夜のさなかに目覚めるなんて珍しい。
ぱちり、またたきをひとつ、眸はまだ、この深い闇に慣れてはくれない。アメリカンウォーターフロントとはまた違う、しんとした静けさになぜだか心細さがつのる。
「起きてしまったの?」
そ、と。落ちた声は夜にとけそうなほどちいさくて、やわらかくて。言葉をかけたその人の姿はまだぼんやりとした見えないけどきっと、まぶたを閉じたそのときのまま、目の前にいてくれているはず。
早くその表情を捉えたくてまたたきを繰り返す私の指がぎゅ、とにぎりこまれる。いつの間に手をつないでくれていたんだろうかと、首を傾げても浮かばないからたぶん、私が眠っているうちに。彼女はいつも、私が夢の世界に落ちるまで眠りに沈もうとしないから。
手のひら越しに伝わる体温がじんわりと私に染みこんでいく。さっきまでの不安も心細さもなにもかも覆いつくし代わりに眠気を差し出してきて。もうまぶたが重い、まだ彼女の眸さえ見れていないのに。
「寝れるなら寝ておきなさい、私はずっとここにいるから」
彼女の声がぼわぼわ響いてかたちをなくして。ああできればこれから訪れる夢の中にも彼女がいてくれますように、だなんて。最後に願ったのはそんなこと。
(だってあなたのいない夜はさみしすぎるから)
2018.3.21
彼からの手紙は爽やかな潮の香りも一緒に運んできた。
ポップに楽しくを信条とした彼らしく、明るい文面に跳ねるような筆致。何度か文のやり取りをしているけど、彼の手紙はいつも笑みを与えてくれる。
さて今回の内容は、もうそこまでせまった春の祝祭について。去年に引き続き今年も私たち四人のデザイナーに声をかけてもらったものだから、その日に向けて各々作業に励んでいた。
彼らと迎える三度目の春に、心が躍らないわけがない。開催日をいまかいまかと待ち望む私と同じ気持ちが、広げた手紙にあふれていた。
三日後を楽しみにしてるよ、と。締めの文章はけれどそれではなく。
『カルロッタにも伝えておいてね!』
「…それならカルロッタのところにも送ればいいのに」
口調とは裏腹にゆるり、持ち上げる口の端。どうやら彼には全部お見通しみたいだ。
腰を上げ、ベッドルームへと引き返せば、彼が名を記したその人はまだシーツに包まれ静かに肩を上下させていた。いとおしさに笑みは深まっていくばかり。ベッドの縁をきしませ、まぶたにひとつくちづけを落とせば、やがてふわりと眸が顔を出して。
「──おはよう、カルロッタ」
(あと三日、)
2018.3.24
「え、」
「ああ、久しぶりだな、カルロッタ」
動きを止めた私とは対照的にさして驚いたふうもないその男は、軽く片手を上げ応えた。グローリアに頼まれごとをしていてな、と。小脇に抱えた箱を指してみせるけれど、私の頭は依然働かないまま。どう言い訳しようかとそればかり。
「グローリアは留守なのか?」
「え、あ、少し買い物に…、あの、私、」
「じゃあこれを渡しておいてくれ」
祝祭前にちょっと顔が見たくなったから寄っただけだとか、ここからの方がハーバーに近いからだとか。必死に集めた口実を返す暇もなく箱を手渡される。意外と重量のあるそれをどうしてこの男は顔色ひとつ変えずいかにも軽そうに持ってきたのかと。いいえ、いま考えるべきはそこではなくて。
「ヒューゴー、私がここにいることに深い理由はなくて、」
「仲がいいんだろう、お前たち、いいことじゃないか」
こともなげにそう笑うものだから、言い訳もなにもかものどの奥にすべり落ちていってしまった。彼から見た私たちはつまりそういう認識なのかと、去り行く背に軽く息をついて、
「あ。そういえばグローリアが言ってたぞ、カルロッタが寝かせてくれないって」
なに余計なことを教えてるのよ、あの子は。
(あと二日、)
2018.3.25
その背中が少しだけ、遠く感じて。
「なにを見てるの、カルロッタ」
「─…海を、」
隣に並んでみても、その横顔は私に向けられないまま。仮面を取り去った眸が見つめるのは、暗く凪ぐハーバー。いよいよねと、こぼれた声には隠しようのない喜びがにじんでいた。
明日、だ。ついに明日から、春の祝祭が開催される。三年目も変わらず、いいえ去年以上に熱を入れて準備してきた。それはきっと、彼女も同じ。
だけど開催を目前にして、私らしくない不安に襲われていた。私は彼女の隣に並び立つ資格があるのかと。追いかけてきた背中に少しでも近付けたのか、なんて。
もちろんいちデザイナーとしての技術もプライドも自他共に認めるほどではあるけど、それでもこうして彼女のそばにいるとどうしたって自問してしまう、果たして彼女と同じ景色を見ることができているのか、と。
そ、と。視線も思考もハーバーの向こう側に投げていた私の手にぬくもりがふれた。首をめぐらせてみれば、やわらかく細められた眸と出逢って。それだけで見透かされたなにもかもを、ぜんぶぜんぶ、受け止めてもらえた気がして。
「明日。楽しみね、グローリア」
「──ええ、とても」
彼女の眸にはただ、私だけが映っていて。
(あと一日、)
2018.3.26
春が爛漫と咲き誇っていた。
紅を引き、太陽色のスカーフを手に取って、息をひとつ。
「忘れ物よ」
ふわり、頭にやわらかな重みが加わる。定位置に帽子を据えてくれたカルロッタはつと距離を空け、これで完璧とばかりに微笑んだ。その表情があんまりにもいとおしく浮かんだものだからつられて同じ表情が顔を覗かせる。
なんだかはじめて会ったときよりも素敵になったわねと、思ったのはそんなこと。もちろん彼女はもとから美しく気高かったけど、四人で互いのよさを分かち合ったあの日からうんと魅力が増した気がして。そのひとつに私もたしかに含まれているという事実がなによりもうれしくて。
「ねえ、グローリア」
「なあに」
「いまのあなた、出逢ったときよりうんと素敵よ」
もちろん出逢ったときだって素敵なデザイナーだったけれど、と。続けた彼女の眸が細められる、まるで慈しむように、いとおしむように。そんな彼女に、私が伝える言葉はひとつだけ。
「──あなたのおかげよ!」
そうして手を取りふたり、駆け出して。
私たちの春は、これから。
(Enjoy youe Fashionable Easter!!)
2018.3.27
だってだって、昨夜はあんなに余裕たっぷりだったのに。
「─…はじめて、だから…」
「………んん?」
指の隙間からか細く洩れた声に思わずすっとんきょうな返しをしてしまう。相手の表情を窺おうにも両の手ですっかり顔を覆ってしまっていて、だけどその甲は隠しようのないほど朱に染まっていて。恥ずかしがっていることはたしかなのだろうけど、それよりもさっきの言葉の意味を問いたかった。
つい昨日の触れ合いがよみがえる。はじめて、なんて。あんなに慣れた手つきで私を翻弄していた彼女が。思い出すのさえ憚られるほど乱してきた、当の彼女が。
「昨日、も、あなたをちゃんと満足させられたのか不安で、」
ともすれば泣いているのではと心配になるほど震えた声で続けるものだから、こみ上げるいとおしさのままぎゅ、と抱きしめた。びくりと身をかためるその仕草ひとつあいらしい。
昨夜あれだけ触れてきた仕返しに今夜は私が乱してあげようと思っていたけど、予定変更。代わりにやさしく、ゆっくり、包みこむようなあいを、彼女に。
「ねえ、カルロッタ」
「な、なに」
「たくさんたくさん、あいしてあげる」
(それが私のあいしかた)
2018.3.28
私にしてはすこし、のみすぎたのかもしれない。
「ねえカルロッタ! ちゃんと聞いてるの?」
「ん、きいてるわよ」
自分の声さえぼわぼわと、まるで水のなかにいるみたいに。熱っぽい目元をこすって。メイクがいくらか落ちてしまったかもしれないけれど、いまの私の有様をみているのなんて目の前であきれた表情をむける彼女くらいしかいないのだしべつにいいかと、気にせずグラスを手に取る。
「聞いてたらもうひとくち、なんて思わないはずよ」
口をつける寸前、掠めとられてしまう。おもわず頬をふくらませれば、そんなかわいい顔したってだめよとたしなめられて。
「飲みすぎよ、明日に響いちゃうわ」
そんなことをいわれたってのみたいものはのみたいのだからしかたがない、なにせ口がさみしいのだ、もっともっととせがんできかないのだ、そう彼女に訴えようにも舌はうまくまわってくれそうにない。
もったいないからとグラスの中身を口にふくんだ彼女のいろづいたくちびるに自身のそれを重ねて、のみこんでいこうとする液体を無理に奪って。口のはしからつとこぼれていくけれど、まあ、いいか。
こくり、のみくだしたアルコールがもたらす眠気にまかせ眸をとざせば、こまったひと、なんて声がさいごにひとつ。
(こんなすがたをさらせるのはあなただけ)
2018.3.29
──まるで彼女が夜そのものみたいに。
ちゅ、と。彼女がリップ音を響かせるたび、紅をぬぐい去ったくちびるが触れるたび、細かなしびれが指先から全身へと駆け抜けていく。こらえきれず視線を向けてみれば、それまで伏せられていた眸がちろりと持ち上がり、深い色が私を呑みこんで、そう、じわりと侵食してくる夜みたいに。夜色がなによりも雄弁に誘いをかける、はやく手袋を取りなさい、と。
信じられない、だって夜更かしはだめよなんて諌めたのはいままさに爪のかたちをなぞるくちびるだというのに。明日もショーがあるでしょともっともらしい理由をつけて、そのくせ私の我慢を無駄にするみたいに指先をもてあそんで。
その手には乗ってやるものですかと、くちびるを噛みしめる。肌を重ねたいのなら素直にそう言えばいいのに、いつだって彼女は卑怯で臆病でいじわるだ。
覗いた真っ赤な舌が爪の先をゆっくり這う、手袋越しのもどかしい感覚に知らず肩が震える、ぐぷり、私の反応を見逃さなかったくちびるが左の薬指を呑みこんで、生々しいぬくもりにつつまれて。
ようやく伸びた右手がカルロッタの身体を押し留め、そうしておそるおそる、素肌を覆っていた手袋を取り去る。
目の前のくちびるが、勝ち誇ったように弧をえがいた。
(くやしいけど今夜も私のまけ)
2018.3.30
「はい、ここまで」
「むう。まだ足りないわよ」
「そろそろ仕上げないと間に合わないでしょ」
不服そうにとがるくちびるを指で制し、余裕を取り出し微笑んでみせる。本音を言うなら私だって、いくら重ねようと満足するはずがないけれど、彼女より年上な手前、一緒になってわがままを口にするわけにはいかない。それにたまにはこうして大人をかざしてみるのもいいものだ。
かわいらしくふくれる彼女に最後にひとつだけ、額に落として。頬はますます張るばかり。仕上げの口紅を引いていないからか、普段よりうんと幼く映る。まるでちいさな女の子みたいねとくすくす笑みをこぼし、自身の衣装と同じ色の口紅を取り出して。
「あ、まって、カルロッタ」
その手をグローリアが押し留めた。顔を上げれば、先ほどまでのふくれっつらはどこへやら、いいことを思いついたとばかりに満面の笑みを浮かべていて。
こういう表情を見せたときの彼女は大抵、言ってもきかないことが多いから、思うままにさせようと無抵抗でいれば、彼女自身の手で紅を引かれて。
「これならずっと、私とくちづけているようなものでしょ?」
くちびるを彩るのは、彼女と同じ真っ赤な口紅だった。
(せっかく取り出した余裕はどこへやら)
2018.3.31
「たまにはカルロッタからキスしてくれたっていいじゃない」
「あら、じゃあしてあげましょうか」
ふんわり笑って、なんでもないことみたいに返された言葉に思わず目を丸める。キスをねだるのもくちづけるのも、いつだって私から。それがなんだか癪で冒頭の文句を向けてみれば、なんともあっさり了承されたというわけで。
「──なあんて。すっかりだまされたわね」
どう返答したものかと迷っている私の目の前でくすくす、こらえきれないといった様子で笑みをこぼした彼女は種明かしをする、つまりはジョークだと。エイプリルフールということで少しからかってみたくなったのだと。
おかしそうにおなかに手を当てる彼女にむうと頬をふくらませてみせて。けれど視界の端に壁掛け時計を見とめ、にやりと、笑うのは私の番。
「だけどもう正午を回ってるわよ、カルロッタ?」
うそをついていいのは午前中だけでしょ、と続けて。文字盤を仰いだ彼女の表情に途端、朱が差す。
「ほら、早くしてくださる?」
ん、とくちびるを差し出す。律儀なカルロッタのことだ、一度口にしたことはきっと遂げるだろうと見越していれば案の定、頬を真っ赤に染めながら子供みたいなくちづけをひとつ。
「ああもうっ、慣れないうそなんてつくんじゃなかったわ!」
(時計が進んでいることに彼女が気付くのはまた別のお話)
2018.4.1