ぎしり、軋む床に慎重に足を落とす。それでも音を殺しきれなかったようで、目の前の背中が弾かれたみたいに振り返った。
「エルサ、」
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったのだけれど」
アナがこっそり目尻をぬぐう様子は、見ないふりをした、きっと妹も望んでいないだろうから。そうしていつも通りの太陽を思わせる笑顔を浮かべた彼女は、びっくりしちゃったわ、なんて。その手には見覚えのある古びた人形。
「サー・ヨルゲンビョルゲンじゃない」
「うん、エルサのおともだちにちょっと挨拶をね」
人形にくちづけたアナはおどけたふうに肩を竦めてみせる。
この子はいつも姉さんのそばにいてくれたんだよね、と。ふとかげった眸を向けて。
「姉さんがつらいときも、悲しいときもいつだって隣にいて。一緒にいられなかったあたしの代わりに寄り添ってくれてありがとうって、お礼を言ってたところなの」
妹と距離を置いていたのは私の方だというのにそうこぼして。ひとりぼっちじゃないんだねと、自分のことのように微笑む妹の手ごと人形を引き寄せ、ちゅ、と。アナのくちびるが触れた箇所と同じところにくちづける。
「この子ももう、ひとりじゃないわ、だってくちづけてくれる人がふたりもいるんだもの」
(ひとりぼっちのこどもはもう、どこにも)
2018.4.8
あなたによく似合うはずだわ、と。
「つけてあげる」
なんとも上機嫌に笑ったキャロルが腕を伸ばし、耳を覆っていた横髪をかき上げた。耳たぶにふれる指先が想像していたよりもつめたくて思わずふるりと身体を震わせる。そんなわたしを気に留める様子もなく鼻唄までくちずさみながら、いま耳を飾っているピアスを外したキャロルは変わりに、さっき買ってきたばかりだというそれを取り出した。
「じっとしていてちょうだいね」
でないと傷つけちゃうわ。そうささやいた声がひどく身体の奥に響いて、艶やかにわたしの心臓をさらっていって。
まずは左のホールにひとつ。それから右のホールへと刺して、だけどまっすぐ入らなかったのか、ぴり、と鋭い痛みが走る。
かちり、キャッチを留めたキャロルは少し距離を置いてわたしを眺めると、完璧だとばかりに笑みを深めた。
「その。どうして急に、ピアスなんか」
「それはあなた、」
じわりじわりと痛みの範囲を広げる耳から意識を逸らしながら尋ねてみれば、表情を変えることなく──それでもどこか妖しさがまざったそれで、彼女はこぼす、赤いくちびるで。
「留めていないと、どこかへはばたいてしまいそうだからよ」
(そう、まるで自由な蝶みたいにね)
2018.4.8
つけてちょうだい、と。まるで母親にねだる女の子みたいに。
差し出してきたのはいつも彼女の首元を飾っているそれ。顔を上げれば件の女の子はおねがいと小首をかしげ、私の返事を聞くより先にくるりと背中を向ける。どうやら了承するものと踏んだらしい。一体どこにそんな自信がと半ば呆れるものの、彼女の頼みは断れないのが現状。いつの間にこんなに弱くなってしまったのだろう、私は。彼女が絡むと、特に。
仕方ないわねと、渋々といったふうを装い受け取り、改めて視線をもたげる。無防備にさらされたうなじが目をつむってしまいたくなるほどまっしろで、けがれがなくて。
これよりももっと似合うはずだわ、なんて。
「──今日はこっちにしましょう」
鏡台に落ちていた真っ赤なリボン。そちらを代わりに手に取って、彼女の首にゆるりと巻きつけ、結びつける、蝶のかたちにあしらって。鏡の向こう側でぱちりと驚いたようにまたたいた彼女は赤い蝶に触れ、それからにっこり微笑んで。
「そうね、たまには気分転換にいいかもしれないわ」
いとおしそうに蝶を撫でるその手つきさえもいとおしくて、ふと、指をさらい手袋越しにくちづける。
「よく似合っているわよ、グローリア」
私を象徴するそれを身につけさせた意味を果たして彼女は気付いているのかいないのか、真相は笑みに隠された。
(どうか気付いてしまわないでと、祈りをくちづけに織った)
2018.4.8
ただ前髪を直すだけのつもりだったの。本当よ、最初は本当にそれだけのつもりだったの。
「ん、っ、」
吹きすさぶ春風で絡まった私のストールと帽子の位置を調整し、これで完璧とばかり微笑んだカルロッタの前髪はいつにないほど乱れていて。思わず頬が綻ぶ。ちゃんとしなさいよ、なんて、私のことばかり気にして、自分だって子供みたいに風に遊ばれてるじゃないの。
前髪をふわふわ浮かせた彼女に笑みをこぼしながら手を伸ばして、そうして指先が額を掠めたところで、音が、洩れた。
たしかに目の前の彼女が発したものなのに、だけどいつもよりトーンは高く、そう、まるで私と更かす夜の気配を孕んで。
「──っ、あ、の、ちがうのよグローリア、ちがうの」
瞬間、カルロッタが頬といわず露わになった額までも朱に染めあげる。ちがうの、と顔の前で慌てて振る両手を捕らえ、ずいと近付けば行き場を失った朱がついに首筋にまで侵食した。
「なにがちがうの?」
そ、と。寄せた吐息で耳をくすぐれば、明らかに身体を震わせて。そんなかわいらしい反応を見せる彼女にいますぐくちづけでも送りたいところだけど、残念ながらまだショーは終わっていないから、代わりに頬を一瞬、すり合わせて。
「今夜、──待ってるわよ、カルロッタ」
(あなたに拒否権も、その意思もないことは知ってるから)
2018.4.9
当初はこうなる予定ではなかったのに。誘いをかけ、ベッドに引きずりこんでくちづけて。そこまではちゃんとイニシアチブを取っていたはずなのに、いつの間に体勢を逆転されていたのか。
そろりと見上げた眸が、まるでいたずらを思いついた子供のように笑む、ともすれば無邪気に。けれど身体を隅々を這う手つきは到底幼子のそれとは呼べなくて。
「あなた、いい加減に…っ、」
気丈に振り絞った声はけれど胸のいただきをきうとつまんだ指につぶされる。痛みと、しびれが、半分ずつ。その半分も、労わるようにやわりと触れたぬくもりにとかされ、甘さへと否応なしに変えられていってしまう。
「残念だったわね、カルロッタ」
ゆっくり、人差し指が身体の脇をたどり、それに合わせて背中が反って。なんてはしたないと、思うのは頭だけ。どこまでも素直な身体は彼女の与える刺激ひとつひとつに律儀にも反応を返してしまう。
ついにつま先までいき着いたグローリアがそっと足を持ち上げ、親指の端にくちづけを送る。びりびり、電流にも似たそれが瞬時に身体の内を駆け抜け、思考を麻痺させていく。にい、と。なんて意地の悪い、顔。
「今夜はあなたをなかせたい気分なの」
そうして再び落ちてきたくちびるにまた、翻弄されて。
(今夜は、じゃなくて、今夜も、でしょう)
2018.4.10
控室の鍵をおろした時点で、私の勝ちは決まっていた。
「ちょ、っと、カルロッタ…!」
「静かになさい」
振り向いたグローリアの手首を引き、ぐいと寄せて壁に押しつける。開いた口から文句が飛び出さないよう眼前にさらされたまっさらなうなじにくちづければ狙い通り、彼女のくちびるからかたちにならない吐息が洩れた。
すん、と。呼吸に合わせて揺れる髪に顔をうずめると、ショーのさなかに汗をかいたからだろうか、彼女の香水がいつもよりも強く香り立つ。めまいにも似た衝動が冷静さを覆っていく、いいえ、そんなものは数刻前の彼女によってとっくに奪われていたけれど。
首筋に、肩のほくろに、肩甲骨にと、見える肌すべてにくちづけを落としながら右手を身体に沿わせていけば、まって、なんてグローリアの慌てた声が降りかかる。
「ねえ、オーシャンたちが帰ってくるわ」
「鍵は閉めたから入ってこられないわ」
「でも声が、」
「あなたが我慢すればいい話でしょ、グローリア」
するり、たくしあげた裾から太腿を撫であげれば、殺しそこねた音が高くこぼれる。外に洩れてもいいと思っていたけれどこんなかわいらしい声をやっぱりほかのだれにも聞かせたくなくて、彼女のくちびるの隙間に指を差し入れた。
(それもこれもぜんぶあなたのせい)
2018.4.10
つまるところ焦っていたのだ、私は。
こちらを見上げる眸が驚きに染まっている、無理もない、だって前触れもなく引き倒したのだから、その反応は当然のこと。本当はちゃんと段階を踏むつもりだった。彼女を知って、私を知ってもらって。彼女のことをすきになって、私のことをすきになってもらって。
「グローリア…?」
だけどあんまりにも想いが傾きすぎてしまったから。あんまりにも、愛が募りすぎてしまったから。その心をつたえるだけの時間が、私には残されていなかったから。
つと、人差し指の先でたどったのどが震える。彼女であれば私なんか簡単にねじ伏せてしまえるはずなのに抵抗のひとつだってないまま。そんなやさしさにまた、胸がくるしみを覚えていく。特別な感情を抱いてさえいない相手にもそそぐ彼女の、残酷なまでの愛に。青白い首をいっそこの手で絞めあげ呼吸を奪えたならどんなにか、と、そんなこと、できるはずもない、のに。
「ねえカルロッタ、あなたは知ってるかしら」
眸に映りこむのは、いまだ見慣れない、私。
「──花の一生はひどく短いのよ」
そうして重ねたくちびるから花弁がはらり、こぼれた。
(花が散るまであと、)
2018.4.11
私の方がおねえさん、なのに。
「あら、もう限界?」
絡み合わせていた指を無意識ににぎっていたらしい。目ざとく咎めたカルロッタがふと、おどけたように眉を上げて。彼女の手によってぐずぐずにとかされた下半身がせつなく叫ぶ、なんでやめちゃうの、と、ともすれば恨みさえこめて見上げれば、ゆるく弧をえがいた艶やかな紅が意地悪くこぼす、だっておねえさんなんでしょう、なんて。
「私よりうんと経験豊富なあなたが、この程度で果ててしまうわけないじゃない」
ああ、数刻前の自分をとっちめてやりたい。いつも私より年上然としているカルロッタをせめてベッドの上ではリードしたいと胸まで張って主張していた自分を。体力も腕力もどの面においても、彼女に敵うはずなかったのに。本来ならば逆であるはずの立ち位置にこんなにも熱を帯びて。
太ももを撫であげる指先を追いかけるみたいにゆるり、はしたなくも腰がゆらめく。気付いているはずの彼女はけれどたしかな刺激を与えてくれることはなく微笑む、たのしそうに。
「ちゃんと我慢していてね、──お姉さま」
(年下のくせに、なんてえらそうなの)
2018.4.12
「どうして」
上がった語尾に、シーツを引き上げたグローリアは苦笑する、笑わないでね、と前置きして。
「だってあなたが、私だけのものではなくなってしまうから」
だからちょっとだけ春がはじまってしまうのがさみしいの、ちょっとだけね。続いた言葉は、ついに頭まですっぽり覆ってしまったシーツに吸いこまれていく。きっとわずかばかりに頬を染めているのであろう彼女にこぼれるのは笑みばかり。これはおかしさからではなく、いとおしさから。もっとも愛すべき春にさえ向ける嫉妬にまざった独占欲がこのうえなくうれしかったから。
ベッドサイドの机につと手を伸ばす。引き寄せたのは自身の化粧ポーチではなくシーツにもぐりこんだままの彼女のそれ。
「なら、これでいいかしら」
声につられたグローリアの眸がちろり、覗く。訝しむその目の前で、取り出した彼女の紅をくちびるに乗せた。私のものとはちがう、赤みの強いそれが彩って。しばらく驚きで丸まっていた眸が、それから意図を理解したようにきらめいて。
「これで私はいつだって、あなたのものよ」
ちゅ、と。ようやくシーツから抜け出た彼女がついばむようなくちづけをひとつ。春めいた紅が、彼女にも。
(こんなものがなくったって私はとっくに、)
2018.4.12
指先でかりかりと掻くようにあごを撫でさする。ん、と気持ちよさそうに目を細めて、けれど我に返ったみたいに眸を開き、ちがうわよと手を押しのけられてしまった。いつも思うけれど本当、ころころ変わる表情だこと。見ていて飽きがこない。
「あら、ちがうの」
「なんで不思議そうな顔するのよ! 私は猫じゃないわ!」
「だって物欲しそうな顔をしていたから」
私の返答にぐ、と言葉に詰まったグローリアはふいと視線を逸らし、そうじゃないわ、とふてくされたようにこぼす、そうじゃないの。いじけた眸の先は私の膝の上、丸まってすやすやと眠る木漏れ日色の猫。どうやら私をたいそう気に入ってくれたらしいこの子は最近よくここを訪れては定位置とばかり膝に乗り、早く撫でろと甘え声を出す。そのおかげで作業は見事に進まないけれど仕方ない、だってかわいいのだから。
「かわいいですべて許されるなら私だって…」
「あなたのことだってかわいくて仕方ないのよ、私」
「え、」
思ってもみなかった返しだったのか、ば、と顔を上げた彼女の髪につと触れ、地肌をかすめながら梳いてみせればまたきゅうと、両手で私の裾をにぎりしめて。
「かわいくなければこんなこと、するはずがないでしょう?」
(だってどことなく似ているのだもの、あなたたち)
2018.4.12