指先が肩をかすめる、たったそれだけで震えてしまいそうになる身体を、ひそやかにくちびるを結ぶことでやり過ごす。手袋越しだというのにその爪のかたちまで思い出してしまって。きれいに整えられたそれが私の肌をどうすべっていたのか、どんな視線が身体をなぞっていたのか──いけない、いまは大切なショーの途中。 「直ったわよ」  ふ、と。耳にふれた吐息についにちいさく声を洩らしてしまい慌てて振り返り、笑顔を繕った。外れてしまった肩飾りを直してくれていただけなのに、その指に昨夜の気配を探すなんて本当、どうかしてる。笑みを返したカルロッタの表情には安堵しか窺えないのに。  どうか気取られていませんようにと祈りながらありがとうと謝罪を乗せ腰を折って。そうね、と。片手を伸ばし優美に返礼した彼女はちろりと、意味深にゆるめた自身のくちびるを舐める、その舌の赤さにふとくらんで、 「あなたの衣装の構造を知ってるのは、私だけだものね」  剥ぐのもまとわせるのもお手のものな彼女になにもかも知られてしまっていた、私がもどかしい指先に昨夜のうごきを重ねていたことさえも。 「さっすがカルロッタ! もう直しちゃったんだね!」  オーシャンの素直な感心にもちろんよと、どこか誇らしささえ覗かせたものだから、熱の上がった頬を思わず覆った。 (顔あげられなくなっちゃったじゃないの、もう)  2018.5.26
 どうやら私は彼女の気配を手繰ることに長けてしまったようで、背中越しだというのにその視線を、吐息をもう、察知していた。きっとどう声をかければ私が驚くか思案でもしているのだろう、そんないたずら心さえいとおしくて。  意を決したような足音が距離を詰める、さてどちらの反応を取り出したものかと考えをめぐらせている間にひたり、忍びきれなかった音がやみ。ふ、と、目にまぶしい髪が肩をすべる。 「随分と熱心ね、カルロッタ」  甘やかに馴染んでいく声は軽やかに。肩越しの私の手本を覗きこみ、それからこちらに視線を移しふわり微笑んでみせた彼女はやっぱりかわいくて。驚いてあげようと思っていたけれど、そんな反応よりも先に笑みがのぼっていた。 「もうすぐ読み終わるから少し待っていてちょうだい」 「もちろんよ。私も待たせちゃったことだし」  するりと肩をひと撫で、対面に座った彼女は店員にコーヒーを注文すると、突いた両手で顔を支えじ、と眸を据える。背表紙を見つめているふりして私の表情を窺っていることくらい、視線を上げなくたってわかることだ。文を追ってはいるものの、内容なんてもう頭に入ってこない。  グローリア、と。呼び留めれば明らかに顔を輝かせて。中身を見せる体で本を掲げ、近付いてきた彼女のそのくちびるにひとつ、表紙の影に隠れてくちづけを送った。 (本よりもあなたに執心してるみたい)  2018.5.27
「…ひどい顔」 「あなたの言葉の方がひどいと思うんだけど」  そう返した本人でさえ自覚しているのか、まとわりついた疲れを振り払うように首を振って、だけどそんなことで表情が好転するはずもなくて。  二ヶ月ぶりの逢瀬だった。お互いポートを代表するファッションアーティストということ、加えて大成功に終わった春の祝祭の影響で仕事が次から次へと舞いこみかつてないほどの多忙を極めていたものだから、手紙をしたためる時間さえままならなくて。そんな日々が少し落ち着きを取り戻してきたころ、久しぶりに届いたカルロッタからの手紙にはただ一言、会いたい、なんて。いつもは仮面の裏に本音を隠してしまう彼女の、こんなにもストレートな願いも珍しい。よほど恋しさを募らせているのか、それともよほど疲労が溜まっているのか。  どちらにせよ乞われたからには─しばらく耳にしていない彼女の声を聞きたかったという理由も大いにあるけれど─勇んで船に乗りこみ彼女の自宅の扉を叩けば、明らかに徹夜明けの表情を繕えずにいる家主が、私のあけすけな言葉に眉をひそめながらもぎゅうと抱きついてきたというわけで。  あいたかったわ。耳元に落ちた声はそれが最後。しばらくして聞こえてきた寝息に、お疲れさま、と。起こしてしまわないよう頭をそっと引き寄せ、少し乱れた髪にくちづけた。 (無理して予定を空けてくれたこと、知ってるのよ、私)  2018.5.27
 その薄氷色を、待っていた。 「ねーえさん!」  木洩れ日を遮るように覗きこんできた妹は、彼女にのみ許された呼称をどこか弾んだ調子で音にする。陽を反射する髪がまぶしくてつと、目を閉じて。そうして再び世界と相対したときにはもう、ぬくもりが肩に寄り添っていた。陽だまりよりもあたたかいそれにはまだ、慣れない。 「こんな陽の高いうちから外にいるなんてめずらしいわね。もしかして公務放り投げてきたの?」 「私が投げたんじゃなくて、カイに取り上げられたの」  気晴らしに散策でもなさってはいかがでしょうか──ここ数週間、執務机にかじりついていた私から文字通り書類を取り上げたカイは子供に諭すように言った、つまり休め、と。  けれど暇をつくったことのない私は、突然与えられた休暇をただただ持て余すばかりで結局、中庭の一際大きな木の幹で涼むことで時間をつぶしていた。あるいはここにいれば妹が見つけてくれるのではと、自ら声をかける勇気もない私は彼女にばかり期待をかけて。そんな卑怯な願いをいつだって妹は拾い上げてくれる、きっと無意識に、けれど的確に。 「まだ時間、ある?」  おずおずとばかり視線を傾ける妹にゆるり、微笑んで。 「ええ、たくさん。たくさんあるわ、アナ」 (あなたと過ごす時間はいくらあったって足りないもの)  2018.5.28
 ぐ、と。背中がしなる、その瞬間がいとおしい。 「も、やだぁ…、」 「やめてほしいならこっち向きなさい」  なるべくやわらかな声音を心がけて、けれどにじんだ悪戯な色までは隠せなかったようで、枕からわずかに顔を覗かせたグローリアがじとりとこちらを見据える。羞恥に染まった眸で睨まれたってむしろ私を煽る材料でしかないということを、そろそろ指摘してあげた方がいいのかしら。  顔をみられたくないから、そう言ったのは目の前で無防備に背中をさらす彼女自身。散々眺めてきたのになにをいまさら、とも思うけれど、拗ねたみたいにうつ伏せになる姿がかわいくてつい、いじわるしてしまいたくなって。枕を抱きかかえる彼女に、じゃあすきなだけ枕と仲良くしてなさい、と。  枕にちらばる金糸の髪をすいて、指先でつ、と背骨をひとつ、ひとつとたどる。くだる指に合わせて腰が持ち上がる、まるで猫みたいに。高く洩れそうになった声が枕に吸いこまれて、代わりにくぐもった吐息がいくつもこぼれていく。強情なことにまだ向き合おうとしない彼女の耳元にくちびるを寄せて、今度はちゃんと甘えた調子が浮かびますようにと。 「──私を見てくれなくちゃキス、できないじゃない」  どうやら効果があったようで、おずおず両腕を伸ばしてきた彼女こそ求めていたであろうくちづけをご褒美にと降らせた。 (よろこびにとけるあなたの顔をみていたいの)  2018.5.29
 充分に睡眠を取った彼女はそれはそれは不機嫌だった。 「ちょ、っと、もう、離して、」 「いや」 「いや、って、そんな、子供みたい、に、」  言葉もまともに紡ぐ暇を与えられず、次から次へとくちづけが降ってくる。  どうやら徹夜三日目だったらしい彼女の無理にベッドに引きずりこみ、せっかくあなたが来てくれたのにといまにも夢に沈んでいきそうな声で言い募るカルロッタに、三十分したら起こしてあげるからと宥めたのはたしかに私だけど。一瞬で眠りに落ちた彼女の寝顔があんまりにもあどけなくてつい、眺めているうちに陽が暮れてしまっていたけど。  揺り起こすよりも先に眸を覗かせた彼女がまたたいて、それから室内の暗さに首を傾げて。 「や、だ、カルロッタ、先にお風呂…っ」 「なにか言った?」  押し返そうとした指を取られ、じゅ、と。手の首に吸いつき、有無を言わさぬ視線を向けてくる。ああもう、なんでこんなに寝起きが悪いのよ。さっきまであんなかわいらしい表情だったっていうのに。心の中で毒づいてみたって、形勢が変わるわけではなくて。 「無駄にした時間、取り戻させてもらうわね」  お風呂には入れないみたいだと悟るにはそれで充分だった。 (きっと今夜も徹夜ね)  2018.5.30
 コーヒーはとうの昔に冷めきっていた。 「その話。もう三回目よ、ヒューゴー」  私の呆れた声音に気付く様子もない彼は対照的に、そうだなカルロッタ、などと明るい調子で返し、これで三度目の話題をさもはじめて披露するかのような口振りで話す、俺はやっぱり君たちと切磋琢磨しているときが一番楽しいんだ、と。  どうやらつい先程までアクアポップな彼と酒を酌み交わしていたらしい。見るからに顔を赤らめなぜだか私たちのいるカフェへとやって来たヒューゴーが会話に乱入して早数十分、話の席は完全に彼の独壇場と化していた。どうしてこんな状態で外に放り出したのかとオーシャンを恨みもしたけれど、そこそこに酒豪なヒューゴーのこの様子を見るにきっと彼もそれはポップに酔っ払っているのだろう、そのあたりの判断がつかないのも仕方がない。かといって私たちの待ち合わせ場所を教えた罪が軽くなるわけではないけれど。  彼お抱えのモデルに連れ戻しに来るよう店主に連絡を入れてもらったものの、それまでこの酔いどれの相手をしなければならないのかと思うと自然、ため息の数も増えるというもの。相手といっても適当な相槌だけ打っていれば、あとは勝手に盛り上がってくれるのだけれど。あるいは私の意識に少しでもアルコールが入っていれば、一緒に感極まりでもしたのかも、いいえそれはないわね。  そうしてもう何度目かの息をこぼした私のすねをふいにと、と。下から上へなぞる感覚に背筋が震える。  慌てて目の前に視線を戻せば、それまで退屈そうにストローをくわえていたグローリアがそれはそれはたのしそうに、頬をいたずらに綻ばせて。また、足をたどられる。どうやらミュールを器用に脱ぎ捨て爪先でちょっかいをかけてきているようだ。お行儀悪くもスカートの裾をかき分け、素肌にふれて。背骨をぞわぞわと、覚えのある感覚が這いのぼっていく。この程度で、なんていう悔しさと、公共の場だという背徳感がさらに自身を煽る。  は、や、く。わずかに紅の落ちたくちびるが動きだけでそう訴えてくる。早くとせがまれてもまさかこんな状態の男をひとり置いていくほど薄情にはなれなくて。それを知っていてわざと誘ってきているのだろうこの小悪魔は、堪え忍ぶ私を思うさま惑わして、弄んで。思わず反らしてしまいそうになる身体を必死に抑え込む。なんにも気付かない男の話は止まらない。早くと叫んでしまいたいのは私の方なのに。ああはやく、  そんな中。息を切らせて駆けてきた足音に胸を撫で下ろす。遅くなってすみませんと頭を下げた年若い青年はそうして陽気に笑う男の肩を揺すり、ほら早く帰りますよと急かして。 「─…じゃあ、私たちも失礼するわね」  伝票の代わりにグラスの水滴に濡れた手をつかんで立ち上がれば、小悪魔はなんともうれしそうに笑った。 (笑みを浮かべる余裕さえ奪ってあげるから覚悟なさい)  2018.5.31
 両膝と一緒に抱えた枕に顔をうずめたらもう本当に動けなくなってしまった。 「ほらグローリア、いい子だからお風呂に入ってきなさい」  ぽんぽんとやさしく背中を撫でられる。だけどどれだけ宥めすかされたってこわいものはこわいの。恨むべきはあの自称ポップなデザイナー。私が怪談話に少しばかり耐性がないことを知っていながらわざとロストリバーデルタを彷徨う悪霊の話をするなんて。ポップじゃない、全然ポップじゃないわ。  枕にぐりぐりと顔を押し付ける。いつもは私を安堵で包んでくれるこの持ち主の香りも、だけどいまばかりは効果が薄いみたい。 「…明るくなったらはいるわ」 「あら、じゃあそのままの身体で私に抱かれるつもり?」  花みたいに甘やかなあなたを感じることができるから私はそれでもいいけれど、なんて。耳元にひそやかに落とされた声はいまよりもっと深い夜への誘いを孕んでいて。丸めた背筋をなぞる指先にたしかな色がこめられる。ちらと枕から目だけを覗かせる。随分と至近距離で重なった眸が反応をたのしむみたいに細められて。どっちがいいかしら、なんて。なんて、ずるい人。まんまと策略に乗せられてしまう私も大概だけど。 「…なら。一緒にはいりなさいよ、お風呂」 「仰せのままに」 (あなたのほうがよっぽどこわいかも、なんて)  2018.5.31
 うそつき、と。子供みたいに喚きたくなった。 「ぅ、あ…、っ、」  けれどいざ文句を向けようと口を開いたところで言葉になる前になきごえへと色を変えていくばかり。ぎり、とくちびるを噛み、のどの奥に押しこめる。だというのにそれさえも許してくれないまっさらな指がつとくちびるをなぞり、戒めを解き奥歯に触れる。かんじゃだめよ、なんて、言われるまでもない、彼女の身体に傷ひとつつけるものですか。けれどその代償に、恥ずかしいほどとけきった自身の音で鼓膜を満たさなければならないなんて。歯で潰してしまわないようにと注意を払うほど音が外へとこぼれていって。  ──ああそういえばこの指は、さっきまで私のおくをかきまわしていた指だわ、なんて。唾液以外のものでしとどに濡れたそれに気付いてまたぎゅうと、かたちがわかってしまうほど自ら締めつける羽目に。 「ねえカルロッタ、私ね、こわいの、夜がこわいの」  反応を察知したグローリアがくすりと頬をゆるめる。中指の先で私の舌をかすめ、ようやく引き抜いて。いとおしむように毛先を撫で、平気でうそを重ねる。こわい、だなんて。ひとりではお風呂に入れないなどと震えていたさっきまでの姿とは大違いじゃないの。うそつき。 「だから、ね。──朝まで起きててちょうだい」  寝かせてなんか、くれないくせに。 (きっと拒否権さえもないのでしょうね)  2018.6.2
 陽の傾いたこの時間は、すこし遅れて歩くのがすき。 「どうしたの、グローリア」  普段は歩幅の大きなカルロッタが、だけど私と連れ立つときは歩調をゆるめてくれることを知っている。それでもいまばかりはわざと肩を並べず、すると彼女も足を遅めて、つられて私もことさらゆっくり歩いて。訝しんだ彼女はとうとう足を止め、二歩ほど後ろをついて回る私に眉をひそめてみせた。 「どこか調子でも悪いなら、」 「いいえなんでも! なんでもないのよカルロッタ!」  いいからあなたは前だけ向いて歩いててちょうだい、とその背中を押せば、挙動に疑問を抱きながらも再び正面に直ってくれる。それでね、なんて先ほどの話題を続けながらも、私の視線はまた地面に吸い寄せられていた。  長く長く伸びた、影。去りゆく太陽に照らされたふたりぶんの分身は、私が数歩後ろを歩いているおかげで寄り添えていて。すこしの身長差が、だけどいまはきっちり埋まっていて。  カルロッタが相槌を打つ合間にそ、と。首を傾げれば、影も真似してこてんと、頭の置き場は彼女の肩の上。好ポジションに落ち着いたことを横目で確認して思わず笑みがこぼれる。 「あら、なにかいいことでもあったのかしら」 「ええ、あったわ、──とってもいいことが、ね」 (せめてあなたの影くらい私のものにさせてね)  2018.6.3