芸がないことは自分が一番わかっている。 「…これを、わたしに?」  彼女の声から感情を読み取ることができない。それほど自身が冷静でないということか。  それなら表情を窺えばいいものを、意気地のない私は視線を上げることさえできない。  間が長い。次の反応が返ってこない。まさか悪手だったか。  焦りと後悔を覚え始めた私の手の内がふわりと軽くなる。おそるおそる顔を上げれば、想像と反して満面の笑みがひとつ。 「とっても嬉しいわ! ありがとう、アグナル!」  ああ、やはり。君には春の色が似合う。 (『押しつけた花束』)  2019.5.11
 扉が閉まる気配は背後から。  ベッドが控えめにしなる。まぶた越しに見えていた明かりがかげる。  おかえりなさい、お疲れさま。伝えるのは心の中でだけ。わたしが起きていることを知れば、彼はきっと申し訳なさそうに眉を寄せてしまうだろうから。  一日振りの夫を視界に収めたい欲を堪えつつ、抑えた息をひとつ。  ふれるかふれないかの位置に感じる体温。肌を撫でる吐息。 「…毎夜、さみしい思いをさせてすまない」  拭ったはずの涙の痕をたどるように、彼の指が目尻をやさしくこする。  おやすみ、また明日。さみしそうな彼の声はまぶたの上から。 (『くちづけだけで眠らせて』)  2019.5.11
「あらテレーズ、おかえりなさい」 「ただいま、キャロル。そんな格好でうろついてたら風邪ひきますよ」 「…もう少しうぶな反応を返してくれてもいいのよ」 「もう慣れました」  嘆息とともにコートを脱ぐ。頬をふくらましたキャロルはと言えば、まっさらな肌にえんじ色のバスタオル一枚だけをまとった姿でわたしを出迎えた。家の中とはいえ季節は冬。コートを下ろしただけで身体を震わせるわたしと違い、彼女はこの程度の寒さには動じないらしい。  キャロルとの同棲を始めた当初は、寝室であろうとリビングであろうと惜しげもなく晒される肌を前に頬を染め、早くなにか着てくださいなどと生娘みたいに恥じらったものだけど。その反応を面白がったらしいキャロルが連日同じ格好で帰りを待っているものだからさすがに順応してしまった。 「最近の子は飽きが来るのが早いのね」  息をついたキャロルは、ふて腐れたように浴室へと消えていって、 「そうだ、テレーズも入りましょうよ」  かと思えばすぐに顔を覗かせ、いい案だとばかりに顔を輝かせていた。それなら水道代も節約できるでしょう、とは彼女の言。 「ちょちょ、ちょっ、と、待ってくださ、」  こうなった彼女は頑として譲らない。もとよりノーと首を振るつもりもないけど、それでもお風呂に入る支度くらいはさせてほしい。  浴室へと手を引かれる道中でスカートを床に落とし、ブラウスのボタンを外し、下着から片腕を引き抜く。掴まれた手首で留まったブラウスと下着が動きに合わせ揺れる。脱衣所でようやく解放された隙に、手首から衣服を全部すべり落とした。  伏せた視線の先に丸く溜まった、えんじ色のバスタオル。 「ほら、早くいらっしゃいな」  顔を上げれば、すでに浴室へと身体をすべりこませたキャロルが顔だけを覗かせ、ふ、と。笑みもすぐ、扉の向こうへ消えた。行儀悪く投げ捨てられたタオルを拾い、隅に畳み置いてすぐ後へ続く。  出迎えたのは湯煙。 「いい湯加減だわ」  煙った視界にキャロルの声と、ちゃぷ、と湯が跳ねる音が響く。浴室いっぱいに反響する声に誘われ、簡単に身体を洗い流し、足先を沈める。いつの間にか冷えていた指がじんわり痺れていく感覚。慎重に湯に浸かっていくわたしを見てか、くすくす、楽しそうな笑みがひとつふたつと天井に転がっていく。  はふ、と息を洩らす。煙が散り、その先の景色が現れる。 「こうしていると昔を思い出すわ」  わたしと膝を突き合わせたキャロルが、少女を思わせる邪気のない笑みでこぼす。  うんと昔。彼女がまだ女の子だったころ。姉と湯船に浸かるたび抱えた膝を触れ合わせ、もう覚えてすらいない内緒話をしては笑っていたのだという。 「過去を振り返ることなんてほとんどないのに、本当、不思議」  思えばキャロルの──特に家族の話を聞く機会は少ない。彼女の愛娘や元夫の話はよく耳にするけど、彼女自身の昔話は、避けてでもいるみたいに知らなかった。 「…わたしが、あなたのお姉さんに似てるから、とかですかね」  ちゃぷ。キャロルが一瞬、目を丸める、その眸は驚きを表していた。 「─…いいえ、似ても似つかないわね」  そうして破顔した彼女の右手がふいに伸びてくる。重なった膝頭を撫でる指先がくすぐったくてわずかに身をよじる。 「わたしの姉はこんなかわいらしい膝小僧じゃなかったし、」  膝を抱えた腕を取り、指を絡め取っていく。 「こんなに細い指をしていなかったし、」  腕をたどった指が肩をなぞりそのまま、あごをすくい上げる。 「思わずキスしたくなるような顔だってしていなかったわ」  かあ、と頬に熱が集まる感覚。目敏くも見咎めた元凶が子供みたいに笑う。 「あら、どうしたのテレーズ。のぼせたのかしら」 「…そうですよ、悪いですか」 (のぼせてますよ、いつだって)  2019.5.22
「あっ、キャロル、」  声は下方から。わたしの視線を受けたテレーズが、おもむろに手招きする。 「まつげに、」  あら、取ってちょうだい。そんな意図をこめ身を屈める。真剣な表情で右手、左手と伸びてくる。  目を閉じる。  待って、どうして両の手を伸ばす必要があるの。疑問符を口にする前にわたしの頬が挟まれ、ぐいと引き寄せられたかと思えばくちびるにやわい感触。  まぶたを持ち上げる。 「案外だまされやすいんですね」 (だますなんて、わるい子ね)  2019.5.24
 季節は春。 「グローリア、」  馴染みの音を転がし、両腕を差し出す。眸を閉じる。色があふれる。懐かしい香りに包まれる。  この瞬間に浮かぶのは決まって、あの子の口癖。 「──春爛漫」  それを合図とばかりに舞い降りてきた春色を全力で抱きしめた。 (あなたの、私の、春が、また、)  2019.6.6
「グローリア、」  色づいた薄桃色に向かって両腕を伸ばす。音にするのはもうくちびるに馴染んだいとおしいその音。華やかできらびやかで、けれど精緻なきらめきも内包していて。この音が、私はいっとうすき。本人に直接伝える機会はついに訪れなかったけれど。  はらり、風に吹かれたのか、桜色の花弁がひとひら、額に落ちて、こぼれて。  わかっている、こんな馬鹿げたことを続けたってあの子が帰ってくるはずもないことくらい、とうの昔にわかっているけれど。それでもこの習慣は変わらない。  ありもしない希望に縋っているわけではない、現実から目を背けているわけでもない。ただ忘れたくないだけ、あの子のかけらに少しでもふれたいだけ。  ざあ、と花がないた。まぶたの裏に焼きついた色に焦がれて眸を閉ざす。いまのいままで見つめていたそれよりもまだ鮮やかな景色が広がる。掠めるのは甘い香り。あの子の、におい。  自然に弧をえがいたくちびるが紡いだのは、あの子の口癖。 「──春爛漫」 (いつも、いつだって、おぼえている)  2019.6.7
 心音が、エンジンの震えに呼応していく。  なかばヘルメットをこすりつけるみたいにぎゅうとしがみつく。背中をつたう笑い声。きっと怖がっていると思われているのだろう。バイクは慣れないんです、などと乗せてもらう前にわざとらしく身を竦ませてみせたから。  スロットルが緩められる。小さな気遣いに心が奮い立つ。これで、最後にしよう。 「──あいしてます!」  ひと呼吸、のちに。叫んだのは胸にうず高く積み上がった想いのほんのひとかけら。 「なぁにー? 聞こえない!」  思惑通り、わたしの声は身を切る風に無情にも散らされていった。これでいい、これでよかったの。だって、振り向いてくれない人の背中ばかり見つめるのは苦しいから。  いまを限りにすっぱり諦めようとバイクを降りたのに、ヘルメットを手渡すわたしを見つめるやわらかな視線に心臓が跳ねる。 「…わかってるよ。ありがとね」  なにに対しての返答か、なんて、わかりきっていた。  結局受け取ってもらえなかったヘルメットからは、彼女の想い人のにおいがした。 (このヘルメットを最初に被ったのも、彼女のいちばんも、わたしではなくて、)  2019.7.21
 ──ねえあなた、自分で気付いているかしら。 「カルロッタ」  わたくしを見とめたカルロッタが途端、口角をゆるめる。もう少しだけ待ってて。眉をちろりと上げた彼女の意図を汲み取り、来客用のソファに遠慮なく腰を下ろした。  書類を指しながらもう二、三説明を加える声をバックに、かごに詰められたあめ玉を物色。今日は黄色にしましょう。包みを左右に引っ張り、口に含む。レモン味。つうん、と両頬を刺激する酸味。  ころころと舌で遊びながら、なんとはなしに声音に耳を傾けた。  内容を聞き取りたいわけじゃない、ただ彼女の音を拾っていたいだけ。流麗に、簡潔に。ともすれば淡々と聞こえる声には、だけど相手へのたしかな信頼が窺える。だからこそ、ほどなくして返事をした彼の声に誇らしさが混ざっていたのだろう。役を担った彼は、元気な挨拶とともに部屋を後にした。 「お待たせしてごめんなさい、グローリア」  ころり。最初に感じた酸味はすでになりを潜め、代わりに甘ったるさが広がりはじめたタイミングで、カルロッタが隣に陣取った。  先ほどまでの明瞭なそれではなく、喜びと、やさしさと、いとおしさ。こうまで変わるものかしらと、堪えきれずに微笑んだ。疑問符を浮かべた彼女が首を傾げる。 「どうしたの」 「いいえ、ただ、すごく甘いわねって」  率直な感想にまたたきをひとつ。やがて合点がいったように笑みを広げる。わたくしのあごを軽く上向かせる人差し指。紅で彩られたくちびるに、自身のそれが吸いこまれる。割って入ってきた舌先が、もう小さくなったあめ玉を転がす。  わずかな音を立てて離れるくちびる。味をたどるように紅をなぞる指先。 「ええ、たしかに甘いわ」  まるで見当違いな返答に、今度こそ声をあげて笑った。 (あなたってば、自分ではぜんぜん気付いてないのね)  2019.8.11
 グローリアが赤ん坊を連れてやってきた。 「みて、カルロッタ、かわいい子でしょう!」  私からも顔が見えるように抱え直した彼女は嬉々として同意を求める。薔薇を散らしたみたいに色づいた頬と絹よりもなお細いひまわり色の髪、たしかにかわいいわ、ええ。けれどいとおしさをこめて見つめているグローリアにそっくりなこの子は一体。  彼女の蜜をもらったことは何度だってある、だけどもたったそれだけで──まあ、それ以上のことだってしてはきた、けど。そもそも私と彼女は蝶と花。異なるいきものとして生を受けたふたりの間に子を成すことは果たして可能なのか否か。  頭を抱える私に、もみじほどしかない手をめいっぱい伸ばしてくる赤子。 「あら、あなたにもだっこしてもらいたいみたいよ」 「でも私、赤ん坊の抱きかたなんて、」 「つべこべ言わずにほら!」  心の準備が整う前に腕のうちに滑りこんでくる。こんな小さないきものを抱えたことのない私と違い、この子はどうやら抱かれ慣れているらしい。自分でベストポジションを見つけると、機嫌よさそうにぷうと笑った。つられた笑みが私の頬にもひとつ。  細められた眸は、私に瓜二つの宵色。今更どう悩もうと、この子は私とグローリアの子なのだ。いとおしさの湧くままにあいしてあげればいい。 「愛情かけて育ててあげるわ、私とグローリアで」 「なに言ってるの。わたくしのお友達の赤ちゃんよ、その子」 (そういう大事なことは早く言ってちょうだい)  2019.8.11
 視線のやわらかさに気付いたのはつい最近のこと。  ほら見てちょうだいと、自身の手掛けた作品を指し、そのかわいさ華やかさ鮮やかさを興奮も交えて語るわたくしを見つめる表情のあたたかいこと。 「…見てほしいのはあっちなんだけど」 「いまはかわいいあなたを見ていたいの」  ともすればいとおしささえこもるそれに、もう、と照れ隠しに呟いた。 (それじゃあ話せないじゃないの、まったく)  2019.8.20