53.  病室を出てすぐ鉢合わせたのは、心配そうにゆるんだねずみ色の眸だった。 「あっ、グローリア、どうだ、その、オーシャンの様子は」 「少し落ちこんでいるみたいだけれど、身体に問題はなさそうよ」  掴みかからんほどの勢いで距離を詰めてきたヒューゴーに怯んで後ずさる。強張っていた肩から力が抜ける。壁を背にずるずると座りこんだ彼は両手で顔を覆った。  よかった。安堵がこぼれる。本当によかった。嗚咽交じりにそればかり繰り返す彼の身体をたださすることしかできない。 「こわいんだ、グローリア」  大きな身体を丸めた彼の声が震えている。 「みんなと春から先を生きられないことは知ってる。理解してる。それでいいと思っていた。俺たちが生きた証を残せるのなら、それだけでよかった。そのはずなのに、」  すべてを受け入れていたはずの男はけれどすべてを悟った眸で彼女を見つめる。 「死にかけたあいつを前にした途端、どうしようもなくこわくなったんだ。どうしてだ、グローリア、俺は、どうしてしまったんだ」  体温の感じられない指は乞うように、縋るように、グローリアの手を握って離さない。あるいは救いを求めるその指先への答えを、彼女はまだ、見つけられずにいた。 (知らなくてもいい感情だったのに、)  2020.5.14
 久しぶりに穏やかな目覚めだった。 「…っ、しご、」  仕事。夢から浮上した直後特有の曖昧な思考が、たった二文字で現実に引き戻される。  上体を起こしかけ、けれどしー、と。子供を宥めるような声に動きを止めた。巡らせた視線の先、執務机の左後ろに控えるカイ。手には覚えのあるスカーフ。母が大切にしていたそれはたしか私室に置いてきたはず。職務中に居眠りなどする主の体調を案じて、わざわざ取ってきてくれたというのだろうか。 「どうか、お静かに」  小声の彼が向けた言葉はたったそれだけ。気遣いの先をたどれば、ゆるやかに上下する華奢な身体に行き着いた。  昔とちっとも変わらない寝姿に自然、頬が綻ぶ。だから目覚めがやさしかったのかと、根拠もないのにそう思った。 「ほら、妹君もぐっすりですから、陛下もどうぞ」  次いで差し出されたお気に入りのクッションにいよいよ笑みを隠しきれない。従者から昼寝を促される主がいるだなんて。けれど彼の言う通り、心地よく夢に入り浸っている妹を起こすのは忍びない。  ありがとう。謝罪を妹の寝息にとかし、その夢を追った。 (どうか私も同じ夢を、)  2020.5.14
54.  カルロッタの淹れてくれたコーヒーを口にしてようやく人心地つけた気がした。 「大事にならなくてよかったわ、本当に」  それまで黙って耳を傾けていたカルロッタも安堵の息をつく。彼女も自分のショーを終えたらすぐオーシャンを見舞うつもりだったらしいのだが、それよりも早く回復した彼はさっさと医務室を引き上げてしまったのだという。自室に戻る直前のグローリアを呼び止め部屋に連れこむほどだからよほど心配していたのだろう。話を聞き遂げるまで眉間に皺を寄せていたカルロッタも、いまは肩の力を抜いている。  あたたかなマグカップを包みこみながらも、手のひらにはまだ、体温をまるで感じなかった彼の指の感触があるような気がした。あのとき覚えた怖気までよみがえりそうで、グローリアはゆるく頭を振る。それでも目にはまだ、悲しく微笑んだ夕陽色の眸が焼きついている。耳にはまだ、残酷すぎる問いが響いている。 「…ヒューゴーがね、わたくしに言ったの、こわいって」  ちらとカルロッタを窺う。マグカップの茶色い水面を見つめる彼女はなにも返さない。 「オーシャンの身にもしものことが起きたらって。そう思うと、どうしようもない恐怖を感じたそうよ」  いつだか彼は言っていた。たとえこの世界から自分たちがいなくなろうと、アートというかたちで残してきた自分たちの心までは消えないのだと。彼らしい確信にも満ちた言葉で。けれどそんな彼がつい先程はあんなにも声を震わせていた。自身に約束された終わりを受け入れていたはずの彼が、仲間の最期に直面しかけてようやく悟っていた。自身が去るとはつまり、仲間の命の終わりさえ自覚しなければならないのだと。  彼は、そうして彼女はきっと、直視していないだけなのだ。大切なひとたちとの別れから目を逸らし、ただ自身の刻限ばかりを見つめているのだ。そうすることでひた隠しにしていた恐れが表面化してしまったのだろう。 「馬鹿な男」  含まれた憐れみは、なにも彼に向けてのものではない気がした。 「気付かなければ、自覚しなければ、恐れることもないのに」 「ねえカルロッタ、あなただって、」 「だとしたら。どうだというの、グローリア」  言い募ろうとするグローリアを遮り、カルロッタは笑う、もうなんども見たあのさみしい表情。 「だって自覚してしまったら未練が残るだけだもの」  彼女の指はグローリアを拒むようにぎゅうとマグカップを握りしめていた。 (あなたにはまだとどかない)  2020.5.15
55. 「どうしたの。体調でも悪いの?」  心配を乗せた声に、カルロッタは首を傾げた。  朝から陽射しがまぶしかった。寝覚めに汗を洗い流している間に運ばれてきた朝食に舌鼓を打つグローリアは、けれど対面に座るそのひとの皿が一向に空かないことに疑問を呈した。グローリアがベーグルとエッグスラットとサイドディッシュを平らげる合間に、小さなフォカッチャひとつしか食べていなかったのだ。これは決してグローリアが大食というわけではない。このくらいの量なら彼女もぺろりと食べ終えるはずなのに。 「悪いわけじゃないわ。ただあまり欲しくなくて」 「でも、今日はこんなに快晴よ。きちんと食べないと倒れてしまうわ」  もう見舞うのはごめんだわ。言外にそう潜ませても、カルロッタは申し訳なさそうに眉尻を下げるばかり。 「もったいないからあなたが食べてちょうだい」 「あら、衣装が入らなくなったらあなたがサイズ直ししてくれるのかしら」  くちびるを尖らせながらもふと、そういえば最近彼女がなにかを口にしているところをあまり見かけないことに思い至る。彼女は微笑んだまま、ブリオッシュを差し出した。 (ねえ、一体いつから、)  2020.5.16
 子供の成長とは早いものだ。 「こぉら、お姉ちゃんの髪の毛で遊ばないのアナ。エルサも、いまは魔法は我慢よ」  じっとしていられない娘たちへ、絵師の代わりに指示を飛ばす妻の口調こそ叱るそれだが、声音にはいつにも増して微笑ましさがにじんでいた。  肖像画を残そう。アナが五つを数えたこのめでたい日、起きてすぐ浮かんだ私の提案に妻は諾と頷いた。思えば彼女は─私が彼女の嫌うことを決して言わないよう心掛けているのも大いにあるのだが─私の願いを切り捨てたことはない。微妙に軌道修正を行いながらも、私の意を通してくれる。そんな彼女に、私は何度となく救われてきた。 「アナもエルサも大きくなったな」  いまだ足下で何事か囁き、笑みを交わし合っている娘たちを見つめ、感慨に耽る。 「わたしたちもすぐ、おじいちゃんとおばあちゃんになってしまいますね」  どこか寂しく響いた気がして、横目で窺う。水面に似た眸はいつもと変わらない色を湛えている。そんな妻の手を、寄せた身体に隠して握りしめる。わずかに息を呑む気配。 「どれだけ歳を重ねても、私の愛は変わらないよ」 「─…ええ、わたしも」  水面色がくしゃりとにじむ。絡めた指はあたたかかった。 (時はいつも駆け足で過ぎていくけど、)  2020.5.16
56.  春色のムースに心躍らないはずがなかった。 「食べるのがもったいないわね」  口ではそう言いつつも、グローリアのスプーンは止まらない。  うだるような暑さだった。予定よりも早く終了したグローリアは半ばのぼせた頭で、ぽっかり生まれた自由時間を埋めるにはこれしかないと、同じく時間を持て余していたカルロッタを引き連れカフェに飛びこんだ。注文したのは期間限定で売り出されているレモンムースのデザート。春らしい色合いのそれを一度食べてみたかったのだ。  予想通りのおいしさに相好が崩れる。よく冷やされているそれは、陽に焼かれた身体をクールダウンさせるには充分だった。 「本当、おいしそうに食べるわね、あなた」  そういうカルロッタもひと口、ん、と満足そうに声を洩らす。 「この暑いなか、うんと頑張ったんですもの、おいしくなくちゃ困るわ」 「はいはい、よく頑張りました。ご褒美に私の分もあげるわ」  差し出されたデザートには、スプーンひとすくいの跡しか残っていない。 「そこまで食い意地は張っていなくてよ」 「そうじゃないわ、単にお昼食べ過ぎちゃっただけ」  言い訳じみた言葉に感じた怪訝をそのまま表情に乗せる。 「…ねえあなた、もしかして本気でわたくしを太らせようって魂胆じゃないでしょうね」 「私が衣装直ししてあげるから安心なさい」 「まっぴらごめんだわ」  カルロッタからの冗談を受けても、浮かんだ焦燥は拭えない。  最近お昼ごはんを召し上がらないんですよと、彼女のモデルが嘆いていた。ついこの間も朝食を丸々残していた。今日だって、グローリアと同様に衣装の裾直しやショーのセッティングと忙しなく立ち働いていた彼女が、腰を落ち着けて食べ物を口にする時間などなかったはずなのに。一体どこで満たしたというのだろう。尋ねようにも、目の前のそのひとはデザートを差し出し微笑むばかり。 「心配しなくても、ひとつ増えたくらいで体型が変わったりはしないわよ」 「…ええ」  まさか。もたげた疑念に背筋が冷える。食べ物を受け付けなくなってきたのだろうか。ひととしての食事を摂れなくなってきたのだろうか。終わりが、迫っているのだろうか。  窓からは相も変わらずうんざりするほどの陽射しが覗いている。  夏が、近い。 (どの季節だってあいしているはずなのに、)  2020.5.17
57.  控え室の隅で隠れるようにうずくまっている彼に駆け寄ってすぐ、よくカルロッタの傍らに控えているモデルだと気付いた。大量の汗をかきながら身体を震わす様子は尋常ではない。医者を呼ぼうと立ち上がりかけたグローリアを、けれど当人が引き留めた。 「みんなには、─…先生、には、言わないでください」  彼の言う先生は、医者ではなく主であるカルロッタを指していた。 「僕はみんなと比べて、よわいから、だからきっと最後までは、」  言葉尻は、苦しそうな咳にかき消された。指先の奇妙な感覚に見やれば、きらきらと淡く輝いている、そう、まるで鱗粉にふれたかのように。  いつだったか、グローリアのお目付け役でもある秘書の内からこぼれた真っ赤な花弁を思い出す。彼も言っていた、祝祭の最後まで共にいられないかもしれないと。もしかすると秘書も、目の前の彼も、そうして恐らくあのふたりが抱えているモデルたちも皆、春を境に潰える命なのだろうか。グローリアひとりを残して。  なおも咳きこむ彼はけれど切実な表情で見上げてくる、お願いです、と。 「先生には、どうか」  手首に縋りつく、その指先からさらさらと鱗粉が舞い散る。まるで彼の命のようで、グローリアはまた、言葉もなく目の前の少年を見つめるしかなかった。 (みんなわたくしを置いていってしまうの、)  2020.5.18
58.  眩暈がするほど鮮やかな色彩だった。 「おわっ、あ、危ないだろオーシャン!」 「だーいじょうぶだって。ほらおじさんも」 「馬鹿、火元を向けるんじゃない!」  花火を買いこんできたのは、向こうでヒューゴーを追い回しているオーシャンだった。季節柄まだ早いからだろう、露店で安売りしていたのだというそれを山と抱えて現れたのは、ショーが終了した夕方。花火ってしたことないんだよねえ、と目を輝かせる彼にまさか疲労を理由に断れるはずもなく、引きずられるまま残りふたりを誘い出し、海のほど近くへとやって来た。  この時期の夜は気が早い。太陽が沈んだかと思えばあっという間に夜が広がった。  手持ちの花火が赤から黄、青へと色を移す。ぱちぱち爆ぜる音が耳に心地よい。だれよりも花火を楽しんでいるオーシャンは、残像を用いて宙に珊瑚をえがいている。器用なものだと感心しているうちに絶える火花。水を張ったバケツに投げ入れる。じわり、花火だったものから滲む灰。 「あっという間に終わってしまうものね、花火って」  あちらではしゃいでいる彼と同じく初体験のカルロッタが何とはなしにこぼす。  彼女の言う通り、あれだけ積まれていた花火は残り少なくなっていた。派手に弾けるものは彼らに取っておいてあげるとして、それならばと掴んだのは線香花火。  近付けた蝋燭が揺らめく。先端がぱちぱちと淡く散り始める。 「ねえカルロッタ、知っているかしら。線香花火に願いをかけて、最後まで玉が落ちることなく火が消えたら、願い事が叶うっていう話」  グローリアに倣って火を灯したカルロッタの顔がやわく照らされる。 「こんな儚いものに願掛けしなくちゃならないほど切羽詰まってはいないわ」  なにを思って火を見つめているのか、ほのかな灯火だけでは読み取れない。 「それに願いはもう全部叶ってしまったもの」 「全部、ね。…本当に、そうなのかしら」  玉が大きく膨らんでいく。どちらの火もまだ懸命にその身を焦がしている。ひとり言のように洩らしたグローリアの声をけれど拾い上げたらしいカルロッタが肩を揺らす。グローリアを見つめる宵色の眸が揺らいでいるのは果たして蝋燭のせいなのか。 「─…そう、ね。…それでもあえて願うとしたら、」  じじ。最後の音を立てカルロッタの手から灯火が落ち、グローリアのそれは闇に吸いこまれるように消える。彼女の願いはついにわからなかった。 (どうかねがって、)  2020.5.19
59.  雲間から覗く光を、モノクルの縁が淡く反射していた。 「申し訳ありません、お嬢。私の我儘にお付き合いいただきまして」 「いいえ、わたくしが勝手についてきただけだもの」  昼間の賑わいが嘘のような静けさを纏っていた。見慣れた街並みが月光に照らされる。ヴィークルに揺られながら思い出すのはふた月前の春のはじまり。グローリアの感覚ではその前日に終演したはずの祭典がまた開催されるのだとモデルたちに告げられ、思考が追いつかないままヴィークルに飛び乗りハーバーを目指していたあの日。春の色彩を取り戻していた街に戸惑っていたあのとき。あれからもう、ふた月も経過したなんて。  最初は必死になぞるばかりだった春を、けれどいつからか変えたいと願った。共に春を歩んできた三人と、これからの季節も手を携えていきたいと祈った。願いは、祈りは届いたのだろうか。なにかが変わったのだろうか。彼女にはわからない。  音を立てて停車したのは、グローリアのサロンのすぐ目の前。支払いを済ませた秘書が先に下車し、主の手を取り降車を手伝った。  自身の職場に足を運んだのもふた月振りだ。必要なものはすべてホテルに持ちこんでいるので、祭典の期間中はサロンに戻る用事もない。すべきことがあるのだと、夜半にサロンへ向かおうとした秘書に追従したに過ぎなかった。  何年も過ごしてきた居城はなにひとつ変わっていなくて、知らず安堵の息が洩れる。  後から入室した秘書がグローリアを追い越し、奥のカウンターテーブルへと向かう、その身体からこぼれた真っ赤な花弁。 「…ここに来た理由、そろそろ聞いてもいいかしら」 「…別れを告げに参りました」  振り返った彼が、モノクル越しの眦にやわく皺を刻む。春の最後まで共にいられないかもしれないと、いつだったか彼が謝罪と併せてこぼした言葉がよみがえる。 「私は恐らく、ここへ戻ることは叶いませんので」  自身の最期を悟った彼の眸には、どこか懐かしむような色が滲んでいた。どうして。浮かんだのは怒りと疑問。どうしてこのひとも受け入れてしまうの、諦めてしまうの。どうしてこのひともいなくならなければならないの、一体いつから。  歩みを進める彼の背中を追いかける。すらりと伸びた上背を、記憶にあるよりも遥か昔から見つめてきた、そのはずだった。 「この世に生を受けた時。私は可憐なあなたに目を惹かれるだけの、ただの生垣の薔薇でした。そんな私にひととして生きる喜びを、飾る喜びを、仕える喜びを、そのすべてを。教えてくださったのは、グローリア様、あなたでした」  頭の奥のおくがひどく痛む。彼の足は止まらない。このまま進めばグローリアの私室に行き着く。道すがら通り過ぎた庭に群生する真っ赤な花々。いまが盛りの彼らはその身を鮮やかに染め上げている。いつだったか、そのうちの凛と咲く一輪にくちづけた気がする。ずっとひたむきな視線を向けてくれていた、だからあなたに決めたのだと。  記憶との相異が起こり、彼の話に辻褄が合ってしまう。聡明なお目付け役と出逢ったのは幼少の頃だったはずなのに、彼の言う通り庭先で邂逅した覚えもある。頭が痛い。彼と同じく見つめていた。届かない空に焦がれていた。自由に歩き回りたかった。頭が痛い。外の世界のだれもかれもを飾りたかった。かたちにしたかった。志を同じくするだれかと出逢いたかった。あたまがいたい。そうして声がきこえて、そう、あれは、 「私の役目はきっと、お嬢、あなたにすべてをお伝えすることなのでしょうね」  呼びかけられてはじめて、目の前を歩いていたそのひとが足を止め、振り返っていたことに気付いた。微笑んだ彼が、私室に入るよう促す。見知ったはずの部屋に恐る恐る足を踏み入れる。頭が警鐘を打ち鳴らしている。それでも進まなければならなかった。  雲が晴れる。今宵は満月。月明かりのもと、すべてが平等に照らされる。 「あなたの求めていた真実です、グローリア様」  対面した壁には、からっぽの額縁がかかっていた。 (どうかおしえて、)  2020.5.20
60.  鮮やかな色彩に恋い焦がれていた。  額縁に収められたまま部屋の主が去り、とうに忘れられた花にとって、窓の外の街を忙しなく行き過ぎる人々は羨望の対象だった。  いくつ時代を経ろうと褪せることのない花弁を、彼女はもちろん誇りに思っていた。けれどそれは鑑賞者がいてこそ映える美しさである。永遠の命とともに狭い額縁に閉じこめられた彼女はもはや色を変えることはない。庭を自在に飛び回る蝶さえ羨ましい。ああ自分にも腕があれば、足があれば、思うとおりの色を、意匠を、その手で生み出すのに。いつしか彼女は夢見るようになっていた、まるで彼女が焦がれる人間のように。  きみのその求心力を借りたいんだ。草木が喜ぶ季節の間際、唐突に現れた彼は彼女に手を差し伸ばした。きみのそのどこまでもまっすぐな想いが必要なんだ。  是と応える他なかった。気付けば彼の手を取る腕がそこにあった。額縁から抜け出すことができた。生垣から一心に見つめていたひとつに願いをかけた。彼はどこまでも共にと誓ってくれた。艶やかに咲くどれもこれもを自身のモデルに召した。色彩を自在に纏わせることができる、街の人々に自身のアートが根付いていく、額縁でひそやかに息をするだけでは知り得なかった感情が満ちてくる、これが喜び、これがしあわせ、ああこれが生きるということかと全身で実感する。  たくさんの色を生み出してきた。たくさんの意匠を凝らしてきた。まばゆい春にあの三人と出逢った。生意気だけれどひたむきなひと、熱血漢だけれど情に脆いひと、冷静だけれど愛が深いひと。それぞれが思うようにアートを愛し、情熱を注ぎ、感性とともに生きていた。しあわせだった。だいすきだった。  けれど、三年目の春の終わりと同時にみんないなくなってしまった。  みんな満足したんだよ。彼女に自由の身を与えた彼は言う。みんな精一杯生きたんだ。その言葉が、結果が、彼女にはひどく身勝手に響いた。あれだけしあわせな春を見せておいて、あれだけ未来への可能性を抱いておいて、やり切ったとでも言うのだろうか、思い残すことはないと笑うのだろうか。  ひたひたと、彼女自身にも忍び寄る避けられない終わりに背筋が震える。まだ終わりたくない、まだえがいていたい、まだ生きていたい。  彼の手を振りほどいた彼女は懸命に願う、どうか聞き遂げられますようにと。終焉が迫る、次の季節のにおいがする。それでも彼女は抗った。この身体で過ごした夏を、秋を、冬を、そうしてみんなともういちど、春を。  夜が明ける。まばゆい光が身体を照らす。わたくしはどうしてここに。陽が昇る以前の経緯をまったく思い出せない彼女はすんと息を吸う。春のにおいが、した。 (あなたたちはわたくしの春だった)  2020.5.21