久しぶりに空を見上げたタイミングがよかった。
「きれいな満月」
私の抱いた感想がそのまま、隣から聞こえてくる。彼女もきっと同じように夜空を仰いでいることは、次いで洩れた息からも察することができて。
こうして月を見つめるなんて、いつ以来だろう。なんだかんだと忙しく過ぎる日々の中でいつの間にか、空の見上げ方さえ忘れてしまっていたかと思ったけれど。久方ぶりに帰路をともにした彼女の促すままに視線を持ち上げてみればこんなにも簡単で、こんなにもゆるやかに時は流れていく。
はあ、と。洩らした息が白く軌跡を残していく。
「さむいね」
彼女の言葉に合わせて同じものがもうひとつ。夜空にたどり着く前にどこかへと消えていく。
ポケットに入れたままだった手を外気に触れさせ、その勢いでふと、冷えきった彼女のそれをつかんだ。驚いたふうにこちらに向ける視線に気付かないふりをして依然、首は上向かせたまま。
「もう少しだけ、月、見ていたいから」
(久しぶりなんだからいいでしょ、なんて)
2018.2.18
ぽん、と。頭のてっぺんに降ってきたのは、覚えのあるぬくもり。無意識に手で追いかければあっという間に離れていって。視線を持ち上げればさかさまの笑顔が映って。
「根詰めすぎ。少しはやすんでください」
まだまだ舌足らずなくせに口調ばかりが大人びて、まったくかわいげがない。なんて、本人に言おうものなら、今晩は食事抜きですなんて怒りかねないから心の中でだけ。
大体わたしが座ってなくちゃ見下ろせないほどちいさいくせに大人の真似事をするなんて、と、これも留めておいた。だっておなかはもう、この子のつくる絶品の夜ごはんを求めていたから。
「ごはんできたの?」
「開口一番それですか」
「そんなむずかしい言葉どこで覚えてくるの」
「学校ですよ、当たり前でしょ」
そんなことよりごはんできましたよ、と。また、頭をぬくもりがさらっていく。この子はことあるごとにわたしの頭にふれていく。なんでだろうと、つむじに両手を当てて考えていれば、ふと、大人みたいにやわらかな微笑みが向けられて。
「撫でるとすっごくしあわせそうに笑うの、知ってます?」
(ぽんぽん、と、また、ぬくもりにつつまれた)
2018.2.18
見上げた空が深かった。
「また夜更かししちゃった」
足にすり寄ってきた猫を抱き上げ、そうひとりごちてみれば、んにゃあと一声。わたしには関係ないですよと言わんばかりのそれに浮かぶのは苦笑ばかり。
別にすき好んでこんな真夜中まで起きているわけじゃない。ただ、連絡がこないかと。同じく夜を更かすのが得意なあの子が、私に連絡をよこすなんてきまぐれを起こすんじゃないかと。そんな期待を毎晩、懲りずに抱いてしまっているだけ。
猫の鼻に自身のそれを突き合わせ、ふ、と。これは自嘲。
「ばかね、私」
傍らに置いた携帯電話が鳴ってくれるはずはないのに、そんなこととうの昔に悟っているはずなのに、それでも私は律儀にも待ち続けてしまう。
あるいは愚かだと、私と付き合いの長いこの生き物がしゃべろうものならそう笑ってくれそうだけれど、生憎にも人語を操ることのできない愛猫はまたにゃあと、あくびにも似た鳴き声をひとつ。いつもならここで逃げ出してしまうのに、けれど今夜ばかりは暴れることもなく大人しく腕のうちに収まってくれていた。
「…やさしいのね、あなたは」
ごろにゃ、と。声がやけにやさしく響いた。
(みんなあなたみたいにやさしければいいのに)
2018.2.18
ルールは存在すると思っていた、どんなものにも。そう恋にだって。出逢って、言葉を交わして、親しくなって、自然と惹かれて、想いを告げて、そうして結ばれて。
段階を踏んでいくことに疑いを抱いたことも、違えてきたこともなかったのに。
「どうしたの?」
覗きこんできた眸にすぐ、思考がかき乱されていく。まだたいして親しくもない彼女を奪ってしまいたく、なる。
そもそも彼女は私よりうんと年齢を重ねているし、私に興味があるかもわからないし、第一恋愛対象がどちらであるかも知らないし。否定要素をひとつひとつと積み上げていくのに、そのひとつひとつを順を追わず一度に乗り越えてしまいそうな自分がこわかった。
大体すぐこうやって無防備な表情をさらす彼女が悪いのよと、相手のせいにする始末。
またたきで動揺を逃し、さっきまでの会話に戻っていくけれど、内容なんて頭に入るはずがない。紡ぐ声がきれいだとか、まつげが長いだとか、表情すべてがかわいいだとか、そんなことばかりが頭を占めて。
けれど彼女が最後に決まって口にする言葉だけはいつだって、耳にとどく、うんざりするほど。
「あなたが友達でよかった、本当に」
(ルールなんてないのに、私は今日も自分に強いて、)
2018.2.18
ときに夢の続きではないかと疑う朝も、ある。
「おはよ」
陽射しよりもやわらかな声にまたたきをひとつ、ふたつ。
まだ覚醒しきっていない頭が、だってと繰り返す。だって起きてすぐ、いとおしい子の表情を視界いっぱいに収めることができるなんて。わたしが目覚めて最初に映す人がこの子であることも、最初に耳にする声がこの子のものであることも、最初に挨拶を交わす相手がこの子であることも、なにもかもがまだ、信じられないのだもの。
またたきばかりで一向に身体を起こそうとしないわたしに焦れたのか、仕方ないなとばかり苦笑して。笑みが近付く、くちびるにやわらかな感触。なんだか甘いにおいがしたなあと、寝ぼけた頭で思ったのはそんなこと。
「…今日の朝ごはん、なあに」
「フレンチトーストだよ」
「はちみつは」
「たくさん。だからはやく起きて、冷めちゃうよ」
上体を起こそうと距離を詰めた彼女の首に腕を回して、もういっかいだけと無言のおねだり。今朝はあまえんぼうだね、と。再び重ねたくちびるはやっぱり、はちみつの味がした。
(とりあえず夢でないことはわかったわ)
2018.2.18
「先生、」
そう呼ばれていたのはもう何年も前のはずなのにどうしてだか、耳にしっくりと馴染んでいく。違う点といえばそう発する音が低く鼓膜に響くこと。あのときはまだ幼さを残していた少年が、立派な青年へと成長した証でもあって。
くるりと振り向き、けれど以前はそこにあったはずの表情が見えずふと首をかしげ。変わったのは声だけではなかったと視線を上げると同時、ちゅ、と。かわいらしい音が額に落ちる。
「…っ、な、な、なに、」
「お久しぶりです、イデュナ先生」
はるか上方の顔がふわり、まるでいとおしいものに向けるそれみたいに。額を押さえ、一体なにが触れたのか理解した途端、熱が広がっていった。
「せ、先生に、なんてことするの、アグナル!」
昔みたいに怒ってみたって、すぐ涙を浮かべていた少年はそこにはいなくて。そんなことよりもと、わたしの左手をすくい取った彼は腰をかがめ悪戯に見上げてきた。
「どうしてあなたを呼び戻したか、お教えしましょうか?」
そうして彼がくちびるを落とした先は、左の薬指、だった。
(教えるのはわたしの役目だったのに)
2018.2.19
赤い糸、なんて。
「おや、その様子だと今日も玉砕してきたんだ」
「うるさい。だまって慰めて」
「それが慰められる人の態度ですか」
不機嫌な物言いに嘆息しつつもぽんと肩をたたけば、全身の力が抜けてしまうんじゃないかと心配になるくらいのため息が隣からひとつ。寄りかかってきた親友はビールを口に含み、どこか遠くに視線を投げた。
叶わぬ恋だとわかっているのにどうして彼女は諦めようとしないのか。尋ねてみてもきっと明確な答えは返ってこなくて。あるいは私の中に存在しない回答を彼女に求めているようでもあって。
「そろそろ私あたりで妥協しといたら?」
「いやよ。わたしの赤い糸はあんたとはつながってないの」
赤い糸。彼女の口癖。けれどその真っ赤な糸の先が彼女の想い人に向かっているのかどうか、それさえも、彼女が口にしたことはなくて。問いかける勇気も、このなまぬるい関係を崩す覚悟も、私にはなくて。
いっそ誰ともつながっていなければいいのに、と。ひとりよがりに満ちた願いは、留めておいた。
(あなたに向かう糸は、どこに)
2018.2.20
うまれたての鳥は、最初に見たものを親と認識するらしい。
「鳥みたいよね、あなた」
たとえてみせた彼女はくすくす笑みを洩らし、だって、と。ふくれる私に気付いたのか、子供みたいな接続詞をこぼして言葉を続ける。だってあなたいつもわたしの後ろをついて回っているから、と。
それはあなたの背中がすきだから。いつまでだって見つめていたいから。だけど本当は隣に並び立ちたいのに、その眸に私を映して、やさしく微笑んで、だなんて。彼女に抱いた感情が親鳥に向けるそれとは違うことに果たして気付いているのかいないのか。鈍感な彼女のことだからきっと、愛情の色なんて疑ってもいないんだろうけど。
「ねえ、」
「ん」
「私が雛鳥だとして、愛情もって育ててくれる?」
上げた語尾の答えをけれど私は知っている。ずっと昔から本当の姉みたいな存在でいてくれた彼女がどんな言葉を返してくるか、容易に想像がつくから。
思った通りに浮かんだ笑みに、ちくり、心が痛む。頭をぽんと撫でられて。
「もちろん。いままでも、これからも、ね」
(裏切りにも似た想いに気付いてしまいませんようにと、)
2018.2.20
「さわりたかったんだもん」
「こどもか」
すかさず入った指摘にえへへと笑うのはいつものこと。呆れた彼女がまあいいよもうと諦めを口にするのも、お許しを受けたわたしが懲りずに身体に触れるのも、調子に乗らないのと彼女がまたふくれるのも、もう日課のようになっている。
元々ふれたがりだった。たとえば節の浮かぶ指に、たとえばほっそりとした二の腕に、たとえばくぼんだ鎖骨に。彼女を構成するものなら、なんにでも。
だけどそれは離れて暮らしていたころの話。こうして部屋をともにするようになれば少しはこのふれたがりな気質も治まるはずだと、そう思っていたのに。
「ねえ、飽きないの?」
ついにはくちびるをついばみ始めたわたしに、彼女が尋ねる、ともすれば少しの不安さえ覗かせて。
毎日ふれあって、だけどそのぶん早く飽きがきてしまったら、なんて。きっとそんなふうに考えているのだ、彼女は。飽きるはずなんてないのに。そもそも飽きなんて言葉は、少なくとも彼女に対しては存在するはずもないのに。
「大丈夫だよ、」
(さわってもさわっても、さわりたりないから)
2018.2.20
わがままはそのたったひとつだった。
「本当にここでいいのかい? 君が望むならもっと別の、」
「いいの。ここがいいの」
確認をこめて尋ねてみても、返ってくるのは相も変わらず淀みない眸。そうしてまた正面に視線を向けたイデュナは、シーツの上で重ねた指をぎゅ、とにぎってきた。
彼女が望むならどんなことだって叶えるつもりだった。どんなに豪華なプレゼントでも、どれだけ豪勢なディナーでも、どこか遠くへ足を運びたいと言っても。けれどそのひとつだって口にしなかった妻はただひとつ、あなたと明日を迎えたいんです、と。
並んでベッドに腰かけ、窓から月明かりを透かすイデュナの横顔を見つめる。月光に照らされた彼女は、年齢よりもうんと幼くも見えるし、うんと憂いを含んでいるようにも映った。
ともすれば一種の芸術にさえ思える彼女の隣に座るのは本当に私でいいのかと──なにももたない私が彼女のそばにいていいものかと、そんな不安もなにもかも見透かしているのであろう彼女はふと、視線を据え、ふわり、まるで女神のような微笑みで。
「あなたがいいの。──あなたじゃなきゃ、だめなの」
かちり、かちり。針の音がゆっくりと日付の変わり目を告げると同時、やわらかなくちびるが重なった。
(今日は君のうまれた日)
2018.2.24