「私と、」  言葉に詰まる。口にすべき単語は分かっているのに、なかなか文章となってくれない。  目の前の少女はただひたすらに首を傾げ、私の言葉を待ってくれている。ああ、その仕草一つにさえ心奪われていることを、君は知っているのだろうか。  息を、吸って。 「恋を、してくれません、か」  思わず敬語になってしまったそれにぱちり、水面色がまたたいて。  次いで音を立てて頬が染まっていく。きっと私も同じ色に侵されているのだろうから、人のことは言えないのだが。 「私は君と、恋をしたいんだ。これからもっと愛していくために、愛を深めるために」 「あっあの、…わたしで、いいんですか。あなたしか知らない、わたしで」 「君がいいんだ。─…君じゃなきゃ、だめなんだ」  そうして彼女がふうわり笑って。私はまた、恋に落ちる。 (君とならきっと、何度だって)  2016.9.27
 束の間の休息に、しかし頬の熱は引く気配を見せない。  じっとりと汗ばんだ身体から伝わる足早な鼓動がそれまでの行為を思わせるようで、ごくり、喉を鳴らす。 「…っ、もう、」  変化に気付いたイデュナがちらと睨み付けてきた。繋がったままなのだから気付かないはずもないだろう。それにしたって、私の胸板に突っ伏して見上げてくるその姿になんの迫力もなく、むしろ愛らしさしかこもっていないことに気付いてほしい。  ともすれば反応してしまいそうになり、顔を逸らす。 「ちょっと。聞いてます?」  どう取ってしまったのか少々声を尖らせた彼女がわずかに身体を持ち上げ頬に手を伸ばしてきた。  元々彼女の希望でこうして休めているというのに、自ら動かないでほしい、私はこの苦行にいつまでも耐えられるほど聖人ではないのだから。  だというのに、そんな私の気持ちなど一切お構いなしのイデュナは上へ上へ、じりじりと動く。重なったままの胸が擦れる。むずがゆい感触が昂っていく。 「ねえ、アグナル、」 「…随分と余裕が戻ってきたようだな」  低く洩らした声に、びくり、震えて。  ようやく視線を戻せば、頬に触れたまま表情を固まらせた彼女がそこにいて思わず、口の端がゆるんでいく、もちろん意地の悪いかたちに。 「君から誘ったんだ、覚悟はできているな?」 「え、あの、そういうわけじゃ、」  上体を起こし逃げようとする彼女の腕を掴み、勢いよく引き寄せれば、ん、と。音は甲高く。 「──今度は止まれないからな」  返事は、聞かなかった。 (余裕なんて無くしてあげよう)  2016.9.27
「まだまだ小さいな」  一段高い場所に軽快に降り立った彼女は、わたくしを見下ろしてふと、微笑む。  身長のことを指しているのだろうか、だとしたら彼女はわたくしよりも幾らか小さいはずなのに、かわいい人。  そう思ってくすくす笑みを洩らせば、意味を察した彼女が、違うよ、と。やわらかな笑顔を一つ。 「想いが、だよ。私が君に向けている想いの方がずっとずっと大きいさ」  ああ、そんな言葉一つで熱を上げたくなかったのに。 (鉤鈴「大人とこども」)  2016.10.1
 控えめに言って、足はもう限界を迎えていた。まだ屋外であれば、うんと高いヒールの靴を履いて挑むのに、素足のいまはそんなずるも叶わない。  息遣いはもう届いているのに、いまだ不敵な笑みに見下ろされたまま、その距離は一向に縮まらない。  もう諦めてしまおうか、そう、踵を下ろしかけて。  ふと、さらわれる身体、やわらかな体温、いたずらな微笑み。 「ごめんなさいね、待ちきれなかったの」  あなたはいつだって、いとも簡単に触れてきてしまう。 (キャロテレ「あと5センチで届く距離」)  2016.10.1
「ちょ、ちょっと、休憩…っ」  息も絶え絶えなぱいちゃんが、開口一番、洩らした言葉がそれだった。  確かにのどを休ませる暇もなく喘がせていたのは事実だけど、それにしたってもうちょっと甘い言葉をかけてくれたっていいのに。頬をふくらませてみたってきっと、ぱいちゃんは気付いてくれない。  ふと、ペットボトルに伸びた手首を掴む。 「──やっぱり、だぁめ」 「ちょ、あの、うっちー、んぁっ」 (こうなったら余裕もなにも無くしてあげる)  2016.10.1
 ぽん、と。見えたつむじに手を置けば、途端に見上げてきた少女がむうと頬をふくらませる。  次に来る言葉は分かっている。 「子供扱いしないでください!」  ほら、また。その仕草が、表情が、かわいらしさを引き立てていることにいつ気付くだろう。私が単にあふれるいとおしさを抑えているだけだということに一体いつ、気付いてくれるのだろう。  その“いつか”まではまだ、この距離で。 「大人になったら絶対、抜かしてみせますから!」 「あら、もう大人なんじゃなかったの?」 「──いじわるっ!」 (もう少し、いじわるな大人でいさせて)  2016.10.1
 ふ、と。あなたが吐き出した息が白く煙る。呼吸の軌跡を追いかけるように持ち上げられた視線が、つ、と、細められて。  あの眸がわたしに向けられたらどんなにか嬉しいだろうと、考えたのは初めてではない。  煙草をもみ消したあなたは、そこでようやくわたしに気付いたみたいで、微笑みを一つ。 「どうしてかけてくれなかったの、声」 「─…別人みたいに、見えたから」 (わたしの知らない、あなたの横顔)  2016.10.1
 黒だ、と。最初は色の認識。  何故見えたのか、だとか、ヴェールにしては随分大人びた色だな、だとか。そんなことが浮かぶ前に、目の前の身体がぐらり、強風に煽られ傾いていく。  助け出そうと伸ばした手のひらから伝わる、やわらかな感触。  それに気を取られたせいで、受け身を取るのをすっかり忘れてしまっていた。 「ホックさん! ホックさん、どうかお気を確かに!」  視界が明滅する。薄れゆく景色の中で、それでも先ほど目にした黒だけがやけに鮮やかに残っていて。 「わたくしのせいですわ…っ、ああ、誰か…!」  胸を触ったことに関するお咎めはないのだろうかと、最後に思ったのはそんなこと。 (それにしても、私のものに比べ随分と控えめだったな)  2016.10.2
 そ、と。扉の隙間から、勉強中の姉さんを盗み見るのが、最近のあたしのマイブーム。  と言っても、ここからじゃ伏した横顔しか窺えないんだけど。それでも、眼鏡をかけ一心に机に向かう姉さんの姿はいま、この時でしか見ることはできない。  長いまつげが一瞬、眸を覆う。  そうしてふと、視線を上げて。突然のことに狼狽えるあたしを見とめた姉さんは、ふ、と。その微笑みすら、美しくて。 「またそんなところにいるのね。そこは寒いから、こっちへいらっしゃい」 (ああ、全てお見通しだったのね)  2016.10.2
 それはとある雨の日でした。 「──あら、迷子かしら?」  おなかの底に深く響く、声。  顔を上げるよりも先にあごを捕らえられ、上向かされた先に漆黒の眸があったのです。  迷子と呼ばれるほど子供でもないし、そもそも迷ってるわけでもないけれど、その言葉一つ出てこないほどには、夜闇みたいな色に惹き込まれていました。  にぃ、と。紅の引かれたくちびるが妖しく弧を描いて。 「決めた。あなたにしましょう」  なにを決めたのか、なんでわたしなのか。  一つだってわからないけれど、一度黒に呑み込まれたわたしはもう、その口づけを拒むことなどできないのでした。 (知らないお姉さんに囚われました)  2016.10.2