あなたが気にしてないのならいいのよ、わたくしだって別に、全然、まったく、これっぽっちだって、気にしてないんだから。
「そう」
必死に言い繕った私に対し、彼女が返したのはその一言。そうって、なによ、たったそれだけなの。他になにか言うことがあるでしょうに。そっぽを向いている顔はきっといつも通り澄ました表情を浮かべているはず、そう思うと腹立たしくさえ感じてしまう。だってついいましがた、私と彼女のくちびるが重なった、のに。
要約すれば事故だった。ドレスの裾につまずいた私と、受け止めようと駆け寄りだけど勢いは殺せなかったカルロッタは仲良く床に転がり。くちびるにふれたやわらかな感触。衝撃に備えぎゅうとかたく閉じていたまぶたを開けば同じく眸を覗かせたばかりの彼女といままでにない至近距離で視線が合って。
背を向けて、自身のくちびるにひたと指を当てる。まだ残っているぬくもりを感じ、かあ、と頬に熱がともる。私はこんなにも意識してしまっているというのに彼女はきっと動揺だってしてはいない、そんな事実に、ともすれば視界がにじみそうになって。
それでも受け止めてくれたお礼くらいは言っておかなければとふいに顔を覗きこめば、私よりもあかくあかく染まった頬がひとつ。
「グローリア、…いま、こっち、みないで」
(なによ、意識してるならちゃんと言ってちょうだい)
2018.4.19
さて今朝はどの場所へくちづけようかと、ゆるく弧をえがく口の端を抑えきれないし、抑える必要もなかった。咎める唯一の人は視線の先ですやすやと、よくそれだけ夢に留まっていられるわよねと感心さえするほど眠っているのだから。
最初はほんの出来心。朝食の支度が済んでも起きない彼女にふと、くちづけて。けれど私の眠り姫は目覚める様子もなく結局、揺り起こし。
そうして翌朝もベッドと仲を深めている彼女の、今度は首筋へ、姫は眸を覗かせない。こうなると日を追うごとに段々と楽しくなってしまって、一体どこにくちづければこの頑ななお姫様は目を覚ましてくれるのだろうかと。
首筋の次は鎖骨、その次の日は肩、谷間に指先におなかにと、私のくちびるは彼女の身体をくだっていって。
今日で八日目。起こしてしまわないよう─もとはといえば起こすために始めたはずなのになんともおかしいけれど─タオルケットをめくり、彼女の足元にひたと、音を忍ばす猫よろしく近付き、ゆっくりと足の間にもぐりこんで。長いまつげは震えない。左膝の裏に手を回し、ちゅ、と。八回目のくちづけは太ももの内。少しだけ移った紅に頬を綻ばせて。
「──今朝は随分と大胆にくちづけるのね、カルロッタ」
ひやり、と。背中を走る声におそるおそる視線を上げれば、目覚めるはずのない眠り姫が満足そうに微笑んでいた。
(つまりははじめから姫の手のひらの上)
2018.4.20
さみしさに沈む笑みを、思い出していた。
『カルロッタからはしてくれないのね』
落胆か、諦めか、悲しみか。きっとそのどれもを含んだ声が、静寂の中にふと浮かぶ。言葉を向けたその人はいますやすやと、眠りの世界をただよっているけれど。月明かりに淡く照らされた頬に指をそっとすべらせる。長いまつげが震える気配はない。
想いを向けてくれてはいないからかと、言葉を落とした彼女の眸はそう問いかけていた、すきなのは私ばかりなのね、と。
そんなことはないと、返せたらよかった、けれどきっと理解はしてもらえないから。自分からくちづけてしまえばいままで抱えてきたなにもかもがあふれてしまうkとおを、想いの奔流がとめられなくなってしまうことを。やさしい彼女のことだ、告げればおそらく微笑んですべてを受け止めようとしてしまうことは目に見えている。けれど心に押し留めても結果的に彼女を苦しめてしまっていて。
指先でくちびるをなぞって。わずかな息の流れを、ほんの一瞬──心がこぼれてしまわない程度に、ふさいで。
「─…あなたって本当、不器用よね、そういうところ」
夜にとけていきそうな声に思わず苦笑を洩らす、聡い彼女に悟られていないはずはなかったのに、なんて。
(大事にしたいのだと、そのなにもかもはきっと彼女にも、)
2018.4.20
まるで蜜を吸い出す蝶みたい、なんて。
眉をひそめた私にいち早く気付いてくれたのはカルロッタだった。どうしたの、と近付いた彼女にむき出しの人差し指をかざして見せる。どうして手袋を外しているときに限ってこういう目に遭うのか、私の指の腹にはすいばりが埋まっていた。
「ちょっと貸してごらんなさい」
私の右手を取った彼女が、きれいに整えられた爪の先で腹を押さえる。ちくりと、こまかな痛みがひとつ。我慢してね、と落とされた声はちいさな子供にかけるそれ。よほど深々と刺さっていたのか、それが抜けた先から真っ赤な血がぷくりと玉をつくる。
ありがとう、そうお礼を口にしようとした矢先。血よりもまだ色濃いくちびるに、呑みこまれた。ちう、と。口の端から洩れる音に、やわく立てられる歯に、指先を舐める舌に。背中に走るのは痛みかもどかしい快感か、それさえも判別できずただ、両の手で私の指をにぎる彼女の伏せられた眸を見つめるしかなくて。
ちろり、視線が持ち上がる、彼女の深い眸に映る私は一体どんな表情を浮かべているのか、見ていられなくて顔を逸らしぎゅうとまぶたを閉ざし、ああもうこのままぜんぶたべられちゃってもいいとさえ、
「期待しているところを悪いけれど、みんな見てるわよ」
その言葉に我にかえってみれば、その他二名があわてて顔を背けたところで。血の玉よりも真っ赤に染まったのは私の頬。
(なによなによ、そもそもあなたが悪いんじゃないの)
2018.4.21
たとえ彼女がなにものであろうと私は、
「カルロッタ!」
華やかな声がひらめく。くるりと振り返ったその人は満開の笑みで表情を彩っていた。
一歩、一歩と彼女が距離を詰めるたび、季節を過ぎその命を散らしたはずの花たちが次々を頭を持ち上げては花弁をつけていく、まるで逆再生しているみたいに。夜空の頂点に輝く月が色とりどりのそれらと歩みを進めるグローリアの髪をまばゆく照らす。
「てっきり来てくれないかと思っていたの」
すぐ目の前で止まった足音の主は声を落とし、まっさらな腕を私の首筋にひたと当て、いいのね、と。もう何度も意思を問うてきた言葉にまざるのはいつだって不安と恐れ。あなたは本当にそれでいいのね。繰り返されてきたそれに、手を添えることで変わらぬ肯定の意を示す。
「どこへでも、──あなたがいるなら」
あなたのそばにいたいから。言外に含ませたそれを拾い上げた彼女は安堵と悲しみを半分ずつ、くしゃりと泣き出すみたいに表情をくずして。ぶわり、私たちの足下から輪をえがくように色が広がっていく、すべてのものが花をつけ、どこからか誘われた蝶たちが翅を休め、月と太陽がゆっくりと交代し、くちびるに自身のそれを重ねてきた彼女の髪をよりいっそうきらめかせて。
ああ、彼女の一番かがやく春がもどってきた、と。
(だって私は、まぶしいあなたに恋をした)
2018.4.22
自覚はなかったけど私はおそらく相当な負けず嫌いなんだと思う。だってこちらに向けた指先をくいと誘うように曲げたその人の不敵な笑みに闘志がじわり火をつけて。あなたがそんなに煽るのなら奪ってみせようじゃないの、と。
仕掛けられたのはバージで各々の紹介を終えたあと。手すりに身を預けていたカルロッタと視線が重なって。ふ、と。浮かべた表情はショーの前、颯爽と私のくちびるをさらっていったときに向けたものと同じ。突然ずるいわと去りゆく背中に抗議すれば、ならあなたも奪ってみたらいいじゃない、なんて事も無げに。そうして彼女はいま再び私をけしかけていて。
最初はリドアイルへ続く坂道で。カルロッタとすれ違うその一瞬に引き寄せようと伸ばした手をするりかわされ。次は広場のステージ上で。交差するそのときに肌にふれようと試みるも難なく払われて。最後のチャンスだとバージに乗りこむ寸前、階段をのぼる彼女の手首をつかもうとして、けれど都合よく吹いた突風に怯んでしまって。
バージの手すりに突いた両手であごを支え、ため息をひとつ。どうしてこうもうまくいかないのかと落とした肩を叩かれて、
「帽子。曲がっていてよ、グローリア」
声に反応するよりも先に手首をさらった指に振り向かされ、ぐいと傾けられた帽子のつばに隠れてくちづけをひとつ。にんまりと、いたずらの主は勝ち誇ったように笑った。
(どうせあなたに敵わない)
2018.4.23
「もういい?」
「まだだめよ」
もう何度目かの問いかけに変わらぬ返事を口にすれば、ぷくり、明らかに頬をふくらませる気配。私の膝を枕に仰向けで見上げてくるグローリアが緩慢な動作で指を伸ばし、本を掲げる腕にそっと触れて。
ひそかに視線を落としてみれば、昨日の夜更かしがよほど堪えているのか、普段は私をとかしこまんばかりに大きな眸がいまばかりはゆるくとろけていた。
「いつになったら読み終わるのよ」
ねちゃうわよ、と。その言葉さえ夢に吸いこまれていきそう。覗きそうになる笑みを噛み殺し、ページを繰る、膝の上の彼女がねこみたいにふわあとあくびをひとつ。
「もういい?」
「まだだめよ」
「いじわる」
そうしてふてくされたかわいらしい私のねこは眸をぴったり閉ざしてしまう。どうやらへそを曲げ、睡魔に身を任せることに決めたらしい。子供みたいな拗ね方にとうとう我慢しきれなくなった笑みをそのままに本を置き、さらりと露わにした額にくちづけをひとつ。驚いたみたいにばっと姿を現す眸。
「あら、寝るんじゃなかったの?」
「…いじわる!」
(意地がわるいのはかわいいあなたにだけ)
2018.4.24
「お手をどうぞ、お姫様」
バージの階段に足をかける直前。先を歩いていた彼女はくるりと振り返り、恭しくも左手を差し出した。その他二名がいるときなら、階段くらいひとりでのぼれるわよ、なんてその手をおしのけるところだけど。どこぞのバージの調子が悪かったらしく、ショーは半ばで中断、私とカルロッタだけが同じバージに乗りこむことになったから、いまだけはなにをしたって咎められることも冷やかされることだってない。
ありがとうと手を重ね、引かれるままに歩を進め。自然と頬に笑みがのぼる、だってこの場には彼女と私しかいないから。もちろん観客の目だってあるけれどそれでも会話までは聞き取られる心配もない。そんな、ふたりきりではないけどどこか他と隔絶された空間に不思議な高揚が生まれ。階段をのぼりきりそのまま、指を絡めて引き寄せて。ダンスよろしく距離を詰めれば、意図を汲み取ったカルロッタが私の腰に手を添えふわりと笑う。
「あなたほどダンスは得意じゃないわよ、私」
音楽に合わせワン、ツー、ワン、ツー、わざわざ合わせるでもなく息がそろい、足を踏みこんで、ターン。
「得意じゃなくったっていいの」
お互いの腕をいっぱいに伸ばし、くるくる、腕の内に引きこまれて。間近にせまった彼女のくちびるにひっそり、重ねる。
「こうして指をにぎり合っていられたら、それで」
(あなたの鼓動を感じていられるなら、それでいいの)
2018.4.25
「やっぱりそっちの方がおいしそうね」
物欲しそうに眸を輝かせる様子がまるで小さな子供みたいで、呆れを含んだ息をひとつ。自身の選んだいちごと私のつまんだそれとを見比べるグローリアに、ほら、と差し出して。
「そんなに食べたいのなら、これもあげるわ」
元々庭に勝手になっていたものだ、実をつければいつだって食べることができるのだから。もうへたを取り去った、真っ赤に熟れたいちごにひとつ、それから私にひとつ、窺うように視線を投げて、わずかな逡巡。
「それじゃあ、お言葉にあまえて」
ぱくり。笑みをかたちづくった彼女の赤いくちびるの開く様が妙に色を含んでいて、ふれたい、なんて。見惚れているうちに逃げ遅れた私の指ごと、呑みこまれる。
一瞬で果実を奪われ、指の腹をなめるぬるりとした舌に、染みついたにおいまでたべられてしまいそうで。いちごの咀嚼に合わせて歯がぞわりとふれる、背骨をなにかが駆けあがる感覚、相手のペースに呑まれてはだめだとわかっていながらけれど指を抜き去ることができなくてただ、なんともおいしそうに食むその表情を見つめるばかりで。
ちう、と。最後にひとつ残された音が私をあおる。
「─…それで、次はなにをたべさせてくれるのかしら」
細められた眸にはたしかに、私が映っていた。
(たべられるのは、)
2018.4.26
あんなに情熱的な眸で見つめられたのははじめて、だった。
グローリア、と。熱のこもった吐息に自身の名を落としこまれるのも。壊れものを扱うみたいにやわらかくふれられたのも。このくちびるに人のそれが重ねられたのも、はじめてで。
思い出しただけでかあと頬が火照る、朝からこれの繰り返す。必死に目の前のことに意識を向け頭から追い払おうとするのに、気付けばそればかりが思考を占めて、正常な判断も動作もなにもかも奪っていく。だめよ、いまは大事なショーの最中。かぶりを振って雑念を苦し、遠目に映る観客たちに手を、
「グローリア、」
ぐらり、と、なにもかもを、揺さぶる、音、と、眸。
いつの間に距離を詰められていたのか、覗きこんできたのはさっきから私を内側から蝕んでいたその人。訝しそうに眉をひそめ、くちびるを結んで、そうよ、そのあかい、くちびる。紅がはがれる瞬間を知っている、はらんだ熱を、私はどうしてだか、知っている。もういちど、今度こそたしかな現実にしたくてそっと、私だけに向けられたそのくちびるに手を、
「どうしたの、グローリア、熱でもあるみたいに、」
ふれる、前に。伸びた指が私の額をとらえ、ひやりと、理性を呼び戻していく。ああ私はいまなにを。
「あ、──…っ、あなたのせいじゃないの、ばかっ」
目の前の眸がぱちり、またたいた。
(夢の中のあなたがくちづけるからよ、ばか)
2018.4.27