69.  彼が抱えていたのは見覚えのある帽子だった。 「あっ、いいところに! そいつ捕まえてくれないか!」  息せき切って現れた帽子の持ち主が叫ぶ。言われずとも、帽子を抱えた彼はとっくにグローリアの肩によじ登っていた。いつもは隠している中足まで使って帽子を抱きこむ様子はどこか切実ささえ感じる。普段の元気にあふれた彼からは想像もつかないその姿に、グローリアは首を傾げ、ヒューゴーは困ったように眉尻を下げる。 「ずっとこの調子で逃げ回っているんだ」 「ねえ、なにかあったの。理由もなくこんなことするあなたじゃないでしょう」  グローリアの優しい問いかけに、ぺしょりと垂れる両耳。大きな眸がまずグローリアを見つめ、ヒューゴーに視線を移し、観念した風にそっと伏せられる。 「ヒューゴー、もう、オハナ。オハナ、ずっといっしょ、なのに」  窺うように、絞り出すように。肩に乗る小さな彼が発した声に胸がぎゅうと締めつけられる。聡い彼は察しているのだ、三年間家族同然に過ごしたヒューゴーがいつかどこかへ消えてしまうのだと。どうしようもない現実を、知ってしまっているのだ。  ヒューゴーが近付くたび鋭い歯を剥き出す彼はきっと怯えている、恐れている。肩にふれる足にそっと手を添えたグローリアはただ宥めることしかできない。  そんな彼に、ヒューゴーはやわらかに微笑みかけた。 「大丈夫だ、俺はどこへも行かないよ。だから今日はもう休もう」  訝しむ彼はじ、と帽子を見つめる。彼がなにを思っているのかはわからない。けれど大人しく帽子を差し出した彼は、なにも言わずにグローリアの肩を後にした。  帽子を取り戻したヒューゴーは、定位置に落ち着けずじっと視線を落としている。 「…参ったなあ。嘘、ついてしまったよ、俺は」  ふ、と。こぼれたのは苦笑と後悔。誠実な彼が、恐らくははじめて吐いた嘘だったのだろう。花壇に座りこんだ彼が深く息をつく。  少し前までの彼であればあるいは真実を告げていたかもしれない。自身は春の終わりとともにこの身を失うのだと。もうこれまでのように傍にはいられないのだと。傍にはいられなくてもきっと心で繋がっているからと。その言葉に嘘はないのだろうし、本心なのだろう。けれど、大切なものたちとの別離を現実として受け入れなければならなくなったいまは。その恐怖を知ってしまった、いまは。 「なあ、グローリア」  こぼれた声はどこか濡れた気配を孕んでいて。 「命を欲した愚かな木偶の坊の話を知ってるか」 (残酷なまでのやさしさが、あなた自身を苦しめている)  2020.5.30
70.  はじまりは鼓動にも似た振動。  彼が目覚めたのは火山の深奥に据えられた廃棄場だった。作業員がそこらに散らばる廃棄物で暇を潰した末に生まれたのだろうか。理由は知る由もないもののとにかく、命を持たないただの木偶であるはずの彼の五感だけは明瞭だった。  つぎはぎだらけの身体も、鼻をつく鉄のにおいさえも彼は誇りに思っていた。けれど周囲に積まれた鉄屑たちをアートとしてよみがえらせることができたら、時折目にする煤けた作業員たちを飾れたならどんなにか素晴らしいだろうかと。いつしか彼は夢見るようになっていた、まるで人間のように。  きみのその忍耐力が必要なんだ。いくつ針が回っただろうか、唐突に現れた彼は手を差し伸ばした。きみのそのひたむきさを借りたいんだ。  迷いはなかった。気付けば身体に生がみなぎっていた。打ち捨てられたものたちに手を加えアートとして生まれ変わらせた、はじめてふれた外の世界で志を同じくするものたちに出逢った、ただの木偶として存在するだけでは知り得なかった感情があふれる、これが幸福、これが高揚、ああこれが生きることかと全身で実感する。  他との接触よりも自身の意匠をかたちにすることばかり望んでいたはずの彼はいつの間にか、かけがえのない仲間に囲まれて過ごす季節をいっとう慈しむようになっていた。 (アートこそ俺のすべてであったはずだった)  2020.5.31
71.  彼の視線は海の向こうで唸りを上げる火山にまっすぐ注がれていた。彼の生まれ故郷。彼のアートの源である居城。多くの知恵と創造を与えてきたその場所がいま、彼になにを語りかけているのか、グローリアにはわからない。  彼と同じく花壇に腰かける。時折吹き抜ける風が、血に似たにおいを運んでくる。 「俺はな、グローリア、本来ここにあってはならない命なんだ」  淡々と落ちる言葉はグローリアに向けられているのか、自分自身に言い聞かせているのか。陽光を受け鈍く光る彼の眸は依然前を見据えたまま、頑なに振り返ろうとしない。 「たとえ仮初の命だとしても、俺は欲しかったんだ。身体から湧き上がるこの想いを、情熱を、どうにかしてかたちにできれば、それでよかったんだ」  グローリアが痛ましそうに目を細める、だって彼女も同じだったから。  次から次へとあふれ出る色を、イメージを、空想ではなく衣装として実現できるだけでよかった、最初は本当にそれだけを願っていた。けれども彼の、そうして彼女の最大の誤算は、外の世界を知ってしまったことだった。ひとりきりでただ打ちこんでいれば未練など残らなかったのかもしれない、後悔など存在しえなかったのかもしれない。  彼の視線が初めて、隣に座るグローリアを映した。眸に閉じこめられた像が揺れる。ぼろぼろこぼれ落ちる大粒の雫に、おかしいなあと、眸を濡らした彼がわらう。 「大切なものができてしまったんだよ、グローリア。君に、あのふたりに、みんなに、出逢ってしまったんだよ。なにも持たなかったはずの俺が、なによりも大事なひとたちを見つけてしまったんだよ、なあ、おかしいだろ」  俺はつぎはぎだらけのただの人形なのに、ひとではないのに。言外に含まれた叫びに、彼女は静かに首を振る。だれかと出逢い、だれかをいとおしみ、だれかを失いたくないと願う。至極真っ当な祈りを持ってはいけないとだれが決めたというのだろう、だって彼は、彼女は、いまここで息をしている、大切ななにかを想って泣いている。その感情に締めつけられている彼が、ひとでないならなんだと言うのだろう。 「だれかと離れたくないと、だれかと生きていたいと願うことを咎められるだなんて、そんなの納得できないわ。それが運命だって言うなら、運命なんてくそくらえよ」 「はは、君の口からそんな言葉が出るなんてな」  目尻に皺を刻む彼の眸はけれど雫があふれて止まらない。決壊した願いが、想いが、彼のあごをつたって衣装を濡らしていく。俺は。震える男の身体にそっとふれる。彼のために、グローリアはそっと視界を閉ざす。 「俺は、君たちと、みんなと、別れたくなんてないんだ…っ」  鼓膜を打つ切実な慟哭が夕闇にとける。肩に押しつけられた額はあたたかかった。 (運命なんて、だれかに決められるものじゃないんだから)  2020.6.1
72.  てっきり彼は断罪すべくやって来たのだとばかり思っていた。 「なんだか、こうしてふたりで話すのは久しぶりだね、グローリア」  拍子抜けするほど朗らかな声に肩の力が抜けていく。  彼と遭遇したのはホテルのラウンジだった。少しだけ時間をくれないかな。そう呼び止められ、彼の目の前に腰を下ろす。何度か訪れた曖昧な空間で、声を、姿を見かけたものの、現実世界の彼とこうしてきちんと対面するのは、先程の言葉通り久々のことだ。  普段は人通りの多いはずのラウンジが、いまばかりは人っ子ひとり見当たらない。  わざわざ引き留めたほどだ、込み入った話なのは明白だった。グローリアはわずかに身構える。彼はグローリアやあの三人に、ひととしての姿を与えた張本人だ。そんな彼が、自然の理に抗いひととして未来を生きようと足掻く彼女の罪を断ずるのではないか。不安に襲われるグローリアに向かって、彼は和やかな微笑みを湛えたまま。 「きみはいつも、自分自身の力で真実をたぐり寄せるんだね」 「…いつも?」 「そう。いつも、何度だって、きみは諦めなかった。きみは春の先を目指してきた」  奇妙な言い回しに疑問を覚えるグローリアに対し、彼は穏やかな口調で言葉を続ける。なにもかもを見透かす深い眸が彼女をとかしこむ。 「終わる春に唯一異を唱えたきみは春を繰り返した、気が遠くなるほど何度も何度も。そんなきみを、ぼくはずっと見てきたんだ」  彼が告げる事実に眩暈を覚える。どれだけ春を生き、そうしてどれだけ三人との別離を経験してきたのか。一度だけでも身を裂かれるほどだったというのに。想像しただけで怖気が走り、グローリアは身体を震わせる。  けれど、それならばなぜそのたった一度の記憶しか残っていないのだろうか。これは彼女の憶測に過ぎないものの、恐らくは何度も春を生きるための処世術だったのだろう。それまでなぞった春を忘れることも、幼少期の記憶が存在していることも、自身をひとだと信じていたこともすべて。 「前回の記憶を持ってまた春を迎えたことは、今回のきみにとって最大の僥倖だったよ」  グローリアの思考をすくうように発した彼の声には、驚きと感心が混ざっていた。 「いつもは自分を守るために記憶を手離していたきみが、今回だけは記憶をそのままに再び春に目覚めた。だからこそきみは行動を起こせた、あの三人の心に訴えかけることができたんだ」  興奮を隠せない彼に、どこか得心がいく。記憶にある春の終わり──彼が言うところの前回の春では、ひととしての姿を失う三人を前にただ涙を流すばかりだった。  けれどその春を覚えていたからこそ、すべてを変えるために行動することができた。惑いながら、傷つきながらそれでも、春のその先を四人で迎えたいのだと。  そんな彼女を、彼はどう思っているのだろう。先程感じた恐れがまた頭をもたげる。ひとときの命を与えたのが彼であるなら、あるべき姿にかえろうとしない彼女の存在を良しとしておくはずがないのに。 「きみは勘違いをしているだろうけど、」  グローリアの不安も疑問もお見通しの彼は笑う。全身を包みこむ安堵に、彼女はふいに思い出す。ああそうだ、すべてを許し、すべてを愛するこの表情に何度だってすくわれてきたのだ。 「きみたちがその姿を得たのはぼくの力じゃない。きみたちが願ったから、きみたちが祈ったから。ぼくはほんの少し手助けしただけだよ」  話は終わりだとばかり立ち上がった彼につられて視線を上げる。差した照明の眩しさに目を眇めた彼女に降るやわらかな声は、なぜだか喜びに満ちているように聞こえた。 「ねえグローリア、きみは、きみたちは、もう紛れもなく、ひとなんだね」  そうして再び視界を開いたときにはもう彼の姿はなく。取り残されたグローリアは息をひとつ、きっとひとり夜景を眺めているであろうそのひとに会うべく腰を上げた。 (わたくしたちの選択次第で未来が変わるというのなら)  2020.6.2
73.  彼女はごくごく普段通りにグローリアを招き入れた。 「今日は遅かったのね。だれかに引き止められでもしたのかしら」 「…ええ、少しね」  ベッドに腰かけたグローリアの目の前で足を止めたカルロッタが顔を覗きこむ。宵の眸にきざした不安。ああこのひとはいつもわたくしの心配ばかりするのね。思ったのはそんなこと。あの日だって──記憶にある春の終わり、自身が蝶へとかえる瞬間でさえ彼女は笑っていた。グローリアがこれから迎える季節がどうか健やかでありますようにと願っていた。いつも、いつだって、祈るのは想い人のためにだけ。 「今日はコーヒーを飲む気分じゃなさそうね。お酒でも持ってきましょうか」  離れていこうとするカルロッタの手首を掴む。思っていた以上の力をこめてしまっていたのだろう、振り返った彼女が驚いたふうに目を丸めた後、大人しく隣に収まった。  なにかを話すためここへ来た、けれどなにを、どこから。思考がまとまってくれない。けれど言葉を選ぶにはもう時間が足りなかった。 「わたくしね、─…春を、繰り返しているの、もう何度も」  しん、と。満ちる静寂に、押し殺したカルロッタの呼吸がとける。それでも想像していたより反応が薄いのは、恐らく彼女もある程度は予想を広げていたのだろう。 「どうして」 「わたくしもすべてを覚えているわけではないのだけれど。…理不尽だ、って思ったわ。これだけ眩しい世界を見せておいて、信頼し合えるひとたちに出逢わせておいて、そのすべてを取り上げるだなんてあまりにも残酷だわって」 「けれど、それが本来あるべき姿だもの」  いまだ繋がれたままの手首を見つめたカルロッタは、あくまで淡々と続ける。仮初の命を与えられているいまが間違いであり、元の姿にかえることこそ正しいのだと。横顔からは感情が窺えない。彼女がなにを想っているのかが手繰れない。 「私たちは自然に逆らっているのよ、グローリア」 「…どうして、」  先程のカルロッタと同じ疑問詞を、今度はグローリアがこぼす。どうしてこんなにも諦念に憑りつかれているのか。どうして、 「どうしてあなたは、これ以上の未来を望まないの」 「どうして、だなんて」  ふと、向けられた宵色の苛烈なまでの感情に射抜かれる。頑なに抑えてきていたように見えた彼女の心がはじめて覗く。悲しみの色だと、思った。 「祈ったって聞き遂げられないからよ、グローリア、私の祈りはなにも」  握った手首が堪えようもなく震える。包みこむことさえ拒むように激情があふれる。 「私だけがこの姿を失うのならよかった、あなたがこの世界で息づいてくれるならそれだけでよかったの。けれどあなたも命を枯らす運命なのだと、春より先を生きられないのだと悟って、ああ、どれだけひとであれと願ったか、どれだけ祈ったことか。それなのにあなたは絶望の春を繰り返してる、たったひとりきりで、ねえ、どうして、」  痛いほどの後悔が、憤りが、愛が、頬をつたってシーツをにじませていく。 「春のその先を自由に飛ぶことのできるあなたがどうして、生きてくれないの…っ」  あふれる大粒の雫に宵色の眸が溺れていく。声が震えてしまわないように、あるいはなにかをこぼしてしまわないように。きつく噛みしめたカルロッタのくちびるに強引に口づける。身をよじる彼女の後頭部を押さえてもうひとつ、ふたつ。溺れるならせめて悲しみではなくわたくしに。恨みを募らせるのではなく希望を見いだして。頑固なくちびるを割りながら、グローリアは願いをかける。願ってばかりの春だった、けれどこれが唯一の手段であり最大の武器だった。身を焦がすほどの願いから生まれた身体であるなら、春の先に進む手立てもまた、願いのなかにあるのではないかと。現にグローリアは抗った末にまだ春のただなかにいる、けれどひとりでは先に進めない、だから、 「カルロッタ、きいて」  びくりと、カルロッタの抵抗が止む。思い出すのはあの日の願い。目の前のそのひとが、消える間際に残した切実な祈り。 「あなたは夏を、秋を、冬を、そうして春を。めぐる季節をわたくしだけはどうか自由に生きられるようにと願ったけれど。でもね、わたくしはいやなの。あなたと、あなたたち三人と一緒じゃなきゃいやなの。もう、ひとりはいやなの」  ひとりきりの額縁で、生きているのかどうかもわからずただ漫然と存在していた花は、ようやく得た大事な瞬間を失いたくなかった、大切なひとたちとともにいたかった。 「だから諦めないでよ、願いなさいよ、この先を、未来を。わたくしとともに生きたいって、ねえ、カルロッタ」 「…私、は、」  震えるくちびるが必死に答えを探す。自身の心の内から、願いを、希望を、未来を。 「私は、─…あなたと離れるなんて、いや、いやよ。みんなと、グローリアと一緒に、次の季節もその先も、歩んでいきたいの…っ」  にじむ視界でただ手を伸ばし、腕のうちにきつく抱き留める。幼い子供のように声を上げるカルロッタの肌にくちびるを落とす。抱きしめた身体は、あたたかかった。 (願いはひとつなの、わたくしも、あなたも)  2020.6.3
74.  珍しいこともあるものだと、ひとり取り残されたグローリアは呆気に取られた。  はじめに見かけたのは木洩れ日色の猫。楽しそうに尻尾を揺らめかせながら、あひる口を忙しなく動かしている彼となにやら話しこんでいた。楽しそうね、なんの話をしているの。ひょいと覗きこんだ彼女に、けれど彼らふたりは飛び上がらんほどに驚いた。謝罪する間もなく逃げ去る背中を見つめ、グローリアは首を傾げる。  不可思議なことは一度ではなかった。姿かたちのよく似た栗鼠たちも、犬耳を揺らす彼も、いちご色の毛並みの彼女も、そうして最初に見かけた彼の恋人でさえグローリアを見かけるやいなや一目散に駆けてしまう。 「気を悪くしないでちょうだいね」  まさか知らぬ間に怒らせたのかと考えこむグローリアの視界を彩る水玉のリボン。 「なあに。まさかあなたも一枚噛んでるのね」 「それはまだ言えないけど。いつかあなたたちにもきっと見せてあげるわ」  その披露する場面を想像でもしたのか、くすくすと嬉しそうに笑う彼女の意図は掴めないものの、つられたグローリアの頬もゆるむ。あなたたち、と彼女は指した。企みを明かされる瞬間をどうかあの三人とともに迎えられますように。ひそやかなグローリアの願いを聞き遂げるように、目の前の彼女がうふふと声を洩らした。 (積み重なった願いをどうか拾って)  2020.6.4
75. 「どこへも行きはしないから安心して」  まるで心の内を読んだかのような笑みに、グローリアは安堵の息をつく。  夕暮れに沈む海を眺めるカルロッタの背が、春の終わりにとけたあの瞬間と重なって見えた。儚さをまとう姿に焦燥を覚えたグローリアを、振り返ったそのひとは一蹴する。芯のあるその言葉は以前の、どこか揺らいでいた彼女とは別人のよう。 「…いよいよ明日ね」  隣に並び立ち、そう口にすれば、たしかな実感が降ってきた。  二ヶ月半続いた春の祭典も、明日でいよいよグランドフィナーレを迎える。岸のあちこちではまだ、モデルやスタッフたちが準備や打ち合わせを重ねていた。グローリアにとっては─記憶にある限りは─二度目となる終演。覚えのある光景、けれどあの日とは確実に心境の違うふたり。ひとには未来を見据えるよう言っておいて、自分こそ過去に縛られすぎていたのかもしれない。  肩の緊張をゆるめたグローリアの指にふれる、あたたかな体温。 「明日。最高の一日にしましょうね、グローリア」 「ええ。わたくしたちみんなで、ね」  きゅ、と指を握りながら、夕陽が水平線にとけるその瞬間までずっと見つめ続けた。 (どうかこの指がはなれてしまいませんように、)  2020.6.5
76.1  目覚めを運んだのはやわらかな陽射しだった。 「おはよう、私のねむり姫」  見知った宵色の眸がやわらかな笑みをかたちづくる。またたきをひとつふたつ、焦点を結んだグローリアが目をこすり、おはよう、とまだ夢見心地に返す。  春の陽光だ、と思った。最近めっきり強くなった夏の気配も、朝ばかりは春に存在を譲っているようだ。やわい陽だまりが体温をじわりと上げていく。 「…ねなかったの」 「いいえ、少しだけど寝たわ。久しぶりに夢まで見た気がするの 「どんなゆめ」  まだ拙い舌で尋ねるグローリアのくちびるに降るぬくもり。わずかに距離を置いて、ふ、とゆるんだ口元がまた落ちてくる。 「教えてあげない。だって口にすると正夢にならないんでしょ」  グローリアの頬にも笑みが移る。カルロッタがどんな夢を見ていたのかはわからない、けれどしあわせな夢だったのだろうと思う、しあわせな夢であればいいと願う。  ふと振り仰いだカルロッタは、眩しそうに宵色を細め微笑んだ。 「──いい春日和ね、グローリア」 (エンドロールのはじまり)  2020.6.6
76.2  外は春。紛うことなく春。花は開き風は歌っている。  そこかしこに春が咲き乱れる街並みを、ふたりは歩いて移動した。今日のショーの話、あのふたりの話、モデルたちの話。とりとめのない話題をとつとつ落としながら春への道をたどる。早起きの子供たちが春色の服を纏い駆けていく。そんな子供たちを横目に微笑むふたりの視線の先、見知った彼らが挨拶代わりに手を振った。 「遅いよふたりとも。寝坊でもしたの?」 「いやオーシャン、俺たちが早すぎただけだよ。まだ陽も昇ってなかったじゃないか」  船が停泊している桟橋へ連れ立てば、待ちくたびれて頬をふくらませるオーシャンと、そんな彼を宥めるヒューゴーに出迎えられた。到着したグローリアは苦笑交じりに息をつく。まるで子供みたいね。思ったのはそんなこと。  こうして四人でショーを行うのは祭典初日以来だった。あの日──アートの象徴でもある帽子や仮面を残して去った三人に再会したあのとき。置かれた状況さえ呑みこめずただ春に身を任せるしかなかった。けれどいまここに立っているグローリアには願いがある、希望がある、彼らがいる。それだけでもう、不安も恐れも消えていた。  まだ何事か会話しているオーシャンたちを尻目に、遠く対岸へと視線を向ける。眩いばかりの春色と、その場所に満ちる人々の熱気に、興奮に、自然と背筋が伸びる。  鐘が鳴った。祝祭の兆し。春を告げる軽やかな音。終わりの始まりに、彼らの表情が引き締まる。それぞれの帽子を、仮面を、大切に手に取る。 「いよいよだな」  籠手をきゅ、と引き下ろすヒューゴーの、ねずみ色の眸が意思を宿す。 「随分待たされたもんだね」  襟を正し、口角をゆるめるオーシャンの、夕陽色の眸が輝く。 「私たちの春よ、グローリア」  ほんの一瞬、グローリアの指にふれたカルロッタが、宵色の眸に笑みを灯す。  最後だとは、だれも口にしなかった。だれもが春の祝祭のその先を望んでいた。互いに視線を見交わし、笑い合って。各々のアートをかざした船へと乗りこんでいく。すでに乗船していた自身のモデルたちに微笑んだグローリアも、船の頂上へと上りつめる。  波ひとつない海にゆっくり漕ぎ入れる。木陰を抜けた途端、差した眩い陽射しにうんと両腕を広げ、息をひとつ。春。紛れのない春に心が躍る。いっとうすきな季節に別れを告げるのは後回し、この爛漫の春を彩るためにすべきことが彼女にはある。  ハーバーの中央、期待の渦の中心で、水面色の眸を現した彼女は息を吸いこむ。 「──皆様、ようこそ!」 (眸が、心が、全身が、春を叫んでいた)  2020.6.6
76.3  声も、出せなかった。  春の陽射しが降り注ぐなか、岸を埋め尽くす観客の前で各々渾身の衣装を披露した。芽吹く花のように可憐なアールヌーヴォー。はじける泡をとかしこんだアクアポップ。蝶のはばたきを象ったマジックリアリズム。躍動を秘めたスチームパンク。ひととして、ファッションアーティストとして全力で生きた三年間の集大成がそこにあった。  ライバルだと、グローリアは照れ隠しに笑った。はじめて出逢った志を同じくする者たちに敬意をこめて。仲間だと、オーシャンは試すようにグローリアの顔を覗きこんだ。巡り合うはずのなかった者たちがこの広大な海のおかげで出逢うことができたのだと。心は同じリズムを刻んでいるのだと、カルロッタは噛みしめるように微笑んだ。出自や信念が異なろうと高鳴る鼓動は一緒なのだと。目指すものは同じなのだと、ヒューゴーは喜びを露わに語気を強めた。ここにいる全員の思い描いている場所に共に歩んでいくのだと。時にぶつかり合い、惑い、苦しむことがあろうと、それでも彼らは、彼女たちは共にあるのだと。偉そうに、と口を尖らせるグローリアもまた、考えは同じだった。  顔を見合わせいっとき、ここが舞台であることも忘れて笑みを交わす。四人の成長を見守っていた観客たちにも安堵と喜びが伝播していく。長らく続いたショーもいよいよ大詰め。グローリアが春の祭典の終わりを宣言して終演する流れだった。 「次はぼくたちの番だね!」  ふいに彼の声が響いた。  予期せぬ言葉に目を丸めたグローリアが、困惑をそのままに疑問を呈す。 「きみたちがもっと仲良くなれるように、プレゼントを用意したんだ!」 「プレゼント?」  四人の声が重なる。どうやら全員が疑問符を浮かべているようだ。ちょっと待っててね、と言うが早いか、喜び勇んで駆け出した彼らが次々に乗船し、船内へと消えていく。けれど彼らが飛び乗ったのは、海へ漕ぎ入れた時とは異なる船。 「いったいなにが起こるんだ」  同じく驚きを声に乗せたヒューゴーがグローリアに戸惑いの表情を向ける。 「でも、素敵な予感」  予定外の行動に、けれどカルロッタは声を弾ませている。 「胸がポプポプしてきたよ!」  期待に揺れる心を独特に表現したオーシャンが、船をよく見ようと飛び跳ねる。  彼らが一体なにを企んでいるのかはわからない、それでもなぜか胸の奥の奥が燃えるように熱い。期待と、希望と、予感が、鼓動を震わせる。  そうして船の頂上に踊り出た彼らを前に、驚愕の声さえ、どこかへ転がっていった。  姿のよく似たふたりの栗鼠が、あひる口を得意そうに反らした彼と彼女が、木洩れ日色の仔猫が、やわらかな眸を湛えた犬耳の彼が、いちご色の毛並みの彼女が、そうして三年間グローリアのモデルを務めあげた彼と彼女が、いままでと異なるアートで彩った衣装を身に纏って現れたのだ。  ヒューゴーが、オーシャンが、カルロッタが、驚きと喜びを口々に音にする。呆然と見つめるばかりのグローリアはようやく、つい先日目にした微笑みの意味を悟る。彼女たちが秘密裏に進めていた計画はこれだったのだ。グローリアたち四人を喜ばせようとして、そしてきっと、彼女たちなりの感謝を伝えようとして。  舞台から駆け下りたヒューゴーの背を見送ったグローリアが胸を押さえる。  記憶にある春のなかで、こんな出来事ははじめてだった。新しい輝きを前に、なにかが始まる予感がした。なにかが変わった気配がした。今回こそきっと、繰り返すのではなく、まだ見ぬなにかが起こるのだと、そんな確信が胸を突く。  下船してきた栗鼠たちがグローリアの隣に舞い戻り、に、と歯を見せて笑う。サプライズの成功を喜ぶふたりに、彼女の胸も高鳴る。  眸を閉じる。花が開く、風が歌う、たしかな命のはじまりを感じる。  ふ、と。振り返ったグローリアの眼前で輝く大勢の眸。万雷の拍手が鳴り止まない。彼女が、あの三人が、ここにいる全員が、その瞬間を待ち望んでいる。  息を、ひとつ。舞台の中央へと歩みを進めたグローリアの眸が凛と澄む。 「─…皆様、」  声を、震わせないように。けれどどうしようもなく歓喜が滲む。期待がこみ上げる。見たことのない輝きが明日へ、未来へ向かってあふれ始める。 「いよいよ、クライマックスです。わたくしたちの最高にグローリアスで、」  告げるは最高密度の春。 「最高にポップで!」 「最高に力強く!」 「最高にハッピーな、セレブレーションの始まりだ…!」  終わってはまた芽吹く命のはじまり。花にも、蝶にも、金魚にも、人形にも、等しく訪れる最高の瞬間。彼女たちはこのために生きている。この瞬間のためにここに立っている。未来へと繋がる道を歩んでいる。  心に突き動かされるまま、グローリアは歌う、命の輝きを、明日への希望を、未来への祈りを。そんな彼女たちを、春の陽光はただあたたかく照らしていた。 (A different adventure, brand new day)  2020.6.6