1.  花火の余韻がまだ残っているようだった。 「終わっちゃったわね」  ぽつりとこぼれたグローリアの言葉に、けれど寂しさは微塵も含まれていなかった。三年だ。三年もの間、春を彩っていた祝祭が遂にフィナーレを迎えたのだ。孤高に振る舞っていたあの頃と違い、いまは互いを高め、感動を分かち合う者たちがいる。充実を覚えた三年間をいとおしく思いこそすれ、惜別の情など、彼女にあるはずがなかった。  同意を求め振り返った彼女を見つめる、三対の眸。夕陽色に、ねずみ色に、宵の色。そのどれもこれもが、グローリアがいま感じ得ない想いを宿している風に見えて、彼女は首を傾げた。あるいは一様に三年間を思い返し、感傷に浸っているのだろうか。存外かわいらしいところもあるものだと、グローリアは苦笑する。 「もう。これでわたくしたちの関係が終わるってわけじゃないんだから。わたくしたちはひとつの海で繋がってる。どこにいても、ね。そうでしょ、オーシャン」  話を振られたオーシャンが肩を震わす。夕陽色の眸に水が張ったのは一瞬、たちまちいつもの調子を取り戻した彼は、視線を逸らしているヒューゴーの背を勢いよく叩いた。 「グローリアってば、僕のセリフ取んないでよー。ほらおじさんもカルロッタも!辛気臭い顔してたらまたシワ増えちゃうよ!」 「またってなによ、またって」  つられたカルロッタが笑みを取り戻す。前屈みで背中をさするヒューゴーと、それを見てけらけら笑うオーシャンに、グローリアは安堵した。やっぱりわたくしたちはこうでなくちゃ、だってわたくしたちはこれから先も続いていくんだから。  オーシャンが駆け出す。まだ高い陽射しを受けた海色の帽子の眩しさに、グローリアは思わず目をすがめる。彼の声はもう遠く、 「それじゃ、またあおーしゃーん!」  ええ、また。グローリアがそう応えようとまぶたを開いたときにはもう、海色も夕陽色もどこかへ消えてしまっていた。 「オーシャンったら、相変わらず落ち着きがないんだから」 「…だが、オーシャンの言う通りだ。辛気臭い顔ばかりしていられない」  それまでオーシャンの去った方角を見つめていたヒューゴーが、帽子のつばを持ち、目深に被り直す。 「この三年間、本当に、本当に楽しかった。なによりも生を実感した。そう思えるようになったのも、みんなのおかげだ。感謝する」 「あなたもいつも大袈裟ね」  苦笑を返しながらも、グローリアも同様に感じていた。地位と努力と実力以外なにもいらなかった彼女を変えたのは、紛れもなく三年を共にした三人なのだから。  おもむろにグローブを外したヒューゴーが握手を求めてくる。律儀ねえ、などと照れ臭さを隠しながらも返したグローリアは、けれどその手に熱のひとかけらさえ感じないことが妙に引っかかった。続いてカルロッタも握手に応じる。ねずみ色と宵色の眸を見交わしたふたりは、そのまま何事もなかったかのように手を離した。  踵を返したヒューゴーが、グローブをはめ直した片手を持ち上げる。 「それじゃあ、─…また、会おう」  その背が陽の向こうに消えるまでずっと、カルロッタは視線を外さなかった。  じり、と首筋が焼かれていく感覚。春の祝祭が三月にも渡って続いていたものだからまだ春のつもりでいたグローリアだが、どうやら夏の気配は着実に迫っているらしい。このままじっと立ち尽くしていたら丸焦げになってしまう、わたくしたちもはやく行きましょう。そんな意味をこめてカルロッタの指を捉える。ひやりと、また、この温度。 「…っ、ああ、ごめんなさい、私たちもそろそろ行きましょうか」  振り払われたのは初めてだった。目を丸めるグローリアに、我に返ったカルロッタは慌てて笑顔を取り繕い、船着き場へと足を進めた。  街はまさに祭りの後だった。そこかしこを彩っていたイースターエッグやら花飾りが順々に撤去されていく。物寂しさを感じる場面で、けれどグローリアは、まだ興奮さめやらぬ表情で片付けに勤しんでいる人々を前に喜びを禁じえなかった。彼女たち四人のアートが観衆の心にも届いたという、たしかな証なのだから。  ヴィークルであればあっという間に過ぎゆく道を、ふたりしてゆっくりと歩いていく。わたくしこれからしばらく休暇を取ろうと思うの。奇遇ね、私もよ。あら、それじゃあ日が合えば近いうちにまた会えるかしら。ええ、会いたいわね。ぽつぽつと落とす会話はとりとめのないものばかり。穏やかに流れていく時間は、けれど永遠ではなかった。  ふいにカルロッタが立ち止まる。右へ進めばもう船着き場だ。 「それじゃ、私もここで」 「あら、まだ陽が高いのにつれないのね」 「…うちの子たちだけに後片付けを任せるわけにもいかないわ」 「それもそうね」  カルロッタがふわりと笑う、また、あの寂しさを宿した色。  急く気持ちを、グローリアはやっとのことで留めた。伝えたいことはたくさんある、けれどいまはその時ではない、だってこれが最後ではないのだから。  それでも浮かんだ疑問と、無視できないほどの胸騒ぎから目を逸らせなかった。 「ねえ、どうかして」  語尾を上げ、表情の意図するところを尋ねる。いつもみたいにまた今度ねと軽く言い合えばいいのに、どうしてだかカルロッタはそれを口にしない。さっきだってそうだ、常であればすぐ次の約束を取りつけてくる彼女が、今日に至っては随分と消極的だ。 「グローリア」  宵色の眸が閉ざされて、まみえて。こぼされた自身の名前に、ぎゅうと胸が締めつけられる。彼女のこんな悲しみのあふれた声を、グローリアはついぞ耳にしたことがない。  突如、カルロッタの後方から吹いた風に飛ばされかけたボンネットを支えて、思わずまぶたを閉ざす。喧騒が遠のく。ふ、と。ひんやりとした指の感触が頬にふれた。 「春の夢って、こんなにも素敵なものだったのね」  カルロッタの声はすぐ耳元。 「──だって、あなたに出逢えたんだもの」  風が、やんだ。  グローリアが視界を取り戻した頃にはすでにカルロッタの姿はどこにもなく、ただ船の汽笛ばかりが響いていた。 (それは紛れもなくハッピーエンドだった、そのはずだった)  2020.3.23
2.  汽笛の残響を背中に受けながら、グローリアは一思案していた。  気にかかるのはもちろんあの三人。無理に明るく振る舞っていた彼と、違和を覚えるほど手が冷たかった彼と、意味深な言葉を残した彼女と。そのすべてを感傷という単語ひとつで括るのは難しかった。  晴れない心を抱えたままサロンに戻ることもできずに、とりあえず来た道をたどっていく。道々で片付けに励むスタッフやら住民たちと挨拶を交わしながらも、意識はまだ三人の挙動にとらわれていた。  だからだろうか、足下に迫るそれにすぐには気付けなかった。 「…あら、これ」  海際に落ちていた、覚えのある色。陽の光を透かすそれを拾い上げる。海のいきものをあしらった帽子は見間違えようがない、たしかにオーシャンのものだ。それにしてもなぜこんな場所に忘れられているのか。彼がいっとう大切にしている作品をまさか置き去りにするなんてことがあり得るのだろうか。周囲を見渡してみても、持ち主が現れる気配はどこにもない。  しゃがみこんだまましばし考えに耽るものの、答えが出るはずもない。海色の帽子を抱え直し、立ち上がりかけた直後、見つけたそれに今度こそグローリアは目を丸めた。  金魚、だ。金魚が地面を懸命に跳ねている。グローリアの頭は混乱を極めた。屋台で釣り上げた誰かのもとから逃げてきたのだろうか。なにもこんな陽の照りつける場所で跳ねなくてよいものを。  およそ不釣合いな光景に頭を抱えている間にも、小さな身体を揺する金魚。その身が転げ、海に落ちる間際で慌てて両手ですくい上げた。 「だめよ、海水なんかで生きられないでしょ、あなた」  とにもかくにも早くこの子を淡水に戻さなければ。幸いにもすぐそばにあった水飲み場に駆け寄ったグローリアは、自身のボンネットに溜めた水の中に金魚を移す。金魚は途端に元気を失ったように動かなくなった。  オーシャンの帽子、それに金魚。ふたつのものは、答えに繋がらない。 「ねえあなた、もしかしてオーシャンの行方を知っているのではなくて」  帽子を発見した地点に戻ってきたグローリアは、無駄だと思いつつもつい金魚に話しかけてしまっていた。当然金魚は答えない。それまで揺れに任せたゆたっていた金魚は、一度大きく跳ね、ボンネットを抜け出しそのまま海に飛びこんだ。手を伸ばす間もなく、夕陽色の金魚は波に呑まれていく。  後にはグローリアと、水の溜まった自身のボンネットと、海色の帽子だけが残された。 (金魚は海原の夢を見る)  2020.3.24
3.  火山の深奥で生まれた低い唸りが、洞窟全体を揺らしていた。  水に濡れたグローリア自身のボンネットと海色の置き土産をぎゅうと抱き直す。ひとの姿も見えないのに活動の止まないこの地を、彼女は苦手としていた。ともすれば異形の鳴き声にも聞こえる音に身を竦ませながら、なだらかな坂を奥へ奥へと下っていく。あるいはカルロッタなら、生命の胎動だと喜んでこの地鳴りを受け入れたのだろうか。それとも機械文明に囲まれ顔をしかめただろうか。そういえば聞いたことがなかったと、ここにいない彼女に想いをめぐらし、せめてもの現実逃避を図る。  ミステリアスアイランドの最果て、光さえ届かない場所に、ヒューゴーは居を構えているらしい。らしいというのはつまりグローリアはそこへ足を運んだことがないからであった。遠すぎて疲れちゃうよとオーシャンがこぼした文句を間に受けたヒューゴーが、水門のほど近くに作業場を併設、以来皆その場に足を運んでいたのだ。  彼ならばオーシャンの行方を知っているかもしれない。もしかすればこの不安に解を与えてくれるかもしれない。そんな希望に縋ってここまで来たものの、重厚な扉を前にしてその不安がいや増した。  重たいノッカーを数度、打ち鳴らす。ぎし、と軋みながらひとりでに開いた扉のうちに足を踏み入れ、そうして愕然とした。  ネジやブリキや歯車が、床に机にと場所を選ばずそこかしこに散乱していた。空き巣にでも入られたかのような惨状に鼓動が急く。もちろんそんなことがあるはずがない。そもそも作業場にひとっこひとり見当たらないという状況が異様であった。  ゆっくり足を進めるたび、足下のそれらがかしゃりと音を立てる。ともすれば呼吸音にも聞こえるそれに眩暈を覚えた。外の暑さにやられてしまったのか。金属のこすれる音以外なにも浮かばない部屋で、グローリアはこめかみを押さえる。 「─…ヒューゴー、」  鉄製の扉の前で足を止め、この先の部屋の主であるそのひとの名を震えるくちびるで紡ぐ。返事はない。ただどこかで鳴っている針の音ばかりが時の進みを知らせてくる。  進みたくない、だけど進まなくちゃ。呼吸をひとつ、意を決して押した扉は難なく道を開けた。  部屋に唯一据えられた窓から差す陽光に突かれ、咄嗟にまぶたを閉じる。かしゃん。一際大きく響いた歯車の音に促され目を開き、ああ、と。グローリアはその場に頽れた。どこかでそんな予感はしていた、けれど信じたくなかった、また会おうと交わした彼の約束のほうこそ信じたかったのに。  彼の椅子に積み上がった歯車、その頂上に、見覚えのある帽子が悲しく佇んでいた。 (夢を動かす歯車)  2020.3.25
4.  もう随分と傾いた陽が波間を照らしていた。  三人分の帽子を大事に抱えたグローリアは、欄干に身を預け、波を割いて進む船の道行きを見るとはなしに眺める。もう夕暮れ時だからか、客はまばらだ。空いている席もあるものの、ゆっくり腰を据える気にはなれなかった。  太陽色のボンネットを指でなぞる。夏のような陽射しのおかげで、ボンネットはとうに乾いていた。グローリアが、自身のアートの象徴であるこれを大切にしているように、彼らだって丁重に扱っていたはずなのに。手の届かない場所に置き去ることなどしないはずなのに。疑問は膨れるばかり、答えは与えられない。ゆっくりと波間を進む船に、気ばかりが急いていく。  ごうん、と音を立てて船が停泊する。着岸を待ちわびていたグローリアは、我先にとタラップを駆け下りた。  集落は人でごった返していた。夕時だからだろう、市場で賑やかに言葉を交わす人々のそれは、都会の喧騒とはまた異なる。慣れない人の流れに、足をもつれさせながらも懸命に進むグローリアを呼び止める大勢の声。ある者はあのグローリア・デ・モードだとサインを求め、ある者は握手を乞い、ある者はその様相に見惚れた。ひとつひとつに丁寧に謝辞を入れ、ロストリバーに架かる橋に差しかかった頃にはひどく困憊していた。  足を止めたい、息をつきたい、けれど焦燥感がやまない。三人が各々見せた表情が、グローリアの思考を占めている。思い返せば予兆はあった。これで最後だからと頻りに繰り返していたヒューゴー、悔いを残したくないのだといつも全力だったオーシャン、そしてグローリアが見つめてふれて抱きしめるたび、困ったように眉を下げ笑っていたカルロッタ。様子がおかしいといえばその通り、けれどそれはひとつの祭りが終わる際の寂寥感だと思っていた、グローリア自身も感じているそれだとばかりに。  しかしもし、もしも彼らが本当に、この春の祝祭が最後だったのだとしたら。なにかの理由があって、もうここにはいられないのだとしたら。  ロストリバーデルタの奥地に進むにつれ、人波がまばらになっていく。このあたりは民家が少ない。あるのは名も知らぬ遺跡と、小さなキャンプ地、カルロッタのサロンだ。  グローリアの足がようやくカルロッタの居住地に踏み入る。丁寧に手入れされた庭でいつも出迎えてくれるはずのモデルたちの姿は見えず、代わりに普段よりもたくさんの蝶がそこかしこに舞っていた。  ぎゅう、とみっつ分のボンネットを抱きしめるグローリア。震える足を叱咤し、温室の扉をくぐる。熱気の充満したそこを足早に抜ければすぐ、カルロッタの居室だ。  息を、ひとつ。吐き出したそれが不格好に揺れる。  通い慣れた私室の扉を開けば、果たしてそこには部屋の主がいた。それまで作業台に向かっていたカルロッタが慌てて顔を上げる。まずグローリアの顔を見とめ、それから彼女が大事に抱えたものに視線を移し、くしゃりと、らしくもなく顔を歪ませた。 「…出迎えのひとつもくれないのね」  言葉が、見つからなかった。ようやく向けた文句はどうしようもなく震えてしまっている。カルロッタが変わらず自室にいてくれたことに安堵はした、したけれど、彼女の隠しきれなかった表情で悟ってしまった。彼女は少なくとも、彼らふたりが忽然と姿を消したことを、その理由を知っているのだと。そうして恐らく、彼女も。 「グローリア」  カルロッタが名前を紡ぐ先からぽろぽろこぼれていくような、異様な感覚に襲われる。ちゃんと音になっているはずなのに残らない、響かない。ノブを握りしめたまま動けずにいるグローリアの目の前で、カルロッタがおもむろに立ち上がる。机に置いてあったスケッチブックの表紙を撫でた彼女の視線に宿る、愛と、慈しみと、決意の色。 「言わなければならないことがあるの、あなたに」  カルロッタのついた息が空気を揺らす。ひと呼吸置いて、けれど一度、ぐ、となにかを呑みこんだ。 「…あまり夜更かししすぎないこと。砂糖は入れ過ぎないこと。社交に興じるのもいいけれど、あなたを狙ってる不届きな輩は大勢いるんだから気をつけて。それから、」 「ちょ、ちょっと待ってカルロッタ、そういうことじゃないんでしょう、」  身構えていたような真実は与えられず、代わりに降る忠告に思わず割りこんだ。ようやく自由の効いてきた腕が、傍らの箱にボンネットを置く。にじり寄るグローリアを、けれどカルロッタの背後、開け放たれた窓から飛びこむ風が阻んだ。血の気の引く音をグローリアはたしかに耳にした。まって。猶予を求めても音にならない。 「あなたが、─…あなただけは」 「まって、カル、」  足を踏みこむ、一歩、駆けて、腕を伸ばして。宵色の眸が笑みをかたちづくる。両腕を広げ抱き留めようとしたその瞬間、ひときわ強く吹き抜けた風が、カルロッタの姿をさらっていった。  ──いとおしいあなたがどうか、これから先の季節を自由に生きられますように。  風がやんだ頃、グローリアの腕の中にはなにもなく。どこからか現れたとりどりの蝶たちのつくる渦の中心でただ自身を抱きこむばかり。からり、寂しい音を立てたのは、片翅の蝶を模した、見慣れた仮面だった。 (あるいは胡蝶の夢)  2020.3.26
5.  見慣れた天井だった。  しばたたいたまぶたの重さに、部屋の主は眉を顰める。そういえば化粧さえ落としていなかったとグローリアが気付いたのは、目をこすった手の甲にアイシャドウが移った後のこと。ぐしゃ、と両手で視界を閉ざす。最後に目にしたカルロッタの笑みがまぶたの裏にこびりついて離れない。名前を呼べなかった、腕のうちに閉じこめられなかった、別れの言葉も怒りも愛もなにもかも伝える前にどこかへ消えてしまった。  あるいは度が過ぎた悪ふざけであったなら。あんまりにも悲しみに暮れる彼女を見ていられなくなった三人が、ほんの出来心だったのだと謝罪してきたならば、憤慨しつつも安堵できたのに。そんな気配がないことも、そもそもそんな冗談を重ねるひとたちでないことも、彼女は重々承知していた。  夜の間に涙は枯れた。代わりに空虚ばかりがグローリアの胸を占めている。  あれから──カルロッタが消えてからの記憶が薄い。しばらくその場から動けずただ慟哭していた気がする。ボンネットや仮面を手にようやっと最終便に乗りこんだ覚えはある。心配した秘書が港まで迎えに来た気もするし、ひとりで帰路についた気もする。  痛む頭を転がし、サイドチェストに視線を向ける。何度またたいてみても、あるのはグローリアの太陽色のボンネットばかり。持ち帰った彼らの、命にも等しい作品たちの姿はどこにもない。置いてきてしまったのだろうか、いいやそのはずはない。持ち主を失ったそれらを見つめ、明け方に疲れた意識が沈むまで泣き濡れていたのだから。  思考を巡らそうにも、頭が悲鳴を上げている。涙を流しすぎたせいか、それとも睡眠不足によるものなのか。判別することさえままならず再び視界を閉ざしたところでようやく、階下の騒音が耳に届いた。不可解な音に疑問が湧く。  暇を言い渡したはずだった。この二ヶ月半、不休で仕事に勤しんでいた秘書を始めとするモデルたちに、ひと月ほどの休みを与えたばかりだというのに。  気怠い身体をなんとか起こし、作業場への階段を下る。 「あっ、グローリア様!」 「もう、こんな大事な日に寝坊しちゃうだなんて」  グローリアの姿を見とめた彼らが口々に声を上げた。わずかにこもった非難の色に、思わずまたたく。忙しく立ち働いている彼らが腕に抱えているものは、身につけているそれらは、昨日で役目を終えたはずの春の衣装たち。 「ちょ、ちょっと待ってみんな、どうしたのよそれ、」  戸惑いを口にした主を前に足を止めた秘書が、モノクルの奥の眸を怪訝そうに細める。 「貴女の心待ちにしていた春の祭典が、もう数刻で始まるのですよ、お嬢」 (明けぬ夢のはじまり)  2020.3.27
6.  窓から舞いこむ桜の花弁に、グローリアはもはや首を傾げることさえできなかった。  外は春。紛うことなく春。花は開き風は歌っている。広場に設営されたステージに、至るところに佇むイースターエッグ。名残惜しくも春の後片付けと、迫りくる夏の準備に勤しんでいた光景はどこへやら、街はすっかり春の装いを取り戻していた。  とりどりの服をまとった子供たちがヴィークルの横を駆けていく。いよいよ混乱してきた頭を抱え、まぶたを閉じたグローリアは、落ち着くのよ、と自身を宥めた。  モデルたちが揃って謀っている可能性も考えた。けれど街の様子を見るに、今日から春の祝祭が始まることは真実のようだ。ではなぜ。たしかに昨日、間違いなく終演したはずなのに。  不可解なのはそれだけではない。三つのボンネットの所在だ。大切に持ち帰ったはずのそれが、目覚めると忽然と消えていた。階下ではモデルたちが立ち働いていたのだ、誰かが持ち去ったとは考えにくい。それではどうして。  あるいはすべて夢だったというのか、ならば一体どこからどこまでが幻想なのだろう。カルロッタが、ヒューゴーが、オーシャンが自身の欠片を残して去ったところからか。それとももっと以前、春の祝祭がグローリアの夢の始点なのか、はたまた彼女ら三人の存在自体が夢の産物だとでもいうのだろうか、 「到着いたしましたよ」  運転手の声に思考が引き戻される。気付けばヴィークルは、ハーバーの程近くに停車していた。荷物を引っ掴み、支払いを済ませ慌てて降車する。  足早に歩きながらも、視界の隅に映る対岸に意識を引かれた。人でごった返した岸はまばゆいばかりの春色にあふれている。その瞬間を待ちわびる人々の熱気に、興奮に、グローリアは身震いした。この感覚を、光景を、わたくしは。  はやくはやくと足を叱咤する。角を曲がればすぐ、バージが停泊している桟橋に行き着くはずだ。踵が地面を鳴らす、うまく息を継げない、ふいに風が巻き起こり、どこかで響く鐘の音、グローリア、と、誰かがその名を紡いだ気がして、 「──カルロッタ、」  見えた紫紺の衣装に思わず、掠れた声が洩れた。 「カルロッタっ、」  叫ぶが早いか、荷物を放り投げ駆け出した。声を受けたそのひとが振り返る。まろびながら距離を詰めるグローリアに目を丸めたカルロッタは、けれど飛びこんできた身体をなんとか受け止めた。全身を包む熱はたしかにカルロッタのもの。グローリアの視界がじわりとにじむ。カルロッタが、いる。 「カルロッタ、…ああ、カルロッタ、カルロッタだわ…っ」 「ちょ、ちょっとグローリア、どうしたの、なにがあったのよ」 「なになに、感動の再会?先週の打ち合わせで顔合わせたばっかなのに?」 「そ、そんなに恋しかったのか…?」  堰を切ったようにしゃくり上げるグローリアに降る三者三様の反応。あやすように背をさするカルロッタに、怪訝そうに顔を覗きこもうとするオーシャンに、わかりやすく狼狽えるヒューゴー。言葉も態度も、それぞれが身に付けた帽子や仮面さえいつも通り。昨日の出来事などまるでなかったかのように。 「ねえグローリア、落ち着いてちょうだい。一体どうしたっていうのよ」  心配のにじむカルロッタの問いに、すんと鼻をすする。説明しようにも、グローリア自身も理解できていないことであるし、そもそも昨日の顛末はすべて夢だった可能性も否めない。誰も彼もが口を揃えるように今日が祝祭初日だとして、不確かなことで心配を増やすのはあまり得策ではないように思えた。 「ごめんなさい、その、…思わず、感極まっちゃったの」 「なあんだ、気が早いなあ」 「まだ始まってもいないんだぞ」  安堵したふうに笑う三人につられ、グローリアもようやく笑みを取り戻した。  涙でわずかに崩れたメイクを直されている間に、海の向こう側でスピーカーが鳴る。祝祭の兆しに、三人の顔が引き締まる。 「いよいよだな」  グローブをきゅ、と引き下ろすヒューゴーの、ねずみ色の眸が潤む。 「一年も待っちゃったよ」  襟を正し、口角をゆるめるオーシャンの、夕陽色の眸がきらめく。 「私たちの春よ、グローリア」  メイクの仕上げを終えたカルロッタが、宵色の眸を細める。  各々のバージへ乗りこむ背中を見送ったグローリアもまた、奇妙にわめく胸を押さえ自身のアートをかざしたそれの頂上へと上りつめる。  波ひとつない海にゆっくり漕ぎ入れる船。木陰を抜けた途端、眩いばかりの陽射しに晒される。眸を閉ざし、息をひとつ。春の陽気を全身に受ける。グローリアを乗せた船はハーバーの中央、衆目が集まるただなかへ。期待の渦の中心で、彼女は確信した。 「──皆様、ようこそ!」  わたくしは、この春を知っている。 (眸が、心が、全身が、おぼえていた)  2020.3.28
7.  歓声がグローリアの全身を包んでいた。  バージが木陰に戻ったところで力の抜けるままようやく、それまで一心に振り返していた手を下ろす。視界がちかちかとうるさい。鮮やかな春色が後を引いているようで、グローリアは眉を寄せた。頭の奥の奥が痛む。極彩色の現実に思考が追いつかない。  桟橋に帰りついたバージが錨を下ろした衝撃でぐらりと身体が傾ぐ。自重さえ支えていられず、思わず膝を突いたグローリアにいち早く気付いたのは、下船しようとすでに階段を下っていたカルロッタだった。  ねえ大丈夫、グローリア。  声が反響する、視界が霞む、頭がいたい。見知った宵色に次いで夕陽色とねずみ色も彼女を案じ駆け寄ってくる。どこかで見た色、一度失ったはずの色。ああよかったと、走り寄る面々に知らず笑みがのぼる。彼らの生み出したものたちが無事あるべき場所へ戻ってよかった、わたくしの部屋に持ち帰ったみっつはひどくさみしそうだったもの。 「グローリアっ、」  切迫した呼び声を受けて、たしかにカルロッタの声だわと、やけに呑気に実感する。  もはやまぶたを開けていることさえ億劫だ。どうか目がさめてもカルロッタがそばにいてくれますように。おぼろに願いながらついに意識を手離した。 (極彩色の季節が、また)  2020.3.29
8.  身体が重い。  まだ寝てていいのよ、ねむり姫。どこからか届くカルロッタの声。まぶたは開かない。仄暗い世界でただひとつの寄る辺であるその音が、よく知っているそれとなにも変わりないことに、グローリアはひどく安堵した。  ゆめをみていたの。まだうまく回らない舌でとつとつと落とす。とてもかなしいゆめ、とてもさみしいゆめ、いろんなものが急に終わってどうすればいいかわからなくなってしまったの。思い出すだけで胸が締めつけられる光景もいまは浮かばない。あるのは心休まる香りと、身体を受け止めるやわらかなシーツと、自身の名を呼ぶ声だけ。  かわいそうなグローリア。ふいにふれた熱が前髪をやさしくさらう。でも安心して、いまは三月二十七日、まだなにもかも始まったばかりよ。  毛先が額をくすぐる感触に口の端がゆるむ。ふふ、そうよね、わたくしったらなにを怯えているのかしら、だって三月二十七日だもの、三月、 「──三月!?」  もたらされた情報に一気に目が覚めたグローリアが跳ね起きた。勢いよく上体を起こしたせいか、ずきりと鈍い痛みが走る。目が回って気持ちが悪い。吐き気を覚えて口に手を当てたものの、出るのは乾いた咳ばかり。 「もう、急に起き上がらないの」  やわらかな声に叱責の色はない。伸びてきた両腕がグローリアの肩を押し、シーツに舞い戻らせた。言われるままに息を吸う、吐く、吸って、もう一度吐いたところでようやく眩暈が治まり、恐る恐るまぶたを開く。彼女を見下ろす宵色。心痛を宿してはいるものの変わりない眸に、けれどどうしたって不安は消えなかった。  どうやらここはホテルの一室のようだった。ベッドの縁に腰かけたカルロッタが覆い被さるようにグローリアの脇に手を突き、表情を窺う。 「オープニングセレモニーを終えて倒れたあなたを、とりあえず私の部屋に運び入れてもらったの。覚えてないかしら」 「全然。…ごめんなさい」 「謝らなくていいの。だけど体調が悪いのならちゃんと言ってちょうだい」  言い含めるようなカルロッタの声に頷く。素直な返事に満足したのか、見上げた眦がやわくゆるんだ。身に滲みる優しささえ、グローリアの疑念に解を与えてくれない。  三月二十七日だとカルロッタは言った。三月二十七日、それは春の祝祭開催日。その言葉にきっと嘘偽りはないだろうし、陽光の満ちた海のただ中でグローリアが宣言したのはたしかに、二ヶ月半前と同じ祝祭の開会だったのだ。  デジャヴ、なんて生ぬるい感覚ではない。あの歓声は、あの色彩は、明らかに過去の追体験だ。ならば時を繰り返しているとでもいうのだろうか、一体なぜ、どうやって。あるいは昨日─つまり祝祭が終わったその日─カルロッタが消える瞬間を目撃してからあくる日目覚めるまでの曖昧な記憶の中に、答えに繋がるなにかがあるような気がしてならないのに、どうしても手繰り寄せることができずにいる。  堂々巡りに再び痛みを催してきたグローリアの頭を撫でるカルロッタの手。髪を梳くその手のひらにはたしかなぬくもりが満ちている。 「ねえグローリア、あなたよほど体調が悪いか、よほどこわい夢を見たのね」  大丈夫よ。子供をあやすように撫でられることで、張り詰めていた心がほぐれていく。いまの状況が夢でも過去の繰り返しであっても、一度失ったはずのカルロッタがそばにいるということは事実だ。情報が足りないいまは、焦っても仕方がない。  息をつき、落ち着いたところできゅるきゅると派手に鳴いた。そういえば昨日朝食を食べたきりだったと慌てておなかを押さえるグローリアに、カルロッタが微笑む。 「催促しなくても、いまなにかもらってきてあげるわ」  ぬくもりが離れていく。以前ならば額かくちびるに降っていたくちづけはいまはなく。またもやじわりと滲む恐怖に、けれど問いただすだけの言葉はまだなかった。 (真実はいまだ手繰り寄せられず、)  2020.3.30
9. 「なんだオーシャン、相変わらず口だけ達者だなあ!」  陽気な声から察するに、どうやらヒューゴーも相当アルコールが回っているらしい。  ばんばんと激しく背中を叩かれているオーシャンの、見る間に青褪めていく顔を横目に、グローリアはオレンジジュースを流しこんだ。  ヒューゴーとともにカルロッタの部屋を訪ね、祝祭開催祝いとグローリアの快気祝いに一献傾けようよ、と三人を誘ったのはオーシャンだった。ようやっと昼食を口にしたばかりなのにと非難の声を上げたカルロッタを、しかし当のグローリアは制す。はじめに酔い潰れたひとの奢りね、と。二ヶ月半前のその日に口にしたセリフをそのまま取り出したのだ。  流れを変えてはいけないと思った。もしも時が戻ったとして、グローリア以外がその事実に気付いていないとして。時が巻き戻された意味を、理由を知らないいまは可能な限り過去をなぞるべきだと。  そうしてなぞった結果、記憶にあるものと同様にオーシャンが一番最初に音を上げたというわけで。 「やめ…ちょ…、そんな揺らさな、う、」 「ああもう。いいからお手洗いに連れてってあげなさいよ」  カルロッタの助け舟を受け、いまにもアルコールすべてを吐き出しそうなオーシャンがヒューゴーと連れ立つ。千鳥足の酔っ払いに右へ左へと振り回されている様子を見るに、あれは洗面所までもたないだろう。  く、と再度グラスを呷る。オーシャンが早々に机に突っ伏した時点で、グローリアのワインは取り上げられていた。二杯目のジュースのせいで酔いはすっかり醒めている。こんな状況下で酔わずしてどう平静を保てというのか。 「いつになったら飲み方を覚えるのかしらね、オーシャンは」  呆れかえった声は隣から。洗面所の方角を見つめ、グラスを傾ける彼女の持つそれは一体何杯目だったか、もはや数えることは諦めた。 「あなたは相も変わらず強いわねえ、昔からそうなのかしら」 「さあ。単にあなたたちが弱いだけじゃないの」  バーテンダーが差し出した次のグラスを受け取ったカルロッタは、それに、と。 「どうしてだか最近、香りの強いものが恋しくてついね、何杯も飲んでしまうの」 「…ふうん」  また、あの目。グラスの水面を見つめているはずなのに、どこか遠くに意識を向けているその表情になぜあのときは気付けなかったのか。 「それじゃあまるで、」  続く言葉はジュースとともに飲みくだした。なあに、と覗きこんでくる宵色の眸にはもう先ほどまでの寂寥は見当たらない。グローリアの姿をやわらかにとかす眸に、彼女はまたも嘘をつく。 「…忘れちゃったわ。それよりわたくしにもひとくち飲ませなさいよ」 「はいはい、今度はグレープフルーツにでもしときなさい」 「やあよ」  空になったグラスが下げられ、代わりにソフトドリンクがなみなみと注がれる。むうと頬をふくらませ、隣のグラスへと伸ばした指はしかし難なく避けられた。ぬくもりの掴めなかった指先をただ握りこむ。水滴を帯びた自身のそれは冷たさしか返さない。  カルロッタ。さみしさをジュースで埋めながら、グローリアは音もなく呼ばう。ねえカルロッタ、いつからふれさせてくれなくなったのかしら。春になってからだったか、それとももうずっと前からこの距離感だったのか。記憶との相異に心まで冷えていく。隣に並び立てたと思っていたのに、これからもずっと共にあると信じていたのに。 「わがままいわないの」  まるで心を読み透かしたような言葉に、虚しくグラスを空にした。 (花の香に誘われる蝶みたい、じゃない)  2020.3.31
10.  翅を、追いかけていた。  紫と紺の狭間の色。つま先立ちしても指先さえ掠めない距離で飛ぶそれがともすれば宵色の空へととけていこうとする。  まって。音にする先から泡のようにはぜていく、まるで海に沈んでいるみたいに。  抱えていた帽子が、仮面が、腕をすり抜けていく。ああこれは一体だれのものだったか、まろびながら彼女は思う、わたくしどうしてこんなに必死になってるのかしら。  周囲の色が褪せていく。翅がとけゆく。声が響く。だれのこえ。  きみはどうしたいんだい、一体なにを望むんだい。  どこかで聞いた覚えのあるそれがほどけていく。なにを。そう問われたって、自分がなにを、どんな未来を望んでいるのかまるで知れないのに。  翅が一度大きくはばたく、だれかのまたたきみたいに。  あなたはどうして拒むの、なぜ受け入れないの。  にじむ視界のなか、今度は別の声が問う。なぜ。だって、だってわたくしは。  ひらめいた翅が、いつの間にか現れた陽を透かす。目を突くそれに思わず手をかざす。このまばゆさを、この陽気を、彼女はたしかに知っているはずなのに。  懸命に腕を伸ばす。指はついにとどかなかった。 (むいろのゆめ)  2020.4.1