す、と。切れ長の眸を細めた彼女はどうやら、今夜のターゲットを据えたようだ。
空に向かって伸びた両耳を、まるで意図を張り巡らすようにぴくりと動かし、妖しく口角を上げる。オールグリーン、狩りを行うに際する問題は一切無い、否、たとえどんなものが立ちはだかったとして、彼女を阻めるものはただの一つだってないのだが。
身を屈め、闇から闇へ、足音を潜め歩みを進める。人の身を取った今でさえも、目標の背後に忍び寄ることは造作もなかった。
難なく背中を取り、そ、と。耳元にくちびるを寄せる。
「──こんばんは、子猫ちゃん」
言葉はたった一つだけ。それ以上かけたとして、相手にはきっと届いていないだろうから。
倒れ込んできた女性を腕に抱き留め、地面にやさしく横たえる。
垂れてきた横髪を耳にかけた彼女はそうして、女性から抜き取ったハート型の“心”をくるり、手中で回し。
一口、かじる。
「…この子のも違うみたいね」
眉をひそめ、そう言い捨てた彼女はまた闇を駆ける、本物の“心”を探して。
(果たして本当にあるのかさえ、わからないけれど)
2016.10.16
「あー、もうっ」
飲み干したジョッキを机に叩き付けた娘はそう叫ぶと、そのまま上体を倒し突っ伏してしまった。
その切れ長の眸で、カウンター越しの私を睨み付ける。
「まだ見つからないのかい、お探しの“心”とやらは」
「でなきゃこんなところ来てないわよ」
だからといって私に八つ当たりされても困るのだが、それを口にしてしまえば、この猫娘のことだ、恐らく余計にヘソを曲げ、また代金も払わず帰ってしまうに違いない。どうにもこの娘の気分は変わりやすいのだ、まったく扱いにくい。
そもそも何故、“心”とやらを探し求めているのか、詳しく訊ねたことはない。夜な夜な女性たちの身体から“心”を抜き取る彼女が、だが目的のそれに行き当たれずここを訪れることだけが、確かな事実だった。それだけで十分だった。
不明瞭な呻き声を上げる猫娘に気取られぬよう、ため息を一つ。
「試しに、私の“心”でも抜き去ってみるかい?」
「─…あんたのは絶対に違うだろうからいいよ」
“心”を抜けば魂も無くなってしまうから、と。そっぽを向いた彼女の声は、聞こえないふりをした。
(私だってもう少し、この娘の八つ当たりに付き合っていたいから)
2016.10.16
「キャロルばっかり見下ろしてきてずるいです!」
「じゃあなたも見下ろせばいいじゃない、わたしのこと」
たしかそんな会話が始まりだった気がする。
わたしとしては、頭を撫でるにも表情を窺うにもちょうどいいこの身長差を気に入っているのだけれど、どうやらこの小さな天使さまはいたくご不満らしい。
頬をふくらませたまま階段を一つ、二つ、三つほど上ったところでくるりと振り向き、どうだとばかりに両手を腰へ。
「はいはい、かわいいかわいい」
「ねえ、ちょっと。そういう反応が欲しいわけじゃないんですけど、わたし」
上機嫌も束の間で、また頬に空気を溜めてしまっていた。その仕草さえかわいらしいということに一体いつ、彼女は気付いてくれるのだろうか。
一つ、二つ。下ってきたテレーズはそうして、ぽん、と。やわらかな感触が頭に降ってきたかと思えばそのままがしがしと髪をかき乱される。
「えっ、ちょ、テ、テレーズ!」
「ふふ、いつもの仕返しです!」
小さな手から逃れ抗議の声を上げれば、そんな些細な仕返し一つで笑みを広げた天使が見下ろしてきていて。
たまにはこの眺めもいいかもしれない、なんて。
(だから、たまには見下ろされてあげてもいいわよ)
2016.10.16
エルサみたいだと、思った。
「私はいやよ、月なんて」
「なんでわかったの」
「大体のことは想像がつくわ、あなたの表情を見れば」
なんだか姉さんの方が一枚も二枚も上手みたいで少し悔しい。なんて、そんな考えさえも、ふてくされてふくらんだ頬から読み取られそうで、慌てて息をつく。くすくすと笑いをこぼしている様子からしてもう手遅れみたいだけど。
月みたいだと、思った。ひとりで寂しい夜も、暗く寒い闇も、その身一つで照らしてくれるから。あたしの心に、やわらかな灯火を掲げてくれるから。
だというのに隣に腰かけるその人は、月はいやだと言う。だって、と言葉を続けて。
「あなたは、私にとっての太陽だから。太陽と月は決して出逢えないでしょう?」
どんなに凍りついた心も、深くに沈んだ身体も、その微笑み一つでとかしてすくい上げてくれるから、と。これからはいつだって傍にいたいから、月ではだめなのだと。それこそ、あたしをあたためてくれる太陽みたいな笑顔を浮かべて。
「─…ごめん、訂正。エルサは、太陽みたいね」
「ねえふたりとも、ぼくのこと忘れてない? 忘れてるね? 大丈夫だよ慣れてるから!」
(あたしの、あたしだけの、太陽)
2016.10.16
さらりと指をすり抜けていくやわらかな感触をひそかに楽しむ。
「なんだかくすぐったいわね」
「ふふ、じっとしていてちょうだいね、アナ」
わずかに身をよじる妹を窘める。櫛を使ってしまえばすぐに終わるのだろうけれど、なんだかそれももったいない気がしたので今回は暇を与えていた。
腰よりもさらに下へと伸びる豊かな髪を三等分し、順番に織り込んでいく。
目指すは、お利口に椅子に腰かけている妹の希望通り、私と同じ髪形。エルサみたいにしたいの、なんてかわいらしいことを言われてしまえば、手を貸したくなるのも道理というわけで。
「こうしていると、なんだか昔を思い出すわ」
「小さいころもこうして、姉さんに結んでもらってたわよね」
楽しそうな声が転がる、ただそれだけで、見えない妹の口元がやわく笑みに形作られている姿が想像ついた。
きっと彼女の記憶に生きる私たちはいつだって楽しそうに笑い合っているのだろう。
「アナさえよければ結ぶくらい、お安い御用だわ」
「やったあ! ありがとう、エルサ!」
どうかこれからも、昔以上に笑顔が咲きますようにと。願いをこめて、髪を織った。
(これからも、こんな思い出を紡いでいけますように)
2016.10.16
痛いほどの陽射しが、サングラス越しにわたしの眸を刺してくる。
「見てくださいキャロル、海ですよ、海!」
いても立ってもいられない様子で駆けだしたテレーズは砂浜で立ち止まると、くるりと反転、海を抱くように両腕を広げわたしに向かって叫ぶ。
はしゃいでいる姿がまるでリンディみたいで思わず微笑んだ。見咎められようものならきっと、子供扱いしないでください、だなんてふくれてしまいそうだけれど、海に夢中な彼女はきっと気付かないだろう。
鍵を閉め、車から離れる。
せっかくの夏だからと海に誘ったのはわたし。だっていつだか撮ったのだという海の写真を一心に見つめる彼女のその視線を、わたしが作り出したかったから。焦がれるようなその表情を、わたしにも向けてほしかったから。
目論見は見事成功したようで、海につま先を濡らされた彼女は喜びに細められたその眸をわたしに送ってきた。
「早く来てくださいよ、キャロル!」
「焦らないで、テレーズ」
夏はまだこれからなんだから、なんて。わたしの呟きもきっと、届いてはいないだろうけれど。
(痛いくらい、あなたがまぶしくて)
2016.10.16
「みてみて、エルサ! 雪!」
歓喜の声を上げたのが先か、駆け出したのが先か。一面の白を見とめたアナの足が途端に速度を上げた。
私のもので見慣れているはずだけれど、自然に降り積もったそれを前にするとやはり心が躍るのだろう。
少し、妬けてしまう、なんて言ったら、一体どんな表情をするのか。興味はあるけれど、いまはまだ胸の内に留めておくことにした。
城前の広場に飛び出した妹は、山のように積もった一角に腕を広げ倒れ込む。それからごろごろ転がり、全身を雪まみれにして。
幼い子供みたいに無邪気なその姿がかわいらしくて、上ったお小言はゲルダに任せることにした。
「ねえエルサ! せっかくだし、雪合戦でもしよ!」
「アナったら。もうそんな歳でもないでしょ?」
色付けされた息をそのままに誘いをかけてきたアナに微笑みかける。
私は女王。いまはもう開けたこの場所で、昔みたいに遊ぶわけにはいかないのだ。
そう思い向けた私の背に、けれど冷たい感触がぶつかってくる。負けず嫌いの血がふつふつとくすぐられて。
「もう、アナったら。──後悔しても知らないわよ」
「ちょ、エルサ、魔法ははんそ、わあっ!?」
(そうしてふたり、まるで子供のころみたいに)
2016.10.16
とてとて、と。部屋に響くかわいらしい足音に、それまで辿っていた本を脇に置き視線を巡らす。
「ぱぱー!」
呼称が届くのが先か、ふくらはぎ辺りに衝撃が走るのが先か。きっと同時だったのだろうがとにかく、いくらまだ幼いといえど全速力で突っ込んでくればわずかばかりの痛みは走るわけで。
気付かれないよう眉をそっとひそめ、小さな身体を持ち上げる。
「どうしたんだい、エルサ。なにか面白いことでもあったのか?」
「ぱぱ!」
高々と宙に浮いた状態できゃっきゃと手足をばたつかせ、私を呼ぶ。
別段私は面白いことをしているつもりもないのだが、どうにもまだ会話が交わせないようで、ぱぱ、ぱぱ、と。膝に乗せれば、小さな手をめいっぱい伸ばし生やしかけの髭を抓んでくる。そのかわいらしさだけで、それまでの質問も引っ張られる痛みもどうでもよくなってしまった。
ああいけない、幼い頃から王族のなんたるかを教え込まねばならないというのに、娘を前にするとどうしても頬がゆるんでいく。
この子が健やかに成長してくれるのならそれだけで、私もイデュナも嬉しいのだから。
「ままがね、おこってた、すっごく!」
なあエルサ、もう少しかわいさに浸らせてほしかったよ。
(行きたくないなあ、なんて愚痴を娘にこぼしてしまうとは)
2016.10.16
ぬくもりに意識を引き上げられた。
「─…える、さ、」
まだ、夢を見ているみたいだった。
無性に姉さんに会いたくて、だけど公務に身を投じている現女王の邪魔をするわけにはいかなくて。寂しさを紛らわせようと両膝を抱えていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまっていて。
しあわせな夢だった。ひとりぼっちのあたしにそっと近付いてくれた姉さんが額にくちびるを触れさせて、ぬくもりを移すみたいに背中をくっつけてきて。
寝惚け眼で恐る恐る背後を窺えば、見慣れた白銀の髪はたしかに姉のもの。
さっきまで沈み込んでいた夢からそのまま抜け出してきたみたいな姿は、またたいても消えることはない。
ああでも、姉さんはいまとても忙しいはずなのに。あたしのたったひとりの家族であるはずの姉さんはだけど、あたしだけの姉さんではないはずなのに。こうしてあたしに構っている暇はないはずなのに。
霞んでいく視界をごしごしと擦り、もう一度、目を閉じる。どうかあたたかな夢が続きますように、夢だけで終わりませんようにと。
ぬくもりはたしかにまだ、存在していて。
(きっと、たしかに、エルサはあたしの姉なんだろうな、って)
2016.10.16
ふ、と。突然のことに、思考が追い付いてこなかった。
「──あ、な?」
妹が、抱きしめてくる、なんて。
いいえ、嬉しくないわけではないの、むしろその逆。理解した途端心臓が動きを速め、いつも凍えるくらいの体温が急上昇、おまけに視界もちかちかと眩んで。
嬉しいに決まっている。ただ、十三年のブランクのせいでこの距離にまだ、順応していないだけ。
そもそも姉である私の方から距離を詰めようと考えていたものを、いざ行動に移す前に、まるで頭の中を読まれたみたいにぎゅうと抱き付かれたものだから気が動転してしまったのだ。
抱きしめ返さなくちゃ、そう思うのに、身体は抱き留められたままぴくりとだって動いてはくれない。この身体で全力で伝えたいのに、どれだけあいしているのかを、それだけ触れたいのかということを。
「…あの、エルサ?」
ちらと、不安そうに見上げてきたその表情になにもかもがショートしてしまって。
力が抜けていく、沸騰しきった脳みそはもうなにも考えられなくてただ、
「ちょ、ちょっとエルサ! 大丈夫!?」
私の妹はかわいいのだと、そればかり。
(昔だったらこんなこと、当たり前だったのに)
2016.10.16