32.  彼女がショー以外のことで話しかけてきたのははじめてだった。 「ねえグローリア、ちょっと時間あるかしら」 「え。ええ、大丈夫よ」  それはこの世界──つまり同じ春を繰り返してから、の話だ。  手近なカフェでドリンクを注文し、対面に腰かけながらグローリアはふと思い至る。思えば自分から意識的に避けていなかっただろうかと。変わらない彼女さえももしかするとどこか歪な部分があるのではと、そんな一面を目の当たりにするのがこわくて。 「お節介だったらごめんなさいね」  心配をとかした声に顔を上げる。なにもかもを見透かす漆黒の眸に映る表情はいまだ不安を灯していた。その心ごと包みこむように彼女は微笑む。孤高の仮面を被った自分を、新しいものに不信を覚える自分を、いつも、いつだって導いてくれたあの笑み。 「もしあなたがなにかに悩んでいるのなら。そのせいで孤独なら。わたしはきっと答えをあげることはできないけど、」  だけどね、と。あたたかな言葉にじわり、ぬくもりが広がっていく。 「あなたがなにを選び取ったとしても、わたしは否定したりしないわ、絶対」  重ねられたまっさらな手に、ぱたりと、どちらのものともつかない涙が落ちた。 (やっぱりあなたはどの世界でも、)  2020.4.23
33. 「グローリア!」  今日はよく呼び止められる日だ。 「ようやくつかまえた、その、君は最近、俺のことを、避けてはいないか」  カフェからの帰路、振り返るよりも早く回りこんできたのはヒューゴーだった。姿を見とめて駆けてきたのだろうか、肩で息をしている彼はその勢いのまま捲し立てるかと思いきや、気まずそうに目を逸らし、ついに語尾は掠れてしまった。  身を屈めたグローリアが、ねずみの色に似た眸を覗きこむ。あなたの腕が千切れる夢が現実になってしまうのがこわくて、などと言えるはずもなく。そんなことないわよ、と。誤魔化す前に力強く両肩を掴んできたそれに思わず身体が震える。震えが伝わってしまったのだろうか、宥めるようにふと、彼が笑んだ。 「君もきっと俺やあのふたりと同じなんだろうが、大丈夫だ、俺たちがいなくなっても、俺たちの心は、」  同じ。いつかの夜、カルロッタも向けた言葉。私と同じくせに、と。彼も恐らく同様の意味合いを含んでいると、直感が告げていた。  籠手を掴み引き寄せる。ねずみ色が怯んだように丸くなる。彼ならきっと逃げない。 「教えて、ヒューゴー。わたくしたちはなにが同じなの」 (わたくしももう逃げてはいられない)  2020.4.24
34.  コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。 「こんな格好でごめんなさいね、シャワーを浴びたばかりなの」  マグカップを差し出しながら謝るカルロッタに首を振る。隣に腰かけた彼女に倣い、湯気の立つそれを両手で包みこんだ。  こうもすんなり部屋に上げてくれるとは思っていなかった。てっきり一度は追い返す素振りを見せるだろうと、そうなれば力づくでも押し入ろうと、緊張した面持ちで扉をノックしたグローリアを、部屋の主はなにを尋ねるでもなく招き入れたのだ。  漆黒の水面が揺れる。肩に乗る重みに首を巡らせれば、器用にも片手でブランケットを掛けてきたカルロッタがわずかに頬をゆるめた。 「今夜は冷えるみたいよ」 「…それならあなたも早く乾かさないと、」 「いいの」  ぽたり、彼女の髪先を幾度もつたう雫。コーヒーの熱が手のひらをじんわり焦がす。言わなければ、訊かなければ。もう目を逸らさないと決めたのだ。  息を、ひとつ。コーヒーの香りと、かすかに混ざるカルロッタのにおい。 「ようやくわかったの、──あなたとわたくし、なにが同じなのか」 (変わらないあなたのにおいにこみ上げる涙はもうない)  2020.4.25
 珍しく丸みを帯びた眸がそりゃあもうかわいかった。 「もっかいしていい?」  あたしの問いにようやく思考が追いついたのか、ぼ、と音を立てて目の前の頬が色を変える。あまり感情を表に出さないこの子にしては稀なこと。いいですよと答えたいのかそれとも異議申し立てをしたいのか─恐らくもなにも絶対に後者だろうけど─言葉も紡げず開いたり閉じたりを繰り返してるくちびるに移った、あたしの紅。この子のものより深い色は、だけど意外と似合っていた。  返答できずにいる状態を都合よく是と受け取り顔を近付ける。だけど鼻先がまた触れ合ったところで勢いよく肩を押された。 「できないんだけど」 「しなくて、いいんです…っ」  突っ張った腕がぷるぷる震えてる。力で勝てないってわかってるくせについ抵抗してくるところがかわいいなんて素直に伝えたら怒るだろうか、きっと怒るんだろうな。  最初からくちびるを狙ってたわけじゃない。頬だけのつもりだった、本当に。  慣れない撚糸に精を出すあたしに、熱中するのもいいですけどなにかお腹に入れないと身体に悪いですよとかなんとかお説教しながらも採ったばかりのいちごを食べさせてくれて。ありがとうの意味をこめてくちびるを向けた先にあったのが頬ではなくあたしと同じそれだったってだけで。  くちびるにはまだ、もらったばかりのいちごの味と、見た目通りやわらかなこの子の感触が残っている。あたしのなかのなにかが、もっと、と求めていた。もっとあじわいたいの、もっとちょうだいよ。 「ね、もっかいだけ」 「なん、で、あなたはそう、簡単に…」  肩を握る両指を絡め取り、胸の前でひとまとめ、空いた片手であごをすくい上げれば、ようやく対面した夕やけ色の眸に雫がにじんでいた。  ぐ、と息が詰まる。まさか、そこまで本気で嫌だったなんて。慌てて手を解放する。指を自身の口元に運んだその子は、ぷい、と視線を逸らした。向けられた背中がいつもより強い拒絶を表している気がする。完全にやらかしちゃったのか、あたしは。 「ええ、と、さ、…ごめん、嫌な思いさせたかったわけじゃなくて、」 「─…はじめてだった、のに、私」  ぽつりと落ちた声には予想してたような嫌悪の色や悲しみは窺えなくて、どこかふてくされてるような、拗ねてるような、そんな調子。  はじめて、なんて。彼女の言葉に真っ先に浮かんだのは疑問符。恥じらうそのひとの実の姉にあたしは散々、くちづけをもらっていたのに。頬に、額に、甲に、くちびるに。かわいい子にはだれだってこうするでしょう、と。それこそ小さなころから身体の至るところにくちづけが降ってきていた。くすぐったくも親愛がこもったそれに、あたしも応戦するように返していて。  この子だってきっとそれを目にしていて、あのひとも、妹であるこの子に当たり前のように同じものを向けてたのだと、受け取ってたのだと、そう思ってたのに。  あのひとの顔がぼんやりと浮かぶ。あたしに向ける表情はいつも穏やかで、やわらかくて、慈しみに満ちていて、あの子にはないしょね、と、  ──ああそうか、あれはきっと、 「…、あの。どうかされたのですか」  突然押し黙ったことを訝しんだのか、ちらと見上げてきたその頭を撫でる。くしゃりといつもみたいに髪を乱すあたしに、どうしてだかいまは抵抗することなく眸を向ける。 「ん、ごめんね」  夕やけ色が少しだけさみしそうににじんだのは果たして気のせいだろうか。 (その謝罪が一体なにに対してなのか自分でもわからないけど、)  2020.4.25
「そもそも無茶な依頼だったのよ」  紅茶のおかわりを求めるということは、どうやらお口に合ったようだ。わざわざ都会から調達してよかった。 「あの数で納期まで一ヶ月って本当、甘く見過ぎだわ。わたくしでなければまず不可能よ」  喋りながらも菓子をつまむ手が止まらない。何度も試行錯誤して作った甲斐があったわね。 「だから今日は、ものすごく頑張ったわたくしにご褒美をちょうだい」  膝の上に陣取ったまますり寄る彼女に苦笑をひとつ。これでもまだ足りないっていうのね。欲張りだこと。 (仰せのままに、お姫様)  2020.4.26
 今日も傘が差しこまれる。 「こんなに濡れて。看病なんてしてあげないわよ」  生まれてこのかた風邪なんて引いたことないわよと反論してみたって、どうにも私の心配をしたがる彼女は自分の半身を犠牲に私を雨から守るのだ。  そんなこと言って、いつも熱に浮かされ看護されてるのはどっちかしら。 (すきなてんき)  2020.4.26
 口元に運ばれたスプーンを大人しく含む。薬の苦味は、はちみつに上手く隠されていた。 「…飲めないほど子供じゃないわよ」 「さっきまであんなに嫌がってたひとがよく言えたものね。ほら、もうひと口」  もう一度差し出されたそれに不満を表しながらも嚥下する。あまい。 「いいこね」  わたくしをいくつだと思っているのかしら、まったく。 (風邪ひいたときは覚えてらっしゃい) (だからひかないって言ってるのに)  2020.4.26
 響きがすき。 「グローリア」  くるり、視線を向けてきた名前の主は、なあにとでも問うように首を傾げる。  なんでもないわと笑う。 「グローリア」  向き直り眉を寄せる彼女にまた同じ返答。 「グローリア」 「もう。なんなのよ」  呆れながらも振り返ってくれる彼女に、かわいい、だなんて。抱いたのも同じ感想。 (なにもかもいとおしいの)  2020.4.26
 はじめて見上げた視界に映る、得意気に弧をえがいた彼女のあかいあかいくちびる。  優位に立ったからってそんなに喜ぶだなんてかわいすぎよあなた、などと口にすればきっと、シーツに沈められたまま帰してもらえなくなりそうだから、代わりに淡く染まる頬を撫で、 「その余裕、なくしてあげる」  あら、逆撫でしたみたい。 (さて、いつ下剋上しようかしら)  2020.4.26
 空から春が降ってきた。 「あらカルロッタ、ちょうどいいところに!」  春色をまとったグローリアが、なぜだかロフトから、文字通り降ってきたのだ。  自身の状況もなんのその、笑いながら落ちてくる彼女をすんでのところでキャッチ。 「あなたなら受け止めてくれると思ってたわ」  その自信はどこからくるのよ。 (落とすはずもないけれど)  2020.4.26