43.
目覚めたのはソファの上だった。
どうやら横たわりもせず眠っていたらしい。いつもの頭痛に加え鉛のように重い身体、そして痛む手のひらに、グローリアは顔をしかめた。
夢を見ていた気がする。けれどどこからが夢で、どこからが現実なのかがいつも判断に苦しむ。たしか桟橋のほうへと足を運び、覚えのあるだれかと言葉を交わし、強情な螺子を巻いてそれから──問われたのだ、どこからきたのかと、どこへいきたいのかと。
自分は自分でしかなく、ここにいる自分がすべてであるはずなのに。揺らぐ確信に頭を振る。夢のなかの彼がなにを言いたいのか、いまの彼女が悩んだところで到底答えに行き着きそうもない。ならば道はひとつ。
閉め切ったままだったカーテンを開ける。海面に反射した陽光が差しこむ。
なぜ立ち止まっているの、なにを迷っているの。夢のなかの彼女が憐れみを、或いは叱咤をこめて口にした言葉がよみがえる。
わかっている、迷う暇など無い、あの三人に残された時間はあまりに短いのだ。変えたいと願うのなら、自分自身で選択しなければ。
息をひとつ。軋む身体に鞭を打ち、グローリアは準備に取りかかる。
空高く伸びた雲は、一足早い夏の気配を孕んでいた。
(夏の足音がきこえる)
2020.5.4
44.
「なあんだ、グローリアは違ったんだね」
口調とは裏腹に、声音に驚きは含まれていなかった。恐らくは彼も薄々勘付いていたのだろう。あなたはカルロッタたちと同じなの、というグローリアの問いに、そうだよとあっさり答えた上での、冒頭の言葉だった。
軽々と下船したオーシャンは伸びをひとつ、階段を下りたばかりのグローリアに手を差し出す。戸惑いながらも重ねた手のひらは、こんな陽気にも関わらず冷たかった。
グローリアが無事タラップを踏んでも手が離れる気配はなく、簡易控え室として設置されたテントへと繋いだまま歩みを進める。その間にも戯れに指を握ったりと、まるで彼女の体温をたしかめるているようでもあった。
「じゃあきっと不思議だろうね、僕らがこんなにも受け入れてることが」
「わかっているなら、」
「そりゃあさ、大海原を泳げないのは残念だけど、」
その先は知っているとばかりに言葉を遮った彼がくるりと振り返る。ぎゅう、と一際強く握られた指先には、暑いばかりの陽射しの影はやはりどこにも見当たらない。
「だいすきな海を、焦がれた海を表現できただけで、僕は満足してるよ」
細められた夕陽色の眸に映る海は、なによりも美しかった。
(本心なのかと問えばよかった、)
2020.5.5
45.
小さな踊り子が舞台を跳ね回る。夜明け色からまばゆい陽射し色へとグラデーションしたスカートが揺れる。さすがわたくしのデザイン、と頭を振って痛みをやり過ごしたグローリアは、踊り子と自身のモデルたちに舞台袖から拍手を送った。
出逢った当初の彼女は、船上で練習に励む少女だったはずなのに、いまでは舞台さえ華やかに彩る踊り子へと成長していた。夢を見るだけに留まらなかった少女が愛らしく駆けてくる姿に、グローリアの頬にも自然、笑みがのぼる。
「ねえルー、あなたならどうするかしら」
ダンスでわずかに乱れた耳飾りを整えながら、それとなく疑問をこぼす。
「たとえば長年の夢が──そうね、あなたで言えば、ブロードウェイのダンサーになるって夢が叶ったとき。あなたならそこで満足するかしら」
グローリアを見上げる彼女の、夕焼けに似た眸が不思議そうにまたたく。向けられた問いの意味を図るようにしばし黙考し、それからふと、浮かべたのは満面の笑み。彼女が淀みなく返した解に、グローリアは綻んだ。
「もっと先を、未来を目指す、ね。そうね、…みんなきっと、そうよね」
踊り子を待ちわびた会場が割れんばかりの手拍子を送る。いってらっしゃい、と送り出した彼女の小さな背がまぶしくて、グローリアはつと目をすがめた。
(きっとあの三人も、)
2020.5.6
46.
揃いの衣装に身を包んだ彼と彼女が、グローリアを見とめ嬉しそうに声を弾ませた。
「あら、ふたりともお疲れさま。ヒューゴーは一緒じゃないのね」
「ヒューゴーならもう部屋に戻ったわよ。なんだか具合悪そうだったわ」
ぐわわ、と。普段より幾分張りのない声が追随する。
「そうなの、私たち付き添おうとしたんだけれど大丈夫だってそればっかり」
ぐわ、わ。今度は肩まで落として。
「そうは言っても、心配だわ」
一見あひるの鳴き声にしか聞こえない呟きを丁寧に拾い上げていく彼女と同じように、眉をひそめるグローリア。いま部屋で臥せっているのであろうそのひとの不調は以前、カルロッタが見せたものと同じである気がしてならなかった。春の終わりとともに元の姿へ──ひとではない姿へかえるその反動が出ているのではないかと。
ともすれば恐怖の圧し掛かる肩を、けれどふと抱き寄せた彼女の表情がやわらかい。
「ねえグローリア。私たちには、あなたの悩みまではわからないけれど。でもね、こうして不安を少しでもとかしてあげることはできるのよ」
やさしく降り積もる声に自然、目を閉じる。ぐわ、と。重なったもうひとつ分のぬくもりに、そうねと、グローリアの頬がようやく綻んだ。
(だってひとりじゃないんだものと彼女はわらう)
2020.5.7
47.
「ど、どうしたの、ふたりとも」
一体どこから現れたのか、声を揃えたふたりがとことこ両足に縋りついてきたせいで傾いだ身体をなんとか立て直す。姿かたちが似た彼らは、表情までそっくりそのままにグローリアを見上げた。
「オーシャンがなんだかげんきないんだ」
「いっつもしょんぼりして海みてるの、ぼくらのせいかなあ」
いつもは達者なはずの口がいまは鳴りを潜めている。
聞けば彼らの衣装をこしらえたそのひとは最近、どうにも空元気ばかりまとっている様子なのだという。毎日顔を合わせているふたりは、彼の変化を敏感にも嗅ぎ取ったのだろう。身動きが取れないなかでなんとか腰を屈めたグローリアは、やわらかな毛並みをそれぞれ撫で、そんなことないわよと微笑む。不安を少しでもとかしてあげる、と。迷うグローリアの肩を抱き留めてくれた彼女のように。
「オーシャンはきっと元気になるわよ。─…わたくしが、きっと」
グローリアの言葉に、彼らの眸がぱあと輝く。そうして一段ときつく足を抱えこんだふたりの頭にそ、と。落とすのは決意。きっと。きっと彼と、彼女たちと、だれひとり欠けることなく次の季節をいきるのだと。
(ひとりはさみしいもの)
2020.5.8
48.
グローリアの記憶が確かなら、彼はここに部屋など取っていないはずである。
だれかに用事かしら。首を傾げてそう尋ねるグローリアに、薔薇もかくやというほど顔を染め上げた少年は、後ろ手に隠していた一輪のそれを差し出した。
「こ、これを、カルロッタさんに」
あらあらまあまあ。思わず口元に手を当てる。こんないたいけな少年からも想われているだなんて、カルロッタもやるじゃない。微笑ましさに頬がゆるむ。腰を屈め、かすかに震えている手を包みこんだ。
「直接渡してあげたほうが、カルロッタもきっと喜ぶと思うわ」
「そうじゃないんだ、いや僕もカルロッタさんに会いたいけど、そうじゃなくて」
両の犬耳をぺしょりと垂れ下げた彼は、父親によく似た眸にグローリアを映す。
「ケンカ。してるのかなって、グローリアさんと。ぜんぜん話してないみたいだから。だからその、これは、口実というかなんというか」
ああそうか、この子は。想い人の体調を慮りつつ、その交友関係にまで思いを巡らすなんて。なんていじらしいのかと頭を抱き寄せれば、やめてくれよお、と気恥ずかしさの混ざった声が胸元から。年頃の子に少々軽率だったかと、苦笑しながらも解放する。
あなたからだって伝えるわね。受け取った際の、邪気のない笑みがまぶしかった。
(ほら、あなたはこんなに想われている)
2020.5.9
49.
数日ぶりにまみえた彼女はいくらかやつれているように見えた。
「明日お礼を言っておかなくちゃね」
先程少年から託された一輪と、この部屋への道すがらフロントから貰ってきた花瓶を手渡せば、いとおしむように微笑んだカルロッタが水を満たし花を活けた。テーブルにそっと居場所を与えられた花はそれだけで空間を華やかにする。彼女の表情に明るさが戻り、グローリアはひそかに息をついた。
「心配していたわよ、あの子。あなたの体調と、それからわたくしとあなたが喧嘩でもしているんじゃないかって」
「父親に似てやさしい子なのよ」
戻ってきたカルロッタの両手からグラスを奪い去る。見るからに体調の思わしくないひとにアルコールなど飲ませられるはずもなかった。グローリアの行動を予想していたのか、手持ち無沙汰になったカルロッタはけれど肩を竦めるのみ。
「それがないと眠れない、って言ってもだめ?」
「わたくしが寝かしつけてあげるわ、ほらきて」
二杯とも飲み干しサイドテーブルに置いたグローリアはそのまま両腕を広げる。苦笑しつつも大人しく腕のうちに収まったカルロッタごと、ベッドに転がった。
自身に比べ随分と低い体温を感じながら眸を閉ざす。鼓動がつたう。静かに、けれどたしかに脈打つそれにふと、泣きたくなった。
「ねえグローリア、私まだお風呂に入ってないの」
「あとで一緒に入りましょう」
「そんなに広い浴室じゃないわよ、知ってるでしょ」
「それならわたくしを膝にでも抱えればいいじゃない」
「グローリア」
「どうして、」
声が震える。のどが悲鳴を上げる。こんなはずではなかった。もっと冷静にこの場にいるはずだった。落ち着いて尋ねるはずだった。なぜそんなにも未来を受け入れているのか。本当に満足しているのか。けれど当人を前にして、自身と違わぬ心音を耳にして、感情を抑えられるはずがなかった、繕えるはずがなかった。
うずめた髪に雫が落ちる。涙の気配を気取っているであろうカルロッタは息を殺し、回した腕でただただ背を撫でる。
「…アルコールのせいなの。だから、─…だから、いまだけ」
言い訳を聞き遂げたカルロッタが、ごめんなさい、とだけ呟いた気がした。
(なにも変わらないのに、)
2020.5.10
50.
花は開き、風は歌っていた。
「──ここに現れたってことは、ようやく話してくれる気になったのかしら」
いつの間にか目の前に座していた彼が朗らかに笑う。肯定も否定も汲み取れない表情に、グローリアはそっと息をついた。
夢か現か定かでないこの空間には、グローリアと彼と、花と風しか存在しない。時折訪れていた曖昧な世界があの三人に纏わる空間だとするなら、ここはグローリアの世界なのだろう。どこからか陽が差すこの場所は、いままでの空間よりも幾分居心地がいい。
「ぼくはなにも話せないよ」
微笑むばかりだった彼がようやく口を開いた。
「だってきみはまだ、見つけていないから」
諭すような口調に首を傾げる。彼がなにを指しているのか見当がつかない。これ以上なにを見つけろというのだろう、なにを知れというのだろう。この短い期間に充分思い知ったというのに、一体なにを見落としているというのだろう。
頭の奥がきんと音を立てる。痛みに視界がまたたく。聞き馴染んだ声はなおも続ける。おもいだして。姿が景色にとけていく。なにを、忘れているのだろう。
霞む世界に手を伸ばす。それでも指はとどかなかった。
(たいよういろのゆめ)
2020.5.11
51.
痛む頭に揺り起こされた。
うっすらまぶたを開ける。カーテンの隙間から差しこむ淡い陽光が、変わらない朝が来たことを告げていた。まだ鳥さえ眠りについているのだろう、聴こえるのは腕のうちに収まった規則正しい寝息のみ。
意識が沈む直前と同じ体勢。違うのはそのぬくもりだろうか。ようやくグローリアの体温が移ったのか、カルロッタの身体は人並みの温度を取り戻していた。
こうして同じベッドで眠るのもいつ以来だろう。この春が訪れてからはじめて迎えたふたりきりの朝に、喜べばいいのか悲しめばいいのか、彼女は未だわからない。
夢を見ていた気がする。いつもの曖昧な夢。どことも知れない世界に姿を現した彼が言っていた、おもいだして、と。それはつまりなにかを忘れているということだろうに、そのなにかが思い出せずにいる。なにか大事なこと。恐らく彼女たち三人に纏わること。
起こしてしまわないよう慎重に、閉じたままのまぶたにくちびるをふれさせる。
相変わらず先は見えない。心を決めたところで依然、進路に迷うまま。それでも諦念に憑かれるわけにはいかなかった。このぬくもりを手離したくはなかった。
カルロッタは起きる気配を見せない。光に透けるまつげが揺れるときを待ちわびて、幼子のような頬にもうひとつ、くちづけを落とした。
(どうかいつまでもこの朝を)
2020.5.12
52.
事件はあろうことか観衆の面前で起こった。
一瞬のことだった。彼のモデルたちの話によれば、ショーの終盤、いつも通り船上で元気に跳ね回っていたそのひとが気付けば忽然と消えてしまった。海に落ちた彼を水上バイクが拾い上げ、モデルたちがショーを続行したことで事なきを得たものの、当人は一時昏睡状態に陥ったのだという。
その報を受け医務室へと駆けつけたグローリアを、けれどけろりとした様子の本人とヒューゴーが出迎えた。見たところ身体のどこにも怪我はない。彼女のこともきちんと認識している。安堵に任せ、その場にへたり込んだ。力の抜けたグローリアを、けれどオーシャンは不思議そうに見つめるばかり。
「どしたのグローリア、そんな血相かえて」
「どうした、ってあなたねえ…!」
「ま、まあグローリア、こいつもさっき目覚めたばかりなんだ、許してやってくれ」
ヒューゴーの少々的外れなフォローに宥めすかされ、ひとまず矛先を仕舞う。
医者やモデルたちに知らせてくる、とヒューゴーが席を立つ。恐らくはグローリアの気迫に耐えかねたのだろう。室内に取り残されたふたりは同時に息をつき、グローリアは再び心配の色を、オーシャンは誤魔化すようにへらりと笑顔を浮かべた。
「お客さんの前なのにしくじっちゃったよ」
「そんなことはいいのよ。それよりあなたが無事でよかったわ」
ようやく立ち上がり、手近な椅子を引き寄せ腰を落ち着ける。ここにたどり着くまで生きた心地がしなかったけれど、ようやく呼吸も落ち着いてきた。
「それにしてもあなた、本当に泳げなかったのね」
「そうだよ。僕らは海に浸かるとしんじゃうんだ」
直接的な言葉に、心臓が嫌な跳ね方をした。当の本人は口元をゆるめたまま、自嘲にも取れる声音で淡々と言葉を継ぐ。
「海がだいすきだったんだ。大地を踏む足があれば、海でも泳げると思ったんだ。でも現実は、つま先を浸すことさえままならない。ようやく届くと思ったのに、ふれられるって信じてたのに、どんな姿であっても海との距離は変わらないままなんだ」
「…オーシャン、」
「ねえグローリア」
海の影さえもたない夕陽色の眸が悲しく微笑む。
「満足してたはずなのに、胸が痛いのはどうしてだろうね、グローリア」
無垢な問いへの解を持たないグローリアはただ、その手を握るしかなかった。
(きっと彼のすべてだった)
2020.5.13