でんわ、というものはかくも面倒か。  線を引くには私の自宅は僻地すぎたようで、工事やらなにやらに二週間もかかってしまった。こんなに手間がかかるなら中断してちょうだい。そんな言葉を何度押しこめたことか。すべてはグローリアのため、ひいては自分のため。  グローリアとは二ヶ月と十日、顔を合わせていない。お互い納期が迫っているだとか突然の依頼が舞いこんだとかでなかなか休みが重ならないのだ。  ひと月はまだ我慢もできた。なにせふたりとも名の売れたアーティスト、予定の合わないことはざらなのだから。けれどもその我慢はもう半月も持たなくて。  どこにいてもなにをしても、彼女のかけらを探してしまう。これでは仕事に支障をきたす、だけど次の逢瀬の予定はない。私に残された道は、彼女が繰り返していたそれだけだった。  さて、と黒いそれに向き直り自然、唾を呑む。そうしてダイヤルを回そうとしたところで舞いこむはばたき。見れば、いつもグローリアのもとへ便りを運んでくれている彼が帰ってきていた。 「随分と早いわね」  労いの代わりに頬をすり寄せつつ確認した足に手紙はくくりつけられていない。首を傾げたと同時、黒い物体がけたたましい音ではじめての着信を知らせた。 (もしもし、は、必要なかった)  2019.4.8
「ねえお願い、少しだけだから」  カルロッタを起こしてしまわないよう小声に努める。  さっきからわたくしがねだり倒している彼はといえば、ボールみたいに丸めていた身体からようやくぴん、と片耳だけを覗かせた。まったく猫といういきものは、どういう身体の構造をしているのかまるでわからない。もっとも人の言葉を解する彼を普通の猫とひとくくりにしていいものか悩ましいところではあるけど。  とにもかくにも一応わたくしの話を聞く気があるらしき彼に手応えを感じ、取り出したるはいま猫の間で大人気なのだというおやつ。ちゃお、なんとかというそれのにおいを嗅ぎつけた彼が勢いよく顔を上げる。明らかに輝く眸の前にかざし、右へ左へ。木洩れ日色の尻尾も合わせて揺れる。 「ね、いいでしょ、ジェラトーニ」  ああ、自身のモデルに贈賄を駆使してしまうなんて。罪悪のかたまりは、ちいさな両手に奪い去られた。  喜々として駆けていく彼の背を見送り、さて、と。ソファに腰を落ち着けそのまま身体を傾け、彼が明け渡してくれた膝を枕に横たわる。後頭部に感じるこのやわらかさは癖になるわね。カルロッタが目覚める前に引かなければならないのが惜しいくらい、 「──随分と賄賂がお上手だこと」 (あなたは狸寝入りがお上手ですこと)  2019.4.9
 花のように可憐なあの子に花束を贈るなんておかしなものだ。どんなに色鮮やかなものを見繕っても彼女の前ではなにもかもが霞んでしまうのに。  今日は、今日という日だけは、彼女を象徴するなにかを贈りたかった。彼女には劣るもののそれでも目を引いてやまないそれで、彼女に笑ってほしかったから。 「なぁに、あなたが花を抱えてくるだなんて珍しい」  花束越しにくすくすとこぼれてくる声。こうしているとまるで花の精と話しているみたい。 「あら、似合わない?」 「いいえ、パステルカラーもよく似合ってるわ」  私を探すために身体を傾けたのか、彼女の陽に透ける髪先だけがちらりと覗く。 「あなたに似合うと思って持ってきたんだけれど」 「あら、わたくしに」  す、と差し出すその手ごと包みこんだ彼女はそのまま香りを吸いこみ、いいにおい、と満足そうに呟く。 「なにかの記念日だったかしら」  自分のことにまるで頓着のない様子の花の精に笑みをこぼす。おめでとう、と。その手を引き寄せくちづけた。 (今日はあなたのうまれた日)  2019.4.10
 花がしょんぼりと床を見つめていた。  命ってどうしてこんなに短いのかしら。しなだれた茎が折れてしまわないようやさしく撫でながら浮かべるのはもう何度目かの疑問。  あなたに似合うと思って、と。珍しくパステルカラーをまとったあの人がこの花束をプレゼントしてくれたのはつい最近のこと。わたくしのために見繕ってくれたそれがうれしくて、枯れてしまわないよう大切に育ててきたのに。  あるいは自身の力を分け与えれば、花弁を散らすことなく咲き誇り続けるだろう。  一輪だけ残されたそれが頼りなく揺れる。  儚いからこそ美しいのだと、送り主がいつだか語っていた、限りがあるから輝けるのだと。その刻限を永遠にしたってきっとこの子も、あの人も喜ばないから。  せめてその身を失ってしまう前に押し花にでもしようと立ち上がったところではたと思い至る。そういえば押し花にする方法を知らなかった。  秘書であれば知っているだろうかと身を翻すと同時、ノックひとつもなく扉が開く。 「そろそろ私の知識が必要になるころかと思って」  得意そうに笑ったその人は、分厚い本を掲げてみせた。 (その美しさは、輝きは、失われても覚えているもの)  2019.4.11
「えっ、」 「だから、恋。してるでしょ、あなた」  私の問いに、目の前の頬が見る間に染まっていく。  暇があればグローリアを見つめている私が、彼女の変化に気付かないとでも思ったのだろうか。こぼれる吐息に憂いがこもり、悩ましく指を組み、憧憬のこもった眸を潤ませて。そんな明らかな変化をどうして見逃せよう。  彼女の思考にここまで割りこむ相手はだれだろうか。心当たりは山ほどある。なにせものぐさな私と異なり、彼女は華やかな場所を好むから。パーティーでも会合でも、出逢いの場はいくらでもある。  目を光らせてきたつもりだった。彼女を狙う大勢の輩に睨みをきかせてきたはずだった。別に私のものでもないのにおかしな話だけれど、それでも私以外のだれかに手折られてしまうのは我慢ならなかったから。 「で。相手はどこのだれかしら」  けれど彼女自ら心を動かしてしまったのなら仕方ない。せめてその想い人を聞き出し、呪いの一発二発贈ってあげることにしよう。恥じらうグローリアは、けれど意を決したように顔を据え、わたくし、と。 「あっ、あなたが、すきなのっ」 「………ん?」 (ええと、この場合、自分を呪うべきなのかしら)  2019.4.12
 天気予報のうそにまんまと騙されてしまった。  あれだけ晴れ渡っていた空から突如降り注ぐ大粒の雨。普段であれば雨は大地の恵みなのだと顔を綻ばせるカルロッタも、さすがにこの豪雨は甘受できなかったみたいで、雨にけぶる道をふたり、きゃあきゃあ悪態をつきながら駆けたのがつい数分前。彼女の自宅にたどり着いたときにはぐっしょり濡れそぼっていた。  はやく身体をあたためなさいな。わたくしの頭を拭きながら促す彼女こそ、体温を感じ取れない。家主が優先でしょ。彼女のブラウスの第二ボタンを外す。あら、お客様に風邪を引かせるわけにはいかないわ。冗談めかして笑った彼女の指先がタオルから離れ、わたくしの背のファスナーを下ろす。こんな場面でも負けず嫌いな自身が顔を覗かせる。なんとしてでも先に抜かしてみせようと躍起になって、ボタンを次から次へと開けていく。彼女の指も競うように急き、ワンピースの紐を肩からすべり落とす。負けじと彼女のベルトを外す。自身のガーターベルトがゆるめられる。  そうしてお互い下着のホックを外したところで我に返った。いい歳した大人が揃って下着姿という状況に、遅れて気恥ずかしさがやってくる。 「…え、と。ふたりで、入る?」  わたくしの提案に、ばつの悪そうな顔の彼女が頷いた。 (大人にもこどもにもなりきれないの)  2019.4.13
「だってわたくしは華だから」  それが彼女の口癖だった。  たとえば彼女に呼応して花弁が舞ったとき、たとえば春風と踊るように揺れたとき、不思議に思い首を傾げる私に向かい、くすくすおかしそうに笑いながらそう口にする。  いまだってそう。 「だってわたくしは華だから」  お決まりの文句と淡い笑み。  彼女の身体が、表情が、春にとけていこうとする。  ──受け入れるものですか、 「ちょ、っと、なに、」 「華だからなによ」  ともすれば空気と同化しようとする細い手首を思いきり引けば、身体が元のかたちを取り戻す。  動揺の走るそのくちびるめがけ、自身のそれを落とした。 「勝手にいなくなるなんて許さないから」 (『運命なんて、くそくらえ』)  2019.5.10
 気に食わない、と。一言で済ませてしまえばまあ、そういうことなのだけれど。  だってご覧なさい。あの手。あの腕。あの表情。  どうして指を組み合わせるの。どうして肩に腕を回すの。どうして無邪気に笑っているの。早く離れなさい、この鉄錆男。無言の呪詛は届かない。  グローリアもグローリアよ。私の気も知らずに呑気に手なんて振って。  ああもう、我慢の限界。というより元より最後までこの状態でいさせるはずもない。 「こら、グローリア。あっちの観客も見てあげなさい」 「ほら、ヒューゴー。君の持ち場はこっちだろ」  私以外の身体もふたりの間に割って入る。ちらと視線を向ければ、無礼な男を連行していく彼と目が合う。  よくやったわね。そっちこそ。交わすのは心の中でだけ。 (『共犯者の笑み』)  2019.5.11
 まっさらなうなじにポツンとひとつ。  こんなところに黒子があるんだなと呟けば、あら知らなかったわと伸びてきた指がたどる。  その指を捕らえ、代わりにじゅ、と。 「…っ、なんてところに、」 「見られたくないなら髪でも下ろしていればいい」  なんとも勝手な言い分に、当の彼女は文句をこぼしつつ髪留めを解く。  ゆるんだ頬はきっと、見咎められていない。 (『自分だけ知ってればいい』)  2019.5.11
 互いに限界が近付いていた。  顎からつたった汗がイデュナの肌で弾ける。押し進めた腰から逃れるように背は反るものの、熱く熟れた内は私を捕らえて離さない。  本能を突き動かす衝動を抑え、乱れた前髪を撫でつける。  ふ、と。きっと受け入れるだけで精一杯であろう彼女はそれでも笑った。 「アグナル、」  色にまみれながら、それでも清涼な声に心が震える。私の手を取り、頬をすり寄せ、その平にくちびるを触れさせて。  手のひらにとけた愛の囁きに、私もだよ、と泣きながら笑った。 (『ただひたすらにあいしてる』)  2019.5.11