お姉さま。  末の子の声が意識を引き上げる。もう朝がきたのね。朝食をつくらなくちゃ。ああでも、宵っ張りな末妹が起こしに来るのも珍しい。いつもなら夜明けとともに目覚めるか、寝坊したとしてもすぐ下の妹が毛布を剥ぎに来るのに。  妙に重いまぶたをこじ開ける。差した陽がまぶしくてすぐ視界をゼロにして。けれど先ほど一瞬だけ端に映ったそれに違和感を覚えた。  腕のうちに抱えているそれを確かめるべく指でたどる。針のある肌の感触。なだらかな曲線は明らかに枕ではない。大きすぎるし、第一枕は足に絡んできたりなどしない。 「もう、お姉さまったら朝から大胆ね」  妹の声が耳元で弾む。私の腰に回った腕が腰骨をなぞっていく。くすぶる熱の感覚。おかしい、どうして。疑問が浮かぶ先から妹の指先に翻弄されとけていく。そういえば昨日ボトルを何本も空けた気がする。早々に潰れた次妹を彼女の部屋に放りこみ、陽気な末妹とグラス片手にベッドになだれて──おぼろな記憶をそこまでたどったところで悟る、ああ、私はまたやらかしてしまったのね。  もう幾度目かの失敗を悔やんでも遅い。恐る恐る開いた視界いっぱいに、それはそれは楽しそうに口角を上げた末の妹が映った。 (朝餉にされるのは、)  2020.4.15
24.  ここまでの道程をあまり覚えていない。  結局自室には戻れなかった。ぐしゃぐしゃにひずんだ心を抱えたままベッドに沈む気には到底なれなかったのだ。かといってカルロッタのもとを訪れ言葉の真意を問うこともまたできず、そうしていま、足の向くまま、ハーバーに面した桟橋に座っている。  素足をさらう心地よい海風に目を閉じる。あるいはすべてが夢であるなら。幾度そう願ったか知れない。けれど背けようのない不安が、忍び寄る恐怖が、胸の痛みが、これは間違いなく現実なのだとグローリアに告げている。  私と同じくせに、カルロッタはそう言った。なにが同じだというのか、考えても答えは出ない。彼女のそばを離れるつもりもないというのに一体、なにを恐れているのか。  海は解を与えてはくれずただ、さざ波を返すばかり。 「──あら、」  ふ、と。顔を覗きこむ大きな深海色に思わずのけぞった。夜の海よりもまだ深い色の持ち主は、傾いだグローリアの身体を支え、おかしそうに口角をゆるめる。親しみさえこもっているかのような笑みに、けれどわずかに背筋が震える。 「だれかと思えば、かの有名なグローリア・デ・モード嬢じゃないの」 「どう、して、」 「この春の海において、あなたのことを知らない者の方が愚かよ」 「あなたは、」 「生憎と、あなたほどのひとに名乗る名前を持ち合わせてないの」  なんとか体勢を立て直したグローリアの言葉を、問いになる前に返してくるこの女性はなにものなのか。街灯の届かない桟橋で目を凝らす。漆黒の髪とすらりとした体躯に似合うのは恐らくカルロッタのアートだろう、などと職業柄まず推量してしまう。  夜の帳をまとったかのような彼女は、深海色の眸でじ、とグローリアを見据える。 「春の気配をたどってここまで来たのだけど、──ただの人間みたいね、あなた」  落胆したふうに息をつく彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。春の、気配。 「ねえもしかして、あなたもなにか知っているの」 「なにか、って」 「この春のこと。既視感も、違和感も、なにもかも」  言い募ってしまえば後から後から湧いてくる。ふらりと現れただけの彼女がこちらの事情など知っているほうがおかしいというのに、それでもわずかな希望にさえ縋りつきたかった。  グローリアの勢いに一瞬圧された彼女は、しかし今度はやわく微笑む。 「残念だけど、私はなにも知らないわ。ただ色濃い春に誘われてここに来ただけ」  けれど、と。明らかに肩を落とすグローリアの胸を、ほっそりとした人差し指が突く。顔を上げたグローリアの視線を絡め取る、深海色。 「恐らくだけど。その原因の一端はあなたにもあるようね、グローリア」 「わたくし、に」  原因、とは。同じ春を繰り返していることか、同じようにたどっていたはずがいつの間にか相違が生じていたことか、あるいは。 「いいことを教えてあげる」  歌うような声が鼓膜に入りこんでくる感覚。 「過去は変えられないの。この世界に生きる私たちができることはせいぜい、これからの未来をどう生きるか、どう選択するか、──大切なだれかのために犠牲を払えるか。それだけよ」  またたきをひとつ。深い海を宿した眸に一瞬、グローリアを閉じこめた女性は、話は終わりだとばかり踵を返す。 「早く春を終わらせてちょうだいね。私のかわいい妹が、秋を心待ちにしてるんだから」  まとわりつく声に、ひとかけらの秋の気配が混ざっている気がした。 (深海に乞う、)  2020.4.15
25.  金魚が、泳いでいた。  太陽と見紛うほどの体躯が真っ青な海を踊る。捕まえようと手を伸ばして、けれど指をするりとかいくぐる。  まって。音のない世界で、水泡ばかりがこぼれ出る。  さっきまで抱えていたはずの帽子が、仮面が、どこにも見当たらない。大切なものなのに、彼らの、彼女の、ああ、だれだったかもうわからない。  海がその色を増してゆく。金魚のひれが見えない。声が届く。また、同じ。  きみはなにものなんだい、どうしてここにいるんだい。  聞き覚えのある声がぼわぼわと反響する。どうして。そう問われたって、ここがどこなのかも、どこへ行けばいいのかもまるでわからないのに。  太陽色が一瞬ひらめく、だれかの呼吸みたいに。  あなたはどの道を選択するの、どの未来なら納得するの。  歪んでいく視界のなか、また別の声が問う。どの、だなんて、そんなの、わたくしは。  再び現れたひれが、彼女を心配するように頬を掠めていく。まばゆいそれに思わず手をかざす。この色を、この空気を、彼女はたしかに覚えているはずなのに。  絶える息を呑みこみながら懸命に腕を伸ばす。指はやはりとどかなかった。 (うみいろのゆめ)  2020.4.16
 珍しいこともあるものだ。  朝寝坊ばかりする末妹と、家族にさえ料理している姿を見せない次妹が、キッチンに仲良く並んでいる。  正確にはぜんぜん仲が良さそうには見えないけれど。すぐ下の子は目くじらを立てながらターナーを取り上げようとしているし、末の子は姉の指示も聞かず奪われまいと高く掲げている。本当に料理を作っているのか甚だ疑問なものの、トースターは焼き上がりを告げているし、フライパンからは香ばしいにおいが漂っている。恐らくは朝食を作ってくれているのだろう、たぶん。 「あっ、お姉さま!」  ようやく私の起床に気付いた妹が声を弾ませる。その隙を突いてターナーを掠め取った次妹が、少々ばつが悪そうにおはよう、と挨拶を落とした。 「おはよう。珍しいのね、あんたたちが揃って料理してるなんて」 「ええ、と、そうね、たまにはいいかしらって、」 「今日はうーんと楽しい日にするって姉さんと決めたんだもの!」  言いよどむ妹の言葉を遮り、末の子が笑顔を咲かせる。途端にすぐ下の妹の顔色が変わったから、これはきっと失言。 「ちょっと! まだ秘密だって言ったでしょう!」 「だーってだって、もう見られちゃったんだもの、隠しようがないわ」 「ああもう、朝からうるさいわねえ、一体なんだっていうのよ」  また言い争いを始めそうな雰囲気を頭を抱える。この子たちは昔からそうだ、どうにもそりが合わないようで、なにかあるとすぐ喧嘩腰になってしまう。もっとも語気を荒げるのは次妹ばかりで、末の妹はといえば構ってもらえることに少々ご機嫌になるだけなんだけれど。  そんな妹たちが、言い合いながらとはいえ共同作業していた理由に心当たりがない。  こめかみを押さえる私に、呆れた口調を向けたのは末の子。 「お姉さまったら、自分のことなのに覚えてないなんて」  自分のこと、じぶんのこと。考え込んでいると、苦笑した下の子が助け舟を出した。 「毎年のことでしょう、お姉様。今日は私たちにとっても喜ばしい日なのよ」  頭の中でカレンダーを繰り、ああ、とようやく思い至って頬がゆるむ。今日という日を自分で覚えている必要なんてない、だって、 『お誕生日おめでとう、おねえさま』 (だっていつだってこの子たちが思い出させてくれるから)  2020.4.17
26.  目覚めたのはベッドの上だった。  上体を起こしたグローリアはこめかみを押さえ、昨夜の記憶をたどる。たしか桟橋で海を眺めていたはずだった。凪いだ海にどうしようもない問いを投げて、そうしてだれかと会って、──だれと、会ったのだろう。  海の底のようなひとだった、それは覚えている。けれどどんな人物だったか、どんな顔をしていたのか、まるで思い出せずにいた。鮮明に残っているのは、声。過去は変えられないのだと。グローリアの不安を、葛藤を、すべてを見透かすように断じていた。これからの未来をどう生きるか、どう選択するか、そのための犠牲を払えるかどうか。それはどこか、自身のことも交えているようでもあって。 「─…どう、選択するか」  なぞった言葉が胸にとけていく。  これまでは過去をたどるばかりだった。見様見真似で春を繰り返すしか術がなかった。それでも知っているはずの春は否応なく姿を変えていく。それならば、彼女の選び取るべき未来は。  息を、ひとつ。鏡台に歩み寄り、映りこむ自身に語りかける。笑顔よ、グローリア。頬をぴしゃりと叩いた彼女はそうして、隣人を朝食に誘うべく身支度を整えはじめた。 (願うのは、)  2020.4.17
27.  甲高い悲鳴は控え室から。 「グ、グローリ、ア、これ、どうにかしてよっ」  何事かと駆けこんでみれば、衣装のままソファに倒れたオーシャンと、彼の胸の上でぼんぼんと愉快そうに跳ねている木洩れ日色がいっぴき。てっきり大事件でも起こったのかと息を切らしてやって来たグローリアは、なによ、と胸を撫で下ろした。 「単に遊んでほしいだけじゃないの」 「そうかもだけど、そうなんだけど、僕には一大事なの!」  相も変わらず切羽詰まった声のオーシャンは、じゃれつく猫を引っぺがそうと必死だ。彼も彼でどうしてそう血相を変えているのかと、木洩れ日色の手が伸びる方向へと何気なく視線を向けて、──本来なら足である場所に、太陽のようにまばゆい色の、あれは、ヒレ、だろうか、ばたばたと、まるで猫の手から逃れるようにはためいていて。  思わず息を呑む。けれどまたたきのうちに現れた二本の足がソファを揺らす。  見間違いだろうか、疲労の末の幻覚だろうか。自身の目を疑うものの、先ほどまで足に侵攻しようとしていた彼も、おや、というふうに首を傾げている。  木洩れ日色の尻尾を解放したオーシャンは、命拾いした様子で額の汗を拭う。 「まったく。猫っていきものにはほんと弄ばれてばかりだよ」 (翻弄されたのはだれ、)  2020.4.18
28.  その顔を、眸を、どこかで見た覚えがあった。 「ねえ。ねえってば。どうしちゃったの、おねえさん」 「え、…あ、ごめんなさい。そうだ、あなたに合う衣装だったわね」  おぼろな部分の記憶を取り出そうとしていたグローリアは、少しばかりふくれた様子の声に意識を引き戻される。先ほどグローリアのブースにやって来た女性は、ラックに下がるとりどりの衣装にすぐ機嫌を持ち直した。  だれもかれもの視線を引く美貌の持ち主だった。他の客と同様ふらりと現れた彼女にはどちらかといえばマジックリアリズムをコンセプトとした衣装のほうが似合うのではと一瞬考えたものの、要望を聞いてみれば、女性というより少女に近い感性のようで。  選んだのはコットン生地のティアードスカート。平均身長の女性であれば足首を優に越えるものの、長身の彼女であればミディ丈に収まるだろうと踏んだのだ。  レースをあしらった藤色のブラウスに、まっさらなスカートという組み合わせを眼前に差し出し、どうかしらと問いかけてみれば、彼女は大きな眸を輝かせた。 「いかにも海の末裔って感じの色合いね!」 「うみの、まつえい?」  言っていることの意味は理解できないが、どうやらお気に召したようだ。  服を手渡そうとしたグローリアの手首をなぜだか掴んだ彼女はそのまま、試着室へと手を引き、カーテンを閉める前に自身の服を脱ぎ始めた。 「ちょちょ、ちょっと、待ちなさいよっ」 「あら。こういうところって、着せてくれるものなんじゃないの」  慌ててカーテンを引くグローリアに、きょとんと向けられた眸がまぶしい。もちろん裾直しをしたりはするけれど、それは着用した後の話である。  服を脱ぎ捨て準備万端とばかり向き直った彼女に、息をひとつ、衣装を着せていく。 「あなたの話をね、聞いたのよ、お姉さまから」  ブラウスのボタンを留めるグローリアの頭に、笑みを含んだ声が降ってくる。 「本当はあんまり干渉しちゃいけないって言われてたんだけど、気になっちゃって」  声に、聴き覚えがある。サッシュベルトの紐を絞めながら、いましがた取り出しかけていた記憶をたどる。そうだ、眸の色こそわずかに異なるものの、この顔は、声は、 「聞いてた通りのひとだったわ」  ふ、と耳元に落ちた声に背筋がぞわりと粟立つ。一方着替え終わった彼女はカーテンを開け、試着室を飛び出した。くるり、振り返った動作に合わせスカートが揺れる。 「──まるで春そのものね、あなた」 (浅瀬色に映るのは、)  2020.4.19
29.  はちみつ色の子熊が震えていた。  元来臆病な子ではあるものの、常になく怯えている様子だ。駆け寄ったグローリアに、けれど安堵の表情ひとつ見せない彼は、大切に胸に抱いていたそれを見せる。  悲鳴がのどで潰れた。鉄臭さが鼻をつく。付着したそれがまだ乾き切っていないようで、抱えていた彼の毛並みさえ浅黒く汚れている。変色しているが見覚えのある籠手。こみ上げる吐き気を必死で押し留める。ゆらり、彼の背後に現れたその男の左腕は、 「──ヒュー、っ、は、あ、げほっ、」  目覚めたのが変わらず割り当てられたホテルの一室であることに、グローリアは咳きこみながらもひどく安心した。  生々しい夢を見てしまったのは恐らく、昨日の出来事を引きずっているせいだろう。  ヒューゴーのただならぬ様子に気付いたのはショー後だった。額に掻いた脂汗を拭う余裕もなく左肩を押さえ、壁にもたれていた彼に駆け寄る。大丈夫だと、気丈にも笑う彼の身体から漂う、噎せかえるような鉄のにおい。足を引きずりながら控え室へ向かう彼の立てる軋んだ音が、一日経ったいまも耳にこびりついて離れない。  ただの夢だと頭を振り、水差しで注いだ水を一気に呷る。舌の上に残る血生臭さが、彼女の心に暗雲を落としこんだ。 (彼からは死のにおいがした。)  2020.4.20
30.  カルロッタと毎朝、テーブルを囲むようになって一週間が過ぎた。  最初はラウンジでしか同伴することに是と頷かなかった彼女が、今朝ようやく自室にグローリアを招き入れたのだ。  開け放した窓から陽気な風が舞いこみ、ひとつに結わえただけのカルロッタの髪先をさらっていく。紫紺のひと房が陽にきらめく。風など特に気にしたふうもない彼女は、ブルーベリージャムの乗ったスコーンを口に運んだ。  まだうっすらとしかメイクを施していないというのになぜこうも美が強いのか、そもそもの造形が整っているからだろうか。などと見つめながらグローリアもひと口。 「あら。マーマレードはどこかしら」 「グローリアったら、手元にあるそれはなにかしら」  くすくすと微笑んだカルロッタがジャムの缶に腕を伸ばす、その手首をはしと掴んだ。宵色の眸が驚きに見開く。頑なに接触を拒んできた彼女が今回も逃れようと手を引くが、みすみす手放しはしないと、あからさまに震える腕をたぐり寄せた。 「今日という今日は逃がさないわよ」  引き寄せた勢いのままくちびるを重ねる。随分と久しぶりにふれたカルロッタのくちびるは、ブルーベリーの味がした。 (とうだいもとくらし)  2020.4.21
31. 「んもう! ふたりして遅刻ギリギリだなんて!」 「ごめんなさい、準備に手間取ってしまって」  眉尻を下げ申し訳なく謝罪するカルロッタに、間に合ったからいいけれど、と彼女が嘆息する。うさぎの耳を模した羽飾りが動きに合わせて揺れる。彼女はいつだって準備万端だ。身だしなみはレディのマナーだと常日頃から身なりに気を配っている彼女は、春の祝祭中は殊更気合を入れている。こんな歪な世界でも変わらない彼女の姿にほっと息をつく。じくじくと痛む胸が心なしか癒されたような気がした。  視線の先、カルロッタのまっさらな手首に残る鬱血痕。朝に比べ薄くなったとはいえ、グローリアはすぐにそれとわかった。強く掴みすぎてしまったという後悔は残るものの、グローリア自身も気遣っている余裕はなかったのだ。  朝方、引き剥がすように押された胸元が痛い。涙を流すまいと必死に堪えていた宵色の眸が焼きついて離れない。傷つけたとわかっていて、それでもふれたいと、知りたいと、もう少し、と。願うことは罪なのだろうか。グローリアにはまだわからない。 「なにぼーっとしてるの、グローリア、早く準備しましょう」  また明日ね、と。自室に引き下がる間際、背を向けながらも明日の約束をしてくれたことだけが唯一の救いだった。 (たとえばあなたもそうであるなら、)  2020.4.22