──ああ、きっと、ゆめ、だ。
ふわふわと頭にふれる体温で目が、さめた。
なんだか随分と長い間眠ってた気がする。いまもまだ夢に沈んでいたいと意識は駄々をこねてるけど、それよりもどこか懐かしいその体温がなんなのか、だれのものなのか、知りたくて。
重いまぶたを無理やり持ち上げる。世界がぼんやりとかすんでる。目をこすりたいのに腕が上がらない。ずきずきと全身が鈍く痛む。そうか、まだ回復してないんだ。いつも以上に回らない頭がようやくその結論に行き着いた。
目覚める前の記憶がてんでばらばらになって戻ってくる。千紗ちゃんがさらわれたこと、千紗ちゃんたちのマンションであいつに傷を負わされたこと、ずっと苦しかったのにすうっと楽になったこと、野崎がいて、それから、
「──真琴?」
聞き覚えのある、声。わたしの名前にその色をにじませる人はひとりしかいなくて、それは野崎でも、ほかのだれでもなくて、
「…ねえ、ちゃん、だ」
視線だけをめぐらせた先に、姉が、いた。なんだか驚いたみたいに目を丸めている。姉ちゃんのそんな表情、はじめて見た。いつだって考えてることがまるでわからなくて、感情を乗せることだって珍しいのに。そんな姉ちゃんが、わたしにも心のうちが伝わるほどの表情を露わにしていて。
もしかするといま、わたしが目覚めるとは思ってなかったのかもしれない。
髪にふれていた手が止まってる。姉ちゃんがわたしの頭を撫でるなんて。小さいころの記憶を掘り起こす。少なくとも思い出せる範囲では、撫でられたことなんてただの一度もなかった気がする。わたしは姉ちゃんの背中ばかり見てたから。追いかけるばかりで、姉ちゃんが振り返ったことなんてなかったから。
だからきっと、ゆめ。わたしに都合のいい、ゆめ、なんだ。
そう割り切るとなんだか楽になったみたいで、息をひとつ、身体を少しよじり、姉ちゃんの手にすり寄る。こうして子供みたいに甘えるのもたぶん、はじめて。普段の姉ちゃんならすぐ振り払ってしまうだろうけど、ゆめだからきっとこれくらい、許されるはず。
「…またこんな無茶をして」
降ってきた声がやわらかい。動きを止めていた指がまた髪を梳いてくる。ぎこちない動きなのはたぶん、撫で慣れていないから。こんなところまで本物みたいだなんて、わたしのゆめはよくできてる。本物みたい、っていうのも、わたしの想像でしかないけど。だけどきっと、姉ちゃんが撫でてくれるときはこんなふうに不器用そのもので、壊れものでも扱うみたいな手つきなんだろうなと思う。
「ねえちゃん、まだ、いる?」
まぶたがまた重力に負けそうになる。それでもまだ眸にその姿を映していたくて必死に言葉を紡げば、姉ちゃんがふ、と。安堵したように綻んだ。
「もう少しだけいるから。だからいまは休んで、早く治してしまいなさい」
ぬくもりがあふれた言葉が身体に染みこんでいく。つられるみたいにまぶたが落ちて、まっくらな世界でただひとつ、髪を梳かすぎこちない体温だけが、わたしを落ち着かせてくれて。
「おやすみ、真琴」
ああどうか、ゆめが覚めても姉ちゃんがいてくれますように、と。
(はじめましてのぬくもり)
2019.1.22
背中に激痛が走る。立っていられなくなって思わず着いた膝から衝撃が突き抜けていく。痛い、気が遠くなるほど。だけどそれよりもまた、なんの役にも立てなかったことが悔しくて。わたしの力ではどうにもできないことが歯がゆくて。
──愚かな子。半人前のくせに。できそこないのくせに。
姿を持たないものたちがひそひそと嘲笑う。言い返せない、だってその通りだから。わたしは半人前。日本中を飛び回っている姉の足下にも及ばない、ただの小娘でしかない。追いつきたくて、負担になりたくなくて、がむしゃらに生きてきたけどそれでもわたしはわたしのままで。
痛みと悔しさで視界がにじむ。ぞわり、闇が距離を詰めてくるのに、もう祓う力も気力も残ってなくて。ああこのまま呑まれてしまうんだと、
「──誰ができそこないですって?」
ぶわ、と。闇が驚きと恐れで波立つ。聞き覚えのある声、靴音、それらすべてに怒りが内包されてるみたいで。
「わたし以外のものがこの子を馬鹿にするのは許せないわね」
(どこまでもつよくて、気高い、わたしの、姉ちゃん)
2019.1.23
「だってエルサはおねえちゃんだから」
まだ四つを数えたばかりの娘はそうしてわらう、ひどくさみしそうに。とても四歳の女の子がするような表情ではなくて、こちらの胸もずきりと痛む。エルサに対して、お姉ちゃんだから、と強いたことはなかったはずだし、気を付けてもいたのだけれど、それでも知らぬ間に姉という重圧を与えてしまっていたのかもしれない。母親に対しても無理に作った笑みを向けてしまうほどに。
「でもいま、アナはいないわよ」
さっき部屋を覗いてみたら、夫は眠る娘を抱いたまま自身も夢へと落ちていた。きっとしばらくは起きてこないだろう。
わたしの言葉に、エルサはわずかに表情を曇らせる、窺うように、許可を得るように。ほんと、と尋ねてきているみたいに思えて、答える代わりに両腕を広げてみせた。わたしの腕にひとつ、それからもう一度こちらの顔にひとつ、視線を向けて。
「おいで、エルサ」
わずかな間ののち、小さな重みが胸の中心に飛びこんできた。
(あなただってわたしの大事な娘だから)
2019.1.23
眸に、まっすぐ、撃ち抜かれた。
「やっぱり昔からかっこいいなぁ」
物置の整理をしていた同僚が無邪気にはしゃぐ。わたしも一緒になって笑ってみたけど、視線はこの写真から離せずにいた。
凛とした横顔。いつ撮ったんだろう、いまの彼女より随分と若く見える。歳を重ねたこの人だってもちろん素敵だけど、この写真に写る女性にはどこか、若い時分ならではの情熱だとか、ひたむきさだとか、そういうものが表れていて。
「こんなところに紛れこんでたのね」
ひょい、と。いつの間にやって来たのだろう、被写体その人がわたしたちの肩越しに覗きこんできた。口元には懐かしむような苦笑が浮かんでいる。この瞬間を切り取った当時のことを思い返しているんだろうか。
「だれに撮ってもらったんですか、これ」
「あいつよ、あいつ。カメラの練習させろってうるさいから仕方なく、ね」
嬉しさを隠しきれていない表情に呼吸が苦しくなって。もう、写真を見れない。
(だって、あいつ、が、だれだかわかってしまったから)
2019.1.23
「もうっ、つめたいわ、カルロッタ!」
「こんな真冬に海を見たいなんて言ったあなたが悪いのよ」
とがったくちびるが文句を返せず、代わりに頬をふくらませ視線を逸らしてしまった。斜陽に照らされた横顔があんまりにも精緻でまた、見惚れてしまいそうになる。さっきは気取られたくなくて素足に海水をかけてしまったけれど、もう一度同じことをしたら今度こそ本気でへそを曲げてしまいそうだからやめておこう。
グローリアに倣って視線を彼方へ。太陽はその身を半分ほど海に沈めていた。ぼやけた陽光が、水平線を曖昧にしている。白く霞んだそれが空なのか海なのか、もうわからない。
こんな風にとけ合うことができたら──この景色を前にするといつも、いつだって、願ってしまう。境界なんてなくなってしまえばいいのに、と。けれど何度この場所へ連れ立っても、私の彼女の関係は平行線のまま、決して交わろうとはしない。
あるいは私が一言口にすれば変わるのかもしれないけれど、その一歩さえ、こわくて踏み出すことができない。
つめたいわ、なんて不平をこぼしていたはずのグローリアがつま先を水に遊ばせる。彼女のまっさらな足の輪郭が曖昧にほどけていく。
「─…また。連れてきてちょうだいね、カルロッタ」
(次の約束を結んでくれるのはいつも彼女のほうで)
2019.2.7
衣擦れに意識を引き上げられた。
「なぁに、お寝坊さんなあなたが珍しい」
依然まぶたは閉じたまま、笑みをとかした声だけ返す。普段であれば存分に惰眠を貪っているはずのその人は、同じくくすくすと転がしながらわたくしを引き寄せた。
「今日は朝を更かしても問題ないから」
「それなら二度寝してもよろしくってよ」
「そんなもったいないことするわけないじゃない」
指の背が頬を滑る。ゆるやかにくだるその手にこもる明らかな色。深い眠りに落ちる前、あれだけわたくしをシーツに沈めたというのにこの人は、どれだけ求めれば気が済むのだろう。かくいうわたくしも彼女の指先の熱にこれからを予感し身を震わせているのだから、文句は言えないのだけど。
腕をたどった彼女の指が、わたくしのそれを絡め取る。
「ねえ、グローリア」
いつになく甘えを含んだ声にようやく視界を開く。
「いつまでもそばにいてくれる、わよね」
春がめぐってくるたびに繰り返されるその問いは彼女の不安そのもの。目を覚ましたとき果たして隣に相手はいるのか、と。恐れているのはなにも彼女ばかりではない。揺れる眸に変わらぬ笑みを。
「─…ええ、春が続く限り、いつまでも」
(春はいつだって、あなたとともに)
2019.4.3
「っくしゅん、」
隣から響いたひときわ大きなくしゃみ。これで十回目。襟元から─なんでそんなところに収めてるの、などと疑問に思うのはもうやめた─ハンカチを取り出したその人は、涙目をそのままに鼻をすすった。
「自分の花粉にやられてどうするのよ」
「わたくしだって聞きた、は、」
くしゅっ。くしゃみした勢いでまた、グローリアの身体から舞う淡い粉。花そのものであるはずの彼女はけれど花粉にめっぽう弱いようで、毎年この季節になると、春の訪れを告げるようにくしゃみを連発するのだ。
花が陽気に歌い、風はそれに応えるように吹きすさぶ。そこかしこに息づく植物たちが楽しそうに自らの粉を風に乗せる。隣に腰かけた、人間のかたちを模した花はますます身体を震わせる。
「かわいそうに」
目も鼻も赤らめた彼女のかわいさにゆるんだ憐れみを耳聡くも聞き咎めたグローリアは、じとり、充血した眸を据えてくる。
「こんな話を知ってるかしら」
花粉の許容量を越えたら花粉症になるそうよ──言うが早いか、がばりと腕の内に飛びこんでくるぬくもり。
ふわり、彼女自身の花粉が舞った。
(あなたのものであれば大歓迎だけれど)
2019.4.4
子供みたいに頬をふくらませてみた。
「寝ててもいいのよ」
わたくしの行動を眠気からくるものだと勘違いした彼女のやわらかな声が降ってくる。ちらと見上げれば、本から視線を外したカルロッタが微笑み、だけどすぐに活字を求め顔を逸らしてしまった。
あと少しだから、と続きをねだられたのがもう何時間も前のように感じる。なにがあと少しよ、全然終わる気配がないじゃないの。文句を投げつけたくて、だけどそんなことで機嫌を損ねる面倒な子だと思われるのは癪で。
シーツに頬をうずめる。ヘッドボードに背を預け夢中でページを繰る彼女は気付かない。真剣にひとところを見つめるその横顔ももちろん美しいし見飽きることはないのだけど、その眸に少しはわたくしも映してほしい、だなんて。
カルロッタの腿にぎゅう、と鼻頭を押しつける。夜着のにおいがいっぱいに広がる。本を左手に持ち替えた彼女の空いた右手がわたくしの髪を梳く、その心地よさにつけこんだまどろみに支配される。
「おやすみなさい、グローリア」
ねたくないのに。夢うつつに呟いた言葉が果たして彼女の届いたのかはついにわからなかった。
(ふれられただけで満足だなんて)
2019.4.5
さてどうしたものかと、頭を抱えるのは心の中でだけ。
目の前の背中は、勝手知ったるキッチンとばかり右へ左へせかせか立ち回っている。時折覗く横顔がどこか嬉しそうに綻んでいるその様子に、罪悪感は広がるばかり。
わたくしがうんと美味しい朝食をつくってあげるからあなたは座ってて──起き抜けにかけられた軽やかな声に、それじゃあお言葉に甘えて、と腰を落ち着けて。ふと浮かんだ疑問に、寝ぼけた頭がすぐさま覚醒する。どうしてグローリアが私の家のキッチンに立ってるの。
昨日はそれぞれアルコールを持ち寄り、ふたりだけの宴会を開いた。陽の高いうちから開催したのは体調を慮ってのこと。明日の午後に予定が入っているのだというグローリアに、最終便で帰るのよ、と念を押したところまでは覚えている。それなのに当の彼女はまだここにいて、あまつさえ朝食をつくってくれている状況。
飲みすぎてつい便を逃してしまった、それはあり得る。けれどなぜこんなに上機嫌なのか。なぜいつもと比べ、艶があるように見えるのか。
「午後には間に合うように帰るわ、心配しないで」
私の表情を別の意味に捉えた彼女が、皿を並べつつ朗らかに笑う。違う、そうじゃなくて。
「さあ、召し上がれ」
共にしたはずの夜を一切覚えていないだなんて
(それにしても本当かわいかったわ、あなたの寝顔)
(………え。私、寝てたの? なにもせずに?)
(ええ、ぐっすり)
(ぐっすり)
(寝言も)
(まって恥ずかしいわ)
2019.4.6
こつこつ。規則的に鳴らされたノックはいつもと同じ時刻。お利口な子ね。感心しつつ開放した窓から、もうすっかり顔馴染みとなった彼が舞いこんできた。
「いつもありがとう」
足にくくりつけられた手紙と交換に、彼の好物を並べた皿を差し出す。くる、とひと鳴き、礼でも言うみたいに頬に一度すり寄る彼。この素直さを、主たる彼女にも持ってほしいものだけど。
カルロッタと手紙のやり取りを始めてもう三年以上。運び手はいつも、この鳩。ロストリバーデルタの奥地にある彼女の自宅へは、並みの配達員ではたどり着けないのだ。電話の方が手っ取り早いのに、機械文明を頑なに拒む彼女は線を引く気配を一向に見せない。定期的に会えるときはまだいいけど、こうして何ヶ月も顔を合わすことができない期間はせめて声だけでも聞きたい、と。カルロッタはそんなこと、思わないのだろうか。
気落ちしたわたくしを慰めるように彼が鳴く。ほんの少し浮かんだ微笑みのまま手紙を開封すれば、覚えのある文字が並んでいて。
そうして留まった番号に目を疑った。そろそろあなたの声を忘れそうなの、だなんて言い訳を読むが早いか受話器をひっつかむ。うれしさににじむ頬を、彼が不思議そうに見つめていた。
(応対した彼女の不慣れさにまた口の端が綻んで、)
2019.4.7