だれからも忘れ去られたような、さみしい佇まいだった。
「あら、」
咎めた彼女が足を止め、道端で腰を落とす。ねえ見てと、手招かれるまま近付けば、お世辞にも花壇とは呼べないささやかな土壌にひっそりと、深海よりもまだ底の色をつけた花。
「勿忘草だわ、こんなところで珍しい」
「随分と詳しいのね、グローリア」
「あら、見直した? お花に関しては造詣が深いのよ、私」
「それじゃあ花言葉でも教えていただこうかしら、博士?」
彼女と同様、花と視点を合わせながら尋ねれば、隣のかわいらしい博士はどこか誇らしく胸を張り、けれどその表情は少し困ったように。私を忘れないで、と。
いわく、騎士ルドルフが川に流された際、その言葉とともに恋人へ花を投げたのだと。古の騎士が最期にこめた願いをたどるように、伸ばした指で花弁をやさしく撫でる彼女の横顔は慈しみをたたえていて。
「…私なら、そんな酷な言葉は残さないけれど」
そんな無責任な想い、放れるはずがなかった、だって残すよりも残される方がうんと傷を負うのだから。自分のいない残りの人生を、自分を抱えて生きていかせるなんて、私には考えられない。そんな言葉にけれど隣で微笑む気配。
「私は残してほしいわ、──あなたになら」
(ねえルドルフ、私はあなたのように自分勝手であれないの)
2018.4.28
覗きこんだのは彼女があんまりにも深く夢に沈んでいたから。一体どんな夢を見ているというのか、その表情は甘くとけていて。今日も今日とてショーがあるのだから早く目を覚ましなさいと叩き起こすつもりだったのにその目的もすっかり忘れてしまうくらい。
じ、と。ベッドのふちに腰を落ち着け見つめていればそのうちふと長いまつげが揺れ、ぼんやりとした眸が覗く。かるろった、と。回ってない舌が私の名前をこぼす。
「グローリア、」
返した音に、思っていた以上の熱がこもってしまっていたことに彼女は気付いただろうか、いいえ、眸の色さえわずかな間しか窺えないのだからきっとまだ夢の世界を漂っているはず。
ぎしりと軋むスプリングを気遣う余裕もなく距離を詰め、そ、と。ふれた頬は指に馴染んでいくのではと錯覚するほどやわらかく、まどろんでいるからか随分と高い体温で私を迎える。ゆるくひらいた水槽色の眸が私をとかしこむ、おもむろに伸ばされた指をさなかでとらえ、自身のそれと絡み合わせて。
「ねえ、グローリア、」
──ああどうか、すべてを空想の中の出来事だと切り捨ててくれますように。ひそやかな願いをこめくちづければ、ふふ、と。その笑みひとつで私も、彼女の夢にとけこめた気がして。
ようやく世界と対面した水槽色にいつもと変わらぬ表情を。
「おはよう、ねぼすけさん」
(果たして彼女の夢のお相手は、)
2018.4.28
駆け引きは得意だと思っていた、だってそういう社会で生きてきたから。人との距離をはからないとすぐ息を止められる世界を駆けあがってきたから。だというのに彼女との距離だけはいつも見誤る。本心を隠し対人用の笑顔を浮かべたいのに、言うことをきかない感情が気を抜けばはらり顔を覗かせる。いまだってそう、
「すきな人くらいいるでしょ、カルロッタでも」
そんなこと、尋ねるつもりなんてなかったのに。視線を投げる彼女に張りつけた笑みを向けて、私はいま、普段通りの表情をつくれているのか、それさえもわからず。
「でも、とは失礼ね」
「だってあなた、そんな影が全然見えないから」
きりきり、のどが締め付けられる、息がつまりそう。それでも顔を逸らさずいたのは私のせめてもの意地。至近距離の眸が見定めるみたいにまたたいて、そういうあなたは、と。
「いそうだけれど、すきな人くらい」
「いる、わよ」
駆け引きは得意だと思っていた、だっていままで心を締めつけられるくらいに想った人なんていなかったから。だから言葉で簡単にあそべたのに。
「─…あなたじゃないことはたしかね、カルロッタ」
(いまはただ、素直になれないこどもみたいに、)
2018.4.29
知っていたとも、だってあなたは花のように可憐だから。
「あなたじゃないことはたしかね、カルロッタ」
だれからもあいされ愛でられている彼女が、ゆらゆら漂うだけの蝶に想いを向けるはずなんてないのだと。言い聞かせてきたつもりだった、何度も何度も、自身の心をきりきり締めてきたつもりだった、それなのに。酸素を見失う、それまでどうやって息をしていたのかさえもわからなくなってしまって。
「─…私だって、」
なんとかかき集めたのは酸素ではなくみにくく取り繕った虚勢。
「ごめんだわ、猫みたいにきまぐれなあなたなんて」
「あら、そういうところでは意見が合うのね」
だれにでもすり寄って、分け隔てなく愛をふりまいて、忘れられない笑顔を刻みつけて。そんな、猫のように愛想と愛嬌ばかりをまとった彼女を、ともすれば憎んでさえいた、どうして私に焼けつくほど熱い想いを抱かせたのかと理不尽な怒りを。
ふわり、彼女が目尻を下げる、そんな仕草ひとつにだってどうしようもなく心を揺さぶられてしまう。
「あなたの心を射止めるのは一体どんな人なのかしら」
「…さあ、」
感情を必死で隠して、私はいま、普段通り笑えているのか。
「──だれかしらね」
(あなた以外にいるはずがないのに、)
2018.4.30
「…ひま、ね」
音として取り出したら余計に虚しくなって、ため息をひとつ。
仕事のことは一切考えてはだめですよ、いいですね──私からハサミもスケッチブックもぜんぶ取り上げたモデルの声が、懇願するみたいに必死な表情とともに浮かぶ。次から次へと舞いこんでくる依頼に追われ、睡眠さえここ何ヶ月も満足に取っていない私にとうとう痺れをきらした彼らは泣き出さんばかりの勢いで詰め寄り、後は我々に任せてください、と。
そうして与えられた三日間の休日。まずはしばらく留守にしていた自宅をめいっぱい掃除して、なにも考えることなく夢に沈んで。一日目はそれなりに充実していたけど、二日目にしてもう時間を持て余していた。惰眠を貪ろうにも昨日寝すぎたせいでまぶたは落ちてくれなくて、元々こざっぱりしていた部屋は手をつけるところが少なくて。ベッドに身体を横たえたまま、まぶしい太陽の鎮座する外に視線を投げる。
──会いたい、なんて。もう半年ほど、声さえ聞いていないその人に。だけど突然訪ねるのは迷惑、だって彼女も忙しい身の上だから。
眸を閉ざし、がまんよ、と。言い聞かせた途端、鳴り響くチャイム。もしかしてと、根拠のない期待に惹かれ扉を開けばついいましがた思い浮かべていたその人が微笑んで。
「休暇中だって、あなたの助手に聞いたものだから、」
言葉を最後まで待てなくて、感情より先に抱きついた。
(久しぶりのあなたの体温があるべき場所にとけていく)
2018.5.1
鼻をさわりとすり寄せる、そのたび視界の端でふくらむ彼女の頬。あんまりにも露骨で素直なその反応がおかしくて、あいらしくて。浮かぶ笑みをもう隠すこともできなくて自分でもそうとわかるほど目尻をとかしたまま思わず木洩れ日色の猫に顔をぐりぐりと押しつければ、ぐるにゃ、と。どこかご機嫌な調子の鳴き声がひとつ、あ、とこぼれるくやしそうな声。
構ってほしいのだろうなと察していた。そわそわと落ち着きをなくし、やたら名前を呼んでくるのがお決まりの合図。いつもであればその髪に手を伸ばし指通りのいいそれをやわりとすいて、まどろむみたいにゆるむそのくちびるに自身のそれを落とすところだけれど。
抱きあげた彼の鼻にくちづけを送り、ちらと視線を向ければうらやましさを灯した眸がひとつ。
ふれてほしいのならたまには彼みたいにすり寄ってくればいいのよ、そうすればいくらでも、彼女が望むままに甘やかしてあげるのに。もちろん、わかりやすく嫉妬を募らせている彼女に少しばかりの楽しさを感じていないといえば嘘になるけれど。
表情にこめたそれに果たして彼女が気付いたのかどうか。ふ、と。ようやく腰をあげたグローリアが近付いて。木洩れ日色のその子の目を覆い、もう片方の手で私のあごをとらえ、
「随分と焦らしてくれたわね」
くちびるが重なると同時、ごろにゃ、とひとこえ。
(ねこみたいに単純なのね、あなた)
2018.5.2
「ねえ、そろそろ機嫌なおしてくれないかしら」
「別に不機嫌なわけじゃないわよ」
返ってきたのはもう聞き飽きた淀みないそれ。私に背を向け、ちょうどよくやって来た木洩れ日色の猫をぬいぐるみよろしくはっしと胸に抱き。ぐるにゃ、と。グローリアに呼応するみたいに彼が猫のような鳴き声をひとつ、ご機嫌な調子のそれに、何度目かのため息を重ねた。
彼女が目覚めてすぐソファに陣取ってかれこれ一時間。不機嫌じゃないと言い張るのならどうして頬をふくらませているのか、私と目を合わせようとしないのか、触れようと手を伸ばすと身をよじってまで逃れるのか、説明してほしいところだけれどそのなにひとつにだってh年頭はないまま。昨夜からの自身の行動を思い起こしてみても心当たりは浮かばない。
一体どうしたものかと頭を悩ませている私の目の前でぐう、と伸びをした木洩れ日色のその子は上体を持ち上げふわり、グローリアのくちびるに自身の鼻をくっつけた。ああそうかと、彼の行動でようやく気付いたことがひとつ、
「キス。寝る前にしなかったからでしょ」
瞬間、ば、と。わかりやすく染まった顔を隠そうとする手を押さえ、もう片方の指でいまだグローリアに視線を向けたままの彼の目をそっとふさいで。一日ぶりのやわらかなくちづけに、ごろにゃ、なんて。やっぱり機嫌のよい彼がひとこえ。
(まったく、彼はわかっているのかいないのか)
2018.5.3
この光景に快感を覚えている自分がいないといえば嘘になる。
つ、と。なめらかな頬から指を滑らせ、耳を探りあてる。あまり厚くはないそれに触れ、つややかな髪を毛先へと梳く。普段はまとめ上げられている髪がいまばかりは重力のままに肩を流れていて、きっとこの姿を私にしか見せないのであろうことを思うと、こぼれるのは笑みばかり。
「随分とご機嫌ね、グローリア」
ヘッドボードに上体を預けたカルロッタが手を伸ばし、私の髪で指をあそばせる。ふと、爪先がいたずらに肩をなぞって。たったそれだけで背中が震えたのはさっきの余韻がまだ刻まれているせい。その手は食うものですかと、余裕を乗せたくちびるに自身のそれを重ねる。頬をつつみこみ、覆い被さる格好でくちびるを堪能して。
「だってようやくあなたを見下ろせたんですもの」
彼女の顔や天井を見上げるのはいつもいつも私ばかり。たまには思うさまくちづけさせてくれたっていいじゃないのと、不満のままに首筋にひとつ落とせば、ん、と洩れる声。そうよ、その音がききたかったの、私。
けれど満足を表情にこぼす間もなくそわりと這い上がる覚えのある感覚。見れば彼女の身体をまたぐ私のむき出しの太ももを、彼女の指がたしかな熱を持ってたどっていて。
「──おあそびはここまでよ、グローリア」
(どんな体勢であってもあなたの思うがまま、)
2018.5.3
「おかえりなさぁい、カルロッタ!」
なみなみ注がれたグラスを掲げ出迎えてくれたグローリアの声音はどう聞いたって酔っ払いのそれ。きゃっきゃ、なんて形容がしっくり当てはまるほど高揚している彼女は自身の隣を叩き、ここに座りなさいとジェスチャーする。促されるがままソファに腰かければ途端ぎゅうと抱きついて、遅いじゃない、なんて。いつになく甘えを多分にまぶしたそれに視線をテーブルへ向け、並んだ酒瓶に納得して。
ようやくまとまった休日が獲れそうだからお邪魔してもいいかしらと連絡が入ったのは一週間前。私もちょうど大口の注文が片付く頃合いだったので二つ返事で了承したのはいいけれど、当日の引き渡しに思いのほか時間を食われてしまった。すでに私の家に到着しているであろうグローリアにお酒でも飲んで適当にくつろいでいてと言伝を頼んだものの、急いで帰宅してみれば想像以上の量が転がっていたというわけで。
「カルロッタものんでのんで!」
「ん、っ、」
状況を冷静に分析していたところへぐと、くちびるからくちびるへ注がれるなまぬるい液体。強制的に流されたのどが熱を持って。水槽色の眸が至近距離でふと細められて。
「──よっちゃえばいいのよ、あなたも」
よわされていく、と。予感は再び重なるくちびるに呑まれた。
(けれど私はもうあなたに、)
2018.5.4
くちづけたのは私だった。
衝動はふいに、だけど歯がぶつかる事態にだけはならないよう寸前に勢いを殺す程度の冷静さは持ち合わせていて。夜の帳にも似た眸が驚きに見開いて、またたいて、再び覗いたときには情欲とたしかな諦めを秘めていて。
私の頬に指を伸べたのは彼女。らしくもなくかすかに震えるその指先からつたうつめたさに、あたためてあげたい、なんて。首筋から動こうとしない手を取りその先へと導いたのは私。もう片方のこぶしを痛いほど握りしめたのは彼女で、抱いてと言葉にしたのは私で、その言葉ごと乱暴に呑みこんだのは彼女で。
はしたなくもみずから求めているというのに、だれにも明かしたことのない素肌を性急に暴かれているというのに、羞恥なんて欠片もなかった、ただ、ふれたい、ふれられたい、そんな単純な欲ばかりが私を、そしてきっと彼女を突き動かしていた。
「ごめんなさい、」
指先が身体をたどるたび、私をひとつひとつと奪うたび、こぼれる言葉が胸を貫く、ごめんなさい、と。乱暴に私をたぐっていることへの謝罪かそれとも一度だって名前を落とさないことにかあるいは惹かれてしまったことにかもしくはそのすべてか。かたくなに私を映さない眸に問いかけることはせずただ、奥底からこみあげる想いだけをそのたびに返していく。
「──あいしてるわ、カルロッタ」
(だって私はあなたへのあいしかしらなくて)
2018.5.5