これはいわゆる夜のお誘い、なのかしら。  カルロッタの鼻先が髪をかき分けていく。顔面からもそもそと埋まっていく姿はまるで犬のよう。傍目にはかわいいかもしれないけど、髪を弄ばれている当の私はたまったものじゃない。だってカルロッタのあたたかい息が地肌にふれるたび、おなかに回された両腕にぐと力がこめられるたび、震えそうになる身体をなんとか抑えるのに必死なんだから。  お風呂から上がってすぐ、後ろから羽交い絞めにされて数分。なにを喋るでもなく、こちらから声をかけてみても要領を得ない相槌ばかり、だけど単に甘えているというふうでもなくて。  くちびるがおもむろに肌をかすめていく。グローリアと、いとおしさまでこめられて。もうむり。もうだめ。がまんの限界よ。 「ね、え、カルロッタ…、もう…っ」 「この香りが、ね、うれしくて」  私の言葉に重なるようにふと微笑みを織り交ぜた彼女は息を大きく吸いこんで、ぎゅうとまた、距離を縮めて。曰く、私が自分と同じ香りをまとっていることがうれしいのだと。この家のシャンプーも、ボディソープだって使ったのだから当然のことなのに、仕草にまでしあわせをにじませるだなんて。なんてかわいい人なのと、素直な感想がひとつ。それなら私も煩悩は捨て、このぬくもりに身を任せようと、 「─…ところで。なにを期待していたのかしら、グローリア」 (気付いてないふりをするやさしさは持ってないのかしら、あなた)  2018.6.30
 いつもの目覚めとは違う気がした。  慈しむようにやわらかな風が私の髪から頬の順に撫でていく。普段の春であればただ強く吹き抜けていくだけなのに、この風はまるで私を散らしてしまわないよう加減でもしているみたいで。そこにたしかな情がこもっている気がして。  ふ、と。誘われるまま眸を開く。すぐ目の前をせかせかと行き過ぎていくとりどりの靴。意識が沈むそのときに見た光景よりも明らかに鮮やかな色たちが、季節が変わったことを知らせてくれる。私の愛する春がようやくめぐってきたのだと。  うれしさに綻ぶ頬を止められない。弾む心に任せて土から身体を起こせば、ひらり、視界の隅ではためく藤色がひとつ。 「…人の寝顔を覗くだなんて、いい趣味してるじゃないの」 「あら、だれもあなたのゆるんだ寝顔なんて見ないわよ」 「ばっちり見てるんじゃない」  覚えのある翅色にあからさまな不満を乗せれば、どこからか笑い声が響いて。ゆるく巻き起こった風が蝶の姿をゆらめかせ、またたきをひとつ、そうして気付けば口角を艶やかに持ち上げたカルロッタが、私と同様に寝転んでいた。 「もしかして。待ちきれなくて起こしに来たとか」  からかいをこめて薄く笑んでみせたのに、彼女はといえば期待した動揺を覗かせることなく軽くくちづけてくる。 「そうよ。春にばかりあなたを揺り起こさせるのは癪だもの」 (春を知らせる蝶)  2018.7.2
 まだ冷たい風を受け湖面が波立つ。遠くの木々さえ朝もやに沈む中、どうしてボクはこんな早朝におじさんなんかと湖にいるんだろ、と。考えるのはそればかり。  そもそもはグローリアの余計な気の回しが発端だった。 『ふたりで駆け落ちなんてどうかしら!』  どうかしら、もなにもない。ボクはただ、最近ヒューゴーの顔見なくて調子でないね、なんてぼやいただけなのに、どうやらボクが彼に恋心を抱いていると勘違いしたグローリアはその大きな眸を潤ませぎゅうとボクの両手を包みこみ、わかるわその気持ち、と。  わかるもなにも、別にヒューゴーに対して特別な想いを向けてるわけじゃないのに。そうして彼女の斜め上な気遣いのせいでいまこうして、ボートを前に男ふたりで立ち尽くす羽目になっているというわけで。 「グローリアとカルロッタも来ると言っていたんだがなぁ」  ボクたちをふたりきりにさせる策略だとも知らず、腕を組んだヒューゴーがぼやいて。だけどふいに視線を向けたヒューゴーが、なぜかやわらかく目尻をとかす。 「いっそこのままふたりでどこかへ行ってしまおうか」  ぎゅ、と、心臓をわしづかまれたみたいに。 「─…そういうの、だれにでも言ってんでしょ、どうせ」  普段通りを装いへらへら笑うことで精一杯のボクに、お前だけだよ、なんて。なんでそんなきれいに笑えるのさ、あんたは。 (人の気もしらないくせに、なんであんたはそんなに、)  2018.7.18
 つかめる、と、思っていた、ちいさいころは。  夜空にまたたくたくさんの光をこの両の手のひらいっぱいに集めることができると信じていた。えがいた夢は全部叶って、ほしいものはなんでも手に入って、どこへでもすきなところへ足を運べるのだと。そう、信じて疑わなかった。  けれど夢は幾度も潰えて、ほしかったあれもそれもは眺めるだけに終わって、豊かながらも狭い国から出ることはなくて。いつの間にか年齢ばかりを重ねた手のひらを伸ばしてみたって、遠い空で輝く星をつかめるはずがないことはもう、知ってしまっていて、 「──ようやくつかまえた、」  ふ、と。影が差す、彼方で光を放っていたはずの星が消える。  またたきをひとつ、ふたつ、わたしを見下ろすその顔にようやく焦点が定まる。こんな夜更けにどこを散歩しているのかと思ったよ、なんて。上がった息を落ち着かせるみたいにいつもよりゆっくりと言葉を継ぐ彼につかまれた手とは逆のそれを伸ばし、額に張り付いた前髪を払う。  つかめると思っていた、なにもかもを。だけどいつしかこの手でにぎれるものはほんのわずかだということを知って、そのたったひとつが、指先からつたうこのぬくもりで。 「─…つかまえたのはわたしの方よ、アグナル」  そのたったひとつが、なによりもいとおしくて、 (なにを犠牲にしても、あなたとの未来にはかえられなくて)  2018.8.19
 夜空を彩る花が咲く。あか、あお、きいろ、色を数えている間に遅れてやってきた音がわたしたちの耳を奪い取る。  あと、何発だろう。あといくつ打ちあがったら、夏が終わってしまうのだろう。季節が移り変わればまた、わたしたちは元の生活に帰ってしまうというのに、さっきから会話もないままただ明かりを落とした部屋で遠くに映る色たちを眺めるだけ。その空気感が心地よくもあり、けれど同時に聞こえる焦燥の足音にじわりじわりと首をしめられて。  今年こそはと、覚悟を決めてきたはずなのに。もう十年以上、つかず離れずの曖昧な関係を続けてきた彼女にこの夏こそ想いを告げるのだと、そう決意したはずなのに。気付けば彼女と過ごす夏の夜はこれで最後。この穏やかな空間も頭を預けた肩も耳から伝わる体温もぜんぶぜんぶ、来年までおあずけ。  だというのにわたしは今日までそのたった一言を口に出せずにいた、だってこわいから。変わってしまうことが、距離を詰めづぎることが、あなたが同じ想いを抱いてないかもしれないことが。臆病なわたしはずっと、よりも、いまだけはと願う。  どうかいまだけは、 「──、」 (音に隠したすきに、気付かないでいて)  2018.9.4
 熱の余韻が夜にとけた気がして目が、覚めた。  またたくごとに眸が闇に順応していく。はじめは夢のなかにいるみたいにおぼろだった視界も次第に鮮明さを取り戻し、気付けば彫刻のように整ったあごを捉えていた。  そ、と視線を持ち上げる。通った鼻筋を、きれいに揃ったまつげを、夜闇のなかでもそれとわかる金糸の前髪を。彼女のすべてを誰よりも間近で見つめる特権はいま、わたしにだけ与えられていて。だけどきっともうすぐ失われてしまうもので。確信めいた予感になによりも胸をしめつけられていて。  キャロルに抱きしめられるのも今夜が最後──そんな終わりを自覚していたのはきっとわたしだけではない。だからこそ彼女は深緑の眸いっぱいにはっきりそれとわかるほどのいとおしさをこめてわたしを見つめて、だけどもその感情を音にすることはついになくて。ちゃんと聞きたかったのに。彼女の声で、彼女の言葉で、ふたりで生きていくなんていう夢物語を信じさせてほしかったのに。震える彼女のくちびるが紡いでいたのはただ、ごめんなさい、と。  視界がぽろぽろにじんでいく。たとえば彼女の言うところの天使であれば救うことができたのか。どうしようもない未来を変えることができたのだろうか。ちいさな女の子みたいな寝息を立てるキャロルをぎゅうと抱きしめたわたしはいるかどうかもわからない神に祈る、ああどうか、 (だけどわたしのくちびるさえも愛を紡ぐことはなくて、)  2018.9.11
 月日を減るごとに妻の言葉が刺さるようになったのは自身が老いたせいだろうか。 「歳ね」  否、年齢も関係しているのだろうがそれよりも彼女の物言いに遠慮がなくなったことの方が大きいはずだ。いまもそうだ、老眼鏡を外し、凝った目元を揉みほぐしている私に視線もくれずただ一言。君も十年としないうちに同じ仕草をするようになるはずだと言いかけたくちびるを閉ざし、代わりにふて腐れてみせる。  そんなことを口にしようものなら当面、視線どころか言葉さえ交わしてもらえなくなりそうだ。それに、結婚当初となんら変わらない──もちろん歳月とともに落ち着きや美しさも伴っているが、時折覗かせる少女じみた一面をそのまま残したイデュナが老眼鏡をかけている姿など、想像もつかない。  そんな妻と比べ、寄る年波に勝てずせめて子供の真似事でもと頬をふくらませる自分がどこか滑稽で。  返す言葉を探すのも億劫で代わりにため息をつけば、いつの間にやら傍らに立っていた妻が私を見下ろし、ふぅむとあごに指を当てる。 「あなたってなんでも似合うからずるいわよね」  なんだか癪だわ、などと言い残しまた自身の椅子へと帰っていく彼女の背をただ見つめるしかなくて。 (言葉ひとつで私を一喜一憂させてしまう君の方がよほど、)  2018.9.22
 気に食わないわね──それが第一印象。  『ロストリバーデルタが生んだ稀代のアーティスト』『魅惑の仮面に隠された素顔に迫る』『謎多きアーティスト、その裏側』等々、彼女に関連する見出しを思い出す。私よりも長くこの世界で活躍している彼女の素性を追った記事はそれこそ数知れず、だけどそのどれもは結局、煙に巻かれたかのように曖昧なまま。彼女の不思議さを深めるばかりだった。  写真の中の彼女はいつだって意味深に微笑んでいる。それら全部をスクラップブックに貼りつけて、その高慢に飾られた笑みを剥がしてさしあげますわ、なんて。そう意気込んでいたのに。 「はじめまして。カルロッタ・マリポーサよ」  てっきり氷のように冷たいと思っていた指が、たしかなぬくもりを持って私のそれを包みこむ。夜の帳にも似た眸はやわらかな視線を向けてきているし、威圧的な雰囲気だって感じないし、彼女に比べまだキャリアの浅い私にだって友好的に接してくれている、それになにより、 「…意外と小さいわね」  想像していたよりも低い位置に顔があったものだから思わずそう口にすれば、カルロッタは恥ずかしそうに頬を染めた。 (なんだかかわいらしい人ね。それが第二印象)  2018.9.29
 指先ひとつ、だった。  あれだけ迷ったのに。気付けば季節が移り変わるまで放置してしまっていたのに。ぎゅうと締めつけるのどからなんとか酸素を取りこみ嫌だと抗う腕でつまみ上げ投げ入れいつもの分量を流しこみふたをして。人差し指でボタンを押せば、わたしの心境には不釣り合いなほど軽快なメロディが脱衣所に響く。ふた越しに見る間に水が溜まり、控えめな音とともにドラムが回る。  足の力が抜けるままに座りこむ。ごうん、ごうん。低い機械音が手のひらから身体を揺さぶってくる。  すぐに飽きちゃうよ。いつかのあなたの言葉が浮かぶ。そんなに早くおかわりしてちゃだめだよ、なんて。飽きるわけがない、だってこんなにすきなんだから。わたしの言葉に返ってくるのは苦笑ばかり。  自身の想いを疑ったことがなかった、だって変わるはずがないと思いこんでいたから。募る一方のこの心がしぼむはずがないと、愚かにもそう信じていたから。そうしてきっとあなただって──わたしの望む二文字を決して返してはくれないあなただってきっと、手を伸ばせばふれることのできるこの距離から離れることはないと、そう。  いつからだろう、指を絡められなくなったのは。視線が合わなくなったのは、笑顔を向けられなくなったのは、名前を呼ばれなくなったのは、想いが返ってくることがなくなったのは一体、いつから。  たしかな距離を感じはじめたのに、わたしの首筋からは相変わらずあなたのにおいがしていたし、耳にはあなたの音がこびりついていたし、まぶたの裏にはあなたの背中が焼きついていた。ここにあなたはいないはずなのに、あなたの影ばかりがわたしをとらえて離さない。 「─…飽きたのはあなたのほうじゃない」  こぼれたひとりごとに応えるみたいに、ごうん、と振動が止む。はじまりと同じように鳴った軽やかな電子音が、わたしに別離を告げる。  力の入らない足で立ち上がり、ふたを開ければもう慣れた柔軟剤の香りがふわりと広がって。水を吸って重くなった服を取り出し、濡れるのも構わずぎゅうと顔をうずめる。あなたと最後にふれたそれからはどうしようもないほどわたしのにおいがした。 (さよなら、と、あなたに告げることのできなかった別れを、)  2018.10.9
 やだ、なんて。なんだか負けたみたいで言いたくない、絶対。 「──や、だぁ…っ」  だというのに口は勝手に泣き言を繰り出す。やだやだと駄々をこねる子供みたいに首を振って、砂糖をまぶしすぎた声が隙間なくこぼれ落ちて。ぐずぐずにとけてしまった下半身がもうどこにあるのかさえわからなくなりそうで、そのたび私を弄んでいる彼女が律儀にも教えてくれる。  ぐるり、かきまぜられて、腰が跳ねる、もうはいらないと視界をにじませてもまだ奥の奥まで押し広げられ、ぐ、と息がつまった。 「どれだけ呑みこんでも物足りなさそうにしてるじゃないの」  楽しそうに降ってきた声にまた、彼女の指をたどるみたいに締めつける。素直すぎるその反応に、満足そうな笑みは深まるばかり。少しは力を抜きなさい、だなんて。痛いほど存在を主張していた花芯を親指がやわくつぶす。瞬時に走った痺れに思考が追いつかなくて、なにがなんだか理解しないままに腰をわななかせた。  ぐったり身体を沈める私を、だけど彼女はゆるしてくれない。ぐぐ、と容赦なく増す圧迫感。うまく酸素を取りこめなくて喘ぐ私に、彼女は微笑んだ、たしかな欲を眸にともして。 「まだまだ、──あなたのなかを、私でいっぱいにしたいの」 (どくせん、という、よくで、)  2018.10.19