「まさかはじめてってわけでもないんだから」  私の下着を難なく外した姉の言葉に、ぷつんと。これは恐らくタガを失う音。  言い訳はたくさんある。はじめて目にした姉の透き通る肌を前に柄にもなく緊張していたせい。指先の震えを止められなかったせい。ともすれば湧き上がる衝動をやとのことで抑えつけていたせい。  その諸々はすべてのこの酩酊した姉のせいだというのに。待てど暮らせど先に進まない私に業を煮やしたのか、くるり、振り返ったそのひとがおもむろに両腕を回してくる。アルコールに染められた頬が私の首筋に密着する。酒を口にしたわけでもないのに鼓動が速まる。昔から不器用よねえ。呑気でどこか楽しそうな姉の声は耳元から。  そうしてブラウスの上から一瞬にして私の下着の留め金を外してみせた姉がからからと口にした言葉が冒頭のそれというわけで。  その口振りからして姉ははじめてではないということか。このひとには、いましがたやってみせたように下着を抜く相手がいたということなのか。  頭に血がのぼるのと、熱を持った身体を引き倒すのはほど同時。見上げてきた深海色の眸が不思議そうにまたたく。 「──それならお姉様が、私のはじめてを奪ってちょうだい」 (だって私にはあなたしかいないから)  2020.4.1
 じじ、と。チャックの外される音。化粧の手を止めない私に対抗するようにひとつまたひとつと下げられていく。  外気にふれる先から背中に降るくちづけ。  あとは口紅のみ。なのに引き下げられた袖のせいで腕が持ち上がらない。  鏡越しの駄々っ子と目が合う。  に、と上がる口角が、紅も施していないのに艶やか。  まったく、なんて子なの。 「しかたのない子」 (今夜も私の負け)  2020.4.2
11.  最初に感じたのは濡れた手触りだった。 「深酒しすぎたでしょ」  覚醒したての頭に、ぼう、と声がこもる。怒りも呆れもそこになく、ただ心配だけがこびりついているような言葉。昨日よりは幾分痛みが軽くなった頭をめぐらせ、自身の腕の行き先をたどる。  果たしてつかんでいたのはバスローブの前身頃だった。ぽた、と手の甲で弾ける水滴。緩慢に持ち上げた視線をすくったカルロッタが苦笑する。また運び入れられてしまったのだろうかと眉をひそめたグローリアの眉間を、伸びた指先が軽くほぐした。 「いつまで経っても起きないから借りたわよ、お風呂」 「…ここ、」 「言っとくけど不法侵入じゃないわよ、ちゃんとフロントでスペアキー借りてきたの」  言われてみればたしかに、覚えのある酒瓶がサイドテーブルに並んでいる。解散後も心が晴れないまま結局、アルコールを買いこんだのだった。頭がひどく痛むのはなにもアルコールだけのせいではない気がする。  あなたが心配だったから。そう続けたカルロッタが、グローリアの頭をやわく撫でる、それだけで不思議と痛みが軽くなるようだった。 「そしたら案の定」 「…うなされていた、のかしら」 「そこまでじゃないけど。まああまりいい夢を見ていたわけじゃなさそうね」  ぐ、と裾を握りしめる。引っ張られる勢いに任せたカルロッタの身体が覆い被さる。濡れそぼった髪が肩を流れて枕を濡らす。 「濡れるわよ」 「カルロッタこそ。風邪ひくわよ」  はだけるのも気にせず襟をたどっていく。そうして頬へと伸ばした指を、けれど彼女は明らかな仕草で避けた、ように、グローリアには見えた。じくりと胸が滲む。 「ねえグローリア、なにかあったの」  普段通りに尋ねたであろうカルロッタの声に隠しきれない不安がとけている。恐らく昨日グローリアが倒れてからずっと気に掛けているのだろう。たとえばシーツに落ちた指の先ひとつでも拾ってくれたなら、言い知れない恐怖が和らぐというのに。 「…ここ最近、夢見が悪いだけよ」  叶えられない希望を嘘で覆い隠す。カルロッタの柳眉が下がる。ぽた、とまたひとつこぼれた雫が、シーツの染みを広げていった。 (冷えたのはなにも指先だけじゃなくて、)  2020.4.2
12.  目の覚める海色がハーバーを支配していた。 「あいっかわらず派手な演出がすきねえ」  二ヶ月半前に一度目にしたはずの光景に、けれどグローリアは同じ感想を口にした。  祝祭二日目からは、彼女たち四人の織り成すアートが、ポートの各所で披露される。こちらの特設会場ではランウェイ形式のファッションショー、あちらの舞台では衣装を纏ったダンサーたちによるダンスショー、さらには老若男女だれでも衣装を試着できるブティックまで敷設されている。  メイン会場のメディテレーニアンハーバーでは、各アーティストが持ち回りでショーを行う。トップバッターはアクアポップアート。ラウンジで朝食を摂ったグローリアとカルロッタが連れ立ってホテルを後にしたちょうどその時、歓声が沸き起こったのだ。  バージ上でひらひらと舞う栗鼠の歌声に合わせて飛沫が上がる。歌姫の曲線を優美にえがいたマキシ丈のワンピースに、隣のカルロッタは思わず感嘆の息を洩らした。 「彼女を一番美しく魅せる術を知ってるのはやっぱりオーシャンみたいね」 「本当にね。わたくしならそもそも、背景と同系色の生地を使うなんて発想ないもの」  視線の先で、鱗を模した衣装に包まれた歌姫が声を響かせる。まるで古より言い伝えられし妖精のようだと、グローリアはふと思った。  音楽に合わせ、海面が続けざまに波打つ。バージの頂上に立つオーシャンはステップでも踏むように、右へ左へと機嫌良く身体を揺らしている。盛り上がっていく場の空気に、けれどカルロッタはひそやかに眉を寄せた。 「あれじゃあ、いつ海にさらわれてもおかしくないわ」 「なにを心配してるの、カルロッタ」 「だってあの子、」  素朴な疑問に口を噤むカルロッタの表情が曇る。言葉を選ぶかのような挙動に、つと海上を仰ぎ見た。今日のホストは相も変わらず音に乗っている。たしかに危険かもしれないが、あの程度の波なら問題ないはず、だって彼は、 「──泳げないのよ、オーシャン」 「…え、」  ようやく返ってきた言葉に耳を疑う。去年の夏はヒューゴーと川へ泳ぎに行ったのだとあれだけ楽しそうに話していたのだ、そんなはずはない。  疑うグローリアの視線から逃れるように、カルロッタの眸が海を映す。波が立つ。 「海では、ね、泳げないみたいなの」  海をこよなく愛するアーティストの声が、人波に木霊した。 (こよなくあいしているのに、)  2020.4.3
13.  赤、青、黄。春を想起させるとりどりの色たちが舞台を彩っている。常ならば心躍る色さえも、頭の隅を滑っていくばかりだった。  カルロッタの今日の持ち場はミステリアスアイランドだっただろうか。ヒューゴーの膝元で新作を披露するのが楽しみだと意気込んでいた気がする。  本音を言えば片時だって離れたくはない。こうしている間にもまた、カルロッタが手の届かない場所へ去ってしまったらと気が気ではない。けれどグローリアもこの祝祭を飾るひとりだ、その責務を放り投げるわけにはいかなかった。  気もそぞろなグローリアのもとへ、拍手を背中に受けながらとことこ走り寄ってくる小さな影。空を目指して伸びた両耳が、グローリアの気を引くように揺れる。  屈みこんだグローリアは、小さなダンサーのスカートがわずかにほつれていることに気付いた。じっとしていてね、と取り出した針で修繕していく。動きを止めながらも、踊り子は息が上がるのも気に留めず言葉を継ぐ。新作の衣装のかわいさ、服とリズムと踊りに魅了された観客、最高の春ね、と、うれしそうに。 「─…そうね、そうよね。みんながこんなに楽しんでくれているんだもの、わたくしも全力で取り組まなくちゃ失礼だわ」  糸をふつりと切ったグローリアは、無邪気に笑う踊り子に微笑みかけた。 (だってせっかくの春ですもの)  2020.4.4
14.  三年目にしてようやく彼も、人との付き合いかたを覚えたと思っていたのだが。 「あ、あの、そんなに、近付かなくてもいい、の、だがな」  どうやら女性に対する耐性はついていないらしい。採寸してくださいよお、とやけに甘ったるい声とともに距離を縮めてきた女性二人から逃れるようにグローリアの背後に回ったヒューゴーが言葉を詰まらせた。わたくしをなんだと思っているのよあなた、と内心憤慨しながらも肩を竦め、仕方なく助け舟を出した。  このブースでは、スチームパンクをモチーフとした衣装の試着ができる。本来ならばグローリアが足を運ばずともよい場所であるのだが、ヒューゴーさんが大変なんです、などと切羽詰まった様子の彼のモデルに手を引かれ来てみれば、女性ファンに詰め寄られていたところだったというわけで。  グローリアに交代したことで最初は不満を露わにしていた彼女たちも、歯車の意匠をふんだんにあしらった衣装に身を通せば途端、上機嫌で撮影に臨み始めた。 「嬉しいな、やっぱり。ひとりで黙々と作っているだけでは得られなかった感動だよ」  命と心を吹きこんだアートを純粋に堪能してくれている、それこそがアーティストにとって無上の喜びだ。顔を綻ばせる彼につられ、グローリアも頬がゆるむ。 「だれかに着てもらってこそ完成する作品だものね」 (彼もわたくしも骨の髄まで、)  2020.4.5
15.  見覚えのある蝶飾りが揺れていた。  カルロッタがウォーターフロントパークにいるのも珍しい。噴水を利用したショーがあっただろうかと頭の中でスケジュールを繰りつつ声をかけてみるも、応答はなかった。ひょいと覗きこんだ表情は存外あどけない寝顔。次いで聞こえた寝息に、グローリアはひそやかに笑みを洩らした。  隣に腰を下ろし、慎重に頭を引き寄せる。素直に肩へと導かれてくれたカルロッタはいまだ起きる気配がない。よほど疲れが溜まっているのだろう。彼女の部屋の明かりが連日遅くまで煌々と照っていることをグローリアは知っていた。  遠く火山の方角に陽が沈みゆく。日照時間が伸びたとはいえまだ春は始まったばかり、すぐにでも夜が落ちてくるだろう。冷えこむ前に起こさなければとは思うものの、もう少し肩のぬくもりを感じていたいと頭を寄せてしまう。  家路につく人々の喧騒が遠い。ハーバーショーももう終了したころだろう。久方ぶりに感じる穏やかな時間に、グローリアもついまどろみを覚える。  ぐるにゃ、と。意識を委ねかけた瞬間、割りこんできた鳴き声。まぶたを開ける前に叩かれた膝に視線を落とせば、木洩れ日色の彼が後ろ足で立ち上がったところだった。普通の猫とは違う挙動にもう疑問は抱かない。  もうひと鳴きしようと口を開いた彼に向かって、自身のくちびるに人差し指を立てるグローリア。もう少し寝かせてあげて。小声を理解したのかしていないのか、ベンチによじ登った彼はそうして当然のようにグローリアの膝を陣取った。  風になびく木洩れ日色の毛並みをゆるりと撫でる。こっちがいい、と催促されるままあごを掻けば、耳がぴん、と後ろを向いた。気持ちよさそうに閉じられるまぶた。見ているこちらまで眠気を誘われ、グローリアのまぶたが再び重くなり、 「ん、…んぅ、」 「あら。ごめんなさい、起こしちゃったかしら」  肩の上の頭が身じろいだ。身体を預けたまま緩慢に覗いた宵色の眸が、グローリアの視線を受け止めぱちりとまたたく。その仕草があんまり幼く映ったものでつい微笑みがのぼった。 「枕が欲しいなら呼んでくれればよかったのに」  先ほどから風に弄ばれている前髪を整えようと手を伸ばし──けれど額に指先はふれなかった。  ようやく目覚めたカルロッタが慌てたふうにベンチの端に寄る。唐突に開いた空間で、行き場を失くした指先が所在無く揺れた。  カルロッタの視線が持ち上がる。ぶつかった宵色が一瞬、強張ったように見えた。 「あ、…と、ごめんなさい、すこし、うたた寝してたみたいね」  重なっていたのは数秒。ふい、と逸らされた視線が、地面に伸びた影に落ちる。 「カルロッタ、」 「肩。ありがとう。あなたも風邪ひかないうちに帰りなさい」  理由を尋ねる暇さえ与えてもらえなかった。逃げるように立ち上がったカルロッタはそのまま踵を返し、足早に去っていく。ぬくもりを失った肩が冷たい。  その背が角に消えたところで、膝で丸まり寝息さえ立てようとしていたはずの木洩れ日色が、んな、と。まるで心配するようにひと声。 「─…ねえ、ジェラトーニ。わたくしもうわからないわ」  ぽたり、あごを伝った雫が木洩れ日色を濡らす。声が震える。ああここにこの子しかいなくてよかったと、顔を覆うことさえできないグローリアはただ表情を歪める。 「あのひとがなにを考えているのか、なにを隠しているのか、どうしてふれさせてくれないのか、…なんにも」  とめどなくあふれる雫を、やわらかな肉球が拾い集めていく。ひとりといっぴきの影が地面にとける。それでも涙は止まらなかった。 (肩を抱いてもぬくもりは戻らなくて)  2020.4.6
 だって私は、お姉様みたいに綺麗ではないから。  ほっそりと伸びる指はない。艶やかに音を紡ぐくちびるも、扇情的に鳴る喉も、しなやかな腕も、まろい曲線も、きゅうと絞られた腰も、ほどよく引き締まった脚も。すべてを持たない私はなにもかもが姉とは違う。 「あなたそれ、本気で言ってるの」  つ、と伸びてきた指が脇腹を上へたどる。生肌を容赦なく這う冷ややかな体温に私ばかり熱を帯びる。じくり、声が、視線が、指先が、私を蝕んでいく。試すようにすがめられた深海色の眸が、予感に震える女を閉じこめる。 「もっと自信を持ちなさいな」  ついに顎に行き着いた爪の先でくいと上向かされたその先の、姉の微笑は背筋が凍るほど美しくて。 「──私の妹なんだから、ね」 (血脈に乞う、)  2020.4.7
16.  肩に乗るそれと目が合った気がした。 「んー、今日もみんな楽しそうだったね、グローリア」  大きく伸びをしたオーシャンが満足そうに眸を細める。  今日はオーシャンとグローリア合同での水上ショーだった。青空を切るカイトの下、華やかな曲線をえがいたアールヌーヴォーと、はじける泡をとかしこんだアクアポップが舞台を彩る。波飛沫が春の陽気を浴びてきらめき、風がボンネットを優美に揺らし、観客は音楽に合わせ大いに手を打ち鳴らしていた。  本日のショーも大成功。桟橋に行き着いてもまだ余韻は醒めず、彼の新作に散りばめられたパッチワークについて尋ねようと振り向き。  そうして、冒頭のそれと視線が重なった。  目も口も丸めたまま固まっているグローリアにまるで気付く様子のないオーシャンは、そうだ忘れてた、と自らの衣装飾り──貝を、ヒトデを、タコを、特に気遣うでもなく取り外し、そのまま海へと放ってしまった。  慌てて海を覗きこんだグローリアの視線の先で、オーシャンの手で作り出されたはずのそれらが水中を泳ぐ、まるで生きているみたいに。 「彼らは海でも自由だよ、羨ましいことにね」 (夕陽の色はさみしく笑う)  2020.4.7
17.  およそ人の背にあってはならないものだった。 「おお、グローリア。すまないがもう少し待っていてくれ」  最終打ち合わせを提案したのはグローリアだ。  明日の天気は雨。突然へそを曲げた予報に、屋外でのショーの最後をどう飾ろうかと夕刻からふたりで案を詰めていた。傘を持たせればいいんだわ。そう思い付いたのは、大枠が固まり自室に戻ったあとのこと。梅雨に差しかかったタイミングで発表しようと製作していた傘ならば、まとわりつく湿気も晴らせるはず。モデルの人数分くらいなら、今から取りかかれば仕上がるだろう。  電話をかけるのもまどろっこしく、ふたつ隣のヒューゴーの部屋へ駆け戻る。 「明日は雨だからな、いつもより入念に手を入れてやらなくちゃならないんだ」  先ほどの打ち合わせに参加していたヒューゴーの片腕である彼がベッドにうつ伏せになったその上で、またがったヒューゴーが熱心に回しているそれは。  きり、きりり、空気を裂く音が妙に耳に残る。恐らく明らかに遭遇してはいけない場面であるはずなのに、彼らに焦りは見られない。それとも動揺している自分こそおかしいのだろうか。答えが出ないまま立ち尽くしながら、そういえば二ヶ月半前にはこんなこと起きなかったとふと思い至ったのだった。 (違和を巻く)  2020.4.8