プロメテウス火山の影に隠れゆこうとする陽が、私たちの背を照らす。今日のショーも大成功、拍手と歓声がいまも耳の奥でやわらかに鳴り続けている。それはみんな同じらしく、疲れをにじませながらもめいめい顔を輝かせていた。 「それじゃ明日、また会おーしゃーん!」  冗談めかして手を振ったのは口調さえもポップな彼。去り際にヒューゴーの背中を勢いよく叩いたものだから、つられて彼も走り出す。追いかけるようにしてミラコスタへと消えるふたりを見送りちらと隣に視線を向けてみれば、まぶしそうに眸を細めるカルロッタの姿。彼女の左側を歩いているものだからその表情のすべてを窺うことはできないけどきっと、やわらかく笑んでいるはず。  ファッションショーの期間中はハーバーを臨むこのホテルに滞在し、部屋で各々英気を養いまた、祝祭で顔を合わせる。もう背中の見えない彼が言ったように明日も会える、そうではあるけど、だけど。 「カルロッタ、」  呼び止めた彼女がふと振り返る、その前にぎゅ、と。抱きしめるが早いかくるりと背を向け、また明日なんて挨拶もそこそこに駆けて。どうかどうか、身体に移した私の香りに焦がれて今夜はずっと、その持ち主を想ってくれますようにと。 (だけど私にも同じく彼女が残ってしまったのは大きな誤算)  2018.4.13
 深夜の廊下に響くノック音、間髪入れず扉が開き、部屋の主であるグローリアは驚きにその大きな眸を丸めた。次いで慌てたように、ちがうのよあなたの部屋に向かおうかどうしようか迷っていたわけじゃなくてただ偶然扉の前にいただけで、と言い訳を重ねる彼女の言葉を聞くのもそこそこに両腕を回し距離をゼロにした。  ぱさり、トレードマークの帽子が手から滑り落ちる。顔をすり寄せ太陽色の髪をかき分け耳元に鼻を近付けすん、と。夕方からずっと探していたこの、香り。ホテルの玄関口で突然抱きついてきたものだから衣装にも肌にも髪にさえもグローリア・デ・モードその人が残っていて。けれど着替えることもシャワーで洗い流すこともできなくて。 「あ、の、カルロッタ…?」  花の蜜にも似た甘やかな香りがどこか窺うように声を落とす。もう珍しく思うこともないほど慣れたつもりだったのにこんなにも焦がれてしまうだなんて。  深呼吸をもうひとつ。ぽっかりと空いていたどこかが彼女で満たされていく。いつから。一体いつから、彼女のそばでないと物足りなくなってしまったのか。この香りに包まれていたいと願うようになったのか。その答えはきっと、 「──今夜は、あなたの隣で眠ってもいいかしら」  ささやいた望みに、こくりと、香りの持ち主が小さく頷いた。 (あなたに出逢ったその瞬間から)  2018.4.14
 寝返り打つのももう何度目だろう。これでは皺が残ってしまうと嘆きながらけれど着替えることもできないままごろり、ああ、また。いたずらに鼻先をくすぐったのは先ほど別れたばかりの見知った香り。  普段であればその日のショーの出来を語り合いながら帰路につき、それじゃあまた明日と隣り合わせた部屋に入るのが常なのに。ホテルの玄関前で彼女が落とした私の名前はひどくさみしそうで思わず振り向けば、ぎゅ、と。やわらかな感触が、言葉にとけた切なさが、去り際に見えた朱色の頬がまだ、忘れられない。 「…グローリア、」  なによりもこの、におい。名前の持ち主をそのまま表したかのようなそれが衣装に移ってしまっていた。身体を動かすたび、寝転ぶたび、なにをしていたってくらり、まるで花の香に酔ったみたいに。いまあの子はなにをしているだろうかとか、なにを考えて──だれのことを想っているのだろうか、とか。頭に浮かぶのは隣室の住人のことばかり。  ああもう。堂々巡りにもいい加減嫌気が差し身体を起こす。思った通り少しばかり皺の寄った自分を気に留める余裕もなく廊下へ、そのまま隣室の扉の前に立ち。けれどノックするよりも先に開いたそこに立ちすくんでいたグローリアが驚いたように目を丸め、そうしてふわり、嬉しそうに頬をゆるめた。 「私、ね、いまちょうど考えてたの、あなたのこと」 (香りの主が恋しい、なんて)  2018.4.14
 恵みの雨だと。あんまりにもうれしそうに笑うものだから。 「まったく。どうして傘を差さなかったの」 「だって、…くしゅっ」  呆れられるそばからくしゃみを連発する私は服を着たまま湯船の中。カルロッタがひねった蛇口から湯気が立ちのぼり、このせまい空間を満たしていく。湯船の底につけたおしりから、足裏から、じんじんとしびれるようなぬくもりにつつまれる。勢いよく流れるそれが、窓を打ちつける雨音をかき消した。  予報通り降った雨は一日中衰える気配を見せず結局、本日のショーはことごとく中止。肩を落とす私を横目にけれど窓辺に寄ったカルロッタはどこか頬さえゆるませていて。みんな喜んでるわ、と。彼女はそう言った、自然が歌っているみたいだと。彼女の指すみんなとはつまり木や草花、それに動物たちのこと。息づくものすべてに愛をそそぐ彼女はよくこうして自然に想いを馳せることがあって。  つと、細めた眸が慈しみといとおしさにあふれていて。だから私もふれたくなった、カルロッタの言う、恵みに。彼女のあいするものを私もまたあいしたくて。  くしゅん。くしゃみはとまらない。かさを増す湯はまだ私の腰さえ濡らさない。ため息をつくカルロッタにお願いをひとつ。 「あなたも入ってくれたら早くあたたまれるんだけど」 (そうしてどうかそのあいを、私にも)  2018.4.15
 右手で視界を奪い、左手で首筋を撫であげる。ん、と弓なりに反ったうなじに半ば噛みつくようなくちづけを降らせれば、二度ほどトーンを上げた声が甘やかな音色をひとつ、背筋にしびれがつたう、触れているのは私のはずなのに。  ファスナーを口で下げ襟元をわずかにくつろがせる。見えた素肌にくちびるを落とす、背骨のひとつひとつを性急にたどって、どうか同じ快感が駆け抜けていますようにと。く、としなる背を見れば明らかなことをけれど私はいつも願ってしまっていて。 「んん、…っふ、カル、ロッタ、ねえ、」 「なに」  肌を距離を置くのももどかしくくちづけの合間にこぼせば、吐息が触れたのかふるりと震えて。かぼそい両の指が、彼女の世界をふさいだままの手に添えられる、まるですがるように。 「ね。手、つないでちょうだい」  許しを乞うように、ともすれば甘美な誘いをかけるみたいにつと、ゆるやかにたどる指に、ずくり、身体の内が熱を帯びる。 「あなたの顔、みたいの」  ねえ、おねがい。重ねた語尾はきっと私が彼女の願いを無下にできないと確信している。けれど、 「─…悪いわね、今夜はきいてあげられないわ」  おびえたみたいに竦む手を左のそれで絡め取り、壁に押しつけて。目の前のうなじにもう一度、歯を立てた。 (だってこんなに余裕のない顔、)  2018.4.16
 鍵もかけずに不用心よ、なんて注意はすぐどこかへ転がっていってしまった。だってこの部屋の主はまだ明るいうちだというのにすやすやと、ベッドで寝息を立てていたから。ふちに両手をかけすとんと、視線の高さを合わせるかたちで床に膝をつく。それでも彼女は眸を閉ざしたまま。  今日は生憎の悪天候。午前中のショーはなんとか敢行したものの、午後になって降り出した雨に公演中止を余儀なくされ、私たちデザイナーは早々にホテルへと引き返した。  こんな時間から部屋にいるのも落ち着かなくて、せっかくだからカルロッタとお茶でもと隣室をノックしてみても返事がなく。ノブを回してみればあっけなく開いてしまったものだから、鍵くらいかけたらどうなのと乗りこめば彼女はすでに夢の中。  指をそ、と。あどけなささえ浮かぶ頬にふれさせる、夢からさらってしまわないよう、慎重に。彼女がいつも遅くまで明かりを灯し、デザインを描き起こしていることを知っていたから。真面目すぎるのよ、あなた。自分は棚に上げふと、つぶやいて。  す、と。私の声を聞き留めたようにゆるり、眸が覗いた。またたきをひとつ、ふたつ、やわらかな相好をくずした彼女が手を伸ばしてするり、私の頬からあごにかけてを撫で、引き寄せた鼻の頭にくちびるを落とす。寝起きだからか、いつもよりうんと高い体温の心地よさに思わず目を細めて、 「─…おはよう、ジェラトーニ」 (木洩れ日色の猫に心を焦がすのはまた別のお話)  2018.4.17
 ざあ、と。髪をさらう風は目の前で人のかたちをとった彼女自身が巻き起こしたもの。それまで藤色の翅を震わせていた優美な蝶が同じ色をまとった艶やかな女性へと身を移すのに、またたきほどの間も必要なかった。本来の姿である蝶も、目の前で浮いた前髪を整えている”彼女”も、もう飽きがくるほど見つめてきたというのに、蝶から”彼女”へと姿を転じるその一瞬だけは何度見ても心を揺さぶられる。  きれい。浮かんだ単語をそのまま音にしてしまいそうになり慌てて口元を押さえれば、ふいにカルロッタが視線を投げた。 「あら、いたのねグローリア」 「人を呼びつけておいて、随分な言い草ですこと」  腕を組み、ふいと顔を逸らす。機嫌なおしてちょうだい、なんて。くすくすこぼしながら言われたら、へそ曲がりな私は余計ふてくされるしかなかった、だってなんだかくやしいから。  そ、と。足音もなく─”彼女”はいつだって音を立てない、まるで浮いているみたいに─距離を詰めたカルロッタは私の顔を覗きこむと、それよりもう一度言ってちょうだい、と。 「きれい、って、もう一度」  ああやっぱり、音になってしまっていたのか。軽率な自分を呪うのは後回し、息をついて。引き寄せたくちびるに自身のそれを重ね、一度しか言わないからよく聞きなさいと、 「すき、よ」 (生きとし生けるどんなものよりも美しいあなたに恋をした)  2018.4.17
 一日限りの祝祭はいつもあっけなく閉幕してしまう。 「とっても素敵だったわ、カルロッタ!」 「あなたのデザインもなかなかよ、グローリア」  互いに褒め称え合えば、うふふと、肩をひそめて彼女が笑う。花開くようなこの笑みをあと何度目にすれば──一体何度繰り返せば満足するのだろう、私は。答えは自身にさえわからない、だって私はいつまでもと願っているから。永遠に続く春を望んでいるのだから。  名残惜しむようにハーバーを眺めるその背に近付き、グローリア、と。小さな呼びかけにさえ振り返ってくれる彼女がいとおしい。その太陽にも似た眸が明日も明後日もその先もどうか私に向けられますようにと。叶えるのはいつだって、自分自身の手で。かわいらしく首をかしげている間にふと抱きしめる、そうすれば身体から舞った鱗粉を吸いこんでそのうち意識を飛ばす、いつも通りの行程。  彼女が眠っている間にくるくる、人差し指を回せばめまぐるしく時が逆回転、昨日の夜へと巻き戻っていく。いまだ私の腕のうちでまぶたを閉ざしているその人に、彼女の知らないくちづけを幾度落としてきたことか。 「──儚いからこそ美しい、なんて、だれが言ったの?」  問いかけに答えはいらない、ただそばに彼女がいてくれさえすればいいのだから。 (終わらない春を、いっしょに)  2018.4.18
 べつに拗ねてなんかいない。  絶対に休みを取るからとずっと前から言ってたくせに出張が入ったことも。出張当日に寝坊したからってキスのひとつもなく出ていったことも。出張先から絵はがきのひとつだって送ってくれないことも。朝起きても昼食を口にしても陽が暮れてもわたし宛の電話が鳴らないことも。ぜんぶぜんぶ、仕方のないこと。だから、拗ねてなんか、ない。  開け放したままの窓枠に肘を置き、なにを見るでもなく街路に視線を投げる。まだ春風邪につめたさが混ざっているからか、眼下を歩く人たちはみんな肩を寄せ合っていて。  盛大にお祝いしてあげる、なんて胸を張っていたから意気揚々と休みを申請したのに結局、することもなく一日を終えてしまった。仕事だから仕方がない、わかってる、理解してる、だけど納得できるかといえばそんなはず、ない。 「…キャロルの、ばか」  落としたつぶやきに感じるのは虚しさばかり。もう寝てしまおうと窓を閉じたところで、がちゃがちゃと。忙しないそれは今日一日待ちわびていたもの。慌てて玄関へと足を向ければ、うんと大きな花束越しにひょこり、だれよりも見たかった顔が覗いて、申し訳なさそうに眉をさげて。それだけで今日という日に感謝してしまうんだから、わたしも大概だ。 「まだ誕生会は開催中かしら、ダーリン」 (遅れてやってきてもいいのはヒーローとあなたくらいです)  2018.4.18
 こんな気持ちになるならすきになんてならなければよかった、なんて。 「そうね」  私の言葉に、グローリアの表情がふと消える。信じられないとばかり目を見開いて、雫をいっぱいにためて、けれど最後まで流さなかったのはきっと彼女のプライド。 「私なんて、すきになってはいけなかったのよ」 「…っ、」  手が、勢いよく振り上げられて。それでもついに私の頬に衝撃が走ることはなく。行き場を失った指は代わりに自身を抱えこむように腕をぎゅうと、痕が残ってしまいそうなほどつよく、きつく。そうよね、と。 「あなたは私なしでも、」  その先がかたちになることはなく。きびすを返した彼女の背が遠ざかっていく。これでよかったのだと、必死に言い聞かせる、これでよかったのよ、絶対。そもそも私と彼女が春の風が舞うほんのわずかな間だけでも交われたことが奇跡なのだから。出逢い以外になにを望むというのだろう、これ以上をどうして願うというのだろう、だって私では、彼女をだれよりもしあわせにすることはできないのだから。 「─…これでよかったのよ、グローリア」  こんな気持ちになるならすきになんてならなければよかった。 (あなたをすきになんてならなければ私は、)  2018.4.18