暇を見つけてはいつもふらりと現れる彼女が、けれど絶対に姿を見せない期間がある。
「ああカルロッタ様、ようこそ。お嬢でしたら今、─…ええ、お手洗いに」
予想通りの返答に覚えた頭痛を堪え、示された場所へと急ぎ足に進む。
果たして見えた背中は酷く痛ましかった。丸めた背中を震わせ、便器に縋りつくように屈んでいる様は見るに堪えない。辛いのは彼女自身だと、痛む胸をこらえてその背にふれれば、乱れた髪の隙間から覗いた眸が驚きに染まった。
「や、だ、どうして、」
「そろそろだと思って。苦しいなら頼りなさいっていつも言ってるのに」
「だっ、て、こんな姿、」
言葉が最後まで紡がれることはなく、再び正面を向いたグローリアが咳きこむように吐き出した。胃の中はとうに空のようで、固形物はなにも出てきていない。月のものがひとより遥かに重い彼女を、せめて精神的にでも支えたいのに、臆病で強情張りなこの子は頑なに弱音を吐こうとはしない。だから私は無理にでも寄り添うだけ。なにもかもひとりで耐え忍ぼうとするそのひとが唯一弱く在れる場所であるために。
「ごめんな、さい、カルロッタ、ごめんなさい」
(その懺悔もいつか消えますようにと)
2020.4.26
35.
そのときのヒューゴーはひどく狼狽えているように見えた。
「お、教えてと言われてもなあ」
口を滑らせてしまったと、言外にそうほのめかしている。恐らくはグローリアの反応を前に、彼が言うところの『同じ』ではないと悟ったのだろう。彷徨う視線を、しかし逃すはずはなかった。見つめるグローリアの眸ににじむ覚悟を汲み取ったヒューゴーがぐと言葉を呑み、息をひとつ、誘いこんだのはホテル横の人気のない路地。
「いいか、どうか声を上げないでくれよ」
しつこいほどに念を押した彼は、頷くグローリアを確認すると自身の左の手首を掴み、おもむろに籠手を取り外した。ひ、と。喉元まで浮かんだ悲鳴をすんでのところで押し留める。外した先にあるはずの手、が、なかったのだ。虚空を見つめる彼女の目の前に、内に向いた籠手が差し出される。恐る恐る覗いた中身に、けれど予想したような断面は窺えず、代わりに不規則な凹凸が見て取れた。彼の腕側の、手首があるべき場所にも、籠手側と合致するようなそれがある。嵌め込み式だと一目でわかる。まるでひとの手によって作られた人形のように。
振り仰いだ彼がやさしく笑んでいる、悲しそうに、けれどなにもかも受け入れて。
「俺は、俺たちは、この春から先を生きられないんだよ、グローリア」
(この期に及んでわたくしはまだ希望に縋っていた)
2020.4.26
36.
あれはまだ指先がかじかむ季節だった。
「お城?」
「ええ。しかもふたつ。まるで夢みたいな国だって、顧客から聞いたのよ」
ココアの満ちたマグカップで暖を取るカルロッタに、つい昨日聞きかじったばかりの情報を矢継ぎ早に伝える。外は雪。天候が悪いからと出港を渋る船長を、せっかく工面した休日だからと説き伏せなんとか船を出させた。ようようたどり着いたグローリアを、あたたかな部屋と飲み物が迎え入れてくれた。
近況報告の間に窓の外が煙っていく。今晩こそ船は出ないだろう。二日留守にする旨を書き置きしておいてよかったと、内心息をつく。
「だけど遠いんでしょ、そこ。とてもじゃないけどいまは無理だわ」
「わかってるわよ。だから夏になったら。そうすれば長期休暇も取れるでしょ」
グローリアもカルロッタも、いまは間近に迫った祭典の準備で手紙もろくに交わせていない状況だ。だから夏にと、グローリアは期待に胸をふくらませる。三年続いた春の祭典も今年でフィナーレを迎えるのだ、少しは自由が利くはずだと、そう算段をつけて。
けれどカルロッタの表情は──いま思えば、ひどくさみしそうだった。
「そうね、─…夏、いきたいわね、グローリア」
(ああ、なんて愚かだったの)
2020.4.27
夢よ。これは、ゆめなの。
「………っ、は、ぁ、」
耳をつんざく悲鳴で目を覚ました。
うまく酸素をつかめない。胸を押さえて呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。引き攣ったのどを自覚してようやく、叫んだのは自分だと気付く。
乗り越えたと思っていた、過去のことだととうに記憶の片隅に追いやっていた、それなのにあの日の出来事がいまも私を苛む。一体いつまで憑かれたままなのだろう、もしかしてずっとこのまま──この夢に、記憶に、対面するたび襲い来る予感に背筋が凍る。恐怖に呑みこまれたくなくて、寝台から無理に抜け出した。
外に出た途端、ひんやりとした空気に肩が震える。ついこの間、秋になったばかりだと思っていたのに、どうやら冬の気配はすぐそこにまで迫ってきているようだ。こんなことならなにか一枚羽織ってくればよかった。わずかに後悔しながら、けれどまだ戻りたくはなくてそのまま小走りに進む。
月明かりの無い晩。虫の声さえ遠い。あの夜もこんな風に恐ろしいほど静まり返っていた。胸の奥がざわつく。のどが渇いて仕方ない。足が逸る。小道から抜け出せない。ああこんなところ来なければよかった、あんな夢みなければよかった、姉じゃなければよかった、そうだ、私であれば、
「あっ、」
声、に、思考が引き戻される。
いつの間に森を抜けていたのだろうか、穏やかな水のさやめきが満ちる川辺で、声の持ち主は目を丸めているようだった。
「…なん、で、」
「なんでって、それはあたしのセリフ。どしたの、こんな真夜中に」
裸の足を水に浸していたらしいそのひとは腰を上げると、固まったまま動けずにいる私に近付いてくる。覗きこんだのは夜明けに似た色。星明かりさえ透かすそれが、またたきの間に心配の色を宿した。額に伸びてくる手。ひんやりとした指先がふれて思わずまぶたをぎゅうと閉じる。
「すごい汗」
細い指が汗をぬぐうように右から左へ。乱れた前髪を整え、輪郭をなぞって、ぺたりと頬を包みこむ。
「どうしたの、こわい夢でもみた?」
「そんなこと、」
「なんで今更あたしにうそが通じると思ってんの」
もう片方の指が閉ざしたままのまぶたをなぞる。やわらかく降り積もる声に返すこともできない私はただ、まぶたの隙間からあふれ出そうになる涙を堪えるのに必死だった。
ああどうして、どうしてこのひとはわかってしまうんだろう。あの日も──夢に繰り返し現れるあのときだって、忽然と姿を消した姉よりもなによりも私を案じてくれた。心から慕っていた先輩よりも、その妹である未熟な私をすくい上げてくれた。
なんで。どうして。いまと同じようにこみ上げるそれを呑みこみ疑問をぶつける私に、背中を撫でながら微笑んだそのひとの言葉がいまも焼きついている。だってあんたは、
「大事な後輩のことくらいお見通しよ」
きっとやわらかに口角を上げているであろう自称先輩の表情を、けれどいまもまともに見られず俯く。くしゃりと髪を梳く指先がやさしくて縋りつきそうになる。あのときからずっと抱えている罪を告白してしまいそうになる。けれど、だれよりもこのひとにだけは、打ち明けるわけにはいかなかった。
押し黙る私を責めるでも理由を問いただすでもなくただゆるり、頬を撫で続ける指には、私の体温が移っていた。
(私にはそんなやさしさをもらう資格なんて、)
2020.4.27
37.
「─…そう、ヒューゴーから」
口を差し挟むことなくじっと耳を傾けていたカルロッタは、グローリアが押し黙ったところでため息とともにそうこぼした。
「その口振りだとあなたは違うみたいね」
カルロッタの声に混ざる安堵。あなただけは違ってよかったと、暗にそう言っていた。ともすれば微笑みさえ覗かせる彼女にじくりと胸が滲む。同じ葛藤を共有できないことが、理解できないことがこんなにも歯痒いというのに、彼女はいつだってグローリアを安全圏に追いやる。春風とともに消えたあの瞬間だって、彼女は最後までグローリアを案じていた。
ふ、とカルロッタが立ち上がる。床に落とされたバスローブ。まだ湿り気を帯びた髪を前に流した彼女は、みて、と。促されるままに向けた視線の先、肩甲骨付近がゆらり、ゆらめく。ひゅる、と、なぜか風が吹いた気がして一瞬、眸を閉ざす。
そうして視界を開いた次の瞬間目に飛びこんだ鮮やかな紫紺に、息を呑んだ。
「ねえ、グローリア」
こぼれた声はどこまでもやさしく、どこまでも悲しく。
「たったひとりに焦がれた哀れな蝶のはなしを知ってるかしら」
(どうしてみんな受け入れてしまうの、)
2020.4.28
38.
はじまりは目にまぶしい色彩。
紫紺の翅をまとい、蜜から蜜へ、匂いに誘われるまま宙を舞っていた彼女がはじめて心惹かれたものがファッションだった。
自在にひらめく翅を、彼女はもちろん誇りに思っていた。けれど持って生まれたものではなく、自身の創造した色を、かたちを、だれかが纏ってくれたらどんなにか素晴らしいだろうかと。いつしか彼女は夢見るようになっていた、まるで人間のように。
きみのその想像力が必要なんだ。春の気配が色濃くなってきたある日、唐突に現れた彼は彼女に手を差し伸ばした。きみのその願いのつよさを借りたいんだ。
惑いはなかった。気付けば彼の手を取る腕がそこにあった。イメージを自在にかたちにできる、自身のアートでひとに笑顔が咲く、知り得なかった感情が湧いてくる、これが喜び、これが慈しみ、ああこれが生きるということかと全身で実感する、
花の香を纏ったひとに出逢ったのも、そんな春の日だった。
陽の光のようにまばゆくて、花が咲くように綻んで、翅もないのに自由に躍る。そのひとはまさに春そのもののようで。
「自由な蝶、ね。素敵な名前だわ、カルロッタ」
春を体現するグローリアを前に、彼女ははじめて、恋を知った。
(あなたは私の春だった)
2020.4.29
39.
光さえ放っているように見えた翅が、現れたときと同様またたきの間に姿を隠した。重苦しい静寂に息を殺していたグローリアは、そこでようやく深く息を吐く。
「私はね、こわかったのよ、グローリア」
床に落としていたバスローブを拾い上げたカルロッタがぽつりとこぼす。
「あなたも私と同じだと──私と同じように、ひとではないなにかだと思っていたから。そんな気配がしてたから。だからあなたも、春の終わりと同時にいなくなってしまうんじゃないかって。春のその先を見られないんじゃないかって、夜も眠れなかったわ」
いやに饒舌なのは、彼女の言うところの恐怖から解放されたからだろうか。寸分の隙もなくバスローブを纏い、振り返った彼女は微笑む、心の底から安堵したように。その表情が、感情が、なにひとつ理解できなかった。
「…どうして。どうして春が終わるといなくなってしまうの」
「私の願いは元々、ファッションに携わりたい、アートを生み出したいって、ただそれだけ。役目を終えたなら、元の姿にかえらないと」
「そんなの、」
「ひどくはないわ、グローリア、私のあるべき姿はこれではないの」
声が届かない。継がせてももらえない。子に諭すような物言いで言葉を封じてくる。
彼女は恐らく、まばゆい色彩とともに始まった三年前の祝祭からずっと、来たるべき日を覚悟してきたのだろう。見る限りは、目の前の微笑に迷いも惑いも窺えない。
ならばわたくしは。グローリアは憤る。置いていかれるといま伝えられたわたくしはこんなに短い期間で一体どうすればいいの。是とすればいいのか、それとも嘆き悲しめばいいのか。選択すべき未来がもう見えない。
あるいは彼女や、恐らくは彼らと命を同じくするものであれば。グローリアもまた、近付く終焉をこうして穏やかに受け入れていたのだろうか。いとおしい者を前にして、こんなふうに笑うことができたのだろうか。
わからない、もうなにも。理解するにはあまりにも時間が足りなかった。
「あなたはあなたのままでいて」
迷いをすくうように、両頬を包みこんだカルロッタは乞う。ぽたり、前髪から滴った雫がグローリアの目尻に落ちる。宵色の眸は相変わらず笑みをかたちづくっている。
「自由で軽やかで華やかな、私が恋をしたあなたでいてちょうだい、グローリア」
声が、願いが、まじないのように、あるいはのろいのようにグローリアを縛る。ようやく真実に追いついたというのになお知らない頃のままであれと祈る哀れな蝶の願いを聞き遂げるべきか否か、それさえも選べずただ深い宵色を見上げるしかなかった。
(どこまでも身勝手で、どこまでもあわれなあなた)
2020.4.30
40.
お互いの声さえ届かないほどの雨足だった。
「残念だが今日はすべて中止だな」
「あーあ、今日のショーはとっておきだったんだけどなあ」
「天候には敵わないわ。明日がんばればいいじゃない」
外の様子を窺ってきたらしいヒューゴーが水滴のしたたる帽子を取り去る。大仰に肩を落としたのはオーシャン。カーテンを閉めたカルロッタが苦笑を返す。いつもの光景、いつもの会話、交わされる表情までいつも通り。だというのにグローリアはその空間に馴染めずにいた。ひとり異質なもののように─昨日のヒューゴーの、そしてカルロッタの話から察するにそれは事実であるのだけれど─ソファでマグカップを抱えるばかり。
ひょい、と。雨音に沈むグローリアを覗きこむ夕陽色の眸。
「どしたのグローリア、元気ないね、やっぱ雨のせい?」
「あ、…ええ、残念だもの、中止だなんて」
「そんな落ちこまなくてもさ、カルロッタも言ってたけど、明日があるよ」
朗らかに励ますその笑顔さえいまは胸を締めつける。たしかに明日はある、けれど彼らの時間は刻一刻と削られているというのに、自然はなんと無情なものか。
グローリアの心模様は一向に晴れぬまま、雨は降り続けていた。
(雨はだれかの涙と叫びにも聴こえた)
2020.5.1
41.
ここに来ればまた、かの女性に会える気がした。
「──とんだ見込み違いだったようね」
忍び寄る闇のような、ひやりとした声に振り返る。音もなく距離を詰めていたらしい声の持ち主はすぐ真後ろ、宵の眸にグローリアを沈めていた。上から下まで品定めするように睥睨する視線に、言葉を封じこめられる。凍てつく気配に背筋が震える。雰囲気こそ違えど、いつかこの場所で出逢ったはずのあの女性によく似た声だった。
「あのお姉様が期待さえこめていたようだから、一体どんな人間なのかと思ったら」
ため息がこぼれる。ふと緩んだ空気に、グローリアもようやく緊張が解けた。
ここは海に面した桟橋。いつかの夜、ふらりと足を運んだ場所だ。靄がかかったようにかすかな記憶しかないものの、ここでたしかに不思議な女性と遭遇し、そうして助言を与えられた。その彼女にまた会えないものかと、こうして夜半に赴いてみたのだ。
目の前の彼女があからさまに肩を落とし、グローリアから一歩距離を置いて桟橋の縁に腰かける。裸のつま先が海面を撫でる。ざざ、と立つさざ波は、彼女に呼応しているようにも見えた。
「あ、あなたたちはなにものなの。もしかしてカルロッタたちみたいに、」
「余計な詮索は命取りになるわよ、グローリア・デ・モード嬢」
冴え冴えとした眸に射竦められ、続く言葉を呑みこんだ。
彼女の足先から始まった波紋が徐々に広がっていく、まるでグローリアの心のうちを表すように。
「…ねえ。知っていたら教えてちょうだい。わたくしはこれから先、どうすればいいの」
ここに来れば答えが見つかると思っていた。だれでもいい、自分以外のだれかが道筋を照らしてくれると期待していた。けれどきっと、海面を見つめるこの女性は望む解を与えてはくれない、そんな予感がしていた。
「私になにを期待しているのか知らないけれど、」
沈黙を置いて、返ってきたのは先程よりも幾分かやわらかな声音。
「私も、たとえお姉様でも、だれであろうと、他人を導くなんて出来やしないわ」
流れる声が、思考を不明瞭にしていく感覚ははじめてではない。
「どんな険しい道でも、どんな過酷な現実でも。自分自身でしか選択できないの。自分自身の力でしか、未来を変えることはできないの」
ふ、と立ち上がった彼女の、宵色の眸に、いつかの彼女の影を見る。
「早く春を終わらせなさい、グローリア。──お姉様を失望させないで」
わずかに切なそうに歪んだ表情を捉えたのが最後、グローリアの意識は途切れた。
(宵の色は果たしてなにを見たのか、)
2020.5.2
42.
螺子を、巻いていた。
命を持たない鼠のような色のそれを懸命に巻き続ける。肉刺でもできているのだろうか、手のひら全体が火傷を負ったみたいに痛む。それでも手を止められない。
うごいて。切実な願いは、絶え間なく響く金属の摩擦音にかき消される。
なにかを失くしてしまったはずなのに。艶やかな紫紺の、はじける海の、とける陽光の色を冠したそれらを。だれかの心がこめられた、大切ななにかを。
螺子の滑りが鈍くなる。腕が引き攣る。彼の声がきこえる。いままでより鮮明に。
きみはどこからきたんだい、どこへいきたいんだい。
声の主をたどるのはもうやめた。それよりもいまは早くこの螺子を巻き戻さなければ間に合わなくなってしまう、──なにが、間に合わなくなるのだろう。
回している方向とは逆に回転を始める螺子、まるで諦めているみたいに。
あなたはなぜ立ち止まっているの、なにを迷っているの。
汗でにじむ視界のなか、彼女の声が問う。なぜ、だなんて、そんなのわたくしが聞きたいわ。進まなければいけないのに、知らないものから知っているものへ戻さなければならないのに、なにも選べないまま時ばかりが過ぎていく。なにもかもが変わっていく。
落ちた汗が螺子の螺旋をつたう。それでも螺子は回らなかった。
(なまりいろのゆめ)
2020.5.3