磨いたレンズを取りつけ、ファインダーから覗きこむ。画面いっぱいに映った被写体がふと視線を向け、煙を吐き出す。 「どうしたの」  美しいと、思った。女神はきっとこんな顔をしているのだろうと。そんなこと、本人に告げようものなら、なにを詩的にだなんて笑われてしまいそうだから、絶対言わないけど。 「カメラマンにでも転向するの?」  私はその方が安心だけれどと煙草をもみ消す彼女をぱしゃり。 「それもいいかも」  ロレーンしか映さないカメラマンだけど。  わたしの返しに思わず口元をゆるめた女神をフィルムに収めた。 (あなたのすべてを収めていたいと)  2017.12.31
 朝は静けさに包まれている。 「おはようございます、マダム」  それは単に義理の姉たちが起き出すのが遅いから、だけど。義母の機嫌さえ損ねなければ、仕事には追われるものの快適な時間を過ごせる。  湯気の立つ紅茶を目の前に置き、ちらりと表情を窺う。ソーサーからカップを持ち上げた彼女は香りを楽しむみたいにまぶたを落とし、息をひとつ。どうやら今朝のものはお気に召したみたい。 「待ちなさい」  さて庭掃除に向かおうと背を見せたところで、彼女が言葉を発する。なにか失態を踏んだだろうかと冷や汗をかいたけど、見えた表情はおだやかそのもの。 「一杯くらい付き合っても支障はないでしょ」  いつにないやさしさに、わたしはただ、自分のカップを急いで取りに戻った。 (こんな朝をまた、)  2017.12.31
 まるで水底に沈んでいるみたい。 「調子はどうですか、キャロル」  覚えのある音がどこからか届くけれど、それさえもふわふわ、掴みどころがなくて。  重いまぶたを押し上げる。心配をありありと乗せた表情が、明かりを背負って覗きこんでいた。大丈夫よ、そう答えようとしたのに、代わりに咳がこぼれる。テレーズの小さな手が前髪を梳く、まるでなだめるみたいに。 「無理、しなくていいですから」  こどもに戻ったみたいだわ、なんて。抱いた感想に呆れるより先に訪れた安堵に身を落とす。 「頼ってくれても、いいんですからね」  まどろみと熱にとける直前、テレーズのくちびるが触れた気が、した。 (もうすっかり頼りきっているというのに)  2017.12.31
 つくづくわたしはしあわせだなと、思うのです。 「なによ、人の顔じっと見て」  不審そうに首を傾げたロレーンを真正面から見つめ返す。まっすぐな眸には嘘も偽りも混ざっていない。わたしといるときは、いつも。  そう、いつだって彼女の眸には慈しみといとおしさがこめられていて。わたしにさえ読み取れるほどのそれが。  言葉よりもたしかにわたしへの想いを伝えてくれている彼女に、わたしから贈れるものは。 「ううん、──やっぱり、すきだな、って」  たしかな愛しか、なくて。 (それでもすべてを汲み取った彼女はやわらかく笑って、)  2017.12.31
 むう、と、ふくれている、まるで子供みたいに。 「…どうしたって言うのよ」 「…べつに」  尋ねてみてもこればかり、だというのに一向に機嫌を直そうとはしない。原因を探ってみるけれど、思い至ることがありすぎてどう対処すればいいかもわからない。  ついにはそっぽを向いてしまったテレーズの顔を追いかけ、正面に回りこむ。 「ね、テレーズ、教えてちょうだい。なにが不満なの? わたし、なにかした?」 「…だって、」  ようやく固い口が答えをもたらして。  曰く、おはようのキスがなかったと。 「…それだけ?」 「それだけ、って、わたしにとっては、」  言い返そうとするそのかわいらしいくちびるを、いとおしさのまま塞いだ。 (なんて、なんてかわいらしの)  2017.12.31
 ママの様子が、なんだかへんだ。 「変、って。失礼しちゃうわ」  そう言いかえしつつも、ゆるんでいく口元をかくせていない。  朝からずっとこう。お料理してても、絵本を読んでくれてても、なんにもしてないときも。にこーって、ほっぺが持ちあがるの。 「ただいまー!」  うんうん頭をなやませているところへ、知ってる声がとびこんでくる。瞬間、ぱあ、って、今日いちばんの笑顔。  そっか、今日はテレーズが出張から帰ってくる日だ。思いついたそれが正解かどうかは、ママの顔を見ればわかる。ぱん、と。ママが自分のほっぺをたたいて。 「テレーズにはこのこと、ないしょね?」 (きっとテレーズにもバレバレだと思うけどなあ)  2017.12.31
『絶対に覗かないこと』  ロレーンの声がよみがえる。厳しい声音に、険をこめた視線までおまけして。  わたしが一度でも言いつけを破ったことがあったかしらと、茶目っ気たっぷりに返したデルフィーヌはけれどロレーンが外出したのを見計らい、文机に抜き足差し足忍び足。だってロレーンがあれほどまでに念を押すんだもの、諜報員のはしくれとしては気にならないはずがないじゃない──とは彼女の言い分。もしかしたら弱みとなるところがあるかもしれない、そうすればもう少しアドバンテージが取れるのではないか、と。  書類やら衣服やらが乱雑に積まれたそこに、ちゃんと片付けてっていつも言ってるのにとため息をこぼしつつ、この持ち主がひた隠しにしているものを探す。  机を漁り、棚を開け。そうして見つけた紙束の最初のページには『Top secret』の文字が輝いていた。  きっとこれだわ、これにちがいない。明らかなそれを勢いこんで掴み、いそいそとめくってみれば、目に入ったのはデルフィーヌの知らない言語の羅列。  ああこれは。瞬時に至った結論に彼女は頭を抱える。これは弱みなんかではなくて、 「──デルフィーヌ?」 「ひっ、」  いま一番聞きたくない声は後ろから。  振り向きたくないと意地を張る首とは裏腹に、大きな手が頭を掴み引っ張る。当然従うしかなく傾けたデルフィーヌの眸に、さかさまのロレーンが映った。 「ここは誰の部屋?」 「え、と。ロレーンの部屋、です、ね」 「渡しの部屋であなたはなにをしているの?」 「ええ、と。ちょっと、お掃除を、」 「デルフィーヌ」 「ごめんなさい!」  当然、隠し通せるわけがなかった。もとより嘘をつくことが下手なデルフィーヌが、鋭く細められた視線に太刀打ちできるはずがなかったのだ。慌てて謝罪を口にし、脱兎のごとく部屋から走り去っていく。  ひとり残されたロレーンはデルフィーヌが自室に駆けこんだことを確認し、ほうと息をひとつ。ちりばめていた書類は適当な単語を押し並べただけで、機密文書でもなんでもないというのに。  簡単に信じこんでくれる子でよかったと知らず胸を撫で下ろす。だってこうやって一度脅かしでもしないと、世話焼きで好奇心旺盛なデルフィーヌはすぐ、なんだかんだとかいう理由の末に、ロレーンがひた隠しにしているそれを見つけてしまうだろうから。あれだけ雷を落としておけば、しばらくは部屋の扉に近付きもしないだろう。  そうしてロレーンは、紙束のさらに下にひそめておいた写真を取り出し、ふと、頬をゆるめる。  両指の数よりも多いそれには、さきほど部屋から追い払った彼女ばかりが映っていた。 (いいでしょ、ひとりじめするくらい)  2018.1.2
 たとえば目の前をゆき過ぎていく恋人たちみたいに普通にできたらよかったのに。  寒いからと自然に手をつなぎ合うこと。あたためてあげるとその手をポケットに引きこむこと。情熱的なハグをすること。お別れのキスを送り合うこと。それらすべてを、人目を気にすることなくできたらどんなにか。 「だめよ、テレーズ」  伸ばしかけた指をキャロルが諌める。寒風にさらされた自身がふるりと凍えた。  ずるいひとだ、と。拒絶の意図がわかってはいてもどうしたってそう思ってしまう。だってわたしからの接触は拒むくせに自分からは堂々と触れてくるから。  さっきだってそう、ふと片手で抱き寄せたかと思えばわたしの首筋に鼻をうずめて、さむいわね、なんて呼気を触れさせて。  きっと彼女は上手に隠せてしまうから、だから人前だろうとまるで仲のよい友人のように見せかけて触れてくるのだ。わたしが腕を伸ばせばどうしても、情がこぼれてしまうから。親愛のそれ以上を押しこめることができないから。  それを知っていてわざと煽るように距離を詰めてくるのだから本当、意地が悪いにもほどがある。けれど、 「早く帰りましょう、テレーズ」  わたしだけに伝わるように触れるそのさまがいとおしくないはずがなくて。  普通じゃなくてもいいかな、なんて。 (だって世界でわたしひとりがその意味を知っているから)  2018.1.5
 いまどきの子ってわからない、本当に。  そう言おうものなら、こども扱いしないでくださいだなんてリスみたいにふくれてしまうのでしょうけれど。別に年若く見ているわけではない。ただずっと、わたしに触れてくるだけというその行動心理がわからないだけ。 「自分もさわられたくなるものじゃないのかしら、普通」 「全然」  見上げたテレーズに動揺をひた隠しそう尋ねればやっぱり、にべもない返事がひとつ。顔の横に突いている腕をそれとなく押してみるけれど、びくともしてくれなくて。 「全然? ちっとも?」 「あ、すみません、いまのは語弊がありますね」  わたしの抵抗に気付いたのか、随分と大人びた微笑みを浮かべた彼女はわたしの前髪をさらい毛先にくちづける。肌にさえ触れていないそれに、ぴりりと、背筋になにかが走る。 「たしかに、ふれてもらえたらうれしいです、とても」  でも、と。続けた彼女の眸が色づく、新緑よりもさらに濃い、甘さと夜を孕んだそれ。わたしを夜に包みこんだまま、落ちてくる髪で帳をおろして。 「余裕のないあなたに抱きしめられるのが一番なんですよ」 (訂正。テレーズってわからない、本当に)  2018.1.5
 いつかのあの子もこんな気持ちを抱いていたのだろうか。  気を抜くとすぐ、浮かぶのは同居人のことばかり。もっともその本人はといえば、取材旅行でひとつきほど家を空けているのだけれど。けれど今日、もうあといくらもしないうちに帰ってくる。  いままでにも何度か彼女のいない夜を過ごしたものの、こんなに長期の外泊ははじめてで。存分に羽を伸ばさせてもらうわねなんて見送ったはずなのに、耐えられないくらいにさみしさが募って。  さっきから姿見の前をいったりきたり。どの服で出迎えよう、これは好きだと言っていた、だけどこのスカートだって似合うと褒めてくれていた、だとか。まるではじめてのデートに臨む少女みたいに。  ああ、テレーズは。いとおしい天使は果たしていまのわたしのように心弾ませているだろうか、どうかわたしだけ浮かれているわけではありませんように。  めずらしく神に祈っている間に、ベルが三回、合わせて鼓動が跳ねる。まだ決まっていないのに。  急いで玄関へ向かい、息をひとつ。平常心よと、必死に言い聞かせたそれは、扉を開けたとたん胸に飛びこんできた彼女によっていとも簡単に壊されていった。 「ただいま、キャロル!」 (だれよりも会いたいあなたへ)  2018.1.7