61.
気付けば頬を流れていた熱にようやく我に返った。
「お嬢、お気を確かに」
心配を覗かせる従者に、グローリアは微笑みをもって応える。
思い出した、自身が生を失って久しい花であったことを。忘れていた、この三年間で得たたくさんの感情を。なぜ記憶を閉ざしてしまっていたのか、どうして繰り返し春を生きているのか。解を導き出すにはまだなにかが足りない。
想いに耽るグローリアの視界にはらりと、また、赤い花弁。こぼれ落ちるのと、彼が膝を突くのは同時だった。そのままくずおれそうになる上体をすんでのところで支える。弱々しく微笑む彼に再び緩みそうになる涙腺を叱咤した、泣くべきはいまではない。
「許さないわよ」
語気の強さに、彼は目を瞠る。グローリアの凛と澄んだ水面色の眸が、肩を掴む指先が、引き結んだくちびるが、彼の選択に異を唱えていた。
「わたくしの許可も得ずいなくなることは許さないから」
ぐ、と指先に力がこもる。気圧された彼が目をしばたたかせ、やがてモノクルの奥の眸を細めた。いままで見たことのない、まるで泣き出さんばかりの表情。
「まったく。あなたはいつも、無茶ばかり仰る」
(だれにもいなくなってほしくないの、お願い)
2020.5.22
62.
あの空間だと、瞬時に理解した。
「きみにはいつも驚かされてばかりだよ」
薄々は勘付いていた。夢か現実かも不明瞭な世界に現れる彼は、そうして呼びかけてくれていた彼女は、自身の深奥で眠っていた意識の産物でしかないのだと。だから声の主は決して解を与えることはなく、ただ思い出すのだと、選び取るのだと、意思を促すばかりだったのだろう。
相変わらず表情の読めない笑顔を浮かべる彼は、だけどわからないな、と疑問を呈す。
「自然の理に逆らってまで、きみは生きたいと願うのかい」
「─…いいえ、いまはそうじゃないの」
ゆるり、首を振る。自身の身体の刻限が迫っていたあの瞬間はたしかに生きたいとも切に乞うていた。まだ満足していない、やり残したことがたくさんあるのだと。けれどそのすべてを忘れたいまとなっては、残ったのはたったひとつの願いだけ。
「あの三人とまた、次の季節を過ごせるよう祈っただけなの、ひととして」
「…そうだね、きみはもう紛れもなく、」
彼女の答えを聞き遂げた彼が手を差し出す。彼の笑みが曖昧にほどけていく。こちらから伸ばした指先がふれる。頭の奥が痛むことはもうなかった。
(よあけいろのゆめ)
2020.5.23
63.
穏やかなぬくもりに引き上げられるのは久しぶりだった。
「あら。おはよう、ねむり姫」
うっすら開けたまぶたの隙間から入りこむ陽射しのまぶしさに再び目を閉ざす。声の主はおかしそうにくすくす笑った。
ホテルに戻ったころにはもう空が白み始めていた。閉じこめていた記憶を一気に呼び覚ましたせいだろうか、疲労が溜まっているはずなのに眠気が訪れないまま足を運んだのは自身の部屋ではなくその隣。すぐに扉を開けた部屋の主は驚きを向けはしたものの、特に詮索するでもなくグローリアを引き入れた。
眠っていなかったの。我が物顔でベッドに寝転びながら尋ねると、カルロッタは苦笑を返した。最近眠れなくてね。かけられたタオルケットのやわらかさに心が落ちつく。じゃあ朝まで付き合ってちょうだい。飲み物を取ってこようとするカルロッタの手首を掴む。ひやりとした体温に胸が痛む前にぐいと力をこめる。すっぽり腕の内に収まった彼女は、抱き枕じゃないのよと口を尖らせながらもグローリアの頭を撫でた。それまで鳴りを潜めていた睡魔が波のように押し寄せる。堪えきれなくなった欠伸が顔を覗かせ、ふわあとひとつふたつ。寝てしまいなさいな。なんてことない言葉さえ子守唄のよう。抵抗も長くは続かず、そうして気付けば陽光に照らされていた。
寝心地のよかった枕がカルロッタの腕であったことに気付いたのは、目をこすり数度またたきを繰り返した後。身体のなにもかもがまだうまく働かない。
「…カルロッタ、は、ねなかったの」
「少しまどろみはしたわよ」
ひととしての眠りを必要としなくなってしまったのだろうか。気を抜けば夢に沈んでいこうとする頭が思ったのはそんなこと。体温を失い、食べ物を受け付けなくなり、夜が明けていく様子をただ眺める。そんな彼女を浮かべ、ずくりと悲しみが広がった。
重たい腕を持ち上げる。抱き寄せた彼女の身体は強張りはしなかったものの、やはり抱きしめてくれることはない。
胸元にすり寄る。陽を背にした彼女は物言わない。
「ね、カルロッタ。キス、してちょうだい」
降らない返事にちらりと見上げる。相変わらず困ったように笑うそのひとは一度迷うように視線を彷徨わせ、ふいに距離を縮めた。窺うように額にひとつ。眉間、鼻の頭にふれたところでふとカルロッタが息を詰める。目を開いた先でこぼれる雫。
「─…すきよ、グローリア、あいしてるわ」
手で視界が覆われたのと同時、くちびるにふれたそれは泣きたくなるほど冷たかった。
(どうかこの熱がうつりますようにと)
2020.5.24
64.
彼の纏う空気はいつも不思議なほど穏やかだ。
「あら、今日は一緒じゃないのね」
「朝寝坊しちゃったみたいなんだ。待つつもりだったんだけど、父さんは歩くの遅いんだから先に行っててって言われちゃってねえ」
のんびりとした口調の彼は、息子の発言をさして気にした風もない。親子の朝のやり取りが手に取るように浮かび、グローリアは思わず笑みをこぼす。
しかしなぜ隣にやって来たのだろうか。たしかに今日はマジックリアリズムとの合同ショーではあるけれど、彼らの船は対岸に停泊している。わざわざここに立ち寄る必要などないはずなのに。訝しむグローリアにふと、彼が柔和に微笑みかける。
「きっと大丈夫だよ、グローリア。あの子なら大丈夫」
「…あなた、読心術の心得でもあったの」
「そんなものないよお。ただ、そうかなって思って、それだけ言いたかったんだ」
見上げた先の犬に似た耳が、グローリアを励ますようにぴょこりとおどけてみせる。根拠のひとつもないものの、彼の言うところの『あの子』のモデルを三年間務めてきたひとの言葉は、グローリアに安堵をもたらすには充分だった。
「…よかったわ、カルロッタのそばにいてくれたのがあなたで」
(決してひとりではなかったの、あのひともわたくしも)
2020.5.25
汗ばんだ額を掠める指先の冷たさが心地いい。
「…カル、ロッタ、ごめんなさい」
「謝る元気があるなら少しでも寝ておきなさい」
謝罪を繰り返すわたくしに返ってくるのはそればかり。張りついた前髪をすくい、毛布に包まれたおなかを撫でて。たったそれだけなのに、彼女がいなかったこれまでと比べ随分と症状が軽くなった気がするのはどうしてだろう。疑問は浮かぶけれどそれを探る気力もいまはない。頬を寄せた彼女のおなかから聞こえる音にただ耳を澄ませる。こうしているとまるで胎児に還ったよう。鼓動を打ち始めたばかりのころからやり直して、できれば女ではなく男に生まれていれば、もう少し生きやすかったのかもしれない。
「それは困るわね」
知らぬ間に言葉にしてしまっていたのだろうか、拾い上げた彼女が苦笑する。
「女の子じゃないと、私との子を成せないもの」
ようやく薬が効いてきたのか、はたまたやわらかな膝枕のおかげか、訪れた眠気に身を委ねながらそうねと同意を示す。あなたとの子供がつくれないのはいやよね。顔を覗かせた疑問は後回し、彼女の声を子守唄に睡魔の手を取った。
(あなたが言うならきっとそう)
2020.5.25
65.
彼の背中がこんなにもさみしく映ったのははじめてだった。
「本当にすきなのね、海」
オーシャンに倣って靴を脱ぎ、桟橋の縁に腰かける。夕暮れ時だというのに陽射しはご機嫌。涼を求めていたグローリアにとって、つま先から滲む冷たさはオアシスだった。
返事のない隣人を窺う。裸の両足を抱えた彼は、鎮座する太陽そっくりの眸に彼女をとかしていた。僕らは海に浸かるとしんじゃうんだ。いつかの彼の言葉がよみがえる。足を引こうとするグローリアに、けれどオーシャンは相好を崩す。
「今日もいい天気だったね、海も喜んでるよ」
屈託のない笑みに、間を置いて同意を返す。再び波にさらわれる足。彼の言う通り、いつもより心地よく波打っているような気がする。だれよりも海の表情を読めるひとがふれることすら叶わないだなんて。彼の心情を思い胸がつぶれる。それでもいいのだと、やはりいつかの彼は笑っていた。大好きな海を表現できただけで満足なのだと断言していた。けれどいまは。切なる眸で水平線を見晴るかしているこの瞬間は、きっと。
「ねえ、グローリア」
こぼれた声が斜陽にとける。昔話のように、あるいは懺悔のように。
「果てない海に憧れた馬鹿な金魚のはなしを知ってるかい」
(落日消ゆ)
2020.5.26
66.
はじまりは広大な青。
狭い鉢に棲まう彼はけれど窓からの眺望にだけは満足していた。まばゆい光を反射し輝く青。青の向こうからやって来る人々の、目にしたことのない装い。ひとりきりの鉢で日がな一日青を見つめるしかない彼の唯一の楽しみがそれだった。
優美にたゆたう夕陽色のひれを、彼はもちろん誇りに思っていた。けれどたとえば鉢に沈む装飾を纏えたら、港に降り立つ人々のように自身を飾ることができたならどんなにか美しいだろうにと。いつしか彼は夢見るようになっていた、まるで人間のように。
きみのその独創性が必要なんだ。春の陽射しを感じ始めたある日、唐突に現れた彼は手を差し伸ばした。きみのその純真さを借りたいんだ。
恐れはなかった。気付けば自分の足で大地を踏みしめていた。狭苦しい世界から抜け出すことができた。すきな色を自在に繕える、大勢の視線が彼の作品に留まる、青は海だと知った、海はどこまでも続くのだと聞いた、水に身を任すだけでは知り得なかった感情が満ちる、これが驚き、これが憧れ、ああこれが生きることかと全身で実感する。
ひとりきりだったはずの彼は、鮮やかな春に出逢った三人のおかげではじめての友情も感じた。絶望という言葉だけ覚えなかったのは彼にとって幸いだった。あれだけ焦がれた海にふれることができなくても、作品にはいつも冴えた青が根差していたのだから。
(青は僕のはじまりだった)
2020.5.27
まったく、こんな無茶苦茶な仕事引き受けるんじゃなかったわ。
「え、ちょ、ちょっとカルロッタ、来るときは連絡くらい寄越しなさいってあれほど、」
申し訳なさそうな顔で注文してくるクライアントほど無理難題を吹っかけてくるものだと、これまでの経験から察知できたはずなのに。
「ねえ、わたくしまだお風呂に入ってないの。これじゃあ動けないじゃない」
明後日からデザインと同時に染色もしなくては間に合わない。ああ仮縫製はいつにしよう。考えなくてはならないことがたくさんあるはずなのに頭が回らない。いいにおい。
今日はもう諦めて夢におぼれて、明日はこのにおいを堪能して、明後日からまたがんばろう。
それまでは、
「もう。仕方のない子ねえ」
(おやすみなさい)
2020.5.28
67.
ふ、と。隣からこぼれた息が波音にさらわれる。
夕陽はもう火山の向こうへ姿を隠そうとしていた。最後の足掻きとばかり、鋭い光で稜線を浮かび上がらせている。網膜に焼きつく色につと目を眇める。
「僕の夢はさ、グローリア、いろんなひとをいろんな色で飾ることだったんだ」
とつとつと落ちる声には、普段の元気は欠片も窺えない。あるのはアートへの想いと、三年分の追憶と、眼前に広がる海へと向かうどうしようもないほど膨らんだ慕情だった。
彼の心情は痛いほどわかる、だってグローリアも同じだったから。
動けぬ身であるのに広大な世界に憧れた。あるはずのない腕で自在に色を創造したいと乞うた。与えられた生をなぞるばかりでは知り得なかった感情を手にしてしまった。その三年を、なによりも輝いていたたった三年の日々を手離す時がもう目の前に迫っているだなんて。
唐突に立ち上がったオーシャンが、宵の広がる空に向かってうんと伸びをひとつ。
「この春は、僕にとっての集大成なんだ。やりたいことは全部やった。伝えたいことは全部衣装にこめた。みんなもきっと受け取ってくれたと思う」
彼の確信に嘘偽りはない、事実だとも思う、けれど、
「僕は全力をこめた。だから悔いはないんだよ、グローリア」
「─…本当に、」
けれど、握りこまれた彼の指がどうしようもなく震えていたから。
「本当にそれでいいの、オーシャン」
グローリアの眸がようやく、夕陽の色を宿した彼の眸を捕らえる。怯えたような表情で竦む彼はきっと理解しているのだ、彼女の言わんとしていることを。彼はまだ想いを遂げていない、あれだけ求めた海にふれてさえいない。だというのにそのすべてを押しこめ寂しく笑うなんて、大切な仲間である彼が消えるなんて許さない。彼はもう、狭い世界で奇跡を待つばかりの憐れな金魚ではないのだから。
「少しでも悔いがあるなら願って。少しでも違和があるなら抗って。わたくしたちにはその権利がある、自由がある、だって、だってわたくしたちは──ひとなんですもの」
夕陽色が揺らめく、解を乞うように、導きを待つように。けれどその答えは自分自身でしか見つけられないことを、グローリアはよく知っていた。
「僕、…僕は、」
ひとつ、またひとつ、歯止めのきかなくなった雫が願いとともにあふれていく。
「まだ、戻りたくない、ねえグローリア、僕はまだ、みんなと生きていたいよ…っ」
縋りつく彼の涙が肩口に滲む。体温を持たないはずの身体はあたたかかった。
(自分に嘘はつかないで)
2020.5.28
68.
静寂にとける息遣いに自然、耳を澄ませていた。
「進捗はどう、グローリア」
「もう一箇所繕ったら終わろうかと思って」
グローリアが針を進める傍ら、書類をめくる音がまたひとつ。終わったら声をかけてちょうだいね、そう返したカルロッタはまた資料に視線を落とした。
グローリアはもう一週間ほど自室に戻っていなかった。ショーを終えたその足で隣室の扉を叩き、カルロッタと他愛のない話を交わしながら各々の作業を進め、共にベッドにもぐり朝を迎える。部屋に居座るグローリアを、部屋の主は拒絶も咎めもしなかった。
衣装のほつれの修繕が終わり、針を置いたグローリアはぐ、と伸びをひとつ。天井に伸びた両の手にひやりとした指がふれる。恐る恐るといったふれかたは相変わらず。
「まだ声かけていないわよ」
「もう終わったんでしょ。それならいいじゃない」
どちらからともなく指を絡める。引き寄せられるまま立ち上がりベッドに雪崩れこむ。律儀にも毎晩同衾するカルロッタが果たして本当に眠っているのかどうかはわからないけれど、どうか夢に沈むことができますようにと。今夜もひそやかに願いをかけながら、彼女の心音を頼りに夜をたぐり寄せた。
(夜はあなたに似ている)
2020.5.29