土にたどり着けなかった種がいた。  なんの種かは知らない、興味もない。ここで朽ちるならそれがこの子の運命だから。  なのになぜか後ろ髪を引かれ、まあたまにはと持ち帰り戯れに育ててみればそのうち芽を出し葉を増やし見事な花を咲かせ、気付いたときにはかわいらしい女性がそこにいて。  ──ああこれは、まったくの誤算。 (あるいは私の運命)  2019.9.28
 どうしても水を差したくなった。 「そんなに見つめて、穴があいても知らないわよ」  カルロッタの左手薬指。ほっそりと長いそこを飾るのはわたくしであったはずなのに。 「それは困るわね」  真意を知る由もない彼女は苦笑を織り交ぜ、それでも視線を外さない。  しあわせに浸る彼女の薬指がどうかまた空きますようにと願うわたくしは、 (どうか一生叶わないでいて)  2019.9.28
 床に差した陽だまりにひとりといっぴきが並んで転がっていた。 「せめてソファで横になったらどう?」  声をかければ、いっぴきは丸まったまま反応なし、もうひとりはごろんと大の字になり、満足そうに眸を閉ざす。 「ここが一番あたたかいの」 「まるでねこみたい」 「なにいってるの、わたくしは花よ」  そうして自称花の彼女はにゃあと鳴いた。 (あなたほんとうは、)  2019.9.28
 喉元まで出た驚きを慌てて呑みこむ。  散乱したとりどりの服をシーツ代わりに眠る彼女はさながら、落ち葉に転がる繭のよう。  わたくしのにおいが恋しかったのかしら、かわいらしいところもあるじゃない。  浮かぶ微笑みのままに近付き、覚えた違和感。 「…ねえ、ちょっと起きなさい」  どうして下着まであるのよ。 (恋しい、なんて言い訳じゃあ納得しないわよ)  2019.9.28
 ハロウィンはすきだった、昔から。  ひととは異なる頭を、手を、身体を、その日ばかりは隠すこともなく、むしろ堂々と歩いたって、誰にもなにも咎められることはないんだから。  街に降った闇が、ひととわたしの相異を曖昧にとかしてくれる。道行く彼ら彼女らが誰であるか、わたしがなにものであるかなんていまは関係ない。誰しもがなりたいものに扮していた。  海蛇を模した誰かがわたしの鰭を美しい装飾だと称賛する。  ええそうでしょ、月明かりを受けるとあやしくきらめいてあなたたちを惑わすのよ。  海豚に擬態した誰かがわたしの鱗が緻密だとため息をこぼす。  ええそうでしょ、この肌であなたたちを傷つけるのよ。  すれ違う誰も彼もが、自分たちと同様偽りで着飾ったものと思いこみ、精緻な身体に喝采を送る。古に存在していた、その名も知らぬ先祖の血を受け継ぐ身体を褒められて悪い気がするはずもなかった。昂る心のままに音になりかけた歌をぐっと堪える。人前で歌ってはならないと、姉に固く禁じられているんだった。  せっかく楽しい気分なのに歌えないなんてあんまりだわ。  いましがた誰かにもらったあめ玉を放りこむ。甘さは欲求を消してくれない。  *** 「随分と楽しんできたみたいね」  そっとリビングに踏み入ったわたしに刺さる、尖った声音。一番離れた姉の声と似ているけど、さえざえとした色は間違いなくすぐ上の姉のものだった。  テーブルランプの灯りひとつを頼りに本のページを繰る姉は、わたしに視線さえ投げてはくれない。 「こんな真夜中に出歩くなんて感心しないけれど」 「こんな暗いなかで読書してるひともどうかと思うけど」  お菓子がこんもり積もったかごをテーブルに置く。ようやくちらりと一瞥した姉は、だけど興味も持たずに読書を再開した。  お姉さまも行ってみればいいのに。のどまで覗いた言葉を、つまんだチョコレートといっしょに呑みこむ。必要とあらば笑顔でひとに紛れることのできる一番上の姉と違い、人間嫌いな目の前の姉は他と関わることをよしとしない。わたしだって彼らがすきではないけど、この地でしか生きていけないことも確かだから。それならとけこんでしまうほうが楽なのに。 「ほら、お姉さま、」 「…なに」 「あーん」  マシュマロを手に、向かいに座る姉に差し出す。む、と顔をしかめる姉。 「なんの真似」 「言わなくちゃわからないの。くちあけてってこと」 「それくらいわかるわよ。食べないことは知ってるでしょうって意味よ」  甘党のわたしには信じられないことだけど、姉は甘味を一切口にしない。だからこれは意趣返し。目の前に突き出されたくもないなら、わたしのすることに口を挟まないでちょうだい。そんな意味をこめて。  ぱくり。指先にふれるぬくもり。どうせ呆れて寝室へ帰るだろうと踏んでいたのに、まっしろなマシュマロは気付けば姉の口のなかへと姿を消していた。  目を瞬かせるわたしを意に介さず、しばらくもごもご咀嚼していた姉はやがて眉間にまたひとつしわを刻む。 「…あまい」 (なによ、案外かわいいところもあるんじゃないの)  2019.10.6
 死を目の当たりにするのがはじめてなわけではない。 「どうか手向けてあげて」  けれど近しいもの、人間が言うところの友人とやらを見送ったのは、これが最初。 「このひともきっと望んでいるから」  ひどく頼りなく揺れるか細い背を通り過ぎ、墓石の前で腰を落とす。摘み取ってきたまっしろな曼殊沙華はこの場に不釣合いな気もしたけれど、手向けてみればはじめからその場に咲いていたかのようにしっくり当てはまった。さすがはアーティスト、いなくなっても美しく飾ることを忘れないだなんて。まったく腹の立つ女だこと。 「─…さみしくなるじゃないのよ、カルロッタ」  人間とはかくも儚いものだったか。忘れていた、見えないふりをしていた、いつかはいなくなってしまうという現実から目を背け続けていた。胸の内に生まれた埋まらない空白は、その代償なのかもしれない。 「いいえ、さみしくないわ」  けれども背後から降ってきた声はうそぶく。だってひとりじゃないもの、だなんて。 「──あなたが、いてくれるもの」 (そうしてはじめて私の名を紡いだ彼女はわらった、とてもきれいに、)  2019.10.9
 顔を合わせてからというものずっと言い合っている彼女たちは果たして話題に上げている両名ともが隣に座っていることを覚えているのだろうか。  末の妹は語る、曰くわたしのお姉さまは─つまり私の姉でもあるのだけれど─世界でいちばん美しいのだと。深海を思わせるその眸に映されてしまえば何者であろうと虜になってしまうのだと。けれど流行にはさっぱり疎くて、ばえとはなんだたぴとはなんだと指をさし幾度となく尋ねてくる様はたいへんにかわいらしいのだと。  対するグローリアも身を乗り出し、うちのカルロッタだって負けてないわよ、と噛みつくように語気を荒げる。曰く、この世に存在するなにもかもを経験してきたような顔をしているくせにその実中身は少女のように初心なのだと。そこがいとおしいのよねと、別に聞きたくもない情報まで付け加え、うっとり頬をゆるませる。  当人的にはきっと開かされたくなかったであろう事実を次々と暴露され、けれど間に割って入ろうものならさらに被害を受けることは目に見えているから、カルロッタも姉もできるだけ気配を消しているようだ。  耳まで染めている様子に、かわいそうに、と。少し離れた席で、カルロッタの淹れてくれた紅茶をすすりながら同情する。目に鮮やかなバタフライピーがのどを潤す。あ、おいしい。  妹もグローリアも、想い人のすきなところくらい自分の胸のうちだけに留めておけばいいものを。私であれば姉のかわいらしいところを──たとえばアルコールにめっぽう弱いことも、怖い話が苦手なことも、あの子には内緒よと悪戯っ子のように笑うときがあることもぜんぶぜんぶ、私だけの秘密にしておくのに。恐らく愛する姉あるいは恋人がどれだけ素敵なひとか、どんなところに惹かれたのかを話したくて、聞いてほしくて仕方がないのだろう。そういう部分が子供なのだ、ふたりとも。  仲裁してあげたい気持ちもないことはないけど、ふたりの矛先が私に向くことだけは御免だ。それに普段は年長者然として余裕で構えている姉とカルロッタが揃って居心地悪そうに身を縮ませている様子も面白い。  さて今回のいがみ合いも長くなりそうだと本を開いた私の耳に届いたのは、明らかにこちらに向けられたふたり分の呆れ声。 「あねさまったらきっとお姉さまのことなんてひとつも興味ないんだわ」 「まあ、それはおかわいそうに」 「…なんですって」  こればかりは聞き捨てならなかった。私がお姉さまをどれだけ敬愛しているか嫌というほど聞かせてあげるわ、と。とうとう首筋まで染めあげた姉を横目に立ち上がった。 (まあもちろん、この子たちに教えてもいい範囲で、だけれど)  2019.10.13
 煙る窓ガラス。鳴り響くクラクション。  こんなことならタクシーなんて拾うんじゃなかった。痛む頭を押さえても、渋滞にはまった車は動いてくれない。  景色に心を移そうにも、この雨と車内との気温差のせいで、ぼやけたベッドライトくらいしか見つからない。思わずこぼれたため息が窓をより白く染める。  いまどのあたりにいるんだろう。露を拭う前にふと、伸びた指が無意識に浮かんだその頭文字をなぞる。もう何度もつづったそのひと文字にじわり、視界がにじんでしまって慌ててコートの袖でかき消して。  それでも眸にこびりついて離れないCに息を止められるばかりのわたしは、 (どこにいてもなにをしていてもあなたの影ばかり)  2019.10.20
 動きに合わせて水が躍る。  姉たちに比べて半端な水かきで海面を進む。すっかり冷たくなった海に包まれる背中が心地いい。こうして浮かんでいるといまにも水とひとつになれそうな気ばかりするのに、凪いだそれはいつもわたしの立てる水音しか返さない。  つ、と眸を閉ざす。さっきまで見つめていた月明かりが、まぶたの裏に像を残している。  海の声がきこえるでしょ、と。一番歳の離れた姉は近頃しきりに口にする、喜びと誇らしさをその口元に乗せて。わたしには声なんてきこえたことも、耳にしようと努力したこともないけど。誰であろうお姉さまが言うんだからきっと、深く昏いこの海も歓喜に震えているんだろう。わたしたちの計画を察知したかのひとが胎動している表れなのか。真偽はわからない、興味もない、だってわたしにとってはお姉さまが正義だから。 「考え事なら部屋でしなさいな」  呆れた声音は桟橋の方角から。確認しなくとも正体はわかりきっているけど、それでもその姿を収めたいと願うまぶたが勝手に開く。月明かりに佇むそのひとに知らず胸が高鳴る。ああやっぱりこのひとこそがわたしの唯一であり見つめるべき標なんだと、たしかな実感にゆるむ頬のまま、なによりもいとおしい姉をまぶたの裏に閉じこめた。 「─…きいてただけよ、海の声をね」 (燦然と輝くあなたこそ、)  2019.10.28
 浸した指先が水面に波紋をつくり出す。  月明かりのない夜は心穏やかに過ごせる。煩わしい人間たちはいないし、なによりこの闇が、人間との境界を、どうしたって海に交わることのできない身体を曖昧にとかしてくれるから。 「あなたたちってば、揃いも揃ってここがすきなのね」  それに表情の細かな変化ひとつまで、暗闇は隠してくれる。  私に倣い隣に腰かけた姉の指がほんの少し、恐らくは無意識に重なる。ぴくりと跳ねた眉はきっと気取られていないはず。  ちらと視線を投げる。水底よりもまだ深い姉の眸がなにを映しているのか窺うことはできないけれど、容易に想像はつく。姉の意識は二日後に控えた祝祭に囚われているのだ、もうずっと長い間。  仄暗い海底に眠っているかのひとが目覚めた時、果たして姉が望む通りの世界がやって来るのだろうか。日陰に生きてきた私たちに光を見せたいという姉の切なる願いは成就するのだろうか。存在するかも定かではない王とやらに希望を見出す姉がただひとつの拠りどころである私たちはただ是と頷き同じ希望を仰ぎ見るだけなのだけれど。  眸を閉ざす。なにものをも呑みこむ闇のなかでたしかなのは、指にふれた体温だけ。 「─…だってここは、海の声がきこえるから」 (にべない態度にも笑うあなたこそ、)  2019.10.29