうして触れてみれば、繊細で、美しくて、まるで持ち主を表すみたいに。  そんなことを考えながらほうと息をつけば、口をつけてもいない煙草をもみ消したロレーンの手がわたしの後頭部に回り、ぐいと引き寄せられる。着地点はやわらかなくちびる。 「―…自分の髪ながら、妬きそうね」 (熱心に見つめるのは私だけでいいのよ、なんて)  2017.12.14
 なんでわたしが風邪なんか、 「っ、くしっ、」 「ほらもう、いいから横になってなさい」  ぽんぽんと、まるで子供をあやすみたいに撫でてくるロレーンと違ってわたしはちゃんと、髪も乾かしたしこんな寒いなかTシャツ一枚でうろうろしたりしなかったのに。  だけど現実は、わたしが熱を出し、対するロレーンは普段と変わらず。もしかして病原菌もロレーンがこわくて近寄れないんじゃないかとか、そんなばかなことを考えてしまいそう。  ああだめだ、熱であたまがぼんやりしてきた。  のぞきこんできたロレーンがふと、眉をひそめる。 「なにか食べなさい。でないと、回復するものもしないわよ」 「むり…」  おなかはすいてる気はするけど、うでが重くてもちあがらない。いつも料理をしないロレーンがせっかく、わたしのためにりんごをすりおろしてくれたのに。すりおろしりんごが料理にかぞえられるかは微妙だけど、そんなことはどうでもいい。  ためいきをついたロレーンが、スプーンでりんごをすくいとり、はい、と。わたしのくちもとにさし出して。 「今日だけよ、病人さん」  いつもこんなやさしいかおだったらいいのに、と、おもった。 (ずっと風邪ひいたままでもいいかな、なんて)  2017.12.14
「──クリスマス特集のモデル、ね」  ファインダーに映ったキャロルは、あごに手を当てひたとこちらを見据える。じゃあポーズでも取らなくちゃいけないかしら、なんて冗談めかしてウインクしてみせる、ただそれだけで、シャッターを切るのも忘れ見惚れてしまう。  今回任された紙面は、足音を響かせつつあるクリスマスについて。その一面を飾るモデルをぜひキャロルにと、これは編集長たっての希望。なんでも以前、社内パーティーで見かけたときから願い出ようと考えていたとかなんとか。 「手がおろそかになってるわよ、かわいいカメラマンさん」  落ちた指摘にまずはまたたきをひとつ、眸の内に映像を収めてからシャッターを切る。  たしかにキャロルは、贔屓目を抜きにしても、だれもかれもの視線を集めるほどの美しさと儚さを併せ持っている。モデルさえも霞んでしまうほどに。  カメラを下ろし、うつむいて。 「…やっぱり、いや、です」  ひとりじめしていたい、だなんて。不特定多数の目にさらすのがいやなんて、なんてばかげたわがまま。 「選り好みしてると、いいカメラマンにはなれないわよ」  視界から外れた被写体はけれど少し機嫌よく、わたしの髪を撫でた。 (あなたの魅力はわたしだけが知ってればいいの、なんて)  2017.12.14
 まっしろな世界が広がっていた。 「ロレーン! ゆき!」 「見ればわかるわよ」  寒いのは変わらないのに、ひとたび雪が降るだけでどうしてこう嬉しくなっちゃうんだろう。わたしがまだ、そこかしこではしゃぎ回っている子供たちと大差ないからだろうか。もううんと大人なはずなのに。  だけどロレーンの目にはたぶんそう見えているみたいで、雪のただなかに駆けていくわたしを少し離れた場所から眺めている。こけないのよ、なんて注意を投げかけて。  ロレーンも子供になっちゃえばいいのに。彼女が無邪気に雪あそびしてる姿なんてとても想像つかないけど、でも、たまには羽目を外しても怒られはしないでしょ、と。  ロレーンが煙草を取り出しているうちに雪を丸め、えい、と。弧をえがいた玉は見事に、彼女の顔面へ。 「あ、」  てっきり避けるか受け止めるかのアクションがあると思っていた。だって彼女は凄腕の諜報員であるはずで、 「………そんなに雪にまみれたいなら、お望み通りに」  おそろしいほどの無表情で振りかぶったロレーンはそうして、きれいなフォームで、雪玉を放った。 (ちょっとちょっとロレーン、少しはてかげ…わっ、)  2017.12.15
 きんと身体の芯が凍える夜には、あのときを思い出す。  ちょうど一年ほど前、極寒の地で出逢った迷い子のことを。迫りくる手におびえ、泣き言を落としていた新人のことを。私に真夏のような熱をくれた、あの子のことを。  思い出す必要なんてなかったのに、また手に入れようとさえ考えていなかったのに。彼女は不躾な、そしてあたたかすぎるほどの愛を、両腕では抱えきれないほどの想いを、私に与えてくれた。  こんな私にも許されていいならそれはまぎれもなく、しあわせと呼べるようなもので。それが仮初めであることも、ひとときであることも、私は嫌というほど知っていたはずなのに。  愛から目を背けていれば、もうどこにもないふうを装っていれば、こんなにも心が軋むこともなかったのに。 「──なあに考えごとしてるの、ロレーン」  けれどだからこそ、守ろうと決めた。彼女が奇跡的に息を吹き返したそのときに、もう彼女を失う恐怖を味わいたくはないと、そう。  ふ、と。伸ばした手に、彼女が頬をすり寄せる。たしかな体温が手のひらをつたい、身体の芯をあたためていく。 「―…あなたのことよ、デルフィーヌ」 (願わくばどうかずっと、なんて)  2017.12.17
 外はうんと寒かったけど、この部屋のひえびえとした空気に比べたらずっとましだと思った。  今朝も早くからテレーズと連れ立って向かったのは近所の大きな森林公園。なんでも移動遊園地が来るからぜひ写真を撮りに行きましょうと誘われ、もちろんといつものように快諾してふたり、カメラを引っ提げ家を飛び出したのが八時半。  公園に現れたひとつのちいさな世界にいざなわれた子供たちが、引率してきた親たちが、ベンチからまぶしそうに眺める老人たちが。そのひとたちひとりひとりが抱いているストーリーを映したくて、夢中でシャッターを切る。隣のテレーズも、きらめくメリーゴーランドや笑い声の絶えない人力観覧車にピントを合わせ、瞬間を切り取っていく。  写真を残したり、幼い子供みたいにアトラクションを楽しんで、そうして気付けばとっぷり陽が暮れていて。 「あ! ロレーンに書き置きしてくるの忘れてた!」  重大なことをいまさら思い出し、テレーズとふたり、同じ帰路をたどる。  ベルリンからこの街に移り住んでからというもの、ロレーンの過保護具合に拍車がかかってきたような気がする。どこへ行くにもついてこようとするし、ひとりでどこかへ出かけるときには行き先から帰宅時間まで残しておかなくちゃならない。  わたしを心配してのことだというのはもちろんわかってるけど、それでも面倒なことがときにあって。だけど書き置きをしておかないとさらに面倒なことになるのであって。 「あら。おかえりなさい、テレーズ、デルフィーヌ」  やわらかく出迎えてくれたのはキャロル、険のこもった視線だけを投げかけてきたのはロレーン。いつからキャロルの家で待っていたか、なんて、灰皿に積もった煙草の山を見れば明らかなことだった。 「ただいま、キャロ…わっ、」 「こんなに身体をひやして…。また撮影に熱中していたのね、ダーリン?」  リビングの入口でたたずむわたしを置いて、剣呑な空気の漂う机へ臆することなく走り寄ったテレーズはそうしてがばりと、キャロルに抱きつかれている。体温を移すみたいにすり寄られ頬を寒さ以外の要因で真っ赤に染めているものの、わたしはそんなふたりがうらやましかった。だってなんだかかわいいじゃない。  そうやって見つめていれば、ふと、視線を感じ首をめぐらせる。どうやらそれはロレーンの視線だったようで、険は駆らわず、だけどこっちに来なさいとばかりあごで促され、つと近寄る。  ゆるやかに、ひかえめに、だけどたしかに両腕を広げたロレーンは少しだけ視線を外して。 「…もう。素直じゃないんだから」 「うるさいわよ」  それでも隠しきれない笑顔をそのままに腕の中に収まってあげれば、まるでそうすることが当たり前のように、ロレーンの手がわたしの背にかたく回された。まどろみさえ運んでくる体温が、冷えた身体に心地いい。結局わたしのあまのじゃくな恋人が一番かわいいなと、思ったのはそんなこと。 「あらあら、おそろいね」 「あんたとおそろいなんて死んでもいや」 (それでも離さないんだから本当、素直じゃない)  2017.12.17
 この子のわがままをはじめて聞いたかもしれない、なんて。 「いかないで…っ」  ぐん、と。進もうとする意識とは正反対に、身体がつんのめる。振り返ってみればコートの裾をはっしとつかむ指があり、腕をたどって、そうして持ち主の悲痛に揺れる眸と出会う。  どうしてと、問うのは簡単。けれどきっとこの子は答えてくれないから。自分の行動をすぐに反省して、指をとき、ごめんなさい、なんて。想像がついてしまうのがまた腹立たしい。別に私は、彼女に我慢させたいわけではないのに。  コートを脱ぎ、ソファの背に投げる。今夜はもう店じまい。上司に呼び出されたからといって、なにもこんな時間から駆けつけなければならない義理はないのだから。  ぱちりと、何度もまたたいてみせるデルフィーヌの隣にまたもぐりこみ、なによりもあたたかな熱源を腕の内に収めればすぐ、眠気がひたりと足音を響かせる。なにか言いたそうに開いたそのくちびるを一瞬、ふさいで、有無も言わせず自身の首元へ抱き寄せた。もごもごといまだ何事か続けている彼女のつむじにくちづけを落として。 「いいから黙って私のわがままだけ聞いてなさい」  ようやく大人しくなったデルフィーヌの、うん、という呟きだけが残った。 (これはわがまま、あなたを泣かしたくはないという、私の)  2017.12.20