いまにして思えばどうしてあんな見栄を張ってしまったのか。
「ま、待ってくれイデュナ…!」
後悔したところで越えの震えは止まらないし、情けなくも及び腰になっているし、足はがくがくと不安定。そもそもこんな細いブレードで全体重を支えようということが間違っているのだ、などと悪態をつく始末。
「あの、もしかしてアグナル、すべれ──」
「──るとも、ああ、滑れるに決まってるじゃないか」
心配そうに顔を覗きこんでくるイデュナの言葉を継ぎまた、虚勢を張る。スケートなんて、生まれてこのかたしたことがないというのに。けれど幼少期から自由自在に滑ってきたのだというイデュナにまさか、経験したことがないから教えてくれ、なんて格好の悪いことを言えるはずもなく。しかし私のこの姿勢がなによりの証拠になっていて。
ふう、と息をついたのはイデュナ。仕方ない人ですね、とでも言いたそうなそれとともに両の手を握ってくる。向かい合うように立った彼女はいいんですよ、と微笑んで。
「完璧でなくてもいいんですよ、わたしの前では」
やわらかな言葉にまたたいて、やがて素直に頷く。器用にも後ろ向きで進む彼女に引かれて一歩、もう一歩。はじめての滑走は、意外と気分がよかった。
(こうして君のぬくもりを感じるのも悪くないかもしれない)
2018.10.27
彼女には悪いが、なんとも気分のよいものだった。
「や、だ、おっきぃ…っ」
整った眉が苦しげに寄っていく。それに呼応するかのようにきゅう、と。自身を宛がった入り口も狭まり思わずくちびるを噛む。久しぶりの交わりに、どうやら私も肌も敏感になってしまっているようだ。ともすれば容赦なく押し寄せてきそうになる波を、頭を振ってやり過ごす。
腰を進めてしまわないよう慎重に、イデュナの耳に顔を寄せる。ふ、とついた息ひとつに身を震わせる妻がいとおしい。
「きつそうだが、まだ半分だって入っていないよ、イデュナ」
「うそ、だって、…っあ、」
浅い場所で円をえがくようにゆるり、かき回して、戯れにぐと少しだけ侵入すれば、喘ぎになり損ねた音がこぼれた。すがるように伸びてきた両腕が私をきつく抱き寄せる。ふ、はふ、と洩れる拙い呼吸。もうやめてと無言で懇願しているようでもあるそれにけれど口角は上がるばかりで、ああきっと、意地の悪い表情をしていることだろう。
「──残念だがまだやめられそうにないな」
私の言葉にまたきうと、切なく締め上げられた。
(だってほしいとねだったのは君のほう)
2018.11.6
一体どんな憎たらしい顔をしているのか、と。
もちろん彼女の顔は新聞やらファッション誌やらでこれまで嫌というほど目にしてきた。ロストリバーデルタの奇跡──そんな大仰な見出しとともに艶やかに微笑むアーティスト。気に食わない、いけすかない、世間に評価されるのはこのわたくしだけでいいのに。
そんななか、春の祭典のホストという待ち望んだ大役に任命されたと聞いたのがつい二日前。喜ばしい反面、その他三面、とりわけ件のアーティストに心をじりじり焼かれて仕方ない。他人をライバル視するなんて、わたくしらしくもない。いつもみたいに本番で実力差を見せつければそれでいいはずなのに、どうにもかき乱されてしまう。
一度気になってしまうとなんにも手につかなくて、それならば直接顔を拝んで堂々と宣戦布告してしまえばこのもやも晴れるのではないかと。
思い立ったが吉日、すぐさまロストリバーデルタ行きの船に乗りこみ敵地へ赴き、アトリエを訪ねてみればどういうわけか、玄関先には憎きその人。浮かべたやわらかな微笑みからはたしかな親愛が感じられて──その表情に、彼女に、出逢いたかった自分が、いて。
差し出された手につられて自身のそれを重ねれば、同じくらいの熱を持った指でかたく握られて。
「約束を果たしてくれたのね、──グローリア」
(それがカルロッタ・マリポーサとのはじめまして)
2018.11.9
つ、と。うれしそうに細められたその眸がなによりの証拠。
「ちょっと。わたくしを猫かなにかと勘違いしていなくて?」
うっとりゆるんだ表情も一瞬。我を取り戻したグローリアはのどをたどる私の指を払いのけ、つんと澄ましてそう言った。慌てて取り繕うその様子がおかしくてつい口の端をゆるめてしまえば、なに笑ってるのよ、とお咎めがひとつ。相変わらず目聡い。だけどやめてあげない。だって押し留めてきた指からは拒絶の意を感じなかったのだもの。
「ねえ聞いて、」
太陽色の髪をかき分け耳のふちをなぞれば、尖った声が半ばで途切れる。ふ、と。こぼれた吐息に混ざる熱。撫でられればすぐ従順になるその姿、あなたがさっき否定した猫そのものじゃないの。
ともすれば心地よさにぐるぐるなりそうな彼女ののどにくちびるを寄せ、呼吸をふれさせる。ぞわりと目に見えて走ったのはきっと不快とは程遠いそれ。
それまで頑なに閉ざされていた水槽色の眸が覗く。濡れそぼった色はたしかにその先をねだっていて。本当は自分の口で求めさせたいのだけど、今夜ばかりは許してあげる。
「──猫にこんなこと、すると思う?」
伸ばした指先に、目の前ののどが小さく鳴った。
(私だってもう我慢の限界)
2018.11.10
努めて普段通りのわがままに聞こえるように。
カルロッタ、と。いとおしい音を舌で転がせば、持ち主であるその人は、ん、と微笑みとともに首を傾けた。たったそれだけの何気ない仕草だというのに、ただそれだけでこぼれていきそうになる涙をこらえて同じ表情を返す。
「わたくしね、あなたとお揃いのアクセサリーがほしいの」
「あら、いいわね。どんなもの?」
「指輪」
その笑みが一瞬固まったのは気のせいであってほしかった、変化に気付かない無邪気な子供でありたかった。
「べつに左の薬指だなんて言わないわ」
愚かにもおどけた風を装い肩を竦め、つと、すくい上げたのは右手。しなやかなその指の一本をやんわり捧げ持ち、付け根にふれるだけのくちづけを。
「左はいつかのだれかのために取っておいてもいいから、」
さみしさを笑みで隠した、のどの震えを陽気な声音で殺した、彼女に言い訳を継がせたくなくてまくし立てた、だけど、
「──右の薬指だけ、わたくしにちょうだい」
(あなたの表情だけは見れなかった)
2018.11.24
ぶわり、と。それは唐突に戻ってきた。
どこから香ったのかわからない、だけど確かにわたしの鼻は感じ取ったのだ、ここにいないはずのあの人の香りを。忘れていたはずなのに。あの人と色を交わした口紅を、あの人が指を通した髪のかたちを、あの人に分けてもらった香水を、あの人が息を混ぜた部屋の壁色を、すべてを、変えたのに。どこかに残っているあの人がわたしの足をぎゅうと縫い止める。陽に透ける金糸の髪が視界の端できらめいた気がして思わず心臓を鳴らしてしまった自分がいやだ、乱されたくないのに、もう二度と関わらないと決めたはずなのに、あなたは、また。
まぶたの裏から振り払うよりももっともっと前から、あの人はわたしの一部となってしまっていたから。たとえばわたしのくちびるに髪ににおいに呼吸に、わたしのすべてに、あなたがとけこんでいるから。今更気付いたわけではない、ただ見ないふりをしていただけ。前だけを見ていればあなたに指を引かれることもないと気を張っていただけで、わたしはあの人にひとり置いていかれたあの朝とひとつも変わってはいなくて。
「─…キャロル、」
久しぶりに口にした音にさえ、あなたがいた。
(それでもあなた自身がここにいるわけではないのに、)
2018.12.18
うんと大きな靴下を用意しておいてね──私だけのかわいいサンタクロースはウインクまでおまけしてそう言った。一体どんなプレゼントなのだろうか、子供のように弾む心のまま、言われた通りうんと大きな靴下をベッドサイドに吊り下げた。ふらりと訪れた木洩れ日色の彼がすっぽり収まり暖を取れるほど大きな靴下。彼はそのまま寝息を立ててしまった。
窓の鍵もちゃんと開けておいてね、とサンタクロースは念を押す。だってあなたの家、煙突がないんだもの。残念そうに頬をふくらませる様子を思い出してひとり笑みをこぼし、錠を下ろす。準備は完璧、あとは横になるだけ。明かりを落とし、ベッドに横たわる。
月明かりだけが差しこむ部屋で、夜道には気を付けなさいともっと忠告しておくべきだったとか、そもそも迷わずたどり着けるだろうかだとか。心配事をいくつも浮かべているうちに忍びこむ冷気。控えめな音を立てて窓が開く。案外と早い来訪に驚く私をよそに抜き足差し足忍び足、靴下に近付いた彼女はけれど思案するようにううんと唸り、わずかな間の後に躊躇いなくベッドに潜りこんできた。外気に冷やされた体温が腕にふれる。
「…ねえ、ちょっと。プレゼントはどうしたのよ、サンタさん」
「だってジェラトーニを起こすのも悪いし、わたくしが入るには小さすぎるもの」
そうして身を寄せるサンタクロースをぎゅうと抱きしめた。
(素敵なクリスマスプレゼントだこと)
2018.12.26
「時々不安になるのよ」
身体を焦がしていた熱が夜闇にとけたころ。わたくしを腕の内に抱いたまま髪をゆるりととき梳かしていたカルロッタがふいにこぼした。まだ気だるさを残した首を持ち上げる。宵を映した眸とかち合って、ふ、と。向けられた笑みが揺れているように見えたのは気のせいだろうか。
「どうして」
「こんなに素敵なあなたを独占していいのかしらって」
ごめんなさい、忘れてちょうだい。そう言って宵色の眸がわたくしの髪に沈んでいく。
つむじに鼻先を寄せる彼女に悟られないよう口元を綻ばせる。ああきっと、怖いのだ、この人は。体温が混ざり合うほどの距離にいるわたくしたちがいつか離れるかもしれないことが。この熱を永遠に失ってしまうことが。
そんな未来、訪れるはずもないのに。わたくしの髪も指も眸も心もとっくにカルロッタのものだというのに。本来なら自由にはばたくはずの蝶を閉じこめているのはわたくしの方だというのに。
大丈夫よ、と。返す代わりにもぞりと身じろぎ、かすかに震える背中に腕を回す。
「もっともっと、あなただけのものにしてくれていいのよ」
やわな背中につ、と、爪を、立てた。
(そうしてあなたもわたくしだけのもの)
2019.1.8
おはようのハグもおやすみなさいのキスもないまま三日が過ぎた。
怒らせてしまったのか、ノー、そんな覚えはない。ならば嫌いになったのか、ああ、ノーと断言できるほど自信がない。
さみしくてついに背中に抱きつけば、頭ひとつぶんほど高いその人は、ようやくあなたからせがんでくれたわね、と笑った。
(悩んでたのが馬鹿みたい)
2019.1.19
その番号が表示されたのは初めてだった。
思わず逡巡してしまう、果たして出てもいいものか、と。けれど無視する理由も見つからなくて結局、五コール目で通話ボタンを押した。
「はい」
『あ、…もしもし、姉ちゃん?』
妹にだけ許された呼称は耳元から。ひどく事務的な声音のわたしに対し、妹は窺うようなそれ。もしかすると私が出るとは思わなかったのかもしれない、留守電にでも残そうとしていたのかもしれない。
妹の声はどこか掠れている。単に電話越しだからそう聞こえるだけなのか、それとも受けた傷のせいでまだうまく発声できないのか。考えずとも、答えはきっと後者。わたしがもっと早くこの件に手をつけていれば、手を引かせていれば、と。いつも、いつだって、後悔は遅い。
「あと五分で飛行機の出発時刻なの。用事があるなら早めにお願い」
『…ごめんなさい、忙しいときに』
ああ、また。どうしてこう優しい言葉のひとつだってかけることができないのか、わたしの口は。本当はまだ、出発まで三十分もあるのに。
ええと、と。電話の向こうから、言葉を探しているような声がひとつ。
『その。今回は、迷惑かけちゃって、ごめんなさい』
ピンクの頭を深々と下げているのだろうことは、目の前にいなくとも手に取るように分かった。
妹は馬鹿で、不器用で、まっすぐで、そうしていつだってわたしのお荷物になっていると思いこんでいて。わたしに追いつきたくて、負担になりたくなくて、自分の身体を進んで犠牲にして。だからこそこうしてわたしの手を煩わせたとき、自分の不甲斐なさを呪ってしまうのだ、妹は。
息をひとつ。落胆のそれに聞こえてしまわないように。
「別に気にしないで。妹の不手際を処理するのも姉の役目よ」
もう少し言い様があるだろうに、なぜ嫌味な言い方しかできないのか、わたしは。そうは思うものの、もう何十年もかけてこの身に染みついてしまった言い草なものだから、今更直せるはずもなかった。せめてどうか妹が傷ついてしまいませんようにと、他人任せの希望に縋るしかなくて。ごめんなさい、と。謝罪は胸のうちでとかした。
『ん、ごめんなさい。…ほんとは直接言いたかったんだけど、姉ちゃんも忙しいもんね。だから、電話したの。時間とっちゃって、ごめんなさい』
別に急ぐほどの案件でもないのに。わたしが直接向かわずとも、電話口で対処の仕方を伝えれば済んでしまうようなものなのに。目覚めた妹のそばにいたくなかった、わたしがいるべきではないと、そう、考えてしまった。至らなさを悔やむその姿をもう、見たくなかったから。だから妹の彼氏だというその人にすべてを託した。わたしよりも彼の方が、妹の心の支えになってくれるだろうから。少し、いいえかなり、悔しくはあるけれど。
結局はわたしも、弱いのだ、こと妹に対しては。
「ねえ、真琴」
もう五分経ったよね、と電話を切ろうとする妹にふと、飛び出た言葉は意図したものではなくて、ひとり目を丸める。
なに。電話口の妹が不思議そうに首を傾げた気がした。一度のどから取り出してしまった言葉を今更引っこめられるはずもなくて。
わたしが口にすべき言葉は。妹にかけるべき心は。
「─…電話。かけてきても、いいのよ」
ぽつり。落ちたのは、ずっとずっと抱えていたそれ。いままでお互いの携帯電話に番号は登録していたものの、真琴から着信が入ったのはこれが初めてだったから。きっとわたしの邪魔になってはいけないと思い、発信しなかったのだろう。
『…いいの?』
おずおずといった様子の妹に、見えないと分かっていながら頷いてみせる。
「出られるかは分からないけど」
『…じゃあ、また、かける、ね』
その声に喜びがにじんでいるのはたぶん、気のせいではない。だって妹の感情は自分のことのように分かるから。馬鹿で、不器用で、まっすぐなのは、わたしも妹も変わらないから。
またね、と。次を約束するような声で通話が終了する。さっきまで「比嘉真琴」という登録名が表示されていた画面を、暗くなってからも見つめて。
次はいつ電話してくるだろうか、緊急事態でもいい、そうでなくてもいい、そうでない方が、いい。
口元には知らず、笑みがのぼっていた。
(きっと似た者同士)
2019.1.22