76.4  花火の余韻がまだ残っているようだった。 「終わっちゃったわね」  ぽつりとこぼれたグローリアの言葉に足を止めた彼らは、それぞれ相好を崩す。 「終わったわけじゃないさ、グローリア」 「次の季節が始まっただけだよ」 「夏が、秋が、冬がきて、そうしてまた春が巡り来る。さみしくなんてないわ」  口々に落とす音のどれもこれもに、寂しさなど微塵も含まれていなかった。あるのは三年分のかけがえのない思い出と、未来への希望ばかり。グローリアの記憶にある春の終わりとはまるで正反対の感情たちに、彼女もつられて頬をゆるめる。  ふと遠くから響くオーシャンを呼ぶ声に、慌てた様子のそのひとは焦りを口にする。 「おっと、片付け手伝わないとまたどやされちゃう」 「もう行くのか」  思わずといった調子で洩らしたヒューゴーに、なに言ってんの、とオーシャンが笑う。 「すぐ会えるよ。だって僕らはいつだって、どこでだって、ひとつの海で繋がってるんだからさ」 「わかった、わかったから叩くんじゃない」  眉を顰めたヒューゴーが叩かれた自身の背中をさすっている間に、一歩二歩三歩と、オーシャンが駆ける。火山の稜線に消える間際の太陽が、海色の帽子をきらめかせる。どんなに眩しくとも、グローリアは目を瞑らなかった。彼が高々と片手を上げる。 「それじゃ、またあおーしゃーん!」 「ええ、また!」  いつかは交わすことのできなかった約束を、今度はきちんと結ぶことができた。遠目に見えた彼の表情が満足そうに綻び、そうして自身のモデルたちのもとへと走り去る。  海色の背中が人だかりに埋もれるその瞬間まで見送っていたヒューゴーが振り返り、帽子のつばをぐいと引き上げた。ゆるやかに持ち上がった口角が言葉を選ぶ。 「さよならは言わない、けれど感謝はさせてくれ。この三年間、特に今日までの二ヶ月半でなによりも生を実感した。生きることは、創造することはなんて素晴らしいのかと。そう思えるようになったのも、君たちのおかげだ。本当にありがとう」 「あなたってば、いつも大袈裟よね。こちらこそ、よ」  照れ隠しに苦笑を返しながら、差し出された手に自身のそれを重ねる。たしかなぬくもりに包まれ、人知れず安堵した。続いてカルロッタも握手に応じる。眸を見交わしたふたりは、示し合わせたようにぷ、と吹き出した。  和やかな空気のなか、踵を返したヒューゴーが片手を持ち上げる。 「それじゃあ、─…また、会おう」  期待をこめた彼の言葉が夕焼けにとけるまでずっと、手を振り続けた。  そうして残されたふたりは、どちらからともなく指を絡める。 「私たちも、そろそろ行きましょうか」  カルロッタの声を合図に、船着き場へと足を進めた。  街での撤去作業はほとんど終了しているようだった。建物のそこかしこを彩っていたイースターエッグやら花飾りは仕舞いこまれ、春色の服に身を包んだ人々はまだ興奮を表情に乗せ各々帰路についている。ああよかった。グローリアはほっと息をつく。わたくしたちの春はきちんと、みんなのなかに根付いているのね。そう考えたのは彼女だけではないようで、隣を歩くカルロッタも、街の様子を眺め頬をゆるめていた。  船着き場まであとどのくらいだろう。道筋を思い浮かべながら、とりとめのない会話を交わしていく。わたくしね、夏に行きたい場所があるの。私もご一緒させてもらえるかしら。あら、まだどこだとも言っていないのに。どこへだろうと行くわよ、あなたが一緒ならね。ふふ、じゃあわたくしのためにお休み取っておいてちょうだいね。未来の約束がどうか叶うようにと、あれもこれもを結びながらグローリアはひそやかに願う。  ふたりの足が同時に止まる。右へ進めば船着き場に行き当たる。 「─…グローリア」  数瞬の迷いを経て音になった名前に、ぎゅうと胸が締めつけられる。すぐにまたまみえる未来を信じている、けれど記憶の奥底にこびりついた不安がどうしたって頭をもたげる。これが永遠の別れになってしまったら、あるいはまた春を繰り返してしまったら。  グローリアの不安もなにもかもを見透かしたようにふわり、笑ったカルロッタの指があごをすくい上げる。至近距離に迫った宵色の眸にはたしかな光が窺えた。 「ねえグローリア。私はあなたとの出逢いを、春の夢で終わらせるつもりなんてないの」  くちびるが重なる。あたたかな体温に視界が滲みそうになったところでぽたり、頬に熱が降ってきた。 「だから、…また、会いましょう、必ず」 「…当然よ。カルロッタが会いに来なくたって、わたくしの方から会いに行くわ」  踵を持ち上げ、わずかに震える身体を抱きしめながら最後の願いをかける。自分が、そうしていとおしいこのひとがどうか、これから先の季節を自由に生きられますように。  過ぎ行く季節に取り残された春風がふたりをやさしく包みこむ。到着を知らせる船の汽笛が鳴るまでずっと、互いの体温を確かめ合っていた。 (ハッピーエンドの幕引きに、)  2020.6.6
77. 『拝啓カルロッタ・マリポーサ様  寒さが厳しくなってきた今日この頃、いかがお過ごしかしら。アメリカンウォーターフロントではようやく初雪に出会えたのだけれど、そちらはもうとっくに雪に埋もれていそうね。あなたは雪に心躍るひとかしら、それとも寒さに嘆いて引きこもってしまうひとかしら。わたくしは雪を眺めるのはすきだけれど、ねむくて仕方がないの。いっそ冬眠でもしたいところだけれど、残念なことに仕事は待ってはくれないわ。  ひとの身体って本当不思議。朝になれば目覚めて、三食に加えておやつまで食べたくなって、夜にはまぶたが重たくなって。だれかに会いたくて、だれかが恋しくて、だれかがいとおしくて。届かないと知りながら、けれどこうして筆を取ってしまう。道理にかなっていないのに、そのすべてを慈しんでしまうの。  ねえカルロッタ、まぶたの裏に焼きついたあなたの涙が、鼓膜にやさしく響くあなたの声が、全身を包むあなたの体温が恋しいわ。  あなたを想うがあまり時折、すべてを投げ捨ててしまいたくなるけれど、そのたびにあなたの願いを思い出すの。めぐる季節をどうか自由に生きられますようにって。切実な願いを、祈りをたどるためにわたくしは、いまできることを、いましたいことに全力を尽くして生きていく。ねえカルロッタ、いつまでも、どこにいても、あいしてるわ』 「──そりゃあ投函しなければ届かないわよねえ」  最後の一通まで音読し終えたカルロッタが、呆れと苦笑を滲ませる。  事前連絡無しの来訪だった。サロンに突然現れたカルロッタは、呆気に取られる従業員を横目にグローリアの私室へ一直線、スケッチブックと睨み合っていたせいで反応が遅れたその隙に、机に山と積んでいた手紙の束を奪い去ったのだ。  取り返そうと焦るグローリアの手をかいくぐり、どこか楽しげな調子の音読が始まる。高々と掲げられた手紙に追い縋っていたのも十通目まで。それ以降はもう諦めるより術がなく。 「どうして出してくれなかったの、手紙」  悔しさと恥ずかしさからとりあえずそっぽを向くグローリアに投げかけられる疑問。 「…だってあなた、仕事に追われて忙しそうだったじゃない」  春が終わったその翌日。季節を繰り返すことも元の姿にかえることもなく朝を迎えた。オーシャンとヒューゴーからは朝一番に電話がかかってきて、その無事を知った。もうひとりは鳩を寄越してきた。ようやく実を結んだ願いに喜びがあふれる。訪れることのなかった夏にやっとたどり着くことができたのだと。長きに渡って閉じこめられていた額縁の前でひとしきり涙を流したものだ。  さてそれからが怒涛の日々だった。  観客までも感動の渦に巻きこんだ春の祭典が大成功に終わったことで、元々高かったアーティスト四人の知名度は更に上がり、あれよあれよという間に仕事が舞いこんだ。落ち着いたらまた四人で集まろうという約束も果たせないまま季節はめぐり、気付けば雪がちらつく冬を迎えていた。  目が回る忙しさのなか、会いたい、などと口にできるはずもない。言えば無理をしてでもやって来るに決まっている。そう推測したグローリアは、せめて募った想いを昇華しようと手紙を書きつけた、それこそ机にうず高く積もるほど。文字に起こせば不思議と満足を覚えるもので、味を占めた彼女はそれから事あるごとに、読まれることのない手紙を量産していった。  それを、まさか目の前で本人に音読されるなんて。  苦笑したカルロッタは、椅子の背を抱きこむかたちで座るグローリアの頭を撫でる。 「一通もくれないから、筆を取る暇もないか、それともよほど私に会いたくないのかと思っていたんだけれど。あなたの秘書から手紙を貰ったの、主が恋しさを募らせているのでどうか、って。だから急いで案件を片付けて飛んできたってわけ」  唐突な来訪は彼の計らいだったのか。後で彼のすきな紅茶でも差し入れよう。  髪を梳く穏やかなぬくもりに負けてしまわぬよう、精一杯ふてくされて見せる。 「カルロッタが早く電話を引いてくれれば、声だけでも聴けるのに」 「そこまでひとの文明に染まりたくはないのよ」 「いじっぱり」 「お互いさま」  実に半年ぶりに感じる体温を前に、張った虚勢もなにもかも瓦解していく。ふわりと口の端をゆるめたカルロッタが、グローリアを腕のうちに抱き留めた。  邪魔をしたくなかった、それが彼女の本音。ひととしてようやくなんの憂いも恐れもなく生きられるようになったカルロッタがすきなことを思うままにできるようにと。  けれどそんな遠慮は必要なかったのだと、胸元から伝わる鼓動を感じながら息をつく。どうしようもなく会いたいことも、ぬくもりが恋しいことも、あいしてやまないことも、ひととして至極当然の感情なのだから。  ふ、と。呼ばれた気がして視線を上げる。見下ろすカルロッタの、澄んだ宵色の眸がいとおしさをこめてゆるむ。ああ彼女もきっと、同じ想いを抱いている。そんな確信に導かれるまま、自然とくちびるを重ね願うのはどうか、いつまでも共にと。 「ねえグローリア、いくつ季節がめぐろうと、いつだってすきよ、──あいしてるわ」 (あなたとわたくしの物語は終わらない)  2020.6.7
 随分と遅くにやって来たと思ったら、あろうことか大女優を抱えていたものだから、しばらく開いた口が塞がらなかった。 「カ、カルロッタ、いまあなたが乱雑に担ぎ上げてるひとがだれだか、」 「知らないわ。ただの面倒な酔っ払いだと思ってたけど違うみたいね、だれなの」  慌てるわたくしに首を傾げてみせながらぽい、とソファに放る。こらこらちょっと。あなたは知らないかもしれないけれど、いまやそのひとはそんな風に扱っちゃいけない女性なのよ。乱れた襟元を整えながら言い聞かせてもどこ吹く風、だからだれなのよ、と自身はベッドの端に腰を下ろしながらなおも尋ねてくる。 「カトリーヌよ。知らないの、あの大女優の」 「カトリーヌ」 「ほら、いまブームになってるラブロマンス映画あるでしょう、あのヒロインの」 「生憎と映画もテレビも雑誌も見ないの、よく知ってるでしょ」  そうだ、カルロッタは俗世の流行にとんと疎いのだった。それでよくファッションアーティストなんてやっていられるものだと常々疑問なのだけれど、彼女のアートは一時の流れに惑わされるような安いものではないものね。  いいえいまはそんなところに感心している場合ではなくて。 「どこで拾ってきたのよ、このひと」 「いつものバーよ。あなたが急に商談が入ったっていうから時間を潰そうと思って店に寄ったら、バーテン相手にくだを巻いてるこの子がいてね。助けを求められたから仕方なく相手してたら、気が済んだのかそのうち寝ちゃったのよ。置いていくわけにもいかないから引き取ってきたってわけ」 「………そう」  最初から最後まで頭の痛くなる内容だった。いまや時のひとである女優のこんな姿を、心無いだれかに見咎められていないといいのだけれど。心配を乗せるわたくしに、多分大丈夫よとあっけらかんとしたカルロッタ曰く、だってそんなに客はいなかったし照明だって明るくはないもの、とのことで。  ひとがこんなに案じているというのに当の本人はソファですうすうと健やかな寝息を立てて、あまつさえかわいらしい笑みまで滲ませて眠っている。恐らくは多忙を極めてこんなに心落ち着かせて夢に浸れる時間さえなかったのだろうと思うと起こすのも忍びない。ふうと諦めの息をひとつ。あとでベッドに運んであげましょう。 「んう…、ベンの、ばか…」  大女優がさみしそうにこぼした寝言に頭を抱えたのはまた別のお話。 (起きたらお説教を覚悟してなさい)  2020.6.14
 こんこん、と規則的に窓が打ち鳴らされる、そのリズムだけで来訪者の正体が掴めて自然、広がる笑み。ペンを置き、窓を開け放つ。待ってましたとばかり風に乗って室内に飛びこむ花弁。黄、薄紅、白に橙。とりどりのそれが部屋の中心で渦を巻く。春めいた気配にいつも心が躍る。 「ちゃんと玄関から入ってきなさいって言ってるでしょ、グローリア」 「いらっしゃいの一言もないのね」 「いらっしゃい。お行儀悪いわよ」  声は渦のただなかから。いまにもふてくされた表情が見えそう、と思った矢先、またたきの間にグローリアそのひとが我が物顔でソファに腰を下ろしていた。肩に取り残された花弁を指先でつまみ、ふ、と息を吹きかければ途端、かたちをなくしていく。  彼女が毎度玄関を叩かない理由なんてとうに明らかだった。  三回目の来訪だったか、うちのモデルが私を呼ぶ際、またグローリアさんですよ、なんて口にしたものだから、プライドの高い彼女はいたく憤慨、以来人目につかない私室の窓から直接顔を覗かせるようになったのだ。私に会いたいがためにわざわざ奥地にまで足を運んでいる、と解釈されることが、彼女がどうもお気に召さないらしい。解釈もなにも、事実だから仕方がないのに。  彼女曰く、用事のついでに生存確認しに来ているだけとのことで。いじっぱりなその様子もかわいいのだけれど、なんて伝えればもうここに来てくれなくなりそうだから、しばらくは秘密だ。 「今日の紅茶はなにかしら」 「ローズヒップティーよ。あなたがすきな色かと思って」  頃合いを見計らって淹れていた紅茶はどうやらぴったりのタイミングだったようで、ティーポットの蓋を持ち上げたグローリアは香り立つ湯気に満足そうに鼻を鳴らした。  モデルたちの手伝いも断り自分で淹れる理由はこれだった。私が用意した紅茶を前に嬉しそうに目尻を下げる彼女が見たいがため、慣れない茶葉選びから注ぐところまで、なんてことない顔でこなす。わたくしのためにそこまでしてくれるのね、なんて得意気に微笑まれるのも悔しいから、これもまた秘密なのだけれど。  いつだったかグローリアが持参したカップと、取り寄せた揃いのそれに真っ赤な紅茶を注いでいく。目の前の水槽色の眸が期待に輝く。紅茶好きな花も珍しいわよね。私のからかいもいまは届かない。手渡したカップに添えられたくちびるがひと口、ん、と。こぼれた音に今日の出来を知る。 「淹れたことなかったくせに随分と上手になったわね、カルロッタ」 (そこは知らないふりをしておきなさいよ)  2020.6.20
 明らかにひとの声だった。 「にゃ、にゃあん」  しかも猫とあまり触れ合ったことのない類の鳴きまね。もう一週間ほど同じ時間、同じ場所から響いてくる。あんまりにもへたくそなそれに、そうまでしていったいどこのだれが猫と戯れたいんだろうと覗いた路地裏の先、見えた背中は覚えがありすぎた。  差した陽だまりで丸まっている猫にじり、じり、と中腰でにじり寄る実の姉を見間違うはずもない。とするとさっき耳にした、猫に似ても似つかない鳴き声はお姉さまのものでしかないというわけで。一番上のお姉さまが無類の動物好きだということは知ってた─本人は隠してるつもりらしい─けど、まさか通い詰めるほどだったなんて。  すっとんきょうな声を絞り出しながら、わざわざ家から持ってきたかつお節片手に距離を詰める姿は不審者以外のなにものでもない。いとしのお姉さまでなければ近付かないところだけど、姉とあらば放っておくこともできず結局、足音を忍ばせ路地裏を進む。  きっと昼寝を楽しんでた猫たちは、お姉さまの供物には反応もせず、むしろ迷惑そうな視線さえ向けている。なんて憐れなお姉さま。慈愛の深いお姉さまがこと愛を注いでいる対象にそっぽを向かれているだなんて。隠していたって心を痛めてることは明らかだ。ああ、かわいそうでかわいくていとおしい。  それまで興味なさそうに丸くなってた猫たちが、だけど姉の背後に回ったわたしの姿を見とめた途端ぴんと尻尾を立てた。はじめて動きを見せた彼らに喜色を表したのが背中越しにもわかる。木箱から飛び降りた猫たちは、広げた姉の両腕をするりとかいくぐりわたしのもとへまっしぐら、ぐるなあ、と甘えた声で足にまとわりついた。 「あ、あら、いたの、いつから、どうして」  振り返ったお姉さまの口の端がひくりと震える。内緒にしてたつもりだろうからそれはそれは驚きのことでしょうね。 「だめよお姉さま、野良は警戒心が強いんだから」 「だけどあなたには懐いてるじゃない」  しゃがみこみ首筋を掻きながら、ほらさわってみて、と促す。戸惑いながらもおずおず手を差し伸ばしたお姉さまが猫の背中にふれ、尻尾側へとその毛並みを楽しむ。じわり、広がる笑みが面白くない。そんなこどもみたいな表情、見せてくれたことないのに。 「ね、お姉さま。他の猫にかまけてる暇、ないんじゃないの」  わたしの言葉にきょとんと目を丸めたお姉さまが数瞬ののち、ふ、と口角をゆるめる。仕方のない子ね、とでも言わんばかりの表情が少し不満だけど。 「そうね、うちにも手のかかる大きなねこがいるんだったわ」 (あなたに懐くのはわたしだけ)  2020.6.21
「題して、押してだめならもっと押せ作戦ですわ!」  しこたま酔っ払ったグローリアが妙案だとばかり、声も高らかに告げた。バーに響き渡ったその言葉に、何事かと客の視線が集まる。私が周囲に頭を下げる傍ら、酔っ払いふたりは声を落とす気配もなく、それはもう楽しそうに会話を続けていた。  要は恋愛相談だった。最近どうにもおじさんの一挙手一投足が気に障って仕方がないんだよねとこぼすオーシャンに、それはずばり恋ですわ!とまだ素面だったグローリアが断じたのが始まり。最初は否定していたオーシャンも、酒が入っていくうちに段々と想い人への心情を吐露していき、同じく酔いが回り始めたグローリアもなぜだかそれに共感、どうすればあの鈍感な男が好意に気付くのかという話題に移り、そうして冒頭の提案と相成ったというわけで。  どうしてアルコールに弱い人間ほどペースが早いのだろう。いや、止められなかった私にも責任はあるけれど。化粧室に立ったものの数分の間に、興に乗った勢いで何杯も飲み干されては止めようもない。  得意気に胸を反らしたグローリアはグラス片手にその作戦内容を語り始める。 「たとえばですわよ。酔っ払ったフリをしてしなだれかかって、今夜は帰りたくありませんの、と駄々でもこねれば、どんな唐変木でもイチコロですことよ」  もう充分に酔っ払っているのだからもはやフリではないのでは。それにグローリアの言うその作戦にはどこか覚えがある。  音を立ててジョッキを置いたオーシャンが、据わった目を向けながら鼻を鳴らした。 「散々アピールしてきたってのに今更そんなことで、あの朴念仁が気付くかなあ」 「これでカルロッタも落ちたんですもの、間違いないですわ」 「なぁるほど、一理あるね」 「ちょっとちょっと待ちなさい」  ようやく私の存在を思い出したかのようにふたりが振り返る。覚えがあるどころではなかった。あれはグローリアと付き合い始める前、それはもう盛大に酔っていた彼女が用いた手だ。まさかあれが作戦だったなんて。しかもオーシャン相手に話すだなんて。 「文句があるならあなたも建設的な意見のひとつくらい出してごらんなさいよ」 「そうだそうだ。人の恋路を邪魔するやつはタコに蹴られるんだぞ」  タコに蹴られたところでなんともないわよ、と返す暇さえ与えられず、泥酔者ふたりはウェイターにヒューゴーの部屋番号を伝え、ここに呼び出してほしいと頼む。理由もわからないまま呼び出された挙句絡まれる彼が憐れ極まりないけれど、自分ももう素面ではいられなくてぐいとグラスを呷る。それでも酔いは一向に訪れなかった。 (この程度で酔えるあなたたちがうらやましい)  2020.6.21
 入口のベルと憤慨した声が同時に押し入ってきた。 「聞いてよグローリア、ロバートったらまたいなくなったのよ!」 「ここはお悩み相談室じゃないのよ、カトリーヌ」  大女優の突然の来訪に、各々作業をしていたモデルたちが色めき立つ。彼女がサロンに足を踏み入れた途端、こんなにも華やぐのだからなるほど、これが今をときめく女優の実力かと納得はするけれど、いまはそういう話ではなくて。  かつかつ足音を響かせた彼女はそのままカウンターに腰を下ろし長い足を乱雑に組む。そんな仕草ひとつ様になるのだから恐ろしい。 「なによ、売れっ子アーティストさんは迷える子羊に構う暇もないってこと」 「狼みたいに獰猛なくせしてなにが子羊よ」 「あら、仕事の合間を縫って会いに来た友人に対して冷たすぎるんじゃないの」 「昨日電話で散々愚痴を聞いたあとだもの、そりゃあうんざりもするわ」  どうやら昨晩んしこたま酒に沈んでいたらしい彼女の泣き言がいまも耳にこびりついている。わたくしにとっても貴重な友人なのだから愚痴も色恋もなんだって聞いてあげるつもりではあるけれど、それにしたって深夜三時まで同じ話を延々と繰り返されたのだ、素面で根気強く耳を傾けていたこっちの身にもなってほしい。  そういえば昨夜、彼女が電話口のわたくしを放って眠りに落ちる間際、明日あなたのところに行くからなどと呟いていた気がする。まさか本当に来るだなんて。  どうせまた想いを寄せているロバートとかいう男の話なのだろうと辟易しれいれば、そうそう、と思い出したようにハンドバッグを漁ったカトリーヌはやがて二枚の紙切れを眼前に差し出してきた。 「来月始まる私の主演舞台のチケット。初日公演のいい席が確保できたんだけど、よければカルロッタと一緒に観に来てくれないかしら」  もちろんあなたのとこのモデル分もちゃんと用意してるわよ。少しはにかみながら、けれど堂々と胸を張る彼女に、なぜだかこちらまで得意になってしまう。自身がなにかしらの作品に出演するときは決まって、足を運んでもらえないかとチケットを持参してくるのだから、いじらしいことこの上ない。寝不足の原因も忘れて受け取り、もちろんと微笑んだ。 「さて。あなたたちのデートもお膳立てしてあげたことだし、そろそろ私の話にでも花を咲かせようじゃないの」 「だから聞き飽きたって言ってるのよ」  呆れるわたくしに、目の前の大女優は子供のようにうふふと笑った。 (憎らしいほど憎めないひと)  2020.6.21
 この子が白昼堂々寝姿をさらしてるのも珍しい。  暇を見つけては茂みに寝転がるあたしと違って、この子はそこらで昼寝に勤しんだりはしない。寄合を抜け出したあたしを探しにきたところを無理に添い寝に誘うことはままあるけど、それでも大人しく同伴してくれるのはごくごく稀。  しゃがみこみ、呼吸に合わせて揺れるまつげを見つめる。つくりものみたいにきれい。いろんな部分が細やかにつくられた顔。なにもかもが大きく育ったあたしとは大違い。  じろじろ投げる不躾な視線が煩わしかったのかそれとも寒空のした身体が冷えたのか、眺めてたまつげがふるり震える。しばらくしてぼや、と覗いた夕やけ色の眸が緩慢にまたたいて、首が巡って。 「……ん? んん?」  声をかける間もなく首に回された腕がそのままあたしを抱き寄せた。すり、と寄る頬。鼻にかかった吐息が耳をくすぐる。抱きすくめられてるわけだから表情が窺えるわけもないけど、たしかに口角をゆるめている様がありありと浮かぶ。どうしたのこの子は。それともあたしが知らないだけで寝起きはこんなに甘えたがりな子だったの。動揺から目が泳ぐあたしを置いて、ふ、と隣で笑う気配。 「んぅ、…おっきい、ねこちゃん、ね」 (ああそうあたしはねこですか)  2020.6.24
 苦しそうにひそめられたままの眉を眺めていると、私まで胸が痛くなる。眉間のしわが残ってしまわないよう、指でやさしく揉みほぐす。ゆらり覗いたグローリアの水槽色の眸が弱々しい。女性につきものの痛みとはいえ毎月臥せるほどの痛みをよりにもよって私のグローリアに与えた神を恨まずにはいられない。  天に呪詛を飛ばしたところで彼女の苦痛が減るはずもなく、無力な私はただ、膝を枕に荒い呼吸を吐くグローリアの背中を撫でるしか術がなかった。 「手当て、って、よく言ったもの、ね」  ぼんやり見上げてきていた水槽色がふと、久しぶりに笑みをにじませる。か細い声に耳を寄せる前にぎゅうと、腹に巻きつく腕と縋るようにすり寄る顔。 「だって、あなたにさわってもらえるだけでこんなにも、楽になれるんだもの」 「…これくらいしかしてあげられないわ」  ごめんなさい。余計な気を遣わせたくなくて、謝罪を送るのは心の内でだけ。代わってあげることもできない私をどうか許して。  眠ることもできなかったのだというグローリアがしばらくしてようやく寝息を立てる。汗で張りついた前髪を整える指先に、どうか少しでも長く夢に沈めますようにと祈りをこめて。膝の上のねむり姫の表情がほんのわずかに和らいだ気がした。 (痛みさえ分かり合えたらどんなにか)  2020.6.26
 しってしまった。 「待ちなさい」  わたしは、しってしまった。 「──聞こえないのかしら、止まりなさい」  声ひとつで身体が縛られる、まるで見えない縄がまとわりついているみたいに。  こつ、こつ。路地裏に響く足音。荒い呼吸と心音が鼓膜を圧迫する。随分と走ったはずなのにまだ残る波の音が夜を不気味なほど支配する。靴音がやむ。一瞬おいて覗きこんできた大きなおおきな眸。深海もかくやというほど昏いその色に呑まれてもう、息も忘れた。 「…あなたにだけは見られたくなかったんだけれど、」  恐ろしいくらい端正な顔立ちがどこか悲しそうに歪む。ああわたしだってあなたがすきだった、うぬぼれでなければきっと一番の友人だった、なのに、それなのにあなたは。 「ごめんなさいね。この姿を見られたからには放っておけないの」  胸元に連なる鱗が、月光を受けて妖しくきらめく。この街に古くから伝わるセイレーン伝説そのままの姿に、恐怖がにじむより早くかすんでいく視界。あなたでなければと、澱む思考のなかぼんやり思うのはそんなこと。あなたでなければよかったのに。わたしと同じ言葉を目の前のそのひとが落とす。ああ、受け入れられなくてごめんなさい、  ***  姉が泣いていた。 「風邪ひくわよ、お姉様」  部屋から持ってきたタオルケットで剥き出しの肩を包む。あら、やさしいのね。返ってきた声にはどことなく覇気がなく、やはり昼間覚えた違和感に間違いはなかったのかと、姉に見咎められないのをいいことに眉を寄せた。  日中、姉とともに足を運んだ市場ですれ違ったそのひとは、たしかに姉に視線を留めたはずなのに声をかけることなく通り過ぎていった。うちから数軒離れた場所に住むその女性はあれだけ姉と懇意だったはずなのに、まるで姉の存在そのものを忘れてしまったかのように。  けれどいま、ひとり屋根に座り夜闇を見上げる姉の背中を前に確信する、きっと彼女の記憶をさらったのだと。恐らくは正体が知れてしまったのだろう。いっそ彼女の存在ごと消してしまったほうが楽なのにこの姉は、手にかけることもできなかったのか。なんてやさしくて臆病で愚かなひと。  きっといま寄り添ってほしいひとは私ではないだろうから、タオルケットを残してその場を後にする。声なき涙がどうか枯れますようにと、祈りを胸に閉じこめて。 (ひとになく、)  2020.6.29