恐らくこの人選は大きな間違い。
「あっ、違うんだ、その、そう、あれだ、新しいデザインの参考にな、参考程度だ!」
しどろもどろに視線を彷徨わせるその挙動がもう怪しさ満点だというのに、まるで取り繕う余裕のないヒューゴーは困ったように上目遣いで見つめてくる。
あんまりかわいそうだからもう、答えをあげてしまいましょう。
「わたくしがいまいちばん欲しいものはね、」
(ひとりめはうそのへたなひと)
2020.4.9
「意外に器用だなとか思ったでしょ」
「思ってないふぁよ、ん、意外においしいわねこれ」
「失礼なひとにはあげないよ」
本気で取り上げられそうになったマフィンを慌てて頬張る。褒めてるんだから素直に受け取りなさいよ。
「まあ美味しそうに食べてくれるから許すけどさ。
今度はケーキに挑戦するから、よかったらたべてよ、なに味がすきだっけ」
(ふたりめはそつのないひと)
2020.4.9
てっきりなにかしら聞き出されるのだと思った。好みだとか、欲しいものだとか、そう、あのふたりみたいに。
じっと見つめながら考えている間に針を見失ってしまった。
ついさっきまでつまんでいたはずなのにと見渡すわたくしに探しものを差し出したそのひとはおかしそうに笑う。
「わかりやすいわよ、あなた」
ああそう、聞くまでもないってことね。
(さんにんめはなにもかもみすかすひと)
2020.4.9
みっつ分の破裂音が耳を打つ。
「もー、やっぱりヒューゴーがへたな芝居したせいでばれちゃってたんじゃん」
「お、俺のせいか? 俺のせいなのか?」
反応の薄いわたくしを前に、オーシャンとヒューゴーが揃って肩を落とす。もちろん今日なにかあるだろうことは予想していたけど、咄嗟に声を上げられなかったのはなにも心構えていたからではなくて。
呼び出された部屋を埋め尽くすとりどりの花。わたくしのすきな春に咲くものばかり。それに中心に据えられた三段ケーキには、真っ赤ないちごがふんだんに散りばめられている。水色のスポンジはきっとオーシャンのこだわりだろう。それにしたって素人とは思えない出来に、感想さえ言葉にできず入口で立ち止まってしまう。
やいのやいのと言い合っている彼らの間を抜け、すぐ目の前で足を止めたカルロッタが微笑む。ああきっと、彼女にはすべてお見通し。
彼女が大切そうに差し出したそれに、視界がぽろぽろにじんでいく。すかさず近付いてきたオーシャンがにやりと笑い、ヒューゴーまで感極まったように目頭を押さえ、
『おめでとう、グローリア』
(きっとよにんでいられることこそが、)
2020.4.9
18.
彼女の部屋の扉は、不気味なほど静かにグローリアを受け入れた。
カーテンが隙間なく閉められているのだろう、月明かりをも遮断した室内は足下さえ覚束ないほどの闇に支配されている。
「カルロッタ、いるの」
上げた語尾がかすかに震える、それさえも暗闇に呑まれていく。グローリアの部屋と同じ構造であるはずのそこを一歩一歩確かめながら進んでいけば、果たして彼女を呼び出したそのひとはベッドでうつ伏せていた。近付いてもぴくりとも動かない。この距離で呼吸音ひとつ届かないことにじわり、焦りが忍び寄る。
「おねがい、を、きいて」
不安に駆られ伸ばした指は、けれどか細い声に押し留められた。絶えていたわけではないことにとりあえず安堵の息をつくも、背中で震えるまっさらなそれに目を奪われる。
「すこし、体調がよく、なくて。ただそばにいてくれるだけでいい、から」
暗にふれてくれるなと乞うそれに、おねがい、とカルロッタが念を押す。グローリアの指がひそやかにシーツを掻く。問い詰めたかった、なにが正解でなにが間違いなのか、みな当然のように受け入れている違和の正体を。それらすべてを呑みこみただ、苦しげに息を吐くカルロッタを見下ろすことしかできなかった。
(まるで羽化するそれのように、)
2020.4.9
19.
はらり、真っ赤な花弁が視界に舞いこむ。
「ああ、これは失礼致しました」
後方に付き従っていたグローリアの秘書である彼が、地面に落ちる間際の花弁を拾い上げた。恐らくはいましがた吹き抜けた風に遊ばれたのだろう。背広の内側へと慎重に仕舞いこむ彼の仕草を見るとはなしに見つめ、けれど衣装に生花など用いていないことにふと思い至る。
「申し訳ありませんが、お嬢」
控えめに割りこんできた声に視線を上げる。モノクルの奥の、年齢を刻んだ眸が細められる。幼い頃より見つめてきた顔。記憶にある頃から紳士然としていたお目付け役。
「私はもしかすると、祝祭の最後までお供することが出来ないやもしれません」
「…どういう、こと」
「若い者には負けないつもりでしたが、さすがにもう歳のようで、」
見上げた表情に悲哀は一切含まれていなかった。あるのはただ、主への謝罪の念と、それでもどこか誇らしくゆるんだ口角と。
「どうやら保つにももう限界がきているようです、─…どうかお許しを、お嬢」
声を失ったグローリアの傍らをまたひとつ、鮮やかな花弁が通り過ぎていった。
(春色の花弁はまるで彼のようで、)
2020.4.10
20.
今日も頭痛が目覚まし代わりだった。
重い頭をなんとか持ち上げる。平穏無事に、気楽に楽しんでいたあの春が返ってくるようにと願いながら眠りに落ちるのもこれで何度目だろう。違和を抱えた世界が変わることはなく、今日も今日とて朝は来る。
のろのろ起き上がったグローリアは、化粧台に映りこむ女をじっと見つめ返す。
自分自身は特段変わったところはない、少なくとも彼女に見える限りでは。それでも周囲は否応なく変化を──グローリアにとっては異様にも映る面を、隠すでもなく覗かせてくる。不安を、恐れを感じる自分こそ間違っているのか、それさえも判別つかないまま無情にも日は積み上がっていく。答えが与えられることはない。
とんとん、と。静寂を破った軽いノックに意識を引き戻された。こんな朝早く来客だなんてと扉を開けてみても人影はなく。視線を落としてようやく、裾を引く小さな彼女を見つけた。衣装そのままの赤いリボンが、顔を覗きこむ仕草に合わせ揺れている。
少しばかり申し訳なさそうに、けれど興奮のままに話す彼女曰く、踊り子である彼女から教わった新しいステップをグローリアに早く見せたかったのだと。丸い耳をぴょこぴょこ動かす彼女に自然、笑みを返す。この子はわたくしのよく知る子のままだわ。
「それじゃあわたくしにも教えてもらえるかしら」
(変わらないものは一体いくつ)
2020.4.11
21.
とてとて、と珍しく四本足で駆けてきた木洩れ日色の毛並みが、勢いを殺すことなくグローリアの胸に飛びこんだ。
「っと、どうしたのジェラトーニ、そんなに急いで」
特に息を切らした様子もなく、無邪気に顔をすり寄せてきた彼は、けれど思い出したように咥えたそれを差し出した。便箋だろうか、一度くしゃりと丸められたような跡が見える紙には、何事か書きつけられている。飛びこんだ宛名は、彼女自身の名前。
「もうっ、この、悪戯っ子は、」
遅れて廊下の角から現れたカルロッタが、肩で息をしながらようよう追いついた様子で木洩れ日色の毛玉を引っぺがす。首根を掴まれ四本の足をぷらりと垂れ下げた彼が、しかし咥えていたはずの紙切れがないことにカルロッタは目を丸め、次いで移した視線の先、グローリアがつまんでいる目的のものを見とめ、ばつが悪そうに口を結んだ。
「ねえカルロッタ、この手紙にある、話したいこと、って、」
「グローリア」
有無を言わせぬ呼び声に、疑問をのどの奥に押し留める。解放された仔猫が器用にも軟着陸し、ふたりの足元でぐる、と声を上げる。
「─…今夜。時間、もらえるかしら」
(正解を見失ったわたくしをどうか、)
2020.4.12
22.
揺れる赤ワイン越しに、夜のハーバーが波打つ。
「綺麗ね」
カルロッタの囁きが、ピアノの音色にとけていく。
ふたりが通されたのはハーバー全体を見渡せる席だった。ラウンジが冠した名に恥じないその景色はたしかに見惚れこそすれ、けれどグローリアの焦りと不安と憤りを払拭してくれはしなかった。
てっきり打ち明けてくれるのだと思っていた。書きかけのままくしゃくしゃに丸めた手紙の続きを話してくれるのだとばかりに。料理に舌鼓を打ち、舌の上でアルコールを転がし、止まないピアノに身を委ね、客がまばらになり、ラストオーダーが終わってもなおカルロッタは、今夜グローリアを誘った理由を口にしようとはしなかった。
グラスを呷ったのどが鳴る。口を塞ぐアルコールはもうない。
街灯に彩られた海を見つめる横顔がふと、苦しそうに歪む。噛んだ下唇が痛々しく白に染まる。やめてちょうだい、と。伸ばした手はまたもやかいくぐられた。
グローリア、と。わずかに紅の剥がれたくちびるがようやく彼女の名を紡ぐ。
「──お別れをしなくちゃいけないの、あなたと」
ゆらぐ宵色の眸に、凪いだ海が映っていた。
(きっとこの瞬間を恐れていた、)
2020.4.13
23.
お別れをしなくちゃいけないの。
カルロッタがようやっと口にした言葉はたったそれだけ。反応を待っているのだろうかとも考えたものの、当のグローリアはなにを返せるでもなくただ座しているしか術がなかった。お別れをしなくちゃいけないの。カルロッタの言葉が、声が、頭をめぐる。お別れ。つまりふたりの関係に終止符を打ちたいということだろうか。
カルロッタとグローリアがはじめてくちびるを重ねたのは、一年目の祝祭が開催された年の秋だった。木々が枯れ葉を落としはじめた頃、ふらりと現れたカルロッタがはじめて泊まった夜のこと。告白を交わしたわけではない。ただ予感はあった。意見が食い違うことがあろうと、都合のつかない日が重なっても、恋人とも好敵手とも呼べる関係が続いていくのだろうと。やわらかなくちびるを受け止めながら、ぼんやりと、けれどひそかな確信を持っていた、そのはずだったのに。
席を訪れたウェイターの声で我に返る。支払いを済ませたのか、カルロッタはもう腰を上げていた。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
慌てたグローリアの制止も聞かず、さっさと歩き去ろうとする。もう話は終わったのだと、物言わずとも背中がそう告げていた。
「待ちなさい、よっ、わたくしは、まだ、なにも聞いていないわ!」
ようやく追いついたのはエレベーター前。息せき切って掴んだ手首が、しかし震えていることに気付いたときには振り払われていた。玻璃のような眸が揺れている。それはまるであの日──グローリアの目の前で風にさらわれる刹那に見せた表情そのもので、思わず言葉を失った。
「私は、…だって私は、耐えられないの、あなたがいなくなるなんて、とても」
「なに、を、なんの話よ、わたくしはどこへも行きはしないわ」
「やさしさは傷を深くするばかりよ、グローリア」
どこかへ行こうとしてるのはあなたじゃないの。そんな返事を遮るようにカルロッタは笑う、なにかを諦めた笑み、なにかを受け入れた嘲笑。背筋を滑り落ちていくそれは一体なにを予感しているのか、グローリアには理解できない。
「あなただって、──私と同じくせに」
くちびるを噛んだ彼女はただ苦々しくそれだけを呟き、エレベーターへと逃げた。
閉まりゆく扉を見つめることしかできない。カルロッタは振り向かない。扉の向こうへと消えた紫紺がまぶたの裏から離れない。私と同じくせに。声がめぐる。頼りなげなその背に一瞬見えた蝶を思わせるそれに、グローリアはただ、その場に立ち尽くした。
(ぬくもりを追う、)
2020.4.14