几帳面な彼女が、服を用意してほしいと頼んできたのは恐らく、初めてのことだった。
ずぶ濡れで帰ってきたテレーズは一目散にバスルームへ駆けこんでしまったから、服を持って入る暇もなかったのだろうけれど。それにしても、初めてタンスを開けるとなると、妙に緊張してしまう。
息を、一つ。開けた途端、甘い香りに包まれる。花よりも濃いそのにおいに、不意に酔ってしまって。
「─…なにしてるんですか、キャロル」
低い声に我に返る。あら、私はなんでタンスに顔をうずめているのかしら。
バスタオルに身を包んだテレーズが呆れたように息をつく。
「あの、テレーズ、これはその、不可抗力で、」
「キャロル」
「ごめんなさい」
(でもあなただって同じことしていたじゃないの)
2016.10.2
「せーんぱいっ」
「ひぁ、」
息を、整えて。背中から勢いよく抱き付けば、かわいらしい声が洩れた。
振り向いた先輩は、その豊かな髪と同じくらいに頬を染め上げていて。
「寿命が縮んだかと思ったよ…」
「ふふ、ごめんなさい。先輩を見るとつい、驚かしたくなっちゃって」
「まったく、君という子は…」
鼓動を落ち着かせるみたいに息をついた先輩はそれでも、抱き付いたことに関してはなにも言わなくて。
いまなら、伝えられる気が、した。
「美鶴先輩、」
「ん、どうした」
「─…いいえ、呼んでみただけです」
(好きです、その一言が、音にならなくて)
2016.10.2
『明日、暇ですか?』
たったそれだけの文章を打つのに三十分もかかってしまった。
いや、むしろ文字にできたあたしを褒めてほしいくらい。だって相手は憧れの先輩で、そして大好きな人で。
『暇だよー』
飾りも素っ気もない返事に、だけどあたしの心は浮き足立つ。
ここから先が重要。震える指で文字を紡ぐ、ずっと考えていた文面を。
『もしよければあたしと、ごはん、食べに行きませんか?』
既読はすぐについて、でも答えはなくて。
『ねえ、知ってる?』
ようやく送られてきた言葉に、熱が上がっていく。
『私ね、いま、震えて文字打てないの。──嬉しくて』
(あなたも、あたしと同じ気持ちだったなんて)
2016.10.2
「あの…ホックさん…?」
「ん、どうした、ヴェール」
どうしたもなにも、この世の終わりのように勢いよく食べていらっしゃるものですから思わず声をかけてしまって。
けれど何事かと無垢に首を傾げるその人に尋ねられるはずもなくて。
「ええと。おなか空いていらっしゃったの?」
「ああ、すまない。船上ではいつ食材が手に入るか分からないから、食べられる時に腹に蓄えておく癖ができてしまったんだ」
意図を察してくれた彼女が説明して、それに、と。
「君が作ってくれた料理があんまりおいしくて、つい、な」
無邪気な微笑みに、心が、奪われた。
(ずるいですわ、そんなまっすぐな眸)
2016.10.2
『やだ…エルサ、やめ、』
『エルサ、じゃなくて、』
くちゅり、水音がよく聞こえるように、埋めていた指をわざとゆっくり引き抜けば、思惑通りアナの頬が染まっていく。
『姉さん、でしょ?』
潤んだ眸で見上げてきたアナが、やわらかなくちびるを震わせて、
『…ねえ、さん』
それが最初の形であったはずなのに。
「やだ、アナ…っ、もう、」
「やだ、じゃなくて、」
それまで激しく奥を突いてきていたはずの指が引き抜かれ、切なさに震える。そんな私を、意地悪く光る眸が見下ろしてきていて。
「もっと、でしょ?」
いつから逆転してしまっていたのだろう。一体いつから、抗えなくなってしまったのだろう。
「──もっと、ちょうだい、アナ」
(それでも私は、自分の心に従うしかなくて)
2016.10.2
いい加減心を許してくれてもいいだろうに。
「ねえ、ねえってば。こっち向きなよ」
「にゃー」
わたしが仕方なく、優しく話しかけているというのにこいつときたら、おざなりな鳴き声を一つ、あの目つきの悪い視線の一つだってくれやしない。
別に仲良くなりたいわけではない、だけどこいつの飼い主であるミカサが、少しは友好関係築いて、なんて。寂しそうに言ったものだからつい、こうして自分と同じ名前のこいつに接触を図ってみてしまったわけで。
ため息を一つ。もう三十分は経とうというのに、一向に距離が縮まらないのはどういうことだ。
「…ミカサのため、なのに」
「─…ぐるにゃ」
愚痴めいた言葉を洩らした途端、身体を起こし手にすり寄ってきた。なんて変わり身の早い。
「…わかりやすいわね、あんたも」
「にゃお」
(本当、そっくりすぎて嫌になる)
2016.10.2
「ねえ、」
「やだ」
「まだ何も言ってないけど」
「やなものはやなんです」
ぷい、と。そっぽを向いてしまったその人は、ふてくされたように頬をふくらませる。
「お姉さんは怒ってます」
私よりいくつも年上なのに、そんな子供じみた言葉を、仕草をするものだから、状況も忘れて思わず微笑んでしまった。
「むう。なに笑ってるの」
「かわいいなと思って」
「きらい」
「え、ちょっとなんで」
背中を向けてくる彼女を無理に振り向かせれば、ふくらんだままの頬は真っ赤に染まってしまっていて。
「…かわいい、とか。簡単に言わないでよ、ばか」
これ以上機嫌を損ねてしまわないよう、そんな自称お姉さんを思いっきり抱きしめた。
(だって、かわいい以外に思いつかないから)
2016.10.2
ああ、かわいい子だな、なんて思っていた。明るくて、気配りが上手で。幾らも年上の私に対しても気兼ねなく話しかけてくれて。
好きじゃない、わけがなかった。
「気付いてるんでしょ?」
けれどそれでも、まっすぐに向けてきてくれる想いに応えられなくて。痛いほど純粋な心に気付かないふりをして。まだ年若い彼女にはもっと、相応しい相手がいるだろうから。私以外の、誰かが。
「──あなたが、あたしのこと好きだ、って」
す、と。見据えてきた眸は、私にこれ以上の逃げを許してくれそうになかった。
(だってこわいの、本気になってしまうことが)
2016.10.2
視界いっぱいの純白が揺れる。きれい、なんて、見惚れる暇を与えてもらえるはずもなくて。
「や、ぁ…っ、うっ、ちー、もう、」
「や、じゃない、でしょ」
小首まで傾げて意地悪く。わたしの抗議はもちろん聞き留められない。
ウエディングのイベントで久しぶりに仕事を共にしたうっちーは、視線を丸ごと奪われるほどの美しさを持っていた。記憶にある彼女はこんなに清廉だったっけ、そんな失礼なことを考えてしまうくらい。
けれども仕事を終えた途端別室にわたしを連れ込んだ彼女は、清廉とはかけ離れた荒々しさを持ってくちびるに噛み付いてきた。
時間がないからとドレスを脱がされることもないまま、性急に暴かれていく。まとめた髪はもちろん原型を留めていなくて、借り物のドレスだって皺になってしまうかもしれないのに。
「ぱいちゃん、─…ぱいちゃん、」
わたしを見下ろして、ふ、と。それまでの意地の悪さもなにもかも忘れたみたいにやさしく微笑まれたら、文句もなにもかものどの奥に滑り落ちていってしまう。
「…もう。仕方ないなあ、うっちーは」
動きが止まった一瞬、こぼして。それでもあふれる幸せは隠しきれなかった。
(こんなことで幸せを感じちゃうなんて、なんて単純で、なんてうれしくて)
2016.10.16
片手に煙草、もう片手には猫。煙をゆるりと吐き出した彼女はそのまま頬をゆるめ、あごをツンと上げる猫の首を撫でていた。
わたしの猫であるはずなのに、わたしよりも彼女の方に懐いているのはなぜだろう。
試しに手を伸ばしてみても、ごろりと寝返りを打つことで逃れていってしまう。
「ふふっ、残念」
「楽しそうにしないでよ」
おかしそうに笑った彼女はまた口元に煙草を運び、息を一つ、挑発するみたいに煙を吹きかけてくる。髪にまでにおいがつくから止めてっていつも言っているのに、まったく聞く耳を持ってくれないのだ、彼女は。
ふいとそっぽを向く。子供みたいだとかなんだとか言われたっていい、だって本当にふて腐れているのだから。
だというのに、ふふ、と。声を洩らした彼女はそうして猫から手を離したかと思えば、わたしのあごをすくい上げ無理に視線を向けさせる。
さわさわと、妙にやさしい手つきで触ってきて。
「こうされたかったのなら早く言いなさいよ、子猫ちゃん?」
ああもう、本当、この人にはどうしたって敵わない。
(猫がうらやましい、だなんて)
2016.10.16