息を、奪われる。
彼女がいつもまとうその香りにももうすっかり慣れたはずなのに、肌を重ねるその瞬間にはいつだって、わたしの呼吸をさらっていく。うっすら汗のにじんだ首筋から、血管の覗く手首から、果てはわたし自身さえも、甘やかに香り立つ気がして。
のどがきりきり締めつけられて、胸にぎりりと食いこんで。
ずるいひとだ、などと、身勝手な想いがひとつ。わたしに痕のひとつさえ残してくれないくせにその実、彼女を一番思い出してしまう手段を深く刻みつけてくるなんて。きっと身体の奥の奥にまで染みこんだそれはたとえ彼女がそばにいなくともふとした一瞬にわたしの息を止めにやってくるのに、そんな未来さえ、目の前で眸を閉ざす彼女は知らない。あるいはすべてを知ったうえでわたしに移していくのか。
承知の真偽を考えるのはとうの昔にやめたはずなのに。どちらにせよわたしにとって罰でしかないのに。それでもかたくなにわたしを映さない彼女がどうかわたしを想って罰を与えてくれていますようにと。願うのはいつだって、わたしばかり。
逃げてしまわないよう身体をかき抱き、無防備な首筋に顔をうずめる。胸に鈍い痛みが走るのも気にせず息を、すった。
(そこかしこにあるあなたのかけらがわたしをくるしめる)
2018.2.24
まるで犬のようだ。
「ロレーン、」
ほら、投げたボールを全速力で追いかけて、口にくわえてすぐさま戻ってきては飼い主の目の前にちょこんと座る、あの様子にそっくり。この子にしっぽでも生えていればきっとちぎれんばかりにぶんぶんと振っているのだろうけれど、生憎と残像は窺えず。代わりにまっすぐ私を映した眸がきらきらと、しっぽよりも雄弁に訴えかけてきていた、なでてほしい、と。
長期の任務をようやく終えたばかりだった。玄関を抜けるやいなや抱きついてきたデルフィーヌは帰宅から数時間経ったいまもそばを離れようとせず、そうして物欲しそうなこの表情。要は、きちんと留守を守っていたわたしを褒めて、とか、おそらくそんなところ。
珍しく疲れていたのかもしれない、そうでなければもう少し焦らして反応を楽しむところなのに、彼女の綻ぶ姿が見たいと、素直にそう、思ってしまって。
「ありがと、デルフィーヌ」
わしわし、頭を少々雑に乱して。まだ与えられないと思っていたのだろう彼女はぽかんと呆けたのち、嬉しさを顔いっぱいに広げる。そんな表情を前にこみ上げたいとおしさのまま、私の帰りを待っていた忠犬を抱きしめた。
(やっぱり私の帰るべき場所はここなのだと、)
2018.3.3
「ほらイデュナ、次はこっちだ!」
「ちょ、ちょっとまって、盛りだくさんすぎない…?」
抱えたプレゼントの山に埋もれ、肩で息をするわたしの返事なんて聞こえていないみたいに足取り軽く、前を駆けるアグナルはわたしの手を引き早く早くと気を急かす。
思えば朝からずっとこの調子だった。寝起きのわたしにハッピーバースデーと陽気な節に乗せて伝えた彼はまず春にぴったりのドレスをプレゼント、それから雪だるまが飛び出す細工時計に世界各国のチョコレート、街に繰り出してからは花束やらサンドイッチやらなにやら。どうやら国民たちにはこの計画を事前に伝え協力をあおいでいたようで、行く先々で素敵な歌と豪華なプレゼントを贈られた。
そうして陽が暮れてもまだまだ続く行程に、もうなにがきたって驚かないわよと、時計台の階段を息を切らして昇りながら思う。アグナルに荷物を半分持ってもらってようやく、最上階へとたどり着いて。
──光が、街を包みこんでいた。水平線へと消えゆく陽光が街を照らして、やわらかな影を落としていて。しばし視線を奪われ、そうして隣を見やれば彼が微笑んで。
「喜んでもらえたかな」
もちろんと、答えるよりも先に、笑い返していた。
(涙でにじませちゃもったいないわね)
2018.3.7
髪を通る指の感触が心地いい。くるくる鳴りそうになるのどを気持ちよさのままに反らせば、さかさまの姉の姿がひとつ。
「アナったら、まるで猫みたい」
くすくす、降ってくるのはやわらかな笑み。こんな体勢になってもエルサは依然、櫛と右手で丁寧に髪をすいてくれている。その姿が、微笑みが、なんだか懐かしくて。きっとうんと小さかったころもわがままな髪をこうして姉の手に任せていたにちがいない、あたしが覚えていないだけで。
「ね、エルサ」
「なあに」
やさしく響いた返事さえどこかで耳にした覚えがあって、また、胸につきりと痛みが走る。
「あたし、ね、よくおぼえてないの、小さいときのこと」
たとえばエルサと雪あそびをしていたこと。たとえばエルサに髪をすいてもらっていたこと。たとえば眠れない夜にふたりして羊を数え合ったこと。これはぜんぶぜんぶ、エルサに教えてもらって。あたしはそのなにひとつだって感覚でしか記憶していなくて。
「ねえ、アナ。忘れることは罪ではないのよ」
けれどエルサは変わらない調子で告げる、指が髪をすり抜ける、ふ、と、さかさまの表情が深まる、それに、と。
「私がぜんぶぜんぶ、覚えているから」
(何度だっておしえてあげるから、あなたとのこと)
2018.3.10
日々に馴染みのない、いろ。
「赤い飲み物がすきなの」
カップのふちをぐるりと撫で、水面を揺らす彼女はそうして微笑んだ、だれにも理解されないんだけど、と付け加えて。
「なんだか、非日常的で」
「わかんないです」
「わかんないよね」
やっぱり、なんて調子で苦笑をこぼす。浅い水面に苦い笑みが映る。くい、と飲み干しそのまま、彼女いわく非日常色をした紅茶を注ぎ足して。
ティーポットの口からつと、すべり落ちた雫に、ぞくりとのどが震える──それがあんまりにも赤くて、あかくて、まるで身体の内を流れるそれにさえ見えて。常ならば目にすることのないいろにどうしてだかかき乱されて。
彼女の感覚を完全に共有したわけではないけれど、それでもほんの少しだけ。きっと本能と呼べるそこが色に惹かれていることだけはおそろしいほどに理解できた。
「──きれいないろ、ですね」
(非日常はすぐそこに、)
2018.3.10
似ていると、思った。
「受け入れられた気分はどうだい、女王陛下」
私の眸に似ている、と。
陰気な地下牢に響いた声が反響し、鼓膜に残音を刻んでいく、その音さえどこか、ひとりぼっちだったころの私を映しているような気がして。片膝を立て冷たい床に座りこんだ彼は見上げてくる、その表情を自嘲で彩って。
「──僕と同じくせに、」
ばけもの、と。彼の口が動く。それはどこぞの公爵が私に向けたものと同じで、いいえそれ以上に嫌悪と嫉妬と呪いをこめて。おなじばけもののくせに。彼は繰り返す。
「どうして君はだれからも受け入れられ、僕はひとりこんな場所に閉じこめられているんだろうな」
「…それは、」
「愛がないから、だなんて、馬鹿げたことを言うつもりか」
愛だなんて。彼は吐き捨てる、そんなものが僕に向けられたことも芽生えたこともなかったと。愛などという言葉すら存在しなかったのだと。
「君だっていずれ、真実の愛とやらに殺される日がくるさ」
「─…ええ、そうね。いずれ、きっと」
笑い声を上げた彼はけれど、わずかなさみしさをにじませて。
(私たちはどこまでも似ていて、どこまでも対極で)
2018.3.10
思えば彼女がこれを外している姿を見たことがなかった。
「ゃ、…っ」
小さく息を呑む、音。はじめての拒絶に思わず手が動きを止める。くちびるを重ねても身体に触れても拒むどころかむしろ受け入れてくれていたのに、彼女がいつもまとっている蝶をあしらったそれに手をかけただけでこの反応。
なにがいけなかったのかしらと、働かなくなった頭がぐるぐると堂々巡り。だってここまできて視線を逸らされるなんて思ってもみなかったのだもの。動揺を隠せずにいる私の眼前で、きゅ、と。抱えるように左目を隠した彼女は消え入りそうな声を落とす。
「だめ、なの、ここは」
「…ほんとうに、だめ?」
ちゅ、と。さらされた甲にそっとくちづける、途端、大袈裟なまでに震えた身体がかわいそうにもなったけれど、それでも見たかった、彼女のすべてを。どうしてそこまでひた隠しにするのか私には到底わからないけれど、それでも彼女が許してくれるのなら、この覆われた左目に私を映してほしくて。
ちゅ。子供みたいなくちづけをもうひとつ。
「みせて、ぜんぶ」
甘くおねだりすればやがておずおずと手がしりぞいて。今回だけよ、なんて言葉を聞くのもそこそこに現れた左のまぶたにくちづけた。
(あなたのすべてをあいしたいの)
2018.3.14
はがれる瞬間を見てみたかった。
性急にくちびるを重ねる、吐息ごと奪い去る勢いで。一向に開いてくれない歯列を舌先でなぞっていく。きれいな並びね、と。呑気に思ったのはそんなこと。
ぐるりとなぞっていれば、やがて呼吸が苦しくなったのかつと隙間が開く、その一瞬を見逃さずするりと忍びこんだ。なりを潜めている舌を無理に絡めて、こちらへいざなって。たどたどしい反応から、慣れていないことは瞭然だった。その事実がまた、私の心を躍らせる、だって彼女にとって私がはじめてということに他ならないから。ファッションの道ばかりひた走ってきたせいでだれともくちづけたことのないという、彼女の言葉を証明していたから。
もちろん私だって人のことは言えないけれど、それでも目の前でぎゅっとかたくまぶたを閉ざしてしまっているその人よりは経験があるわけで。それでもはやる心を抑えつけるのに必死で。
引きこんだ舌先を強めに吸えば、私の肩をつかんでいた指にぐ、と力がこもる。わずかに離れたくちびるの間で吐息がゆれる、それに甘い色が含まれている気がして。
「グロー、リア、」
私を名前を紡ぐくちびるから紅が、はがれ落ちていて。
「─…すきよ、カルロッタ」
私のくちびるはきっと、彼女の紅と同じいろ。
(そうしてくちびるさえ私のものに)
2018.3.15
「…そんな目で見ないで、グローリア」
「どんな目よ」
「どうしてしないの、って目よ」
視線を逸らした彼女の横顔はどこかばつの悪さを含んでいる。
わかってるならすればいいのに。募る恨み言をこめてじ、と見つめればやがてちらと眸だけがこちらを向いて。ああもう、だなんて。こぼれた言葉はため息まじり。
「だって、しちゃったらやめられなくなるでしょう」
その言いわけは何度も聞いた。はじめて耳にしたのはたしかショーの三十分前にねだったとき。ならショー以外の時間なら大丈夫なのかといえば、いつどんなにせがんだって与えられないまま、件の言葉を投げ顔を逸らす始末。
うそばっかり、と。自然、ふくれる頬をそのままに息をひとつ。
「本当はしたくないだけのくせに」
背中を向け、すねた子供を装って。去りかけた私の手首をだけど熱が包みこみ、振り返ったと同時にくちびるを奪われた。逃げられないようご丁寧に後頭部に手まで添えて、ぐ、と深くくちづけを。下のくちびるを軽く食んで、色さえぬぐい去るみたいにぐるり這わせて。
あなたって子は、なんて。一瞬離れたくちびるが、呆れたように息をこぼす。
「─…やめてって言葉はきかないわよ」
(言うはずないのに、そんなこと)
2018.3.17
ん、と。小さく洩れた声に、背筋が震えた。
「…っ、だから、つけないでって、」
「ここなら見えないでしょう?」
見下ろせば、真っ赤に残った痕がひとつ。決して私の紅が移ったわけではないそれに、わき上がる歓喜にも似た感情を抑えられない。華のように可憐な彼女に、私だけの華を咲かせたかったから、だなんて。おもちゃをひとりじめしたい子供のようだと、自分でも呆れかえるものの、きれいに咲いたそれを前にすれば呆れなんてするするとほどけていった。
胸元より少し上、ドレスを引き上げればなんとか隠れる位置。明日もショーが控えているのは重々承知しているけれどだからこそ、痕を刻みたかった、彼女が私のものであるという証を。その実ほかの誰にもこの色を見せたくないとも思っているのだから本当、自分勝手にもほどがある。
くちびるをもう一度落とし、念には念を入れ同じ箇所をきつく吸い、歯型を少しおまけして。身体がびくりとこわばる、鈴の音にそっくりな声が甘さを含んでこぼれる、私の背はまた、満たされた欲に震える。
ちゅ、と。最後に軽い音を残してくちびるを離す。恨めしさ半分、期待半分に濡れた眸に、口の端を持ち上げてみせて。
「──ほかの誰にも見せてはだめよ」
(言いつけを守る子だということも知っているけれど)
2018.3.19