ふれた手を、思い出していた。
ほっそりと伸びる指に、少年みたいな丸い爪。べつにすきなかたちでもなんでもないはずなのについ、視線が追いかけてしまう。自身の頬に突いていたそれを組んで、離して、ふと距離を詰め、わたしをとらえて。冷たさが忍び寄ってくる。屋内だというのにちっとも体温の上がらないその手にどうかわたしのぬくもりが伝わりますようにと、願うだけなら自由だから。
他愛ない言葉を交わしている間にもふれて、離れて、またひやり、今度は手首まで。きっと情のひとつだってこめられていないであろうそれに、熱を上げるのはわたしばかり。
知られたくなくて手を引いて、けれどもう少しふれておけばよかったと、後悔するのはいつも別れたあと。まだ残っているはずの彼女をたどりたくて指をくちびるに当てる。
ふわり、香るのはよく知ったそれ。わたしと出逢うずっと前から身にまとっている、彼女の香り。
ああしてやられたと、勝手に悔しがることもどうか自由にさせて。だってわたしは、少なくともお風呂に浸かるまでの間、この香りに胸を締めつけられ続けるのだから。
(あなたを思い出し続けるのだから)
2018.1.7
「あなたの最初になりたかったです、わたしは」
頬を撫でていた手がふと、止まる。まどろみに沈みかけていたまぶたをこじ開ければ、眸を伏せたテレーズが息をひとつ。こぼれたそれがむきだしの首筋をくすぐっていく。
どうしたって埋まらない年月を指しているのであろうことはすぐ、察しがついた。わたしの過去を──いままでどれだけの人と付き合ってきたかだとか、どんな人と肌を重ねてきたかだとか。そういったことを知りえないテレーズはそれでもそのすべてに嫉妬して、あなたのはじめてがほしかったです、と。それは後悔にも似ていて。
彼女にはどうすることもできないというのに。わたしだって、彼女と同じことを思っているというのに。無垢な彼女に新しい世界を見せてあげるのも、はじめての感情を与えるのも、大人になっていく彼女を見守るのもすべて、わたしだけであればと。
けれどこの後悔はなにも未来へつながらないことを、もうとうの昔にいやというほど知っているから。だからわたしは代わりに微笑んだ、すべての想いを乗せて。
「たしかにはじめてはあげられなかったけれど、」
けれど、ね、テレーズ、
「わたしの最後はぜんぶ、あなたにもらってほしいの」
(だってわたしが最後に恋をする相手は、)
2018.1.9
おなじ顔なのに、そうであるはずなのに。
「……っ、よせ、ふかぁ…っ」
甘くとろける表情はまるで別の人みたいに見えて。
あるいは私も妹とおなじく見下ろされているときはこんなに欲をとかした顔をしているのだろうかと、そう考えただけでずくんと、熱がうずく。攻め立てているのは私であるはずなのにまるでこちらが乱されていくみたいに。
眸を閉ざし、息をひとつ、
「こっち、みて」
深呼吸さえ許してくれない妹はそうして私の頬に両手を伸ばし、ちいさな子供みたいにねだってくる。都合のいいときばかり甘えてみせる彼女も大概だけれど、そんな彼女の願いをすべて聞き入れてしまう私はもっと。
「…ねえ、」
主導権をにぎられているのが癪で、普段はあまり口にする機会のない妹の名前を音に乗せる、たったそれだけで指先が締めつけられるのだから、いつもこうであればかわいいのに、だなんて。
強情にもいまだ不敵な笑みを浮かべている彼女の耳元にくちびるを寄せ、息をつく。
「その余裕。奪ってあげるわ」
「―…奪えるものならどうぞ、お姉さま」
(果たしていつまでその姿勢をたもっていられるか見物ね)
2018.1.9
ゆき、だ。
「まるで子犬みたいね」
うしろから追いかけてきた声がくすくすと笑みを洩らす。だって冬はあなたと出逢った季節だから。雪は、あなたをはじめてフィルムに収めたあの日を思い出すから、なんて。
告げればきっとその頬をゆるめて、単純な子ね、などと笑われてしまうんだろうけど。それでもわたしにとって冬はとても大事で、大切な思い出で。
一歩、二歩、駆けて、振り向いて。雪に残ったわたしの足跡をたどるみたいにゆっくりと足を進めるキャロルにピントを合わせ、一枚、シャッター音に反応して顔を上げたところを一枚、うれしそうに笑みを深めたところをもう一枚。
「無駄遣いばっかりして」
「あなたを収めるためのカメラだからいいんです」
「あら、口が上手になったものね」
「本当のことですよ」
シャッターを切るたび、ファインダーの中の彼女が距離を詰めて、ついには手のひらで視界をさえぎられて、だけどね、と。少しばかりすねた調子で。
「ちゃんとあなたの眸で見つめてくれなきゃいやよ」
(どれだけ切り取ったって現実のあなたに敵いはしないのに)
2018.1.9
女であってもすることは同じだと思っていた。
控えめに主張する先端を口に含んで、ちう、とやわらかく食んで。やわく痕の残ったそこを舌でなぞり、指先で弾いて。男のそれを愛撫するときとなんら変わりないと、そう、たかを括っていたのに。
「ひ、…ぁ、あ、アリアン、ナ、さん、」
かわいらしくこぼれる声のまま、私の名前を口にする、たったそれだけなのに、背中を撫でられたみたいにざわりと逆立つ気配。深いなそれではなく、むしろ真逆の快感が押し寄せる。
無垢で清純な乙女を暴いていくという背徳と、感じたことのないいとおしさがあふれてとまらない。こんな感覚、私は知らない、だっていままでに経験したことがないから。男と身体を重ねているときには胸に浮かぶことさえなかったから。
未知の感情に動きをとめた私の肩に頭を預け、大きく息をついた彼女はそうして乱れた呼吸のまま、アリアンナさん、ともう一度。
「…ゆっくり、して、ください」
「―…ごめんなさいね、」
そのお願いはきいてあげることができそうにないの、と。おざなりな断りさえ中途半端に返し再び、熱を持つ華奢な身体をかき抱いた。
(おちていく、あなたに)
2018.1.9
まるで、たべられているみたいだ。
「イデュナ…、もう…っ」
「なにが『もう』なのかしら」
笑んだ彼女の、なんと意地の悪いこと。意味していることはわかっているはずなのにそれでも攻めの手を緩めようとはしない。焦れるほどゆっくり腰をゆらめかせ、ようやく果てが見えてきたかと思えば動きをとめ、そうして彼女は口角を上げる、どうしてほしいのと、何度でも問いかけてくる。
そのたびに、早く解放してくれとねだるのに、まだだめの一点張り。汗のにじんだ胸板に手を当て、舐めとって。まだたりないわと、そればかり。
私はどう言葉を尽くせばいいのだろうか。君がほしいとこぼしても、愛をささやいても、彼女は一向に受け入れてはくれない。否、受け入れてくれてはいるのだが、言葉通り、たりないと。まだまだたくさん心をさらけ出さなければいつまで経っても苦しいままだと、そう、言っているのだ。
「…イデュナ、」
なあにとばかり首を傾げた妻の頬に手を伸ばす。気の遠くなるほど長い間弄ばれたせいかしびれの走る指でそれでも頬を撫で、くちづけを送って。
「もう、許してくれないか」
「──残念。まだ許してなんてあげないんだから」
(寝込みを襲われたおひめさまはご機嫌ななめ)
2018.1.10
ロレーンにとってのわたしって、なんなのかな。
──ただの同居人よ、この子は
同僚だというその人に向けた返答がずっと、頭の中をぐるぐるとめぐっていた。
身体を重ねてはいるけど、別に告白したわけでも、されたわけでもない。だからといって友人かと問われても、もうその言葉の枠には収まりきらなくなっている。
勝手に、思いこんでいた。わたしたちは恋人同士なんだと。言葉少なな中でだけどたしかに心を通わせているんだと、そう。
「…わたしって、なんなんだろ」
「なに言っ、て、…デルフィーヌ?」
思わずこぼれた呟きに振り返ったロレーンは、だけどわたしの顔を見とめて眸を丸める。ぽろぽろ、涙が止まらなかった。
わたしは、わたしだけは特別だと。ロレーンの一番なんだと、想われているんだと。だけどそれは自惚れて、わたしの単なるひとりよがりでしかなくて。
「ああもう、泣かないでよ」
早く泣きやまなきゃと思えば思うだけ雫があふれ世界がぼやける。くしゃり、珍しく動揺したふうのロレーンが前髪をかき上げて、だって、と。まるで子供のいいわけみたいに。
「―…恋人だ、なんて、言うの、はずかしいじゃない」
小さな呟きさえ聞き逃さなかった耳のおかげでまた、目の前のロレーンがにじんでいって。
(口下手すぎる、わたしの恋人)
2018.1.14
「じゃあ、浮気。しましょうか」
あんまりにも自然にそう言うものだから一瞬、その言葉の意味を理解することができなかった。必要以上にまたたきを繰り返すぼくの目の前で、彼女はビールを一息にあおる。
「だれとだれが」
「わたしとあなたが」
「浮気を?」
「浮気を」
「…本当に?」
「冗談だったらもっとそれらしく言いますよ」
字面だけを見れば冗談そのものなんだけど、彼女はいたって真面目で、そもそもそんな冗談を口にするような人ではなくて。
眸がぼくを覗きこむ。澄んでいるなと、思った。このひたむきな眸に、ぼくはいつだって助けられてきた。いつだって支えられてきた。できればだれよりも近くで見つめていたいと、かつて願ったことが、あった。
「…だめですよ、やっぱり」
「だめ、かあ、やっぱり」
くしゃりと、彼女が笑った。泣き出しそうな笑み、だった。
(どうかなにもかも冗談だとわらって)
2018.1.21
まるでテンポの悪い小説のようだと、だれかが言った。
語りたいのが恋愛なのか、友情なのか、家族なのか、裏切りなのか、絶望なのか、まるでわからないと。詰めこみたいだけ詰めこんで、あとは時がどうにかしてくれるのを待つばかりの、あまりに不出来な人生だと。
そのだれかは果たしてだれだったのだろうか。わたしのもとを去ったかつての恋人か、わたしをひとり取り残していったかつての夫か、それともかつてのわたし自身の自嘲であったのか。
もう、忘れてしまったけれど。
「―…せさん、…柳瀬さん、ちょっと、聞いてます?」
「え、…あ、ごめんなさい」
「もう」
そうしてわずかばかりのつながりを持った彼女も遠くない未来、思い出せないだれかたちと同じくわたしの前を通りすぎていくのだと、大した感傷もなくそう思っていた、のに。
酔いを頬に映した彼女はどうにもふわふわとした調子で、けれどまっすぐにわたしを見つめ、だから、と高らかに。
「柳瀬さんは、この宮原楓がしあわせにしてみせます!」
(この小説は、わたしの人生は、一体どこへ帰結するのか)
2018.1.23
自分の叫びで目が覚める、なんて。
「──っ、デルフィー、」
夢の続きかと訝るほど、あたりは闇に包まれていた。がばりと上体を起こした勢いのまま隣を確認すれば、あれだけ大声を出したにも関わらず小さく寝息まで立てているその名の持ち主が変わらずそこにいた。
もう勝手にいなくなるはずないのに、私は繰り返し見てしまう、あの夜を。まぶたの裏にまで鮮明に刻まれた、あの光景を。
二度とこの子をあんな目に遭わせないと誓ったのに、なにがあっても守り抜くのだと自分自身に課したのに、誰よりも私がその言葉を信じられないだなんて。
我知らず震える手を伸ばし、けれど指先が彼女の前髪に触れるよりも先にぎゅ、と握りこむ。
もし、触ることができなかったら、と。都合のいい幻を見ているだけで、本当はひとり、ベッドで身体を起こしているだけなのではないかと。そんなわけないのに、そんなはずないのに。
言い聞かせたって治まらない鼓動を落ち着かせたくて、両の膝を抱えこむ。眸を閉ざして、開いて。ひとりきりの肌に、やわらかな寝息がとける。
「ん、う…、ろれー、ん…」
こぼれた寝言はうそか、まことか。
(一体いつからこんなにもよわく、もろく、)
2018.1.25