波音を縫う声はちっとも変わってない。 「あなたが陸に留まっているのも珍しいわね」  いつの間にか隣に腰かけた彼女は、私の視線を追うように漆黒の水平線を見晴るかす。音もなく距離を詰めるのは彼女たち一族の習性なのだろうか。首を掻かれなかったことに感謝さえ覚えつつ、足を組み直す。 「野暮用があってね。明後日には出港だ」 「あら、いとしのあの子に会いに来たっていうのに随分と急ぎ足なのね」  なるほど、すべてお見通しというわけか。洞察力が鋭いのか、それとも単に私がわかりやすいだけなのか。悔しいから前者ということにしておこう。 「─…昨日はありがとう、妹を見つけてくれて」  ともすれば潮騒に紛れるように。けれど届いた謝辞にこぼれる笑み。律儀なものだ。 「なに、運んだだけだよ」 「手に負えなかったでしょう、あの子」 「おかげであちこち痛む」  大仰に肩を押さえてみせれば、常になく楽しそうにからから笑われた。姫抱きを面白いくらいに嫌がっていた昨日と妹君を思い出し、つられて声を上げた。  ふたり分の笑い声に沿ってゆるやかに流れる波音が心地よい。明日も晴れるだろう。 「ふしぎなひとよね、あなた」  まだくつくつと喉を鳴らす彼女がふと見据えてきた。深海よりもまだ深い眸と出逢ったあの日がよみがえってくる。もっともあの夜は今夜と違い大時化だったが。 「海賊のくせに、セイレーンに嫌悪を抱かないだなんて」 「当然だろう。君には助けられた恩がある」 「あんな昔のことなのに律儀ねえ」  呆れたように苦笑する彼女の、忌み嫌われているかもしれない相手の命を救ったその心に惹かれただけ。とは、言わないでおいた。恐らく彼女もわかっているだろうから。 「それに君は美しい。声も、姿も」 「…泳ぎよりも先に口説くことを覚えるから溺れる羽目になるのよ、あなた」  眉間を押さえた彼女がため息をひとつ。失言だったのだろうか。 「…まあいいわ。彼女によろしくね」  なにが悪かったか尋ねるより早く立ち上がった隣人は、来たときと同じく足音も立てず踵を返す。去りゆく鼻歌に私はただ、笑みを乗せた。 (どこか似ているのかもしれないな、お互いに)  2020.2.11
 もっと感動的な再会を果たすものだとばかり思っていた、そのはずだった。 「ホックさんのっ、浮気者!」  両腕を広げ待っていた私の胸に飛びこんできたのは身体ではなく拳。平手くらいは覚悟していたもののまさかグーでくるとは露にも思わず、衝撃の走った胸元を押さえその場にしゃがみこんでしまった。いたい。 「ね、熱烈すぎる歓迎だな…」 「申し開きも無しですの」  申し開きもなにも、謝罪すべきことといえば会いに来るのがすこしばかり遅れてしまったことだけで。それも鉄拳制裁を喰らうほどのことではないはずで。 「わたくし聞きましたのよ、あなたがまた女性を口説いたり抱きしめていたと」  どなたかは存じませんけど。ぷいと目を逸らす彼女はきっと、そのどなたたちから直接話を聞いたのだろう。どうやらあの三人は彼女をからかうのが趣味らしい。つまりこれは嫉妬というわけか。随分かわいらしいことをしてくれる。  そっぽを向きながらも私の様子を心配している彼女を、いとおしさのまま抱きしめる。 「私には君だけだよ、ヴェール」 (ただいま)  2020.2.12
 女性に年齢の話を振るのはマナー違反だし、わたくし自身もいい気はしない話題だけど、それでも気になるものは気になるの。  ロストリバーデルタを代表するアーティスト、カルロッタ・マリポーサ──つまりいま目の前で紅茶を嗜んでいるそのひとが、ファッション界の最前線を走り続けてから一体どれほどの年数が流れてきたのだろう。だってこのひと、わたくしが幼いころに眺めていたファッション誌の表紙を飾っていたのよ。それなのにカップに添えられた口元には皺ひとつ見当たらないし、まっさらな肌は瑞々しいし、体型だって羨ましいほどのプロポーション。どう考えたっておかしいわよ。 「…ねえカルロッタ、すごく聞きづらいことなんだけど、でもわたくしどうしても、」 「二七歳よ」  カップの縁を指でなぞりながら意を決して向けたわたくしの問いをなぜだか先読みしたカルロッタがわけもなく答える。紅茶をもうひとくち。艶やかにのどが鳴る。 「──あなたと同じ、ね」  同い年だと言い張るそのひとが投げつけてきたウインクを跳ねのけ、行き場のない憤りを紅茶とともに飲み干した。 (そんなわけないじゃないの、うそつき!)  2020.2.12
 ほんのすこしだけ、ふれるだけ。  いつも宥めつけているはずの衝動を抑えきれなくて手を伸ばす。さっきまでこの紙ナプキンを使っていた人はついいましがたパウダールームに消えたばかり。持ち主のいないいまなら許されるはず。  くちびるのかたちがくっきり残る紅に自身のそれを重ねる。わずかに押しつけて、離して。春のような淡い色に混ざる濃紅。相好が崩れる。 「随分かわいらしいことをするのね」  背中に降った声は大変弾んでいた。 (お早いお戻りで)  2020.2.16
 決して眸を覗かせない姉の姿が、そこにあった。  倒錯であることは重々承知していて、けれど私は、私たちはどうしても、姉と触れあいたかった。姉の肌を、熱を、愛を、この身に受けたかった。 「んあっ、や、あ、」  のどからあふれでる声が絶えず響く水音と混ざり、狭い室内にこだまする。アルコールを大量に摂取していた姉はきっとかのかたが復活しても目覚めないほど深く眠っているだろうから、羞恥と背徳から目を背け、憚ることなく声をこぼした。  ひとめたりとも私を映さない目の前の妹の輪郭をなぞる。見れば見るほど姉にそっくり。ひそめられた眉に、浅く息を洩らすくちびるに、いとしのあのひとが宿っている。  唯一姉に似ている私の声だけを拾い上げようとかたく目を閉じる妹のいじらしさに胸が詰まる。私がもっと姉に似ていれば、姉のような愛を向けられたら、私が──私たちが、姉をあいさなければ。  く、と曲げられた指先に反応して腰が跳ねる。甘く掠れた声がぽろぽろと落ちていく。ごめんなさい。こぼした謝罪は姉と妹、一体どちらに向けたものなのかもはや自分でもわからないまま、夜は更けていく。 (それでも私は、姉に似たくちびるを求めた)  2020.2.17
 俺はどうにも君のことがわからない。 「五年も一緒にいておいてよくそんなことが言えるわね」  ああそうだな、コーヒーより紅茶がすきなことも、朝の森林浴が日課なことも、意外と夜に弱いことも知っている。だけど俺がいま言っているのはまた別のことなんだ。  なあどうして向かい合わせで膝に乗ってくるんだ、どうしてそんなに笑顔が綺麗なんだ、それは夜の誘いなのか、なのに両の手首を縛られているのはなぜなんだ、あごをすくわないでくれ、俺だってふれたいんだ、そんなに薄着だと寒いだろう、せめてシーツでも被ってくれないか、目のやり場に困る、それから、 「ちょっと。うるさいわよ」  不機嫌な顔もかわいいな、別に君のそのやわらかなくちびるで塞いでくれてもいいんだ、お望み通り黙っているから、ああでも、怒っている君もまた美しいから悩むところではあるが、そんなに睨みつけてくれるな、かわいいばかりだ。 「私にはよほどあなたのほうがわからないわよ、ヒューゴー」  ああようやく呼んでくれたな、きっと優位に立ちたかっただろうに、また俺の勝ちだ、カルロッタ。 (そういうわかりやすいところもすきだな)  2020.2.18
 失礼しちゃうわ、って、それは僕のセリフ。  だって仕方ないじゃん、そう見えちゃったんだからさ。おじさんのほうが僕よりうんと背が高くて、身体の線は僕のほうが細いけど、でも君はきっとガタイのいい男、そうだね、ヒューゴーみたいな頼りがいのあるいかにも大人な男のほうがすきなんだ、きっと。  そんなおじさんと君が並び立って仲良くおしゃべりなんてしちゃってるとこ見たらさ、そりゃあ勘違いもするって、ああ僕なんかよりずっとお似合いだな、きっと楽しいんだろうななんてさ。  とんだばかやろうですわね、って、ねえ君、僕と過ごすようになってから言葉づかいがあまりよろしくなくなったよね、それって君のうち的にどうなの、僕は嬉しいけどさ。  うん、そうだね、あんまり髭するのもよくないや、また君に怒られちゃうし、怒ってる顔ももちろんすきだけど、そんなこと言うと余計怒るよね、ごめんってば。  わかってるよ、君はきっと僕を選んでくれるって、すきでいてくれるって。こんなふうに自信が持てるようになったのも、臆病にならずにひとの心を信じられるようになったのもぜんぶ、君のおかげだ。  ああもう、ひとが珍しく真面目に話してるんだからそっぽ向かないでよ、かわいいなあ。 (いとしい君の隣には、)  2020.2.18
 一度目の覚醒はあまり覚えていない。  たぶん、なにかしらの違和感があったんだと思う。なにかが違う、なにかが足りない。きっとそんな感じ。  まだ朝日がのぼって間もないころだった気がする。重力に従順なまぶたがすぐ落ちて。背中にぴったり張りつく体温に、ああ今日もまたこの体勢になっちゃったのね、なんてぼんやり思っていた。  朝日がわずかに差しこむ視界のなかくるり、寝返りを打つ。首筋と思わしき場所に顔をすり寄せた途端、香る夫のにおいに笑みを浮かべつつ、枕に意識を沈めた。  二度目の覚醒はわずかばかりはっきりしたものだった。  またたきをひとつ、ふたつ、視界が明瞭になる。ぼんやりとした記憶にある距離よりも大分近い場所に見えた夫の寝顔。肩から背中に感じる重みに、抱き寄せられたのだと、いまだ寝ぼけている頭がそう行き着いたのは数十秒後のこと。  けどこのままだと彼が風邪を引いてしまう。動きを制限された右手でなんとか毛布をずり上げる。自身の頭まですっぽりとかぶるかたちになってしまったものの、彼の方まで覆うことができたからいいかと安堵しつつ迫る眠気にまたも身を任せた。  そうして、三度目。  毛布に隔てられていたはずの顔がすぐ目の前で寝息を立てている。思わずまたたく。腕を伸ばし、まだ不揃いなひげをたどる。朝日が毛布のなかのわたしたちを淡く照らす。んう、と声をあげた夫はだけど目覚める様子はない。  もしかしたら彼はわたしを追いかけて毛布に潜りこんだのだろうか、わたしの顔が見えなくてさみしかったのだろうか。真意は定かではない、でも当の本人はいまも夢に沈んでいるのだから、すき勝手に想像しても咎められることはない。  目の前にわたしの顔が見当たらなかったときの、彼の垂れた眉尻が浮かぶようで、頬がゆるむ、なんてかわいいの、なんてあいされてるの。  すきよ、アグナル、今日もすき。心のままにこぼれた想いは届かない。だけどきっと彼もまた。  思考がゆるゆるほどけていく。残った意識をかき集めてぎゅうとしがみつけば、彼が満足そうに微笑んだ気がした。 (彼もまた、今日もすきでいてくれるはずだから)  2020.2.24
 三日三晩の祭祀が滞りなく終了して、あたしはようやく心地よい外気を浴びた。緊張の糸がほどけたのか、疲労がどっと身体にのしかかる。ちょうど目の前にあるやわらかそうな草むら。ちょっとだけ寝転んじゃおうかな、なんて考えるよりも先に視界が傾く。足に力が入らない。倒れる瞬間に意識を失えたら衝撃を感じなくて済むのに。ああでもいまはそんなことよりすごくねむい── 「ここは寝台じゃないですよ」  覚悟していた痛みはやってこなくて、代わりに呆れた調子の声が落ちてきた。じわじわ広がる安堵と喜び。声の主を一目見たいのに、重いまぶたが言うことをきいてくれない。聡くもそれを察してくれた指先がつとまぶたにふれ、無理しなくていいですよ、と。 「お疲れなんでしょう」  今度は少しばかりのやさしさもにじんでいる気がした。 「もしかして三日間ずっとここで待ってたなんてこと、」 「まさか」 「よかった」  そんなことをされたときには舞事に集中してる場合じゃなくなっちゃうもの。案じてくれるのはそりゃあうれしいけど、でもそれより、心配をかけてしまいたくない。特にこの子はあたしに対して過保護なくらい気を揉むんだから。 「…様子を見に来てはいましたけど。毎日」 「えっ、毎日」 「…私はまだ、神事に携わったことがないので。具体的になにが行われているかも、あなたがどれだけ無理を強いられているかも、…なにも、知らないので」  ああほら、やっぱり。あたしの眸を覆ったままの指先が震えてる。当事者以外は洞に立ち入ってはならないという起きてぎりぎりまで踏み入りただ無事を祈っていたであろう彼女の姿がありありと浮かぶ。あたしからの好意は鬱陶しがっているくせ、自分からは惜しげもなく注ぐのだ、きっと本人も無意識のうちに。  名誉なことだと、村の人間は口を揃える。一族の誇りだと、家族は涙さえ流す。つらくないですかと、だけどこの子は眉をひそめた。無理していないですかと、この子だけはあたしに目を向けてくれた。 「だーいじょぶよ」  いまだ揺れる手を包みこむ。普段は極端に接触を拒むこの子も、いまばかりは振り払わずにいてくれた。 「ほら、あたしってば丈夫が取り柄だからさ」  あんたの姉さんみたいにはならないから。言外にそっと含ませたそれをきちんと拾い上げてくれた彼女は、あたしの手のひらに雫を落としながらそれでも言葉に呆れを挟んだ、まるでいつもの調子で。 「─…あなたはいつも嘘ばかりつきますね」 (嘘じゃないよ、だってひとりじゃないから)  2020.3.1
「もうすぐ春ね、グローリア」  雑多な都会の端の端、忘れ去られて久しい花壇の縁に腰かけたカルロッタは、物憂げなため息をひとつ、誰にも咎められることなくとけていく。  こうして言葉を投げかけるのももう何度目だろう。  春も、夏も、秋も。そばにいてくれたそのひとの返事はいまはなく。車ばかりがただ騒々しく通り過ぎていくだけだった。  慣れないこの土地に留まっているのは、彼女がこの場所をあいしていたから──そうしていま、この地で眠っているからに他ならない。彼女が目にしていた景色を、彼女が飾っていた人々を眺めることで、彼女の心を追えたらと。このかしましい街をあいすることができたら、と。  道路脇に座るカルロッタには目もくれず、足早に過ぎ行く人々の、けれどそこかしこに窺える彼女のアートに自然、笑みが浮かぶ。彼女はたしかに、この街に息づいている。その事実が、自身のことのように嬉しくて。 「ねえグローリア、見てるかしら」  そよ風が吹く。街中で芽吹き始めた花々をくすぐっていく。 「──うるっさいわねえ、見てるに決まってるでしょ」  いつの間にやら隣に現れた不機嫌な表情に、カルロッタはますます笑みを深めた。 「あら、おはよう」 「おはよう、じゃないわよ。隣で感傷に浸られてたら夢だって見れないわ」  冬眠から目覚めたばかりのグローリアは文句もそこそこに、くしゅ、とかわいらしいくしゃみをひとつ、その衝撃で彼女自身の身体からも淡い花の香が飛ぶ。 「もうっ、これだから早く起きたくなかったのに」  花として生を受けたにも関わらず花粉症とはかわいそうに。春が来るたびに同情するものの、かといって毎年ゆっくりと眠らせてあげるカルロッタではなかった。ほらもう春よ、花があんなに咲き誇っている、街の人間たちも色めきたってきたわ。暇さえあれば花壇に通い、そんなことを囁くものだから、春をこよなくあいするグローリアが黙って夢に沈んでいられるはずもなく。 「文句言いつつ、本当は早く私に会いたかったんでしょう、素直じゃないわね」 「あなたのその自信満々な態度はいくつ季節を繰り返せば治るのかしら」 「あなたの花粉症が治るころには」 「治らないってことじゃないの、それ」  グローリアが諦めを含んだため息をつくのもこれで何度目か。当のカルロッタは悪びれた様子もなく、ただ嬉しそうに笑うばかり。その微笑みひとつでまあいいわと許してしまうグローリアも大概、この蝶に甘いのだ。 「それにあなた、あんまり寝てると春の祭典に支障をきたすわよ」 「そうならないように、くしゅ、秋のうちにがんば、っん、」  くしゃみは止まらない、身体から花粉が飛ぶ、グローリアの眸がみるみるうちに水を張っていく。カルロッタの指先がグローリアのあごを捉え、つと上向かせた。 「少しくらいならもらってあげてもいいわよ」 「…お断り、よ、っくしゅん、」  残念、と断られたカルロッタは肩を竦める。カルロッタがその蜜を吸えば、なぜだか症状が治まるのだから不思議だ。本人曰く勝ち誇った顔が悔しいから絶対に頼まない、とのことだが、本格的に春が訪れればそのうち折れることを知っている。 「ほら、早くいくわよ、まだ仕上げがたくさん残ってるんだから!」  立ち上がったグローリアの、精一杯くしゃみを堪えながらも急かしてくる姿に苦笑をこぼしたカルロッタは、伸ばされたその手をやわらかに取った。 (それでも春がいとおしいのよね、知ってるわよ)  2020.3.18