雫が水面を跳ねる。
歌声に反応した海がゆるくさざめいて、けれどそれだけ。所詮はその程度の力しか持ち得ない私はただ、不甲斐なさに喉をひりつかせるのみ。
たとえば私がもっと畏怖される存在であれば、妹たちを日陰物にすることなく自由に生かしてあげられたのに。たとえば私が、私たちが、この港で生きる誰も彼もと変わらずただの人間であったなら、こんな使命を負わせずひと並みのひあわせに身を浸すことができたかもしれないのに。混ざりものであるがゆえにどちらにも居場所のない私たちの生きる術はもはやこれしか残されていないのだ。
身体に馴染んだ歌をもう一度。記憶にないほど幼い頃より歌いきかされてきたこの旋律を、母に代わっていまは私が紡ぎだす。願いよりもまだ強く、憧憬よりもずっと色濃いそれに自然、口の端がゆるむ、心が波立つ、ああきっとこの日のために母は教え伝えてくれたのだ、私たちのしあわせのために、私たちに光を与えるために。
白みはじめた空に向かい、つと両腕を広げる。こうしていればやさしく語りかけてくださるのだ、我らの希望が、我らを導きし古の光が。
「──ああ主よ、我らにしあわせを、どうか、」
夜明けは近い。
(一介の末裔に過ぎない私にとってはあなたこそが唯一の希望でした)
2019.10.30
水面が光を放つ。
海の底深くに眠る主を待ち焦がれるかのようなその軌跡に、女のくちびるが艶然と弧をえがいた。いよいよだと背筋が歓喜に震える。いよいよかの魔王が──この海の正統な王であるそのひとの目覚めの時がやってきたのだ。きっかけを与えるのは民を先導する美しき女、けれど引き金を引くのは憐れな群衆。主を、そして彼女たちの祖を昏く深い水底へと追いやった者たちが自ら破滅へと向かう筋書きに、女の笑みは絶えない。何がそんなに楽しいのかと尋ねる民衆に、だってこの祝祭を待ちわびていたからと返せば、きっと素晴らしい日になるはずだと彼らは口々に笑う。ああ、なって滑稽だこと。
彼らはただ各々の手で滅びを手繰り寄せるだけ、一時の宴に流された彼らには似合いの末路。そう言い聞かせた女は、わずかに痛む胸に蓋をする。迷いは仇となりかねない。
はじまりの鐘が響く。民衆も観衆も、祝祭の予感に快哉を叫ぶ。舞台を彩るとりどりの海色がまぶしい。女も舞台に躍り出る、その足取りのなんと軽いこと。自らの行く末を知る術もない人間たちと微笑みを交わし合い、幾多の視線が集まるその中心へと足を運び、そうして妖精の血を受け継ぎし女は高らかに声を上げた。
「──皆様、ようこそ!」
古の光がよみがえる時はもう、すぐ。
(玲瓏たる海に秩序を、我らにしあわせを)
2019.10.31
「ああそう、あなたはお姉様のことしか眼中にないものね。別にいいわよ知ってたから」
まるで突き放すみたいに──ううんその手を先に振り払ってしまったのはわたしのほうだけど。別にいいなんて吐き捨てながらも、浅瀬色の眸が見たことないほど揺れていた。歳の近い姉さま、感情を表に出すことの少ない姉さま、だから今回の発言だって不問に付してくれるはずだとどこかで甘えて放ったのに、それなのに。
「あ、あねさ、」
鼻先で閉じる扉。がちゃりと鍵まで閉められて。ねえいつの間に錠なんてつけたのよ。
「ねえ姉さま、ドアをあけて」
呼びかけてもノックをしても返答はない。
かたく閉ざされた扉の向こうに耳を澄ましてみれば、かすかに鼻をすする音が洩れ聞こえてくる。ああわたしってばなんてことを。あの姉さまが、涙なんて張ったことさえないようなあの姉さまが。
「──ちょっ、…と、あなた、なんてことを…!」
扉のすぐ目の前で膝を抱えていたらしい姉さまの抗議の声も気にせず、いましがたこじ開けた扉を脇に投げ捨てぎゅうと包みこむ。わたしよりうんと小柄な姉さまが腕のなかにすっぽりと収まる。びくりと震える肩。無理に抜け出そうとする身体を抑えこみ、華奢なその背を撫でた。
「きらいだなんて言ってごめんなさい」
謝罪は素直に。だけどどうしても顔は見れなくて、うずめた首筋に声をとかす。調子のいい妹だと、都合の悪いときばかり甘える妹だと呆れられるかもしれない。それでも言葉にも体温にも、うそなんてひとつも混ざっていないから。
「ね、ゆるして姉さま」
おずおずと背中に回る腕が、やがて控えめに服を引っ張る、まるで幼子みたいに。
「─…すき、って、言ったら。…ゆるしてあげる」
呟きながららしくない発言に恥じ入ってしまったのか掠れた語尾は、わたしの耳にはちゃんと届いてくれた。
思わず横目で窺えば、さっきまでのわたしそっくりにぎゅうと顔をすり寄せた姉さまのその耳が真っ赤に染まっている。かわいい。
「かわいい」
「な…っ、」
音になってしまった形容を聞き咎めた姉さまが慌てて距離を置く。必死に動揺を押しこめるその表情が羞恥に濡れていることを、果たして本人は気付いているのかいないのか。
「もう許してあげません」
「ほめたのに」
すっかりいつも通りの調子を取り戻し、わたしを置いて歩き去るその背中に、だいすき、と。
ほら、また染まった。
(ところでこの扉はどなたの仕業かしら)
(あそこに隠れてる妹にお聞きになって、お姉様)
(あっ裏切った!)
(裏切るもなにもあなたが壊したんじゃないの)
(いいからふたりともここに正座なさいな)
2019.11.18
「おっつかれー!」
「重いです、邪魔です、暑苦しいです」
「まだ春だよ」
「そういう問題じゃないっていっつも言ってるでしょう」
ああきっとこれは呆れた表情を浮かべてる。嫌悪を隠そうともせず眉を寄せて、たぶんもうすぐ息をつく。
はあ。
ほら、やっぱり。容易に追いかけられた心意に笑みが止まらない。向けられてるのは負のそれだけども、他人に対して特段の感情を露わにすることのないこの子が唯一あたしにだけ内に秘めたほんのひとかけらでも覗かせてくれることが嬉しくて。あたしは今日も、この子の歌声に誘われる。
「よく飽きませんよね、毎朝毎朝」
言葉が指すのは、あたしが足繁く通っているこの子の歌稽古のこと。この子は陽が差すより早く祭殿に入り、人知れず喉の調子を整えているのだ。知ったのはつい最近。どこからかやってきた陽だまり色の猫におなかを踏まれて起こされなければ、彼女の歌声さえ知らないままいまも変わらず朝寝坊していたに違いない。
鳥の呟きと風のささやきがさやめく朝にとけこむこの子の歌声は、たとえば春風にも似ている。しんと心に降り積もり、包みこんでくれるような安堵感に満ちていて、だけどたしかな熱と儚さを孕んでいる、そんな音。だなんて形容を本人に伝えようものなら、らしくないですよと顔をしかめられそうだけど。そんな表情さえ見てみたいと思うあたしはどうやらひどく心酔してるみたい。
「だってすきなんだもん」
飾らず放った返答を受けて、体温が勢いよく離れていった。急に開いた隙間にまだまだ冷たい風が吹きこむ。
「またあなたは…臆面もなくそういうことを…」
頭半分ほど下方にある頬がほんのりと色づいてる。そんなに怒らせるようなこと言ったのかな、あたし。だけどもすきなものはすきだし、できればずっと聴いていたい。この子の歌声を、もっとたくさん。
「ね、また明日も来ていいかな」
「昨日も同じこと聞かれましたし、私の答えも同じです」
「いいってことね」
「だめって言ったでしょう、昨日も」
嘆息しながら歩みを進めるこの子はきっと明日も懲りもせず顔を出したあたしを見とめてどうしようもないひとですねと呆れつつも耳を傾けることを許してくれるんだろうなと、小さなその背を追いかけながら思ったのはそんなこと。
(なんだかんだやさしいことも知ってるよ)
2019.11.20
こんなに寒い夜はつい、あの子がじゃれついてくるんじゃないかと期待してしまう。風の精霊。わたしを、わたしたちを、あいしてくれていた森の守護神。
吹き抜ける風に身を任せてみても、わたしを包みこんでくれていたあの間隔はない。豊かな自然に囲まれたアレンデールに、けれど彼らは存在しないとわかっているのに。祖国への道が深い霧に閉ざされたあの日から、常にそばにあった彼らの気配は途絶えてしまっていた。
少年とともにこの地に足を踏み入れたあの日からもう何年も経つというのにそれでも染みついた癖は消えてくれなくて今夜もひとり、部屋を抜け出しくちずさむ、古より伝わりしあの子守唄を。
「君の声は澄んでいるね」
「アグナル、」
姿を確認するよりも先に名前が口を突いていた。いつの間にか舌に馴染んだその音が、落ちていたわたしの心をすくい取る。
「まるで冬空のようで、私はすきだよ」
わたしの肩にショールをかけたアグナルがどこか嬉しそうに目尻をとかす。
かつて少年だった彼はあっという間にわたしの身長を追い越し、随分と低くなった声で、けれど変わらぬいとおしさのこもった眸で見つめてくれる。浅葱色の眸に映る姿が、時の流れを否応なしに感じさせる。それは決して不快なものではなかったけれど。
「もっと聴いていたいが、あまり長居しては風邪を引くよ」
「そうね、もう帰りましょうか」
自然に差し出された指を絡める。じんわり広がる彼のぬくもりにどうしようもなく泣きたくなった。
(願わくばいつか彼にもあの声が届きますようにと、)
2019.11.22
鮮やかな色、まるで毒のように。
「カルロッタ、」
まとわりついて離れない、色も、声も、その視線でさえも。縛りつけているのは私か、はたまた彼女なのか。わからないままに今日も明日もその次も、終わりの見えない春は続く。
「ねえカルロッタ、あなたは、」
身体を蝕むその音に侵食される、歓喜に震える、ああ私は、
「──何度繰り返せば気が済むのかしらね」
春は、やまない。
(あなたもわたしも、)
2020.2.4
お姉様、と、たしかに呼ばれた気がした。
「また沈んでらしたのね、お姉様」
湯船から身を起こした途端に降る呆れ声。縁に両肘を突いたすぐ下の妹が声色そのままの表情で見下ろしてきていた。身について久しい私の習慣がなぜだか癪に障るようで、たまに浴室に忍びこんでは文句を投げつけてくるのだ。
水を吸って重くなった髪が胸元を覆う。伸びてきた指が毛先をたどり、つと胸の輪郭をなぞる。冷えた私の身体とさして変わらない体温。
「水風呂ばかりだといつか風邪をひいてしまうわ」
「姉の裸を眺めながら言う台詞かしら、それ」
「あら、心配してさしあげてるのに」
妹が捻った蛇口から勢いよく流れる熱に顔をしかめる。人間とは異なる私たちはいくら水に浸っていようと平気なのに、それでも人間と同じように扱ってくる。人間を毛嫌いしているはずのこの子は、けれど諦めて人の身として生きようとしているふうに見えて。存在すらも危うい古の主になど縋るべきではないと暗に伝えているようで。
「─…ありがと」
それでも甘んじて湯を受け入れたのは、この子の泣き顔をもう見たくないから、だった。
(君がため、)
2020.2.5
胃のなかはとうにからっぽ。だというのになおも胃液はせり上がる。
くすり。そうよ、薬を飲まなくちゃ。さっき服用した薬はきっといましがた吐き出した吐物とともに流れてしまっただろうからはやく、はやく次の、
「──薬がなくなったのなら呼びなさいってあれほど言ったのに」
ようやく薬箱に伸ばした手が、見知った声に阻まれる。怒られるだろうかと、反射的に身体が強張った。だけどもわたくしの指を掴んだそのひとは、声色に反してやわらかな眸を向けてきていた。何度言ってもきかないわたくしに対する怒りも呆れもなくてただ、悲しそうに、さみしそうに、眉尻を落としている。
頼ってはいけないから、隙を見せてはいけないから。わたくしは完璧なアーティスト。何者の力も借りずここまで生きてきた。だというのに目の前のこの人は手を差し伸べる、弱みを見せてもいいのだと、ひとりで生きなくてもいいのだと。
「…ごめんなさい、カルロッタ」
「謝ることじゃないでしょ」
背中に手がふれた途端、なにもかもを吸い取っていくみたいに痛みが引いていく。次いでやってきた眠気に任せてようやく目を閉じた。
(無防備に眠ることができるのも、あなたの腕のなかでだけ)
2020.2.9
歌がきこえる。
「なーんだ、ホックかあ」
最初は震えるほどに美しい笑みを湛えていた女は、けれど私を見とめた途端あからさまに落胆してみせた。海に浸したつま先で水面を揺らし不服を露わにする。まるで小さな子供のようだ。彼女の姉がこの場にいたならば、みっともないからやめなさいと苦言を呈したものだろう。
「私じゃあ不満かい、セイレーン」
「だって歌声がきかないんだもの、あなた。それよりセイレーンって呼ばないで」
「セイレーンはセイレーンだろう」
彼女に倣い桟橋に腰を下ろす。む、と眉を寄せた彼女はひとり分の距離だけ遠ざかる。そんなに邪険にせずともいいのにな。
「もう歌ってあげない。お姉さまにでも頼んでちょうだい」
「そいれは困る。私は君の歌声がすきなんだ」
む、と。今度は若干の照れ混じり。仕方ないわねなどと根負けした調子を作ってみせた彼女は今夜も、私ひとりのために旋律を紡いでくれた。
(君の声はどこか、私の最愛のひとを思い出す)
2020.2.10
「放っておいてちょうだい」
第一声は海よりも冷たかった。
視線のひとつもくれない彼女は桟橋に腰かけたまま、しきりに自身の右足首をさすっている。常であれば並ぶ憎まれ口が続かないことに違和感を覚え、どこか寄る辺ないその背に近付いた。放っておいて。繰り返される言葉にも覇気がない。
「…っ、これは、」
生白い足首に生える、鮮やかな赤。
「どうした、岩礁にでもぶつけたか」
「…ちょっと銛が掠っただけよ」
人魚と間違われたみたい、一緒くたにされるだなんてセイレーンも落ちぶれたものよね。
自嘲するくせ、その表情は悲しみに沈んでいた。姉から教えこまれてきた誇りをいたく傷つけられただろうに、私には見せまいと気丈に振る舞おうとする様が痛々しくもあり、いじらしくもあり。嫌がられるとわかっていながらもつい、手を差し伸べてしまった。
「ちょっ、と、自分で歩けるわよ!」
「はいはい、少しばかり大人しくしていてくれよ、お姫様」
(君の愛する姉のもとへ運んであげるんだから、このくらい許してくれ)
2020.2.10