このカルロッタマリポーサ、人生最大の不覚。
「ほらカルロッタ、横になってないとだめじゃない」
隙あらば身体を起こそうとしてもそのたびに肩を押さえられベッドに逆戻り。前髪をかき分ける指がつめたいのか、はたまた私の額が熱を持ちすぎているのか。タオルなんかよりあなたのその指を当てていてほしいわ、なんて、柄にもない弱音を吐いてしまいそうになって。
風邪なんて、生まれてこのかた経験したことがなった。丈夫が取り柄だと自負していたからこそ、移しちゃうわと遠慮するグローリアの看病を買って出たというのに。もしかすると熱にうなされる彼女の眉間のしわを少しでも取り除きたくてくちびるを重ねたことが原因かもしれない、いやきっとそう。
彼女にだけは秘密にしておきたかったのに、だれから聞きつけたのかすっかり気色のよくなった表情をどこか輝かせて現れて、今度は私がお世話をする番ね、と。
世界がぐわりとひずむ、まぶたを開けても閉じてもめまいに似た感覚が止まらない、思考が熱にとかされていく。数日前のグローリアもこんな調子だったのだろうかと、こんなにもだれかにそばにいてほしいと切に願っていたのかと。
「そんなに不安そうな顔しないで、カルロッタ」
ふ、と。指が離れる代わりに触れたのはくちびる。
「私がそばにいるわ、ずっとね」
(言葉ひとつ、くちづけひとつでこんなにも安堵して、)
2018.5.6
やりすぎたわ、と。後悔が先に立つわけもなく。濡れた前髪を緩慢な動作でかき上げたカルロッタは、それはそれは背筋に震えが走るほどきれいな微笑みを浮かべていた。
そもそもどうしてマーメイドラグーンにほど近いこの水辺で涼んでいるのかといえば、肌を刺す太陽から少しでも逃れたかったからで。ワンピースの裾を膝上でひとまとめにし、つま先をひたした私に、はしたないわよなんて忠告したカルロッタでさえジーンズの裾を折り上げ水面に足を沈ませて。
ここにはあなたと私しかいないんだからいいでしょと頬をふくらませれば、あらそれはつまりすきにしてもいいってことかしら、なんて、ふいに耳元に寄ったくちびるが甘くささやくものだから、だから私つい、照れくささもこめて、すくった水の量も見ずそのまま隣へ投げてしまって。
「…グローリア?」
「あっ、あの、ごめんなさい!」
ぽたりぽたり、毛先からつたう雫がまっさらなブラウスをにじませ、素肌を透かす。責められるべき状況だというのに呑気な私の頭はまばゆいばかりのそれに見惚れてしまっていて。だからこそ、肩をがしりとつかんだ彼女の腕に反応が遅れて。
「ふたりきりだと、そう言ったのはあなたよね、グローリア」
復讐の色をともした眸を見とめたのは一瞬、ぐらりと強制的に傾いだ身体が、彼女とともに飛沫を上げた。
(そうして呼吸ごとくちびるをうばわれて、)
2018.5.8
「ちょ、ちょっと、なに見てるのよ!」
慌てふためく声とともに指からするりと奪い取られるスケッチブック。軌跡を追いかけ顔を上げてみれば、髪をわずかに乱したグローリアが頬をこれでもかと上気させ、急いた呼吸を整えようともせずむんずとスケッチブックをつかんでいた。肩で息をする様子は普段の優雅さとは程遠いけれど、それほど焦っているということの表れなのだろう。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま、…じゃなくて、どうしてあなたがここにいるの!」
どうして、と問われても。クライアントとの打ち合わせがこの近辺であったものだからちょっと顔でも覗いてこようかとサロンを訪ねてみれば折り悪く主は留守にしていて。どうぞどうぞと仕事部屋に通したのはここのモデルたち。よほど急いで出かけたのだろう、机には開きっぱなしのスケッチブックがひとつ。大事なアイディアが収められているのだから当然覗き見るつもりもなく、ただ閉じようと手を伸ばして。
「もうすぐ読み終わるから返してちょうだい」
「返すわけないでしょ! そもそもこれは私のものよ!」
ページの隅で紡がれた女王と村娘の恋物語。きっとグローリアが息抜きにでも書いたのであろうそれは、私と彼女の名を借りていて。ふいにくちづけ目をまたたかせている間に、続きを求めそれを奪い返した。
(この物語に願望をとかしているのかと尋ねたら怒るかしら)
2018.5.8
わかってますとも、彼にまで妬くなんてどうかしてるって。でもね、やっぱりどうしたって、羨ましいと感じてしまうの。
「ねえジェラトーニ、代わってくれないかしら、そこ」
猫相手に猫なで声だなんておかしな状況だけど、声を抑えると自然、機嫌を窺うような調子になってしまうんだから仕方がない。
木洩れ日色の身体を丸めている彼はこちらを見ることなくぐるにゃ、とひと鳴き。なんでこんなときばかり猫の真似事ばかりするのよ。いいえ猫だけど、猫ではあるんだけど。
どうしてこんなに必死なのかといえば、原因は彼を抱きこみおだやかな寝息を立てているその人。よほど深く夢に沈んでいるのか、私が顔を覗きこんでもまぶたを開く気配はなくて。
抱きしめるのはいつも、私の方。少しでも距離を縮めたくて、だけど抱きしめるほどに埋まらない距離を感じて。ぐりぐりと顔をすり寄せる私に、あまえたさんねと苦笑を乗せて頭を撫でるばかり。私がほしいのは、求めているのはそれではないのに。甘えてすがってねだってほしいのに、彼女を追うのはいつだって、私だけ。
だというのに私のいないところで、私ではないものを胸に抱いて、なんともやわらかな表情を浮かべているものだから、嫉妬がふつふつと起こらないわけがなく。
「…いいわよね、あなたは」
ベッドのふちにこてんと右頬をくっつけ、頑なに人の言葉を返そうとしない猫にひとりごちる。眸は、覗かないまま。
(ああせめて、ベッドにもぐりこむ勇気さえあれば、)
2018.5.10
覗いた舌のなまめかしさにぞくりと背筋が色めいた。
てっきり泣き出すのかと思った、だって水槽色のその眸が痛々しいほど張りつめていたから。すぐにこぼれるであろう雫を拭うべく伸ばした手はけれど頬に触れるよりも先に掠め取られてしまう。異様なほど冷たい指先にぎくりと息が詰まる、常ならばやけどしそうなほど熱を孕んでいるというのに、かたく握りこまれた指も視線もなにもかもが、冷ややかに私を落としこむ。
まっかな舌が爪のかたちをなぞって、じゅ、と。普段はそんなあからさまに音を立てることはないのに。誘いをかけるようにゆっくり腹を舐めたかと思えば、彼女のうちにくすぶっているのだろう欲のかたまりが性急に顔を覗かせ、ともすれば呑みこむ勢いでくちびるのその奥へと指を誘っていく。
指の付け根をくちびるでやわく食む、じり、すべての意識がそこに集中して熱を高めていく気配。呑まれてはだめだと奥歯を噛みしめた私を見上げる、底の窺えない、水槽。
「おねがい、──ひどくして」
そうして手を引き身体を重ねようとした彼女の膝裏に腕を差しこみ抱きあげ、ベッドにやさしく横たえる。予感にあやしくきらめく表情を、けれどがばりと毛布で覆った。
なにするのよ、と。気勢をそがれたのか、すっかりいつもの調子の声がくぐもって。毛布越しに顔をすり寄せ、頭をそっと撫でる。
「ずっとそばにいるから、今夜はねむってしまいなさい」
(あなたの傷が見えないほど盲目じゃないのよ、私は)
2018.5.10
「カルロッ、」
名前を紡がせまいとするみたいにふれた指先は、それまで口にしていた果実の汁でしっとりと濡れていた。上唇を右から左、下唇を左から右へなぞって。
視線だけを持ち上げてみれば、どこか試すようにひたと見据える漆黒の眸がひとつ。促す声が聞こえた気がして、人差し指の第一関節までを呑みこむ、ゆるり、カルロッタの口角が弧をえがく。両手で捧げ持って丹念に、果実の余韻を吸い出すみたいに。桃の果汁がくちいっぱいに広がっていく、おかしなものね、私も同じものをたべていたはずなのに彼女の指の方が甘く、おいしく感じてしまうなんて。
指の腹をかり、少しの痛みが走る程度に噛んで。ちらと見上げた眸が細められて、眉が寄って。これは快感を表に出してしまわないよう必死に流しているときの表情。ここがよわいことくらい、とうの昔に気付いてるんだから。
今夜こそ。彼女自身の声でもっととこの先をねだらせたくて。
グローリア、と。すぐそこまで迫った深い紅のくちびるが私の名前を落とす、けれどくちづけは与えられることがないまま。中指と薬指の間に舌をすべらせ、ぞわり、舐めあげて。かすかな震えを、わずかに潤んだ眸を、吐息をこぼしたくちびるを、私が見逃すと思ったら大間違い。
口から遠ざけた指を今度は絡めて、引き寄せて。漆黒が揺れる、私を映して。
「──それで、なにをお望みかしら、カルロッタ」
(あまいあまいあなたを今夜こそ、)
2018.5.11
自分の音にさえ蝕まれる、感覚。
本当に自身のものなのかと疑いたくなるほどにあまったるく上がっていた声はもはや掠れ、言葉になりきれなかった色を彼女の意のまま引き出されるばかり。ぎゅじゅりとわざと立つ水音が部屋の一切の音を支配しているのか、それとも私の身体をうちをつたっているのか、その判別さえつかないくらい。
もうむりと悲鳴をあげるのはほんのわずかに残った建前だけ、実際はといえば彼女の動きひとつひとつを受け止めるべく必死にゆらめいて。ああ、なんてすなおな私の身体。
ちゅ、と。一心に痕を咲かせていたグローリアが胸元からふいに顔を上げる。照明を反射する太陽色の毛先で玉をつくっていた汗がぽたり、谷間をすべり落ちていく、たったそれだけの衝撃で背筋が震えてしまうほど鋭敏になってしまっていて。
ぐ、と距離を詰めた彼女のくちびるが押しつけられる。汗で張りついた髪を払う余裕さえなかったのか、口内に彼女のそれが侵入してきて、それさえいとおしいだなんて。
「もっと、」
くちびるが離れた一瞬。酸素を追う代わりに続きをねだる。とけようとする願いはけれど届いたみたいで、吐息とともに笑んだ彼女はそうしてやさしく頬を撫でると、すきよ、なんて。落とされた言葉に身体がまたきゅうと、せつなくないた。
(私も、と、重ねた想いもきっと届いている気がして、)
2018.5.12
あ、と。思わず声をあげたのが悪かった。偶然マイクの電源が入ってしまっていたのか、間の抜けた自身の声が音楽の隙間を縫ってハーバー中に響いて。
いち早く振り返ったのが─そして一番こちらを向いてほしくなかったのが─カルロッタ、次いでオーシャン、ヒューゴー、そうしてお立ち台で仲良く鼻にくちづけを送り合っていたふたりまでもが何事かと視線を向ける。なんでもないのと取り繕うより先に駆け寄ったカルロッタが不安をありありとその眉に乗せて、ああもう、だれが元凶だと思ってるのよ。
「どうしたのグローリア、もしかして体調でも、」
「なぁんでもないのよ、おほほ、失礼しましたわ!」
きっともう電源が切られているだろうけど念のためマイクを手のひらで覆ってそう返す。動揺ばかりが顔を覗かせていたせいで適切な言葉が見つからない、ほら、彼らまで不審そうに近付いてきてしまった。
三方からじりじりと追い詰められていく。無理はだめって言ったじゃん、とオーシャン。背中に柵が触れる。俺たちの仲なんだから隠さなくてもいいぞ、とヒューゴー。言えない、こんな状況でいまさら、言えるわけもない。
悟られてしまわないようそっと、右の手袋を引き上げる。だけどカルロたには見咎められていたようで、あ、と。先刻の私と同じ口のかたち。それでもその他二名は距離を詰める。
「もう! なんでもないったら!」
(昨晩カルロッタが残した痕を見つけただけだなんて、)
2018.5.14
くう、と。子供みたいにかわいらしい寝息がひとつ分。ひょいとソファの背側から覗いてみれば、ひじ掛けに金糸の髪をちりばめたグローリアがおだやかな呼吸を刻んでいた。あどけない寝姿に浮かぶのは微笑みばかり。私がお風呂からあがるまで起きていると豪語していたのは一体どの口だったか。
ソファの背に肘をつき、目を覆っている前髪をそっと、そのまぶたが開いてしまわないよう静かにかき分ける。もう何度も眺めてきたはずの顔にけれど飽きがくる気配は微塵もなくて、代わりに募るのはいとおしさばかり。つんと上向くまつげも、ほんのり色づいた頬も、わずかに開いたくちびるも。いつまでだって見つめていられるけれど、まだ肌寒さの残る時期、そろそろベッドに運んであたたかな毛布でくるんであげないと。
さてどう運んだものかと思案しているうちにぽつり、まだろくに乾かしていない髪の先から滴った雫が彼女の額に落ちて、流れて。つと、水槽の面のようにまどろんだ眸が覗く。何度もこまかにまたたくそれが私に焦点を合わせ、おかえり、と。回らない舌さえかわいらしい。
「待たせてしまってごめんなさい。ベッドまで歩ける?」
「…つれてって」
そうして伸びた両腕にやれやれと、ゆるむ頬のままに首を差し出せば、待ってましたとばかりにぎゅうと抱きついてきて。背中と膝裏に手を回し、抱き上げるついでにくちづけを。
(まったく。わがままなお姫さまだこと)
2018.5.15
理性が根こそぎさらわれる、感覚。
じり、と。四つん這いでにじり寄る、まるで猫みたいに、だけど視線はきっと獲物に舌なめずりするけだもののそれ。おいしそうな足に自身の内腿をすり合わせて、熱を交わして、私と彼女との境界が曖昧にとけていく、たったそれだけでおなかのおくが切なくうずいて。
押し寄せる波をやり過ごすべく呼吸をひとつ、ああまた、この香り。さっきから焚きしめられている香が、私の思考を鈍らせて、代わりに底で息をひそめる欲をいたずらに刺激する。身体中があつくて仕方ない、ふれあったって冷めるわけはないと知っているけどそれでも心よりももっと深いなにかが彼女をねだっていた。
シーツばかりを撫でている彼女の手を取り、鎖骨にひたり、指先ひとつ動いていないはずなのに、肌に直接重ねられているというただそれだけで彼女の脚をひどく濡らしてしまう。
「…ね、さわって」
私と同じだけの熱を孕んだ手のひらを鎖骨から胸、おなかへとすべらせて。こんなにもはしたないのはぜんぶこの香りのせい、私のなにもかもを見透かすこの視線のせい。免罪符を与えられ解放された欲が勝手にあふれて、見咎めたカルロッタが自身のくちびるをひと舐め、ぬらりと照るそれに、うちに秘めた色が歓喜に震える、甘い香りがいや増す。
「──あなたのお望み通りに」
(かおり、に、しずむ、)
2018.5.16