まるで陽にとけていくような声で。
「もうすぐ春が終わるから、」
続く言葉は風にかき消されて、けれどその先をどうしてだか知っていた。にこりと、いつも通りに笑みを浮かべた水槽色の眸に水が張ることはない。グローリア、そう口にしたはずなのに、からからに乾いたのどが音を取り出してはくれなかった。
予感はしていた、だって彼女がどこかかなたへ視線を投げることが増えたから。私はいつだって春そのものみたいにまばゆい彼女を追いかけていたけれど、その視線に応えてくれる回数が少なくなって。それでも憂う表情が増えたわけでもなく、むしろ祝祭の最終日に向けて熱が入っていって。
だからただの思い過ごしだと考えていた、そう信じたかった、なのに彼女は無情にも告げる、もうすぐ春が終わるから、だなんて。
私たちふたりを照らしていた陽光が、火山の向こうへと姿を隠そうとする。彼女の影だけが伸びることなくその身をとかしていく。カルロッタ、と。呼び声が私に届く前に落ちて。
「──私は、しあわせだったわ」
「…っ、グロー、」
太陽の最後のきらめきが消える直前。なにかに弾かれて伸ばした手はけれど空を切り、ひときわ強く吹き抜けた風が色とりどりの花弁を宙へと散らしていって。
ひとかけらの花弁さえ残らない空間をただ、抱きしめた。
(ああそれならせめて一度でもこの腕のうちに彼女を、)
2018.5.17
「だからこっち見ないで」
「ねえ、ちょっと言い様がひどいんじゃない?」
口では文句を垂れながらも大人しくまた真正面を向いてくれるのが彼女のやさしいところ。そんな好意に甘え存分に横顔を堪能する。
伏せられたまつげの細やかさに、アルコールのおかげかほんのり血色のよい頬に、グラスに添えられたくちびるのやわらかさに、何度感動を覚えたか知れない。その奇跡みたいな造形に─もっといえば私が好んでやまない顔だということに─ともすれば感謝さえしてしまいそうで。
そんな風なことを以前、本人に伝えてみれば、すきなのは顔だけかしらなんていたずらに返されたわけだけども。もちろんさわりのいい肌も意地の悪い性格だってあますことなくすきだけど、顔もその人を構成する大事な一部じゃないの。
「そろそろ穴が開きそうなんだけれど」
こくりと飲み干したのどがくつくつ、おかしそうに。やわらかく口角を持ち上げたその表情が艶を含んでいて、どんなものよりきれいに映って──くちづけたい、なんて。
彼女がいまだまぶたを落としている間にその頬にふれたくて。目指した着地点はだけど寸前で動いた彼女自身によって変更、そのしっとり濡れたくちびるに。予想外の出来事に慌てるのは私ばかりで、彼女はまたいたずらに笑む。
「キス。すると思ったから」
(ああやっぱり、いじのわるいひと)
2018.5.18
「ねえねえカルロッタってば、あれは許せちゃうわけ?」
肩をぶつけるように寄りかかってきたのはオーシャン。両腕を組んで、言葉に拗ねた調子を混ぜて。憤懣を隠そうともしない彼の視線の先なんて追わなくても想像がつく、だって私もいまのいままで視界に収めていたのだから。
なにかと距離の近いふたりだった。お互いに喜びを表現する方法が似ているからだろう、ショーの終盤では毎回手と手を取り合い感情を共有し、その表情を邪気のない笑顔で彩って。そうして同じバージに乗りこんだいまも、彼女の腰に当然のように腕を回した彼と、彼を見上げどこか嬉しそうに口を綻ばせた彼女。傍から見れば親密な同僚か、あるいは、
「…そうね、たまには割りこんでやりましょうか」
私の返答に驚いたオーシャンが一瞬目を丸め、けれどすぐ、悪巧みを思いついた子供のようににやりと口の端を持ち上げる。どうやらこのいたずら小僧も、仲睦まじく言葉を交わすふたりをあまり快く思ってはいないみたいだ。きっと彼のそれは、飼い主に構ってほしい犬に似ているのだろうけれど。
そうして視線を戻したところではたと、いつの間にかこちらを見つめていた水槽色の眸が明らかな不満をともしていて。つかつかと歩み寄ってきたかと思えば半ば抱きこむように腕を取り、私とオーシャンを引きはがし、彼に向かって吠える。
「ちょっとあなたたち、近すぎるんじゃなくて?」
(その言葉を待っていたのよ、私)
2018.5.18
あつい。とてもじゃないけど、あつい、あついの。
「暑いなら離れてくださって結構よ」
のぼせそうな心を読み取ったかのようなカルロッタの言葉。そんなにべなく正論をかざさなくったっていいじゃない。わずかな間だって恋人と離れたくないという私のいじらしい乙女心を少しは汲み取るべきだわ。
それよりもどうしてわかったのよ、あついって。
「だってあなた、声に出しているんだもの、全部」
このあつさについ心情が顔を覗かせていただなんて。これではきっと、私よりもうんと体温の低いカルロッタの身体で涼を取ろうという魂胆が明るみに出るのも時間の問題ね。
「だから全部自分で言ってるわよ。なにが乙女心やら」
そんな呆れたみたいに息をつかないでよ、傷つくじゃない。なにせ背中にぴっとり張りついているものだから、あなたの表情が見えないのよ。困ったように眉を落としているのか、いたずらに口の端を持ち上げているのか、それさえも。
ねえ、こっちみて、カルロッタ。
「あなたが離れてくれたらね」
それはいや。
「いや、って、」
あなたもあつくなっちゃえばいいんだわ。
「ちょ、っと、なに、」
(そうしてくちづけたうなじが途端に熱を持って、)
2018.5.19
人間の身体というものはひどく億劫で不便なものだ。
動けば汗をかく、息が絶える、思考が鈍くなる。春にこの姿を得て随分と時間が経つというのにいまだ慣れる気配はなくて。
なにより身体の芯をじりじりと焼くようなこの、熱。出どころのわからないそれがいつも内側から私を蝕み、なにもかもを絡め取っていく。なんとか逃れようと身じろぐ私の腰をとらえ、ぐと沈め、また、視界がちかちかまたたいて。呼吸がままならなくなる、うまく酸素がつかめなくてただ音をなくした叫びをあげて。
人の何倍もの時を過ごしてきたというのに、その長い生のなかでけれど感じたことのない感覚に恐怖すら覚えてしまう。こわい、ねえ、しらないどこかへいってしまいそうでこわいの、グローリア、
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ、カルロッタ」
私の悲鳴を感じ取ったのか、声を落とした彼女がぎゅうと距離をゼロにする。マグマのようにぐらぐらと焦がす熱とは異なる、やわらかな体温に鼓動がとかされていく。呼吸がもとのリズムを取り戻して、孕んでいた緊張がほどけていって。
私ね、と。窺うみたいなささやきは耳元で。
「あなたのぬくもりを感じることができてうれしいのよ」
たしかな喜びがにじんだ言葉に、私もよと返す代わりに力の入らない両腕をなんとか回して。とくとくと、つたう鼓動にゆるり、眸を閉ざした。
(人間の身体はひどく億劫で不便で、いとおしい)
2018.5.20
なにかがはばたく音がきこえた気が、した。
まぶたが重い、昨夜涙を流しすぎたからきっと腫れぼったくなっているのだろう。それでもなんとかこじ開け、容赦なく差してきた陽光につと、目をすがめる。
もう、朝。眠ってしまいたくなかったのに。いついなくなるともしれない彼女から片時だって意識を逸らしてしまいたくなかったのに。
もう三日も眠っていないでしょ、グローリア──まるで子供に言い聞かせるみたいにやわらかな調子の声が浮かぶ。あなたが眠っている間にいなくなったりしないから、ずっとそばにいるから、だから安心なさい。そんな言葉に誘われるようにゆるゆるまぶたが落ちてしまって。揺れる世界に最後に映った彼女はわらっていた、いとおしむみたいに微笑んで、額にくちづけを落として。
「…うそばっかり」
いつも、そういつも、彼女は私のためにうそをつく。知っていたのに、わかっていたのに、どこまでも愚かな私は最後まで信じるふりをしてしまって。夢から覚める瞬間を見られたくないのだという、彼女の願いに気付いてしまって。
ぽっかり空いた自身の隣にそ、と。当てた手のひらにつたうぬくもりは私以外のそれ。もしかするとついさっきまでいたのかもしれない、なんて。枯れたはずの涙が懲りもせず流れる。
窓の外では藤色の蝶がまぶしいばかりの陽を背に飛んでいた。
(春の蝶の夢)
2018.5.21
本当にこの子は甘え方を心得ている。
「だめよ」
他のだれにも聞こえてしまわないよう口のかたちだけでそう伝えれば、彼女の頬がむうとふくれて。そんなにわかりやすく拗ねることもないじゃない、ほしいならこのあといくらでもおかわりさせてあげるから。そんな意をこめて、柵をつかむ私の手のひらに添えられたグローリアの指をぽんぽんと撫でてみても、表情が笑みに返ることはなくて。ふてくされたその姿さえいとおしいと感じてしまうのだから私も大概だ。ああ本当に、種目にさらされていなければいますぐにでも抱き上げくちづけ腕のなかに閉じこめて私だけのものにしてしまうのに。もう少し速度が上がらないものかしら、このバージ。
そんな心境はおくびにも出さず、まだ未練がましく手袋をたどる指をそっと引きはがす。ちろり、見上げてきた眸が不満を灯す。目にまぶしいほど鮮やかなくちびるをとがらせて。
「しなさいよ、キスくらい」
そんな物言いに弱いことを果たしてどれだけ知っているのか。不遜にも取れるそれはけれど私にしか見せない表情で、そのことがなによりもうれしくてつい、従ってしまいたくなる。
自分から遠ざけた手をもう一度、今度は絡めて引き寄せて。肩紐を直すふりをして鎖骨をなぞれば、ふ、と色がこぼれた。
かわいそうだけれどいまはここまでよ、グローリア。
(だってそんな表情、わたし以外に見せたくないんだもの)
2018.5.22
これで最後にしようと、一体何度。
鮮やかな紅がふれる、ああ今夜もかと、絶望的なまでの歓喜にのどが震えて。雫をたたえたまつげが揺れ、水槽色の眸が至近距離で私をとかして。言葉にさせるのはあまりにも酷で、続きを待たずにくちびるを呑みこむ、深く、彼女の罪悪感ごと受け止められるようにと。器はいつだって足りなくて、私の指をすり抜けていって。
隙間から嗚咽がこぼれる、ごめんなさいと、濡れた謝罪に胸を貫かれるのも何度目か。くちづけるたびに彼女を傷つけ、身体を重ねるたびに心が離れていく感覚。それでもどうしようもなく求めてしまう私はどこまで愚かなのか、彼女から手を伸ばさせてしまう私はどれだけ残酷なのか。考えたくなくて目を閉ざす、まぶたの裏にもうすっかり焼きついた彼女の泣き顔が映りこんで、ああ、どうすれば許されるのかと。
答えはもうわかっているのに──離れることがきっと彼女のためなのに、どこまでも臆病で身勝手な私はまだ、彼女を手離すことができなくて。
「おねがい、カルロッタ、…おねがいよ、」
はなれないでいて。しぼり出された願いは私のそれ。また、彼女の口から発させてしまって。息が絶えそうになるほどの罪の意識から逃れたくて言葉をふさぐ。
夜はまだ、終わらない。
(いつかの終わりをみずから遠ざけて、)
2018.5.22
「ちょ、っと、もう、」
「もう、は聞き飽きたわ」
くちびるを離すことなく返してくるものだから、言葉を発するたびに吐息が肌にふれ。思わず震えそうになる身を留めるのに精一杯、だって素直に反応するのは悔しいじゃない。どうせ口の端をおかしそうに持ち上げて、かわいいわね、なんて。いたずらなそれなのは目に見えてるから。
カルロッタが背中に張りついて、一体どれだけのくちづけが送られただろう。おかえりなさいと振り向く前に腕のうちに閉じこめられ、まずはうなじに、それから肩へと、時間をかけてゆっくりと、あますところなくふれさせて。
じじ、とファスナーが引き下ろされていく。外気にさらされる先からやわらかな熱が距離を詰め、やわく吸われ、軽やかなリップ音が情欲を煽っていく、ひとつひとつとたどられるたびに否応なしに焦がされていく感覚。制止の声にも取り合ってくれないから、自身の腕を抱きこみただただ熱を逃すのに必死で。
ちゅ、と。音は背骨のはるか下方。猫であればしっぽの付け根にそっと、くちびるが落ちて。小さくこぼれた声を、けれど猫よりも耳のよい彼女が聞き逃すはずがなく。
「我慢。しなくてもいいのよ、グローリア」
素直になってしまいなさい、なんて。甘くささやくその音に誘われてもう一音。高く洩れた音は私のくちびるから。
(あなたの前ではなにもかもくずれてしまう)
2018.5.24
おきてカルロッタ、と。春がささやいた気がした。
「もう。ようやくおきたわね」
くすくす、どこか楽しそうな笑い声は頭上から。まだ夢に引きこもっていたいとぐずるまぶたを開いて最初に飛びこんできたのはまぶしいばかりの陽の光。彼女の髪が朝日を反射しているのだと思い至るまでにまたたきの間ほどの時間を要して。
私だけが夜更かしをしたわけじゃないのにどうしてこの子はうんと早起きできるのだろうかと毎度不思議に思う。深夜はあんなにまどろむ目をこすっているのに、朝になると途端に溌剌とするのだから。だって陽を浴びると元気が出るじゃない、とは彼女の言。そもそもだれに乞われて夜を更かしているのか尋ねたところできっと、ごめんなさいと悪びれた様子もなくかわいらしい舌を覗かせるだけなのだろうけれど。
ほら身体をおこして、と腕を伸ばす彼女の手を取り、シーツの海へと逆戻りさせる。太陽にも似た髪に顔を寄せ、いっぱいに息を吸いこんで、くすぐったいわと彼女が笑う。なんだか今朝はあまえんぼうねと頭を撫でてくる彼女にまさか、あなたがとけていなくなってしまう気がしたなんて言えなくて。
「もう少しだけこのままでいさせて、──グローリア」
「少しと言わずいくらでも」
グローリア、ともう一度。音をたしかめて深呼吸すれば、春の香りが私を包みこんだ。
(この子の名前を紡げるしあわせまで噛みしめて)
2018.5.24