ぐつぐつとおいしそうな音が部屋に満ちていく。 「今日の晩ごはんは、」 「ブリと大根の煮物ですよ」  いいブリが安く手に入ったんです、と楽しそうに彼女が言う。  彼女の頭越しに鍋の中身を覗いてみれば、なるほどたしかに、ほどよい色に染まった大根が見え隠れしていた。  そのまま彼女の頭のてっぺんにあごを預ける。彼女は女性としてはきっと平均的な身長だろうからおそらく、ぼくがうんと高いのだろう。この位置も角度もなんとも言えず心地よく、こうしてしばしば休息させてもらっている。 「片山さん」 「はい」 「邪魔なんですけど」 「でもいた煮立たせてるだけですよね」 「そりゃあまあ、そうですけど」  彼女が口をとがらせる気配。それほど長い付き合いでもないけど、簡単な表情の変化くらいならわかるようになってきた。彼女に言わせてみれば、まだまだ女心の半分も理解できていませんよ、だそうだけど。  そうしてしばらくぐるぐると沸く音だけをBGMにしていれば、あ、と彼女が思い出したように声を上げる。 「一味。部屋に忘れてきちゃった。取ってきてください」  そういえばぼくの娘は香辛料が好きで、なんにでも振りかけたがる。  わたしは火のそばを離れられないからと言われ、ぼくだって離れがたいんだけどなと思うのは心の中でだけ。自室である302号室を抜け、合鍵を取り出し303号室へと踏み入る。  いつ来ても整頓された部屋だと感心しつつ一味を手に取り、再び廊下へと出ればちょうど、中学校から帰ってきた娘と遭遇した。 「あ、おかえり、くれは」 「ねえ。お父さんともみじさん、もう結婚したら?」  呆れた調子の娘を前に、ぼくはただ首を傾げる。  302号室からは、ぼくの名前を呼ぶもみじさんの声が聞こえていた。 (パパと娘とお隣さん)  2018.1.29
「キャロルぅ…」 「なぁに」  しぼり出すように洩れた声は背後から。恨めしさがこもったそれにひとり、頬をくずす。だってかわいらしいじゃない、わたしが振り向かないからってふてくされているだなんて。わたしの行動で一喜一憂してくれているだなんて・  本音を言えばいますぐにでもその子供みたいなテレーズを視界に収めてぎゅっと抱きしめたいところだけれど、ここは我慢、もう少し焦らしてからの方が、うんとえくぼを深めた彼女に出逢えるから。  わたしの肩越しに両腕を回してきているテレーズは背中に張りつき、諦めを含んだため息をひとつ。ぬくもりがつたってくる。  そろそろ顔を向けなければ機嫌を損ねてしまうかもしれないと、さっきから役目を果たしていなかったペンを置いて、 「──…っ、な、に、」  うなじに落ちた、唐突な熱。一瞬、肌に吸いついたそれが首筋から否応なしに熱を広めていく。  なにかが触れた箇所を手で押さえ慌てて振り向けば、いたずらに笑んだテレーズがぺろりと舌を覗かせていた。あかい、あかい舌。 「最初にいじわるしたのはあなたですよ、キャロル」  あれだけ見たかったえくぼが、深く、刻まれていた。 (一体どこで覚えてきたのよ、こんなこと)  2018.1.30
 それは小さな違和感だった。 「うん?」  自身の口から間抜けにも飛び出した声とともに首をかしげる。なにかはわからないけど、捨ておくこともできない感覚。  腕を組み口をへの字にゆがめるわたしを、双子の姉が怪訝な顔で見つめてきている。遺伝子的には同じだというのにどうしてこう、それぞれの性格をそのまま映したようなつくりになっているのか。  しばしまじまじと見返していればそのうち、ぷ、と。こらえきれず、といった様子で吹き出した我が姉は珍しくもおなかを抱え、くつくつとのどを鳴らす。 「ねえあなた、なに考えてるのか知らないけど、面白い顔してるわよ、すっごく」  失礼な、と。そんな言葉が浮かぶよりも先に出てきた感情は、 「あ、そっか、わかったわ」 「なにがわかったっていうの」  まだ笑いを残したままそう尋ねる姉の頬にそ、と触れ、くちびるを寄せる。一瞬なにをされたのか理解できないふうに眸を丸め、それからぼ、と湯を沸かせそうなほど赤く染まって。 「かわいく見えちゃうの、今日のヨセフカ」 「な、に、言ってるの、ばかっ」 (それが今日は、なのか、今日も、なのか)  2018.2.5
 手がすき。ロレーンの手は特に、すき。  彼女の右手を両の手でにぎにぎ、マッサージみたいに。無駄な脂肪がひとつもついてないんじゃないかと思うくらいにすらりと伸びた指も、きっと殴られたら痛いんだろうなってくらいにごつごつ飛び出た関節も、まだ生々しい痕の残る甲も。  ロレーンの手が、というより、ロレーンの手だからすき、なんだろうけど。  ふふ、と。それまでされるがままだった手の持ち主が、口の端を楽しそうに持ち上げる。いつからこんな穏やかに笑ってくれるようになったんだっけ、と。ううん、きっと、わたしの前ではいつだって。 「くすぐったかった?」 「いいえ、誘ってるのかと思って」  だとしたら期待に応えてあげなくちゃね、だなんて。左の指にはさんでいた煙草をもみ消し、そのままわたしの頬を包みこんでいく。おおきなおおきな、手。 「え、と、わたしべつにそんなつもりじゃ、」  そんな反論、聞いてもらえないんだろうけど。わかっててわざと言ってるんだ、ロレーンは。  そうして今夜もわたしは、だいすきな手に、さらわれていく。 (心も身体も、なにもかも)  2018.2.8
 こういう雰囲気は苦手。だって調子が狂うじゃない。 「…なんか喋りなさいよ」  いつもはうるさいくらいに回る口がけれど今夜ばかりはぐっと押し黙ってしまっている。  さっきからずっとこうだ。ホルモンがなんたらとか運動量がどうたらとか高説垂れて、この沈黙をかき消してくれはしないかと期待するのに、見下ろしたくちびるはきゅ、と引き結ばれたまま、まるで緊張しているみたいに。緊張なんて、生娘でもあるまいし。  かくいう私ののどもからからに乾いているし、彼女の顔のすぐ横に突いた腕だって情けないくらいに震えているけれど。 「…モーラ、」  びくり、肩が大袈裟なくらいに跳ねる。伏せたまつげが持ち上がり、おびえる子犬みたいにうるんだ眸に私を映して。 「喋らないなら、キス、するよ」  息を呑む、気配。しんと静まり返った寝室に、それはひどく響いた。逸らしたいのを我慢しその眸を見つめ返す。やわらかそうなくちびるが誘うように震える。ジェーン、と。耳に慣れた声がそっと落ちる。 「…喋らない、わよ、わたし」  聞き遂げるより先に、そのくちびるを奪い去る、だって返事はとうの昔に知っていたから。 (はじめてのよる)  2018.2.8
 かの偉大な先生様がなんとも珍しいものを読んでいた。 「俗世の事情に興味がおありで、アイルズ先生?」 「あら、わたしだって週刊誌くらい読むわよ、リゾーリ刑事?」  雑誌からちらと顔を上げたモーラは、けれどすぐ視線を戻しページを繰る。芸能人の恋愛事情だったり胡散臭いオカルトだったりが載っているゴシップ誌は、彼女になんとも不釣合いだ。彼女いわく、押収品をちょっと検分しているだけとのことだけれど。 「そんなことよりジェーン、わたしね、ここに行きたいの」  雑誌を眼前に差し出してきたモーラは、きらきらと眸を輝かせてさえいた。一体なににそんな興味を惹かれたのか、はいはいと視線をやれば、極彩色にきらめくどこぞの部屋の写真。 「…あんたこれ、なにするとこだかわかってるの?」 「このベッド、回転するみたいなの。七十年代のジャパンで流行していたんですって」 「風営法違反よ、完全に。…じゃなくって」  二の句を継ごうにも、彼女はもはや聞く耳を持っていないことは明らかだ。ため息をつき、携帯電話を掴む。 「ほら、早く支度して。取締りに行くから」 「管轄外じゃない?」  とんちんかんな返しをする先生様にはどうやら建前というものから教えないといけないらしい。 (その回転するというベッドで、ね)  2018.2.8
 ああもうすぐだと、知らず、歩調とともに心音も早まる。  もうすっかり通い慣れた廊下を駆け足で。どうかほかの先生に見咎められませんようにと、祈るのもいつものこと。あの角を曲がればすぐ。 「わ、と、」 「っ、せん、せ、」  接触しかけた身体をすんでのところで急停止、少し高い位置で驚いたみたいに丸まったその眸に、止まらずにぶつかっちゃうのも手だったな、なんて、いたずらな思考に走るのはどこかから見つめてきている冷静な私。 「こーら、廊下は走っちゃだめでしょ」  覚えのある表情が驚きから笑みへ変わっていく。親しみのこめられた言葉に、だけど私はただすみませんと、小さくつぶやくばかり。だっていままさに目指していた図書室でしか会わないとばかり思っていたから。突然出てくるなんて、卑怯だ。  そんな理不尽なやつあたりを心の中でぶつける私の顔を、どこか子供っぽくもある先生の眸が覗きこむ。間近にせまったきれいな表情にまた、心が跳ねて。 「ほら。行くんでしょ、図書室」 「―…はい」 (ああもうほんと、ずるい)  2018.2.18
 延々と続く作業にもいい加減飽きが差しこみはじめてきた。 「ああもうつかれた。かえりたい」 「今朝からずっと言ってるじゃない、それ」  隣で同様にキーボードを叩いている彼女が、画面から視線を外すこともせずそんなことを言う。適当な言葉にこちらから顔を向けてみても、かたかたかたと変わらぬテンポ。  ちょっと扱いが雑すぎるんじゃない、と返すことさえ億劫で、代わりにためていた息をはき出した。酸素と一緒に疲れも抜けてしまったらどんなにか。 「抜けるわけないでしょ」 「すごい。なんでわかったの」 「わかるわよ、あんたの考えそうなことくらい」 「じゃあいまなに考えてるかわかる?」 「エスパーじゃないんだけど」 「このあとデートしてくれるなら仕事がんばろっかなって」  同じくため息をついた同僚はそこでようやく手を止め、くるりと椅子を回転、呆れた様子でこちらに向き直る。もしかしてばかなんじゃないのと、その表情が語っていた。負けじと見返してみればそのうち、はあ、と息がもうひとつ。 「…早く終わらせなさいよ」 (エンドを打つのはもうすぐ)  2018.2.18
 かける言葉も、相手も、間違っているのだと思った。 「…それ、私に向ける言葉じゃない気がするんだけど」  おずおずと切り出した言葉に、そうだその通りだと自分で納得する。  だっておかしいじゃない。後輩である彼女は、いつもお世話になってますからといった文句でかわいらしい包みを差し出してきたけど、彼女を世話した覚えも世話された覚えもない。あえて挙げるなら隣の席だとか、たまにお昼を一緒に食べるだとか、その程度。  だというのに彼女いわく、なにかと気にかけてもらってますしと。いわく、仕事のアドバイスをもらっていますしと。それらしい理由を連ねながら次第に頬を真っ赤に染め最終的に、わたしの気持ちごと受け取ってくださいと。  これはたぶん、勢いからつい飛び出した言葉だ、そうに決まってる。けれど顔を上げた彼女はいまにも泣き出しそうな眸で、そんなわけないじゃないですかと。 「だから、先輩がすきなんですってば!」 「…あ、はい、ありが、とう?」  意識した途端、頬に熱がともる。格好悪いと思いつつも抑えることができない、だって私も、本当は彼女のことを。 (格好つかないけれど仕方ないじゃない、だってずっと、)  2018.2.18
 小さなきっかけで言い合いになるのは、いつものこと。せっかくいい雰囲気だったのに、どちらからともなく不機嫌を露わにして、その原因がわからないのに相手に伝わるのはいやな空気ばかり。  今日だってそう、わたしと一緒だっていうのに好きなアイドルにばかり夢中で。やきもちを抱えるのはお門違いだとわかっていながらそれでもふくれてしまって。そのうち馬乗りになってまでの大喧嘩。 「そっちだってアイドル追っかけてるくせに!」 「それとこれとは別でしょ!」  どこか聞き覚えのある文句に、もう口に馴染んでしまった文句で返す。  わかってる、一言謝ってしまえば、やさしい彼女はすぐに表情をゆるめてくれるってことくらい。けれども年齢とともに頑なになっていった意地がそれを許してくれない。なんて面倒くさい女なんだろうと、自分でさえ感じるのに。  見下ろした眸が険をともすも、けれど急に、申し訳なさそうにゆるんでいって。ちゅ、と。頭を持ち上げた彼女がくちびるをわたしのそれに重ねる。 「ごめんね」  先に謝るべきは、年上であるわたしのはずなのに。どこまでもわたしにやさしい彼女に今日も甘えて、くちづけを返した。 (ちゃんと、ごめんなさいも添えて)  2018.2.18