それは私たちにとって一番やさしくて、一番残酷なうそ。
「ね、エルサ」
ふ、と。まぶたを開けると同時、目の前の薄氷色の眸がゆるり、またたく。きっと妹もいましがた目覚めたのだろう、まだどこか焦点の定まらない色に、少しばかり雫を張って。それだけ、たったそれだけで、妹の言わんとしていることを察して、じわり、私の視界もにじむ。私たちはどこまでも正反対で、どこまでも似ているから。
「─…パパとママの夢を、見たのね」
昔と同じ呼称をそ、と。いまだけはそれが相応しい気がして。取り出した懐かしいそれに、アナの口角が悲しく持ち上がる。姉さんはなんでもわかっちゃうんだね、と。
「パパとママが、ね、帰ってくる夢を、みたの」
たどたどしくこぼれた声は、いまにも消えていきそうだった。
わかってしまったわけではない、だって私もついさっきまで同じ世界にいたのだから。暗い海の底深くに呑まれたはずの父と母が私たちのもとへまた姿を現すなんていう、甘い虚構に沈んでいたのだから。
「ふたりとも全然、かわってなかった。三年間いなかったことがうそみたいに笑って、抱きしめてくれて。大きくなったな、なんて。パパがね、目元をくしゃくしゃにして、あたしの頭をなでてくれたの」
あふれた涙がシーツに吸いこまれていく。私を抱き留めてくれた母のぬくもりがよみがえる、まるで本当にあったことみたいに。眉尻を下げ微笑んで、あなたも随分立派になったのね、なんて。夢の残滓が私を、私たちをこんなにも、苦しめる。
涙で頬を濡らしているというのにそれでも無理に笑おうとする妹を腕の内に招き入れる。ぎゅ、と。小さな子供みたいに寝間着を握りしめて。夢の体温が静かに上書きされていく。うそでつくられたぬくもりが本物へと変わっていく。
「エイプリルフールだから、かな、だからこんな、夢、」
「アナ、」
「夢とはいえ、うそつくならもうちょっと現実的なものを、」
「アナ」
びくり、妹の身体がこわばる。おそるおそる見上げてきた薄氷色が私をとかしこむ。大丈夫よと、言葉にする代わりに額にくちびるを落とした。この子はいつだって抱えこんでしまうから。いつだって、ひとりだったから。けれどいまは、私がいる。両親が姿を消したあの日のようにひとりぼっちで悲しみを流すなんてことはもう、させたくないから。
「私が一緒にいるわ、ずっと」
「…ずっと?」
「そう、ずっとね」
「うそじゃない?」
「あら、これ以上ないほどに正直者なのよ、私」
「なんだかそれ、うそっぽい」
「まあ。失礼ね」
くすくす、胸元に笑い声が響く。つられてこぼした笑みがしっとり濡れていたからきっと、私も妹と同じように雫をあふれさせていたのかもしれない。
けれどもう、こらえる必要はないから。この涙が凍ることはもう、ないから。妹が私に愛を与えてくれたように今度は私が、この胸いっぱいの愛をそそいで。思い出させてくれたぬくもりを分け合って。音をなくしたそれを隠すことなく流せる喜びをいまはただ、噛みしめて。
「エルサって、あったかいんだね」
ぎゅうとすり寄ったアナが、たしかめるように呟く。その声はもう、震えていなかった。
「エルサ様、アナ様! 失礼いたします!」
割りこんできたのは性急なノックと裏返った声音。返答する前に飛びこんできたゲルダは、無礼をお許しをとの一言をそこそこに、上下する肩をなだめることもせず、雫をいっぱいにためて。
「船が──国王と王妃を乗せた、船が、」
ゲルダまでそんなうそを、なんて、返せる雰囲気ではなかった、その眸は真剣そのものだったから。ついいましがた信書が届いたのですと、手紙を握りしめて。
こらえきれなくなった妹が腕の内から抜け出て、窓を開け放つ。
「…エ、エルサ、」
呼ばれるよりも先に駆け寄り、妹と同じく見つめるのははるかに広がる海。見とめた光景にまた、視界がにじんでいった。
「─…パパ、ママ」
昔の呼び名が自然、こぼれていく。
こちらへ向かって走る船には、アレンデールの国旗がはためいていた。
(そこにはたしかな現実がひろがっていた)
2018.4.1
一体全体なにに腹を立てているのかとんと見当がつかない。
首をかしげる私に余計怒りを煽られたのか、ますます頬をふくらませたグローリアは─そんな仕草さえあいらしいなんて告げれば本気で口をきいてもらえなさそうだからと微笑みをどうにか抑える私に幸いにも気付いた様子もなく─私の衣装の裾にきつい視線を投げる。
「だから! 裾!」
「裾がどうしたっていうのよ」
「もう少し気を配らないと、その、…見えちゃうでしょ!」
恥ずかしさを隠すように語尾を強めて。彼女の言わんとしていることにようやく思い至り、今度こそ隠せなくなった笑みを浮かべた。
つまりは強風にはためく衣装が気になって仕方がないのだと。自分以外のだれかの視線が私の身体に注がれるのがいやなのだと。続けた彼女の声が次第に落ちていく。
「要するに妬いてる、ってことかしら」
「妬いてなんか、」
「そうであれば、私はうれしいけれど」
「…私はうれしくないわよぉ」
ついには涙声になってしまったかわいい彼女の頭を引き寄せ、はいはいとなだめる。そのまま耳元にくちびるを近付け、いたずらに笑った。
「あなた以外には見せないから、安心なさい」
(そもそも見せられるわけがないじゃない、内太腿の痕なんて)
2018.4.2
鉛筆の走る音、本のページを繰る音、んんという私の思案声と、背後から時折こぼれる小さな吐息。昼下がりの陽が差しこむ部屋に響くのはたったそれだけだった。一体どんな小説を読んでいるのか、気にはなるけど私は私でアイディアを描き留めるのに夢中で。行儀悪くもソファのひじ掛けに両足を上げ、カルロッタの肩に背中を預けて。
ん、と。振り返りもせず左手をカルロッタの眼前にかざせば、手のひらに消しゴムが乗せられる。勢いあまって引きすぎた線を消してもう一度差し出せばまた、彼女の手によって机へと返っていく消しゴム。
彼女いわく、あなたって甘え上手よね、とのことで。私だってもういい大人なのだから彼女に頼りきりなのもどうかと思うけど、それでもこうして突然押しかけた私にわけを聞くこともなく背もたれになってくれたり、黙って作業させてくれたりするのはとてもありがたい。カルロッタのそばにいるといろんな案がどんどんと湧き上がってくるのはきっと、彼女が居心地のいい空間を与えてくれるから。
ああだけど、そろそろスケッチブックとにらめっこするのにも飽きてきたわね。そう息をつき左手を差し出せば、あたたかなぬくもりがふれて。ぐいと引き寄せられ、振り向いたくちびるが彼女のそれに触れた。
「──本当、甘え方を知ってるわよね、あなたって」
(だってあなたが甘やかしてくれるから)
2018.4.3
海に向かって歌うことがもう、毎朝の日課となっていた。
紡ぐは再会の歌。どうか心にえがくただひとりに届きますようにと。叶わないことは知っているけれど、それでもどうかと願わずにはいられなくて。
「──さすがの歌声だ、ヴェール」
拍手は背後から。感嘆を含んだ声は、いまなによりも聞きたかった音そのもので。弾かれたように振り向けば、帽子を脇に抱えたその人が恭しく腰を折り、久しぶりだな、なんて。
「ホッ、ク、さん…、あなたって人は…!」
「わ、っと」
思わず手が出てしまっていた。振り上げた手首を、けれど軽々とつかまれ逆に腕の内に引きこまれてしまう。だまされるものですかともがくのに、力で敵うはずもなく。
だってこの人、わたくしが差し上げた手紙にただの一通も返事をよこしたことがなかったのに、なのに突然顔を見せるだなんてそんなの、そんなのずるい。
怒りを向けるわたくしの耳元にすり寄った彼女は、すまないと声を落とす。
「どう書いたものかと悩んでしまって。…手紙を前にすると、君への想いがあふれてしまって。だから直接伝えようと」
「…そんな言葉にだまされませんわ」
「だますつもりはないよ、本当のことだから」
やさしく耳をつつむ言葉に、ぎゅ、と。ようやく腕を回した。
(春だって夏だって冬だって、あなたが恋しい)
2018.4.4
無意識にこぼれた、ただそれだけだったのに。
「も…、や、だぁ…っ」
「──あら、じゃあやめる?」
ふ、と。それまで私のそこかしこに触れていた指が唐突に動きを止めた。ぴたりと密着していた身体が離れていく。去りゆく熱にすがるように意思よりも先に伸びる腕。その手首をつかみ微笑んだ彼女のなんと意地の悪いこと。
もしかするとこれは昨夜のしかえしなのだろうかと、頭の隅にひらめいたのはそれ。きっと昨日思うさまになかせすぎたから、だからこれはその、意趣返し。
ほんのり差し込む月光が、彼女のまっさらな肌をあやしく照らし出す。点々と、責めるみたいに浮かび上がる痕。あんなにたくさんつけていたのかと──私の身体にも同じものが同じだけ刻みつけられているのだろうけれど。
空いたもう片方の指先がつ、と。胸の影をなぞるようにかたちをたどって。もどかしい触れ方ひとつにさえ反応を示す身体。
「やめていいの?」
彼女は問う、このまま身を離していいのかと。中途半端な熱を与えるだけ与えて放り投げてしまってもいいのかと。わかっているくせに、ぜんぶぜんぶ。それなのに彼女はただ、私のたった一言を待っていて。
「─…やめない、で、グローリア、」
「よくいえました」
(そうして眸をほそめた彼女の勝ち誇った顔ときたら、)
2018.4.4
蝶が、舞っていた。
「ようこそ、仮面舞踏会へ」
私をエスコートしたカルロッタは恭しく腰を折る。その言葉を合図とばかりにワルツが流れ出し、周囲で歓談していた人々がめいめいにステップを踏みはじめ。
老若男女種々多様な参加者はみな、蝶をあしらった仮面を身につけている点で揃っていた。この舞踏会の主催者であるカルロッタも普段の左目だけを覆う仮面ではなく、翅を広げる蝶を模したそれ。私も同じく、黄金色の蝶の仮面を張りつけて。
こうしていればまるでこの空間と同化するようで──ようやく私も彼女たちと同じものになれたのだ、と。一体なにものに、なんて、深く考えるのはとうの昔にやめていた。いまはただ、森を満たす音楽に身を投じて、手を取る彼女にすべてをまかせて。
ワン、ツー、スリー、ワン、ツー、スリー。足を踏み出すたび、身体を揺らすたび、ひとり、またひとりと姿を隠していく、あとにはきらきら光る残影ばかり。そうしていつしかその場に葉、私と彼女と軽やかなワルツだけ。
グローリア、と。吐息とともにこぼしたカルロッタがぎゅうと、いっそう強く引き寄せる。覗いた眸が艶やかに笑む。
「──これでずっといっしょ、ね」
「──ええ、ずっとよ、カルロッタ」
(そうしてあとには紫と黄金の鱗粉だけが残された)
2018.4.5
グローリア、と。落ちた名前はひどくやさしかった。なあにと、応える代わりに首を後ろへともたげれば、狙いすましたくちづけが額に降って。
「隙だらけね」
くすくす、私を見下ろすさかさまの笑顔につられて頬が綻んでいく気配。今日の彼女はなんだか雰囲気がやわらかい。指摘したところできっと、あなたと一緒だからよ、なんて返されそうだけれど。
ソファの背越しに両腕を回してくるカルロッタにふと、浮かぶ笑みをそのまま向けて。
「ここにはくれないの?」
くちびるをつと、指で示せば、いっそう深まった笑みが落ちてきて。
「望むならいくらでも」
こぼれた言葉ごと、呑みこんだ。
(ほしいわよ、いくらだって)
2018.4.6
「ねえ、カルロッタってば」
それまで砂糖を振るうばかりだった声に拗ねた調子もまざる。きっとかわいらしく頬をふくらませているであろうことは振り返らなくたって容易に想像がついて。こらえた笑みはおそらく気取られていないはず。
件の彼女はといえば、私の視線をなんとか取り戻そうとさらに密着してくる。背に触れるぬくもりさえ私を責める、なんで振り向いてくれないの、と。
だって簡単に求めるもとを与えてしまってもつまらないじゃない。焦らして、ねだらせて、諦め離れていってしまう前に飴をふくませる、それが私のあいしかた。
グローリアが私のうなじにくちびるを落とす、ねえ、と、子犬みたいな伺いを合間に挟んで。開いた本の内容なんてもうとうの昔に右から左だけれどそれでも集中しているふりを続け、彼女がもっととその先を欲するまでじっと耐える。
回された両手がするり、襟から胸元へと忍びこんで。くちづけの数が増えていく。
「カルロッタ、…だめ?」
「ちゃんと言わないとわからないわよ、グローリア」
ぐ、と息を詰める気配。きっと真っ赤に染まっているであろう熱い額が押しつけられ、さわりたいの、と。
本を閉じ、しかたのない子ねと装いつつようやく振り向きくちづけを、与えた。
(しかたのないのは私のほう)
2018.4.6
あら、これは意外な発見。
「かわいくなんかないわよ」
「まだ言ってないわ」
「そう書いてあるのよ、顔に」
どうやら隠しきれていなかったみたい。もう次の言葉を察知されているのなら遠慮なく言ってしまおうと口を開いたところで逃げ出そうと画策したものだから、その両手首を素早くまとめシーツに縫い止めもう一度、カルロッタの前髪をかき上げた。普段は垣間見るばかりのまっさらな額が露わになる。
「なん、で、こんなときばかり力が強いのよ、あなたっ」
ぐぐ、と。縛りあげた手が私を押し返そうと躍起になるも、そもそも体勢的に不利なのは目に見えていて。いつになく険のこもった視線を向けてくるけど、なにしろ前髪をかきわけているものだから幼さの方が前面に出てしまっていて正直、意地を張る子供のようにしか見えない。なんてかわいらしいの。
「かわいくないって、」
強情な彼女の額にくちびるを落とせばびくり、組み敷いた身体が震える。ちいさな女の子みたいにまぶたをぎゅっと閉ざしている姿を見るとなんだかいじめてしまっているようで。それでもかわいい、だなんて、懲りもせず思ってしまって。
「とてもかわいいわよ、カルロッタ」
ついに音となった形容詞に、さらした額が赤く染まった。
(かわいさと弱点を同時に発見してしまうだなんて、)
2018.4.7
事前に注意しておかなかった私も悪い。悪いけれども。
「あなたねえ…」
こぼれる呆れが止まらない。私の胸に顔をうずめるようなかたたいでしがみついてきているグローリアは、ごめんなさい、とくぐもった謝罪をひとつ。だからといってこの状況が好転するわけではないけれど。
ディナーの前に少し散歩しましょう、なんていう彼女の提案が発端。傾いた陽光が葉の隙間からこぼれる森をまるで踊るように進んでいく背中に、ころばないのよと、浮かぶ微笑みのままに忠告して。子供じゃないのよ私、と。くるくるステップを踏みながら楽しそうに応える彼女の視線の先──ああそうだ、あそこは。
それ以上進んではだめよと叫びながら早足で追いかけたものの時すでに遅く、捕獲用の罠を切ってしまった彼女ごと網の中に捕らわれ、いまに至るというわけで。
グローリアを抱きこむように宙に吊り下げられたまま、ため息をひとつ、ふたつ。先ほど通りがかった蝶に息を吹きかけサロンへと放しておいたから、伝言を受け取ったモデルのだれかがいずれ助けにきてくれるとは思うけれど。
ぎゅう、と。グローリアがいっそう抱きついてくる。
「…ずっと高い場所にいるのは、苦手だわ」
陽に透ける髪を撫でながら、まあたまにはいいかもしれないわね、なんて。
(だってあなたが素直に寄ってくれるんですもの)
2018.4.8